チェコのアニメーション監督、ヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』を観る。
確かに「不思議の国のアリス」の人形などと少女によるアニメ化なのだけれど、
言葉と挿絵でつづられたルイス・キャロルの世界を超え、
連想するのは、ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』。
モノ自体が現れてくる、生と死の混在の映像なのだ。
少女の実像による行動は、聖性と魔性の両面として現れる。
屋根裏部屋でのうたた寝は、東洋寓話の夢にもにているのだが、
アリス自身を除けば、写されるモノは、生活の身近な道具と、
動物の剥製・骨など博物館のモノ、本来の位置からずらされた、
モノ自体なのだ。
導かれるウサギのぬいぐるみは、詰め物をこぼしながら歩み、
いつも抜けてしまう引き出しの取っ手、こじ開け切り刻むハサミ、
鍵でドアをあけ、厚い壁、屋根裏部屋、地下室・・・・
人形劇の小道具・大道具という取り繕いをしないまま、
心の中にとっては、モノ自体ではなく、無意識にも、
さまざまな意味を投射されて、また縛られていることに気付かされ、
目が覚めて、ほっとする。
聖書の言葉と同様に、ヨーロッパの形象の系譜は長く・深く、
生まれ育っていない私には、その意味は汲みきれない。
しかし、『アンダルシアの犬』では、まだ生命の湿度を感じた。
それは、ブニュエルたちのシュールレアリスム運動が、
文学・言葉を中心に企てられていた時代性かもしれない。
『アリス』は、乾いている。
観ながら思うのは、認知科学のアフォーダンス、
世界の意味は、観る私の欲望に呼応して立ち現れてくる。
街の姿が、メディアの画像・映像・文字などであれば、
私の欲望は、メディアと連動し、
”街の眼差し”とは、風土・空間以上に、メディアの眼差し。
それは、建築家ベンチュリーがロードサイド看板に観たものだし、
磯崎新が、引用を重ねた表皮一枚のポスト・モダンの言説でもあったものだ。
しかし、その画像・映像で、満たされた今、
リアリティのありようは、丁度この映画『アリス』なのだ。
確かに「不思議の国のアリス」の人形などと少女によるアニメ化なのだけれど、
言葉と挿絵でつづられたルイス・キャロルの世界を超え、
連想するのは、ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』。
モノ自体が現れてくる、生と死の混在の映像なのだ。
少女の実像による行動は、聖性と魔性の両面として現れる。
屋根裏部屋でのうたた寝は、東洋寓話の夢にもにているのだが、
アリス自身を除けば、写されるモノは、生活の身近な道具と、
動物の剥製・骨など博物館のモノ、本来の位置からずらされた、
モノ自体なのだ。
導かれるウサギのぬいぐるみは、詰め物をこぼしながら歩み、
いつも抜けてしまう引き出しの取っ手、こじ開け切り刻むハサミ、
鍵でドアをあけ、厚い壁、屋根裏部屋、地下室・・・・
人形劇の小道具・大道具という取り繕いをしないまま、
心の中にとっては、モノ自体ではなく、無意識にも、
さまざまな意味を投射されて、また縛られていることに気付かされ、
目が覚めて、ほっとする。
聖書の言葉と同様に、ヨーロッパの形象の系譜は長く・深く、
生まれ育っていない私には、その意味は汲みきれない。
しかし、『アンダルシアの犬』では、まだ生命の湿度を感じた。
それは、ブニュエルたちのシュールレアリスム運動が、
文学・言葉を中心に企てられていた時代性かもしれない。
『アリス』は、乾いている。
観ながら思うのは、認知科学のアフォーダンス、
世界の意味は、観る私の欲望に呼応して立ち現れてくる。
街の姿が、メディアの画像・映像・文字などであれば、
私の欲望は、メディアと連動し、
”街の眼差し”とは、風土・空間以上に、メディアの眼差し。
それは、建築家ベンチュリーがロードサイド看板に観たものだし、
磯崎新が、引用を重ねた表皮一枚のポスト・モダンの言説でもあったものだ。
しかし、その画像・映像で、満たされた今、
リアリティのありようは、丁度この映画『アリス』なのだ。
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