テクノロジーにより地球にはびこっている獣の記録
豊かな自然の中にうまれた”南”を中心とする映像の 「ボワカッツィ」 1987年
厳しい自然からテクノロジーをモノにした”北”を中心とする「コヤニスカッツィ」 1984年
そして、映像と音楽での思考・編集による「ナコイカッツィ」 2004年
http://www.naqoy.com/naqoy/
題名は、アメリカ先住民の言葉を引用し、
軸は、さ迷えるサイボーグ:人類の
テクノロジカル・オーダー:技術の秩序についての手がかりの模索
テクノロジーの不滅な世界に入りこもうとする戦慄(戦き、慄き)
壊れやすく、繊細な動物である人間が
環境にニッチに適応して棲み別けるため
道具として発展させてきたテクノロジーが逆転し、
不滅の世界を支える”神”に置き換わる図式は、
人間の身体性:アクション・踊り・性愛と
テクノロジーによるリアリティの映画、
「マトリックス・レヴォリューション」の”神”に似る。
共感したり、理解したりでのエンターティメントでなく、
また製作者の完結したメッセージでもなく、
映像と音楽のコトバで視聴者である私に介入してくる刺激。
そして、私自身の”ことば”が引きずり出される挑発メディア。
視覚は引き伸ばされ・凝縮され・変形され・入れ替えられる。
音は、電子音・肉声・楽器が組み合わされ
「コヤニスカッツィ」では、電子音が中心
「ポワカッツィ」では、肉声がリードし、
「ナコイカッツィ」では、チェロがリードする。
電子音はいやおうもなく時をすべり、
管楽器は挑発的、弦楽器は情感をなでる。
そして、チェロは意志を曳きまわす。
一部、二部が、素材的であり、三部がその変形と編集的であった。
これもメディアが映像や音像のメタファーが生成されてゆく姿の一つである。
初めは、映像や音楽の珍しさにひきこまれても、
"分ったり”、"共感"したり、"自己同一化"できないように置いていかれ、
当事者から離れて眠くなる。
あるいは、コトバの不在を、自ら埋めだし、自身からでてくることばの
泉に驚き、また映像や音像に曝され続け・曳き回され、体験として疲れ、安らぐ。
これは、インプロヴィゼーション・パッケージなのだ!
追記)
これは、生活に介入して体験をつくるメディアであって、癒しのマッサージではない・・・
と言い切って、書いてみた。
感じられる・共感される・同一化される・抜け出てくるというプロセスでは、ないし・・・
映像や音に対する違和感もあるだろうな・・・
好き嫌いで拒絶されるメディアであるかもしれないし、
眠っちゃってもいいかもしれない。
教会で眠れるのは、悪いことではないらしいし。
豊かな自然の中にうまれた”南”を中心とする映像の 「ボワカッツィ」 1987年
厳しい自然からテクノロジーをモノにした”北”を中心とする「コヤニスカッツィ」 1984年
そして、映像と音楽での思考・編集による「ナコイカッツィ」 2004年
http://www.naqoy.com/naqoy/
題名は、アメリカ先住民の言葉を引用し、
軸は、さ迷えるサイボーグ:人類の
テクノロジカル・オーダー:技術の秩序についての手がかりの模索
テクノロジーの不滅な世界に入りこもうとする戦慄(戦き、慄き)
壊れやすく、繊細な動物である人間が
環境にニッチに適応して棲み別けるため
道具として発展させてきたテクノロジーが逆転し、
不滅の世界を支える”神”に置き換わる図式は、
人間の身体性:アクション・踊り・性愛と
テクノロジーによるリアリティの映画、
「マトリックス・レヴォリューション」の”神”に似る。
共感したり、理解したりでのエンターティメントでなく、
また製作者の完結したメッセージでもなく、
映像と音楽のコトバで視聴者である私に介入してくる刺激。
そして、私自身の”ことば”が引きずり出される挑発メディア。
視覚は引き伸ばされ・凝縮され・変形され・入れ替えられる。
音は、電子音・肉声・楽器が組み合わされ
「コヤニスカッツィ」では、電子音が中心
「ポワカッツィ」では、肉声がリードし、
「ナコイカッツィ」では、チェロがリードする。
電子音はいやおうもなく時をすべり、
管楽器は挑発的、弦楽器は情感をなでる。
そして、チェロは意志を曳きまわす。
一部、二部が、素材的であり、三部がその変形と編集的であった。
これもメディアが映像や音像のメタファーが生成されてゆく姿の一つである。
初めは、映像や音楽の珍しさにひきこまれても、
"分ったり”、"共感"したり、"自己同一化"できないように置いていかれ、
当事者から離れて眠くなる。
あるいは、コトバの不在を、自ら埋めだし、自身からでてくることばの
泉に驚き、また映像や音像に曝され続け・曳き回され、体験として疲れ、安らぐ。
これは、インプロヴィゼーション・パッケージなのだ!
追記)
これは、生活に介入して体験をつくるメディアであって、癒しのマッサージではない・・・
と言い切って、書いてみた。
感じられる・共感される・同一化される・抜け出てくるというプロセスでは、ないし・・・
映像や音に対する違和感もあるだろうな・・・
好き嫌いで拒絶されるメディアであるかもしれないし、
眠っちゃってもいいかもしれない。
教会で眠れるのは、悪いことではないらしいし。
前2作品は観ていないので、比較とかできずに書いていましたが、ではなぜ3作目だけを観たかというと、それは「好み」だったからです。
映像のテーマがきな臭く、胡散臭いものをちりばめたものらしかったから。
そういうものに取り囲まれて、結局はじわじわと息苦しく感じて生きている現実、みたいなものを、いかに美しく見せてくれるんだろうとの期待と、やはり音楽も「好み」にはまっていました。
一定のフレーズの繰り返しで盛り上げていく感じに好感もてて、「ボレロ」とかジミーペイジ的なセンスでやってるな、と思ったものです。
次はたぶん1作目、「電子音」というところにピピッときました(笑)。
ありがとうございます。
ヨーヨーマを、チャンと聴いたのも初めてだったし、
ambientとは、筋が違うし、
そうか、ジャンルは、クラシックだったんだ!
ありがとう。