選挙も終わり、もう1、2日すれば、マスメディアの扱いも減るだろう。
この選挙はなんだったのか?
人脈・金脈・政策など、政治の要素はいろいろあるけど、
一言でいえば、政策を進める政党政治が選ばれたという感触です。
<政策政治には、観察力・表現力・記録力・検討力がいる>
西欧での民主主義・政党政策の決定プロセスからいえば、
今回は、政権を維持した前選挙での公約への実現に対して、
政党内でまとまらないこと自体が、問題だった。
この選挙の結果、派閥政治がより解体される方向へ進むことが期待される。
これまでの政策討議で議論が進まなかったのは、
人脈・金脈の論理が、通らなかった結果だ。
政策政党政治では、互いに問題を表現し・検討し・解決策を決定する
プロセスを共有できる人が必要だ。
人材が集まらないと、独裁政治になる。
登用された新人が、若い実務派であること、
派閥に属さないと情報が流れないと新人議員たちとの月例会が設定されるなど、
着実に進んでいるのでしょう。
<人格が政治をする時代の終わり>
社会的な目標なり、価値観が、ゆるぎない時代では、
コトバも共有されれ、以心伝心で、意味が伝わった。
しかし、多様な背景・利害関係が錯綜するときには、
個人の人格が、そのまま政策の良し悪しに繋がらない。
人格政治は、王政・封建制のなごりだ。
そして、過渡期としてのイデオロギー政治亡き後、政策は事業に近くなった。
ここで、自然・風土・生活環境の上に多様に蓄積してきた
生活文化を持続するには、事業合理性だけでない、
地域なり国なりの囲い込みによる、生活価値づくりが必要だ。
それ故に政策は、理念・方法論・具体的な活動記録・効果検証などが
セットになってこそ有効性をもつ。
マニフェストも、効果・結果の予測と、その根拠が必要になる。
人格を比較するすべは、現代にはない。
人間を信じるのではない、信頼するのである。
信頼とは、期待した範囲での行動をすると、予測できることであり、
無条件に委ねることではない。期待しうる範囲を示すのが、政策なのだ。
<マスコミの課題>
今回の郵政法案報道も、郵政法案検の根底にある金脈の話題がタブーだった。
そして、政治家のドラマとすることで、バラエティー番組を提供する。
それは、15秒ごとに山場をつくり、場面を切り替える
”セサミストリート”的な構成をとることになる。
その根底は、TV・新聞・週刊誌・・・など
視聴率・発行部数に支えられる構造による。
<ネットワーク社会でのメディアとコミュニケーション>
これからのIPネットワーク社会で、
メディアとコミュニケーションに分けて考えてみる。
メディアとしては、超瞬間マスメディアへ、
コミュニケーションとしては、閉鎖的なパーソナルな近親さへと、
二分されてゆく感触がある。
マスメディアは、取材を人間のパーソナルなコミュニケーション力に
頼るだけではなく、社会的な効果測定、資料の解析を、活用し、
細分化した学問に陥らない立場で、表現できないと、信頼感は無くなる。
取材は、個人の世間話とは次元が違う。
ニュース解説番組に、庶民感情を持ち込む前に、語る人の立場を
明確にすることが必要だ。それは、過去に対する判断と、
未来に対する理念を固めることだ。
メディア組織として、また個人として、その理念と立場の表明があってこそ、
その言説が信じられる。
庶民ぶって、面白がらせたり、怒ってみたりするのは、
「親しみの有名人」とのバーチャル・コミュニティーの世界、
そこでの、人間ドキュメンタリー・ドラマは、それは、それで、
バラエティー・メディアとして機能しているのでしょうけど。
<人・人脈・村社会の解体、故郷は自分が編集する時代へ>
今回、政党政治を拒否し、派閥政治を守った人たちも、
登用され、選挙区に舞い降りた人たちも、
生活現場での人と人の声の掛け合い、
「信じてほしい」、「信じる」という、係わり合いの熱さは、
それほど違わないのだろう。
しかし、たとえ同じ地域・選挙区に住んでいても
個人の生活の背景は、かっての生産共同体でも、運命共同体でもない。
どこにいても、グローバルな経済関係に支えられてしまう世界人なのだ。
多くのことが地域を越えたレベルで調整される時代、
もう、農耕村社会としての故郷は、解体している。
そこは、利権者と移民者のまだら模様の都会の一部だ。
故郷は、住み慣れる空間を軸に、自ら編成してゆく時代だ。
また、故郷は、メディアに織り込んでゆく、
記憶の時代なのかもしれない。
農林水産業は、利権だったし、中心市街地の事業者も利権だった。
人との繋がりは、利権の守りあいになると、地域社会は硬直する。
それは、まず家族の子供たちの硬直化へと進む。
政治と人と人の繋がり・温かさは、
高度工業化以後の社会では、別の次元のことなのだ。
「どうか、私に一票を」という、この素朴な語りかけと
”あなたに一票いれようか”という、
気持ちのぶつかり合いが集中するのが日本の選挙運動。
自分の田舎のように思えてくるような気持ちの高まり、
それは、人と人との繋がりの始まりなのだろう。
そして、当選し、国政に参加した後、
支持者は、当選者に何を望むのか?
”おらが街に、いいことしてくれ”という利害感は、
後から、ゆっくり、確実についてくる。
運命共同体の仲間としての期待が、
街レベルなのか、県レベルのか、国レベルなのか、
国境を越えるレベルなのか?
一神教の原理を持たない国では、
継続する先祖・子孫という時間と、
生活空間・地域で絞られる空間と、
この2重の運命共同体を頼りにすることが多い。
生活の糧を継ぐ子孫や、空間が連続する
まとまりとしての故郷は、もうない。
<モノとパッケージによる会話でなりたつ消費村生活>
共有する故郷を失い、
自身や家族や仲間たちのレベルに揃えて、
親しさ・楽しさで纏まろうとすれば、
面白がれるマス・メディア・バラエティ舞台の観客となる。
そして、人それぞれ、こだわりのアイテムやコンテンツで、
コミュニケートする、消費生活が続くのです。
そして、社会の基盤づくりは、行政サービス業者に負かされ、
こちらも社会サービス消費者となる。
そして時々の、ボランティアや寄付活動が、その溝を埋める。
消費社会での対話は、
何を消費するかによってなりたつ。
衣食住に自己表現をし、購入されるメディア・コンテンツに夢をみて、
カラオケの歌詞を、コトバにし、スポーツ・舞踏で、身体を表現する。
そのすべてが、消費活動になったしまう。
選挙期間が終わり、
また日常に自分たちの存在感を探す日々が続きます。
公共性とは、この”たち”の部分に在ったような気がする。
この”たち”とは、近親者だけではなかった。
自己存在感
この選挙はなんだったのか?
人脈・金脈・政策など、政治の要素はいろいろあるけど、
一言でいえば、政策を進める政党政治が選ばれたという感触です。
<政策政治には、観察力・表現力・記録力・検討力がいる>
西欧での民主主義・政党政策の決定プロセスからいえば、
今回は、政権を維持した前選挙での公約への実現に対して、
政党内でまとまらないこと自体が、問題だった。
この選挙の結果、派閥政治がより解体される方向へ進むことが期待される。
これまでの政策討議で議論が進まなかったのは、
人脈・金脈の論理が、通らなかった結果だ。
政策政党政治では、互いに問題を表現し・検討し・解決策を決定する
プロセスを共有できる人が必要だ。
人材が集まらないと、独裁政治になる。
登用された新人が、若い実務派であること、
派閥に属さないと情報が流れないと新人議員たちとの月例会が設定されるなど、
着実に進んでいるのでしょう。
<人格が政治をする時代の終わり>
社会的な目標なり、価値観が、ゆるぎない時代では、
コトバも共有されれ、以心伝心で、意味が伝わった。
しかし、多様な背景・利害関係が錯綜するときには、
個人の人格が、そのまま政策の良し悪しに繋がらない。
人格政治は、王政・封建制のなごりだ。
そして、過渡期としてのイデオロギー政治亡き後、政策は事業に近くなった。
ここで、自然・風土・生活環境の上に多様に蓄積してきた
生活文化を持続するには、事業合理性だけでない、
地域なり国なりの囲い込みによる、生活価値づくりが必要だ。
それ故に政策は、理念・方法論・具体的な活動記録・効果検証などが
セットになってこそ有効性をもつ。
マニフェストも、効果・結果の予測と、その根拠が必要になる。
人格を比較するすべは、現代にはない。
人間を信じるのではない、信頼するのである。
信頼とは、期待した範囲での行動をすると、予測できることであり、
無条件に委ねることではない。期待しうる範囲を示すのが、政策なのだ。
<マスコミの課題>
今回の郵政法案報道も、郵政法案検の根底にある金脈の話題がタブーだった。
そして、政治家のドラマとすることで、バラエティー番組を提供する。
それは、15秒ごとに山場をつくり、場面を切り替える
”セサミストリート”的な構成をとることになる。
その根底は、TV・新聞・週刊誌・・・など
視聴率・発行部数に支えられる構造による。
<ネットワーク社会でのメディアとコミュニケーション>
これからのIPネットワーク社会で、
メディアとコミュニケーションに分けて考えてみる。
メディアとしては、超瞬間マスメディアへ、
コミュニケーションとしては、閉鎖的なパーソナルな近親さへと、
二分されてゆく感触がある。
マスメディアは、取材を人間のパーソナルなコミュニケーション力に
頼るだけではなく、社会的な効果測定、資料の解析を、活用し、
細分化した学問に陥らない立場で、表現できないと、信頼感は無くなる。
取材は、個人の世間話とは次元が違う。
ニュース解説番組に、庶民感情を持ち込む前に、語る人の立場を
明確にすることが必要だ。それは、過去に対する判断と、
未来に対する理念を固めることだ。
メディア組織として、また個人として、その理念と立場の表明があってこそ、
その言説が信じられる。
庶民ぶって、面白がらせたり、怒ってみたりするのは、
「親しみの有名人」とのバーチャル・コミュニティーの世界、
そこでの、人間ドキュメンタリー・ドラマは、それは、それで、
バラエティー・メディアとして機能しているのでしょうけど。
<人・人脈・村社会の解体、故郷は自分が編集する時代へ>
今回、政党政治を拒否し、派閥政治を守った人たちも、
登用され、選挙区に舞い降りた人たちも、
生活現場での人と人の声の掛け合い、
「信じてほしい」、「信じる」という、係わり合いの熱さは、
それほど違わないのだろう。
しかし、たとえ同じ地域・選挙区に住んでいても
個人の生活の背景は、かっての生産共同体でも、運命共同体でもない。
どこにいても、グローバルな経済関係に支えられてしまう世界人なのだ。
多くのことが地域を越えたレベルで調整される時代、
もう、農耕村社会としての故郷は、解体している。
そこは、利権者と移民者のまだら模様の都会の一部だ。
故郷は、住み慣れる空間を軸に、自ら編成してゆく時代だ。
また、故郷は、メディアに織り込んでゆく、
記憶の時代なのかもしれない。
農林水産業は、利権だったし、中心市街地の事業者も利権だった。
人との繋がりは、利権の守りあいになると、地域社会は硬直する。
それは、まず家族の子供たちの硬直化へと進む。
政治と人と人の繋がり・温かさは、
高度工業化以後の社会では、別の次元のことなのだ。
「どうか、私に一票を」という、この素朴な語りかけと
”あなたに一票いれようか”という、
気持ちのぶつかり合いが集中するのが日本の選挙運動。
自分の田舎のように思えてくるような気持ちの高まり、
それは、人と人との繋がりの始まりなのだろう。
そして、当選し、国政に参加した後、
支持者は、当選者に何を望むのか?
”おらが街に、いいことしてくれ”という利害感は、
後から、ゆっくり、確実についてくる。
運命共同体の仲間としての期待が、
街レベルなのか、県レベルのか、国レベルなのか、
国境を越えるレベルなのか?
一神教の原理を持たない国では、
継続する先祖・子孫という時間と、
生活空間・地域で絞られる空間と、
この2重の運命共同体を頼りにすることが多い。
生活の糧を継ぐ子孫や、空間が連続する
まとまりとしての故郷は、もうない。
<モノとパッケージによる会話でなりたつ消費村生活>
共有する故郷を失い、
自身や家族や仲間たちのレベルに揃えて、
親しさ・楽しさで纏まろうとすれば、
面白がれるマス・メディア・バラエティ舞台の観客となる。
そして、人それぞれ、こだわりのアイテムやコンテンツで、
コミュニケートする、消費生活が続くのです。
そして、社会の基盤づくりは、行政サービス業者に負かされ、
こちらも社会サービス消費者となる。
そして時々の、ボランティアや寄付活動が、その溝を埋める。
消費社会での対話は、
何を消費するかによってなりたつ。
衣食住に自己表現をし、購入されるメディア・コンテンツに夢をみて、
カラオケの歌詞を、コトバにし、スポーツ・舞踏で、身体を表現する。
そのすべてが、消費活動になったしまう。
選挙期間が終わり、
また日常に自分たちの存在感を探す日々が続きます。
公共性とは、この”たち”の部分に在ったような気がする。
この”たち”とは、近親者だけではなかった。
自己存在感
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