モノと心の独り言

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風評加害者の自覚が見えないと、自由主義の終焉がきてしまうのかと危惧をする

2011-05-25 06:01:06 | 暮らし・街・環境
自己実現は、近代個人主義が自由市場で目指されると、アメリカンヒーローに。
それも、兵士・スポーツマン・探偵・ゲーマーと、子ども達のあこがれの対象が変わってきた。
個人テロも、ネットヒーロー・セレブも、自己拡張の極限への欲望。
所詮対社会に対しての支配欲、認められたいというマズローの言う社会的欲望。
人は、他人の欲望を欲望する、社会的な動物’なのだ。

現代は、原子力・遺伝子・ウィルス・ネットリークなど、個人テロは自爆だけでなく、想定を越えた広がりの主役になると思い込める時代。
同時に、近代個人意識が、意識と前意識と身体の人の一部でしかないことが分り、
大量の刺激に晒されて、いつ自己管理できなくなるか、不安は自身の中に棲む。
メルトダウンは、原発だけではなく、
普通の家庭の普通の子ども・親・祖父母の関係でも起り続けていて、
世代と生活の場の鎖がちぎれゆく。

「みんな・それぞれ・ちがって・いい」
ハンディキャップを持つ人に対する受入が、
普通の子ども・親・祖父母の非社会性まで、容認。
社会性を束縛や不自由と感じて、自由で威容とすること自体の不安は、
原発事故以上に、身近な日常。
信頼と安心は、束縛と思いこみと裏腹。

社会性は、被災中・被災支援という、個人では対処できないときにこそ復活する。
近代個人主義の始まりを、ルネッサンスと呼び、
近代自然科学が始まった時とすれば、
現代社会科学を始める、ル・ルネッサンス=ルネッサンスの2乗は、
人間復活から社会性復活への道なのだ。
中世以前、個人と社会と神が分離して意識されていたわけではない。

社会と個人が未分化のなかで、空間の支配が政治だったのは、ギリシャ・ローマ時代。
精神も政治も武力優先だった時代から、市場社会へときて、やっと交易優先になった。
そして、金融資本市場時代になって、欲望や不安が優先の時代がきてしまった。
制御のためのセンサー・アルゴリズムそして人の決断=覚悟の時代が現代なのだ。

国会審議という場で、責任追求をしつづけたり、無理難題を押しつけたりしているのを見る暇はない。
子どもが依存する親に対することなら愛の顕われだが、あそこは、地位保全・利権争いの場でしかないのか?
政治家が、金と言葉の次元で終わってしまっていると、政治家の終焉も近い。
無論、マスコミも安易な映像、言葉尻のリークだけで、視聴率・購読者を増やそうとしていれば、
社会的なテロリスト集団だと考えざるを得ない。
「面白ければいい、笑えればいい、元気になればいい」 こわ~~~~
しかし、
「さも真剣に、被災者を・・・・」そらぞらし~~~~
風評被害に対処するなら、マスメディアこそが、’どう大丈夫だ’という特番をくめばいい。
範囲・対象が広ければ、分担してあたればいい。それなら、CSRの資金がマスコミに流れるだろう。
事業を支援に転換できている企業は、もう先を行っている。
風評加害者である、メディア統制が必要だと思えてくる怖い時代なのだ。


・・・メディア・リークスでは、自家中毒になりそ~
もちろん、視聴者・ツブヤキ者も、風評加害者なのだ。
しかし、ワカラナイことは、黙って「わかんな~~い」と言っていられるわけでもない。

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