モノと心の独り言

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大震災後、近代の復旧やエコ社会以上の明日を目指す、意志が

2011-04-11 05:43:07 | 暮らし・街・環境
大震災後一ヶ月、新聞にも総括がでて、「そうだったのか!」が、並ぶ。
湾岸戦争のCNNの蟻の目ぶりを、追体験した気分だ。

「情報が足りなかった!」「危機管理体制ができていなかった!」と批判すること自体が浮いてしまう。現実に関わろうとする意志がなければ、間違いもしない。全てを知ろうという情報を待ちながら、不安を視聴者にぶつけるマスメディアや、TVを見てもいない被災地へ、元気をとどけると叫ぶ独りよがり。売名行為で結構だから、現地へ行けよと思いながら、私も、此処の日常を守るために離れてはいない。

その中で、米国の原発80km待避は、仮想のシナリオに従ったと聞いた。
情報を確かめているうちに手遅れになるのならと、
描いた仮想のシナリオに、軍も企業も家族も動いていた。

日本は、地震・台風に晒され、仮設のような木と土と紙の家々は燃えやすく、流されやすかった。
しかし、その自然はほどほどに厳しく、僅かで多様な資源を活かせば、滅びることはなかった。
私たちは、ほぼ主語を語らず、野山に狩猟し、田畑を耕し、海に漁して、人を増やさなければ、食えてきた。
天変地異は、存続の限界を超えることなく、成り行きを受け入れることができた。
自然の情報がたりても、足りなくても、身を委ねてきたのでは無かったのか?

しかし、自然の力を凝縮してしまった近代科学の原子力には、まだ馴染んでいない。
石油を求め大戦を起こし、キノコ雲に恐怖して戦争を放棄したが、原子力は依存し続けている。
古代から現代へと、展開できてきた文明は、それなりの訳がある。
大陸を走り、大洋を渡り、自然の摂理を科学・技術として、世界標準の情報で覆い尽くしているのには、訳がある。

予測に身を委ねる意志、天の言葉を自分の言葉に読み替えて、行動を重ねてきた、歴史がある。
それが、自然の恵みを受け止めようという主語の不要な文化と、主語が始めに来る文化との違い。

夢は、誰かがみるものであって、一緒に身を委ねるのは成り行きでしかない。
予測したり、批判するところに、主語がない。
予測と仮想を見切りながら、その言葉に身を委ねる意志が、
持続的な活動を支え、組み上げ、組み直し続けてきた。

西欧、新教徒、アングロサクソンの出どこは、ヨーロッパの辺境からだったのではないか?
アジアの辺境である日本列島の民が、これから見る夢とは?

アングロサクソンが、フェニキアのローマ字、アラビア数字が単純化された記号で、世界金融資本市場社会まで持ち込んだ。
日本の農林水産村社会のホウレンソウ(=報告・連絡・相談)は、自然のきざしの読み方を伝え、自然の寄り添って活きてきた。
だから、エコを身につけやすいというのは、一面的だ、モノ・対象に囚われすぎだ。
私たちは、借りてきた漢字を、読みも書きも二重化して、音訓・かな文字にしてきた文化。
言葉の指し示しだけでなく、言葉自体の形・筆跡・音韻を、感じ合う文化をもっている。
文字だけでなく図・写像・映像・音・手触りそして味で、表現する。

今、記録・伝達の主流が紙から電子に変わろうとしているとき、
この表現力を、感じ・記録し・伝え合って、一緒に行動できる媒介にできる。
読み書きそろばんは、中国からのモノ。
更にこなして、コミケだアニメだ、フィギュアだコスプレだと言いながら、
人とモノの高感度化ばかりでなく、人と人との高感度化を楽しもうではないか?
そんな明日にしようとする意志が、ワケシリの検証や近代の延長以上に必要だ。
アメリカン・ドリームに浸っていた戦後の復興とは違うのだ。

(大震災の後遺症は、一ヶ月を超えても、独り言、独り書きをさせる。ヤレヤレ)

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