モノと心の独り言

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私たちも液状化?

2011-05-15 06:17:08 | 暮らし・街・環境
道具で政治が液状化してしまう?

そ~
イデオロギーという社会的思考の一枚岩が分解しだしたのはいつから?
それは、武力による統治・・人格による統治・・納得による統治と、
多層的な統治だった政治が、分解してきた結果なんだ。

場の強制力が、城、街の壁、関所、国境をつくってきた。
しかし、VISA=国の保証依頼書が受け入れられれば、空間は繋がっている。
交通・運輸・通信手段により、繋がりっぱなしになった。

人格は、職業が分かれ、職業の選択ができるよになり、
世襲が相続、資産が市場取引となり、
人の意識を支える状況の変化が容易に早くなった。
男女まで、互いの役割を共有する部分が増えてきた。
人格はより、その場・役割・相手によって、多様に振る舞われ、
より変化しやすくなってきている。

納得とは、神の判断・絶対者の判断・多数者の判断から、
市場の判断に変わってきた。
市場の判断とは、情報を伝えるメディアをどれだけ占有するかという問題なのだ。
判断の根拠は、行動を共にする人の意図と結果の満足の結びつきなのだ。
対話・集りや住まいの自然・村などの固定物がメディアだった村社会から、
外部との交渉のための通貨・言葉・そして記録し交わす文字・媒体を交換・保存する国家の時代になっている。
交換価値・数量・金額により交換する市場より、希望と不安を数値で交換する金融資本市場が、
数値的に大きくなって、国家はその最大化を図る単位となりつつある。
行政が企業になるなら、企業が国家になることができるのか?
人が生まれ・育ち・死んでゆく場を選べるなら、選択と納得ができるだろう。

自由とは、選択する権利と、結果を受け入れる覚悟である。
モノを交換する実体経済市場に、心情を数値に換えて交換する金融市場が被さり、
一般個人まで端末とネットワークに繋がり自由通信が通信が実現しかけて、
自由貿易・自由通行に近づき、モノや現場に関わる人が増えている。
モノの選択は、購入・利用・廃棄の時間と空間が必要となり、限界がある。
しかし、心情を映す参加数・購読数・視聴数・アクセス数は、
行為の単位が小さく・短くなるほどに、膨大な数となってきている。

多数が受け入れることが’正しい’という市場原理は、結果だけではなくなる。
多数のコンタクト・アクセスを持てる相手こそ、’適切な人’であれば、
メディアの露出の多い人が、正しいことを代表する有名人。
そのメディア舞台が、マスからパーソナルへと、ロングテール化してしまうと、
’正しさ’もまた、ロングテール化が進む。

私たちは、会社の決算のように、年次・四半期・月次・日次と決算の単位を短くしてきた。
その結果、支持する期間が、どんどん短くなった。
私たちの希望や不安も、どんどん短くなってきた。

そして、時間と場所を越える共通の価値観を表す言葉が、どんどん断片化してきた。
政治家の言葉が軽くなったのではない。私たちが受け取った言葉を、軽いと感じているのだ。
自分の価値観で計っていないで、もっと別の希望と不安を探し回るからなのだ。
自分で考えないで、検索・比較で数で確かめようとすてしまうからなのだ。
そして、時間が無いし疲れるし、どこかで妥協=縮約するという、納得をする。

生存のゆとりと道具が、市民の言葉を液状化する。
言葉はながれ、眼差しの短編のコピーやパラパラ動画を溢れさす、スマートフォン。

希望と不安は、この道具で増幅されるだけなのだろうか?

いや、スマートフォンを片手に、
一番大切な現場で一番大切な人と、伴に対象に関わり合うことを実現できるのがモバイルなのだ。
そんなこと、もう、お母さんや子ども達はやってるよ?

だから、ビジネスにも、取り入れられてきたのだ。
家事・育児・介護・・・など、目的化・分業化されていないことをこなしてきたのは、女性なのだ。
生活サービスまでが、売買される時代なのだから、
その細かいコトに対処するビジネスは、バックヤードや組織とクラウドで繋がりながら、
顧客の現場に居続け、関係し続ける必要がたかまっているのだ。

では、政治は?
学会が象牙の塔、医学会が白い巨塔、政治は、黒い塔?
いやいや、灰色の泥沼。
砂より細かい、粘土質。
粘着質の羨望と嫉妬が、乾き出すと、亀裂が走り、乾くと風に舞う。

・・・・たとえている時間が惜しくなってきた。
私たちも液状化! 砂粒のように、孤立を深めている。

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