モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

国際市場社会での政治は、コミュニケーションとメディアにより、生活の次元に近づく

2005-09-15 07:41:27 | 基本的なコト
<政治の背景の変化>

選挙・政治を通じて、日常の生活・活動・事業などを考えていると、
結局、背景が変わってきているということに気づく。

それは、交通・運輸の時代から、情報ネットワークの時代へと、
いわゆる情報先行社会へと構造が変わっていることなのだ。

これまでの議会は、多数の王侯・貴族との階層間抗争の場から発している。
日本の参議院は、貴族院が改名されたもので、
明治維新の改革武士や旧藩主などの受け皿だった。
工業化が進むと、農村から流出した膨大な工場や流通に関わる労働者が
都市を膨張させる。
ここに、議会は、階級・イデオロギーによる新興勢力対抗場となる。
そして、国すらも世界市場の一組織と単純化してしまうと、
国の目標は、世界的競争力の維持となる。
世界的競争力を、国際通貨で単純に計ってしまえば、
国は、企業経営論に近くなる。
そして、政治は、マネジメントとなる。
人格の市民全権代表としての政治家には、
マネジメントの舞台にそぐわない。
もし、市民・国民の存続意義を、世界自由市場だけに依存するのなら、
人格をもつ政治家は、国政ではなく、地方政治、
世界自由市場には流通しない、交換不可能な、共存社会へと主要な舞台を変える。
それは、もし、経済競争以外の競合の安全、地球自然条件の保全、他国籍人との協調などを放置することができれば、という前提が必要なのだが。


通信・情報ネットワークは、マス・メディアとも
融合を始め、またパッケージ・メディアは、歴史と地理を
超えて、生活の現場で消費・記憶される時代だ。
市場は、モノの機能性だけでなく、過去から未来に渡る情報性により動き、
国境という保護境界を超え続けて動く。

個人は、多様なフェーズで、身体としてローカルに、
テーマとしてグローバルな世界に、多層的に暮らす。
個人自体が多層化している時代に、
個人の意向を全権代理する「政治家」は、ありえない。

<これからの政治家の役割>

この時代の政治家は、具体的な課題に対する短期・長期的な対応と
その効果の検証を繰り返すために、多くの現場と人を理解し、
関係者との総合的な対策とその検証ができる能力が要請される。
一般の調査機関に依存するだけではなく、
調査項目にあがらない現象・課題を察知できる能力こそ、必要なのだ。

言い換えれば、コミュニケーションとメディアに精通し、
生活を観察し・表現し・伝達し、
記録・分析・検討をし、決定のプロセスを踏んでゆける、
ファシリテーターのような役割が期待される。

個人もまた、多様な欲求を満たす多層的な生活をし、
その個人的なコミュニケーションから、地域・テーマ メディアへの参加によって、
常時、社会的な活動に関係する状態となる。

公聴会は、常時ネットワーク上で開かれ、問題定期や異議申し立ては、
日常、24時間可能となる。
その情報を救い上げ、納得できるプロセスにて、解決へと導くのが政治家なのだろう。
個人の人格や政策事態が、4年分まとめて信任をうけるのではなく、
また、ローカルな運命共同体への利益誘導が、票を重ねるのでもない。

<政治が生活と次元を同じくする時代へ>

政治は、生活と次元を同じにする、生存活動であると同時に共感活動なのだ。
事業という単一機能・成果目的ではなく、
歴史的・地理的に偏在する生活意識を、
確認しつつ・再編し続ける活動なのだ。

それは、ちょうど、秋祭りのように、豊穣と世代交代を歓ぶ生活だ。
世代交代を止め、豊穣を独占しようとするとき、停滞が生まれる。
また、未来から過去までの感情を市場化しようとするときに、
バーチャル市場のパニックが生まれる。

ネットワーク社会のなか、心身がこなせるローカルな喜びこそ、
自己存在感を満たす源泉なのだ。

さて、私も選挙モードから、
日常の、コミュニケーション・メディア研究事業へと戻らないと・・・


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