モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

身体のメディア・コンバージェンス

2008-07-02 04:02:26 | 基本的なコト
電車の中で、聾唖者の幼子と母親に出会う。
こどもが座席に靴のまま上がろうとして、
母親が、ジェスチャーと手話でさとそうとする。
子どもの声は、コトバにならない分、感情が生で、
母親は必死に分らせようと、目を見つめ、手真似や手話で伝えようとする。

その直接的なコミュニケーションは、
対話ではなく’触話’。
ふと、母親がケータイの画面を見せ、
こどもは、キーに触れながら遊んでいる。
繰り返されてきたと思われる騒動、
ほっと、一息つく母親。
また動き出す子どもに、母親がバッグからデジカメを出す。
いろいろな写真、コトの記録に、子どもの気はまた紛れてゆく。
つかの間のいらだちが収まった母親の顔は穏やかで、
親子の絆の充実感を感じた。

想い出してしまうのは、母との対話。
私が4歳の時脳腫瘍で音の識別ができなくなった母。
母の手を左手で支え、右手の人差し指で母の手の平に字を書いてゆく、
伝えるために覚えたひらがな、
あれは、文字であり、言葉である前に触覚だった。
その触れ合いから離れても、
目の届くところにいることこそが大切で、
瞳の奥を見つめらる一刻一刻で、結ばれていた。

母の音は、声を識別できない難聴。
手術から何年も経ち、強くなった母は、電話をかけることを覚えた。
知っている相手への決まり切った要件は、
呼び出し音が止まり、相手の声と思える音が聞こえ出せば、
名を名乗り、一方的に伝えれば、コトは済む。
伝えなければならないことがある時には、
何とかするのが人なんだ。

親子・家族・親しい人同士では、
伝えられる用件より、伝え合ったことの積み重ねこそが大切。
阪神大震災で家も家族も全て失った老婆が、
たった一枚でも家族の写真が残っていればと、嘆いていた。
その関わりの重さ・有り難さの手がかりを残してゆことが、
写真をとっている理由なのかもしれない。

この1年、中央エフエムでのまち・ひとCONNECTIONプロジェクトの中で、
写真を撮り、記事ブログに載せてきた理由が分ってきた。
まち・ひと喫茶室



最新の画像もっと見る

コメントを投稿