モノと心の独り言

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映画『アリス』、リアリティのありよう

2005-07-18 10:20:20 | 映画・音楽・・・パッケージ・メディア
チェコのアニメーション監督、ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』を観る。

確かに「不思議の国のアリス」の人形などと少女によるアニメ化なのだけれど、
言葉と挿絵でつづられたルイス・キャロルの世界を超え、
連想するのは、ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』。
モノ自体が現れてくる、生と死の混在の映像なのだ。
少女の実像による行動は、聖性と魔性の両面として現れる。

屋根裏部屋でのうたた寝は、東洋寓話の夢にもにているのだが、
アリス自身を除けば、写されるモノは、生活の身近な道具と、
動物の剥製・骨など博物館のモノ、本来の位置からずらされた、
モノ自体なのだ。

導かれるウサギのぬいぐるみは、詰め物をこぼしながら歩み、
いつも抜けてしまう引き出しの取っ手、こじ開け切り刻むハサミ、
鍵でドアをあけ、厚い壁、屋根裏部屋、地下室・・・・
人形劇の小道具・大道具という取り繕いをしないまま、
心の中にとっては、モノ自体ではなく、無意識にも、
さまざまな意味を投射されて、また縛られていることに気付かされ、
目が覚めて、ほっとする。

聖書の言葉と同様に、ヨーロッパの形象の系譜は長く・深く、
生まれ育っていない私には、その意味は汲みきれない。
しかし、『アンダルシアの犬』では、まだ生命の湿度を感じた。
それは、ブニュエルたちのシュールレアリスム運動が、
文学・言葉を中心に企てられていた時代性かもしれない。

『アリス』は、乾いている。
観ながら思うのは、認知科学のアフォーダンス、
世界の意味は、観る私の欲望に呼応して立ち現れてくる。
街の姿が、メディアの画像・映像・文字などであれば、
私の欲望は、メディアと連動し、
”街の眼差し”とは、風土・空間以上に、メディアの眼差し。

それは、建築家ベンチュリーがロードサイド看板に観たものだし、
磯崎新が、引用を重ねた表皮一枚のポスト・モダンの言説でもあったものだ。
しかし、その画像・映像で、満たされた今、
リアリティのありようは、丁度この映画『アリス』なのだ。

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