街も建物も装飾も着物も柄も
様々な体験と記憶の手がかりとして、
共有化されているのだが、
携帯では、
コトバに変える意志と集中力も不要に
パシャ!
もう、見つめる眼差し、
交わすコトバよりも、
画面で”どう?”
記憶の外部化、言葉の無化は、
テレビという共通心象の、
刺激・変化の速さ・多さに順応してきた結果なのだろう。
リアリティは意識だとのデカルトの時代は超えられるのか、
重層化されるのか、あるいは超えていないのかは別として、
すでに記憶や判断が
外部化・共有化されていて、
生きるとは追認することみたいになっているのかも。
それなら、
外部化されえない麻原・オームは、
”人間では無く、在り得なかったこと”に
できるかもしれない・・・
・・・・・・・・・・・・けど・・・
様々な体験と記憶の手がかりとして、
共有化されているのだが、
携帯では、
コトバに変える意志と集中力も不要に
パシャ!
もう、見つめる眼差し、
交わすコトバよりも、
画面で”どう?”
記憶の外部化、言葉の無化は、
テレビという共通心象の、
刺激・変化の速さ・多さに順応してきた結果なのだろう。
リアリティは意識だとのデカルトの時代は超えられるのか、
重層化されるのか、あるいは超えていないのかは別として、
すでに記憶や判断が
外部化・共有化されていて、
生きるとは追認することみたいになっているのかも。
それなら、
外部化されえない麻原・オームは、
”人間では無く、在り得なかったこと”に
できるかもしれない・・・
・・・・・・・・・・・・けど・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます