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原発事故への対処は、社会的優先順位を覚悟すること

2011-05-26 07:13:58 | 暮らし・街・環境
自由・平等・博愛 という近代倫理は、
王権を脱するための相対的な言葉だった

関係・非対称・優先順位 が現代だ。

自由から関係
物理的な不自由さをますほどに、対外的な関わりが多様になる。
権利と義務と明文化する以前に、知ることが気持ちを縛るし、
頼まれることが、行動を束縛することになる。
しかし、誰にも関わりなく、知られも、頼られもしなければ、
人は、自身を失う。 
なぜならば、他人の欲望を欲望し、また自身の欲望を欲望される、
欲望の交換がなくなってしまうから。
だから、’自由’から、’関係’・・関係の深さ・浅さへと相対化する。
それは、関わり合う頻度・回数・継続時間の積であり、
その最大の関係は、母と子である。

平等から非対称
機会平等でも、結果平等でも、平等を計る基準が置けない。
既得権の平等は、王・貴族・階級の強制権の排除から。
交易などの等価交換も、価値を計る通貨という基準をつくったから。
計る基準が、比較する主体双方で違えば、等価ということ自体がなりたたない。
生まれたときが、同じでないことは、遺伝子の違いで理解され、
育つ環境が同じでないことは、双子の成長を見れば分かる。
同じことには、意味はない。
なぜなら、同じ状況・同じ目的・効能を対象に期待しないから。
饅頭の餡を、それぞれの立場から味わえればいのだ。
情報自体が、常に非対称。対称だったら、情報=差異ではない。

博愛
好き嫌い・愛憎など、村で一生顔をつきあわせていれば、
関係を深くして(関わる頻度・回数・継続時間)を蓄積する。
しかし、人の通信・移動・移住が自由になるほど、
また、生存する単位が、族・親族・村・家族・夫婦・・・個人と、
働き、収入を得て、コンビニがあれば、暮らせる状況になると、
持続的な関係への感情が薄くなる。
あまりにも多くの人と関わり、お互いを受け入れる機会・時間・長さがない。
そこで、’愛する’ということばが風化して、優先順位となる。
’相手をたてるか、自分をたてるか、
相手を立て続けることで、相手を従わせることもできるし、
自身を優先することで、従え、頼られることもある。
逆を言えば、被災現場での医療優先順位(トリアージ)は、
社会的な優先順位であり、

ここに社会的な優先順位が必要になる。
原発事故に対する対処は、この社会的な優先順位の問題なのだ。

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