鎌倉時代の流罪には3つのレベルがあったといいます。
近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)がそれで、罪が重いほど京から遠くに流されました。
海を隔てた極寒の佐渡は、特に厳しい遠流先とされており、政権に不都合な政治犯、思想犯が多く流されました。
承元4(1210)年に即位された順徳天皇も、その一人でした。
承久3(1221)年、武家政権打倒を目論んだ承久の乱に敗れ、24才で佐渡に流されました。
在島期間のほとんどを過ごされた場所は「黒木御所」と呼ばれています。
上皇崩御後、跡地はしばらく荒廃していましたが、明治時代に地元の有志により整備され、現在も清められています。
順徳上皇は和歌の才能に秀でた方と云われています。
ここ黒木御所ではどんな歌を詠まれたのでしょう。
↓黒木御所跡の説明板がありました。
「御所の四隅には上皇の御持仏であった観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、日夜礼拝されたと伝えられている」
と書いてありました。
黒木御所のすぐ近くに、順徳上皇にお仕えし、御所の観音堂をお護りしていた方が開いた宗門寺院があります。
泉の本光寺です。
お寺の前に小川が流れており、霊山橋が掛かっています。
霊山は法華経を信仰する人々が亡くなった後に詣でる、永遠の浄土です。
身延山の御廟所↑や池上本門寺にも霊山橋、ありますよね。
つまり向こう側を浄土と考え、先人達は大切にしてきたのでしょう。
山号は法教山です。
山門です。
精巧な造りの薬医門です。
本堂です。
黒い能登瓦で葺いた屋根、佐渡ではよく見られます。
気さくなお上人にご首題を書いていただいている間、お経をあげさせてもらいました。
歴代お上人の御廟に参拝。
本光寺を開いたのは大和房日性上人という方で、中興入道の一族、平吾安光公と云われています。
平吾安光公は黒木御所で観音別当職を仰せつけられていました。
順徳上皇にお仕えする職なわけで、中興入道一族の地位の高さが窺えます。
順徳上皇が佐渡で崩御された後も、平吾安光公は変わらず観音堂をお護りしていました。
それから30年の月日が流れ、文永8(1271)年、「日蓮」というお坊さんが佐渡に流されてきました。
翌年正月16日、「日蓮」が留め置かれている塚原三昧堂で数百人が問答に臨み、「日蓮」一人に完膚なきまでに論破されてしまいました。
どこの馬の骨ともわからないお坊さんだけど、その知識の深さと弁舌の鮮やかさは、佐渡島民には衝撃だったでしょう。
そして「日蓮」が言っていた「法華経」という教え・・・目の前のもやもやが晴れた、もっと話を聞いてみたい、という島民が少しずつ増えてきました。
中興入道もその一人でした。
中興入道は父の次郎入道とともに、ごく早期から日蓮聖人に帰依し、佐渡で四面楚歌だった聖人を物心両面で助けた方です。
本光寺から東へ1kmほど行った「中興」というところに、中興入道ゆかりの御井戸庵があります。
この地に住んでいた中興入道が建立した法華堂をルーツとする庵です。
日蓮聖人の配所が一谷に移り、監視がやや緩められると、中興入道はたびたび法華堂に聖人を招き、一族で法話を聴聞したそうです。
平吾安光公も聖人の教えに耳を傾けるうちに、信仰を深くしていったと思われます。
ところで、日蓮聖人の佐渡配流に追従したお弟子さんとして、日興上人のお名前がよく挙がります。
日朗上人など、側近のお上人の多くが幕府に捕縛されてしまう中、幸いなことに日興上人は佐渡に渡ることができ、聖人ご在島中はずっと、お近くで給仕し続けたそうです。
聖人のお手紙や島での様子を本土側に伝えることができたのも、日興上人が随行できたからだと思われます。
ちょっと話は脱線しますが、先日、某寺で↑北山本門寺のお上人のお話を伺う機会に恵まれました。確か日蓮聖人のご遺文についてのお話でした。
聖人のご遺文研究をするにあたって、ご真蹟があればそれを読むのがベストですが、失われているものも多いようです。
その点、日興上人が鎌倉時代に書写した写本はとにかく正確、緻密で、一字一句間違いがないので、宗門ではご真蹟と同様に扱われるということでした。
そんな日興上人ですから、日蓮聖人の教えを布教する場合も、聖人そのものといったスタンスを堅持していたのでしょう。日興上人に教えを請う人は本当に多かったことが、各地を巡って感じ取れます。
(↑画像は北山本門寺・開山堂)
佐渡で日蓮聖人に帰依した信者さん達にとって、日興上人は3年以上島で暮らした、馴染みがあるお坊さんというのは勿論、この人の元で仏道修行をしたいと思わせる魅力があったのだと思います。
特に宗祖ご入滅後は、佐渡で帰依したお弟子さんの多くが日興上人と交流し、上人が北山本門寺に移ってからもそれは続きました。
平吾安光公が何をきっかけに出家し、大和房日性上人となったのかは不明ですが、日興上人の存在が大きかったことは間違いなさそうです。
嘉元元(1303)年、大和房日性上人は黒木御所の傍らに、本光寺を開山したのです。
本光寺には日興上人ご染筆のお曼陀羅が格護されているそうです。
延慶3(1310)年と正和元(1312)年に書かれた2幅です。
以来700年以上、これらは地元信者さん達の、心の支えになってきたのでしょうね。
国宝殿です。
大和房日性上人が護り続けた順徳上皇のご持仏・聖観音立像がこちらに安置されています。
お像を直接撮影するのは気が引けたので、お写真をパチリ。
高さ1mほどの、穏やかなお顔の観音様です。
戴いたご首題の印には「聖徳太子御作」とありますので、そういう言い伝えがあるのでしょう。
法改正があるまでは国宝指定されていたそうです。
ところで黒木御所の四隅に祀られた観音、阿弥陀、薬師、天神の諸仏、いったいどういう配置だったのでしょうか?
市川智康上人著「仏さまの履歴書」によると、
観音様は南方の補陀洛浄土、
阿弥陀様は西方の極楽浄土、
薬師様は東方の浄瑠璃世界
に住所がある、と書いてあります。
残る天神様は天帝(北極星)と考えると、何となく四隅の配置が見えてくるような・・・
間違ってたらゴメンナサイ!
(↑画像は熊野本宮の旧社地・大斎原)
さらに熊野本宮大社HPによると、熊野三山にお祀りされる神様は、神仏習合により本地仏が
熊野那智大社:千手観音
熊野本宮大社:阿弥陀如来
熊野速玉大社:薬師如来
となっているそうです。
特に平安~鎌倉時代、皇族の熊野信仰は隆盛を極め、後鳥羽上皇は28回、後白河上皇は34回もの御幸(参詣)を行っていたそうです。
後鳥羽上皇は順徳上皇の父、後白河上皇は曾祖父にあたるわけで、ご持仏の配置は熊野信仰の影響も多分にあるのでは?と勝手に推測しています。
黒木御所の「黒木」というのは地名ではなく、建てられた行宮の外観を意味するそうです。
常識的には上皇ですから、白木で組まれた宮殿に住まわれるのでしょうが、罪人として流された順徳上皇にあてがわれたのは、樹皮が付いたまま組まれた粗末な行宮、つまり黒木御所だったわけです。
それでも順徳上皇は毎日、日本が天皇中心の平和な国となるよう、そして叶うならば再び京に戻れるよう、四隅に配置したご持仏に祈っておられたのでしょう。
仁治3(1242)年、順徳上皇は46才で崩御されました。
順徳上皇は荼毘に付され、島内の↑真野御陵に葬られました。
先述の市川智康上人著「仏さまの履歴書」によると、観音様の本名は「観世音菩薩」といい、観音様のことを説いているお経(本籍)は「法華経」の「観世音菩薩普門品」だそうです。(他に「無量寿経」)
日性上人が日蓮聖人や日興上人に帰依し、聖観音立像が現在も法華経のお寺で手厚くお祀りされているのは、必然なのでしょう。
観世音菩薩普門品第二十五を読んでいると、途中に「辟支佛身」「声聞身」「梵王身」など、33の「佛身」が出てきます。
観音様は人々を苦しみから救うため、その人に相応しい33通りの姿に変わって現れ、人を導くと説かれているそうです。
(↑画像は佐渡・真浦)
日蓮聖人は阿仏房や中興入道など、順徳上皇にご縁の深い方々の供養によって命を永らえ、文永11(1274)年のご赦免につながりました。
それは奇しくも順徳上皇が崩御されてから32年後、つまり三十三回忌の節目の年でした。
日蓮聖人を助けた彼ら一人一人が、まさに観音様が姿を変えた「佛身」だったのでしょう。
順徳天皇は佐渡配流の直前、越後寺泊から甲州金峰山へ勅使を遣わし、奉幣させています。
本当は吉野金峰山の神様に捧げ物をしたかったのでしょうが、畿内に政敵が多い状況を考え、代わりに吉野の蔵王権現が勧請されている甲州金峰山を選ばれたようです。
今生の別れを報告する意味があったのだと思います。
文永11(1274)年、佐渡配流を赦免された日蓮聖人は甲州巡化の途次、甲州金峰山の麓にある金桜神社を参詣されています。
結構な山中にあるこのお社に、わざわざ上ってゆかれたのは、順徳上皇と「佛身」への感謝であったと、思わざるを得ません。
※ 甲州金峰山へ奉幣する際に使用された白輿が残る天台宗寺院は、日蓮聖人により改宗され、順徳院山常説寺となりました。