モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

浪花節だよ選挙民、未熟者と老かいの地方選後半は?

2011-04-12 05:01:30 | 暮らし・街・環境
東日本大震災が始まって一ヶ月
(まだ終わっていない?終わらない?どうせ、変化し続ける無常!・・・それはそれでいいとして)
「耐え難きを耐え・・・・」に変わる言葉が、
「東京が貧乏になってもいい・・・・」の、浪花節に、東京の票があつまった。

萎縮した気持ちには、新たな希望よりも、昔に戻りたいという郷愁
昔の名前で出てこられ、いまままで通りに被災支援をする、施策はなに?
だれもが抱いたこの一ヶ月の不安と同情心を、見事につかむ石原都知事は、文学者でもある。

よくよく考えれば、明治・大正・昭和の近代化を飲み込んだのは、
弁士の演説や日々新聞よりも、浪花節や歌謡曲だったのかもしれない。
科学道具は、どんどん増えて複雑化しても、使う気持ちが浪花節。
科学も技術も、それ自体で発展しているわけでなく、
視点と仮説の検証、そして利用技術の習熟よりも、心情の具体化として使われてきた。

今、近代へもどる、土木建築へ予算が流れすぎる危惧がある。
施策や組織も箱もとと同じ、言葉の器・人の序列をつくるだけで、
経過と結果を修正・検証しなければ、近世と同じ。
それを、浪花節・歌謡曲・ええじゃないかと、いっしょに戻るのだろうか?

子どもにも分りやすい現実なんて、無いんじゃない?
現実は複雑で、その非常な事実を受け入れるのが童話だったのじゃないの?
やさしい啓蒙で、この複雑系・自己組織化の分散系社会を、説明しようというのは、近代の神話。
慣れ親しんだ手がかりだけで、なんとかしようなんて、浪花節だよ、明治に戻る?

もっとスマートに、冷静に、現実を、現場で、対処してゆく、
仮説と現場とのコミュニケーションを活かせる政治家や市民であってほしい。

(どうすれば?)
語るばかりでなく、感じたことをつぶやき、伝えてゆく市民、
そのつぶやきを、まとめ、方向付けてゆく政治家。
明日への仮説があるから、希望があるから、感じることも、調整することもできる。
繋がりとは、TUNAGARI へと、島国を越えて、調整してゆく手段であって、
その瞬間の共感に終わらせてしまえば、疲れだけが残る。

繋がりは、ストレス発散の共感で、元気を出すためではないのだ。
行動するためなのだ。
手を繋いで歌い・踊るイベントではないのだ。

(あ~~~私も、震災後遺症、まだわだかまりが溜まりつづけてしまう日々だ)
(それがなければ、アンドロイドではないか?)
(いや、気力を集中して成果を生む、あのアングロサクソン・ビューリタンの上を行きたいのだ)
(上ではないでしょう)
(そうそう、身体と精神を分離して、セラピストか教会とともに歩むのではない。
 日の出、日の入り、人との出会いや触れ合いを楽しめる日々・・・)
(それって、アメリカ・インディアンと踊ること?)
(昔は、アジアと繋がっていたのだよ)
(大陸移動・地殻変動は、地震処の騒ぎじゃない!)
(尺度を変えると、コトを冷静に見られるね!)
(それは、時間の問題だ。自然の時間を早くすると、
 温暖化・二酸化炭素増加・核物質の蓄積・冷やし続けないと融合して地殻をすら動かしてしまいそう・・・
 急がせるのはなに?)
(資本の回転、相場の変化のさや取り。
 急ぎすぎる夢、破綻への恐怖・・・)
(じゃー、私たちの資本金融市場の大震災は?)
(あの、金融工学という欲望の技術が引き起こした、進行中の震災なのだ。)
 
(ところで、選挙後は、
 企業資金が政治に流れる、お代官様と悪徳商人の、昔に戻るの?)
(いやいや、資本市場が人の欲望を吸い込んで、地殻変動を起こしてきたのだ。
 人の良い悪い・我欲か社会貢献かなんて、相対的なことさ。

 その調整方法を誰が決め、誰が利するかは、世界標準をつくる側。
 世界市場の歯車でありつづけている日本の復旧、期待されている。
 そして、その舞台での復旧・復興のなかで、近代を越えるしかない。
 くどいけど、近代と現代の違いは?
 モノに価値を載せてきた近代から、人の価値を認める現代へ。)

***こんな独り言も、現代の浪花節、メッセージはマッサージ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿