前半は道善房と日蓮聖人の師弟関係を中心にブログを書かせて戴きました。
ちょうど13世紀、鎌倉時代のお話でしたが、実は清澄寺の歴史は、更にずう~っと昔に遡ります。そこからまるでジェットコースターのような栄枯盛衰を経て、今日に至るのです。
例えば↑は祖師堂、日蓮門下ならではのお堂ですが、わずか70数年前、清澄寺は他宗であり、もちろんこういったお堂は建てられませんでした。
後半も境内を巡りながら、いかにして清澄寺が宗門寺院になったのかを追ってゆきたいと思います。
清澄寺の本堂である大堂です。
17世紀後半の建築だそうです。
大堂の中央部には、清澄寺のそもそものルーツである虚空蔵菩薩像が安置されています。
奈良時代、不思議法師という旅のお坊さんがいたそうです。
不思議法師については現在もその素性がわかっておらず、名前も「仮に不思議法師としておきましょう」という感じだそうですよ。
不思議法師は清澄山の頂上が光っているのを見つけ、山に分け入りました。すると目の前に妙見様が現れて、この山で修行するよう、お告げを残したそうです。
光っていたのは柏の木でした。不思議法師はこの柏の木から虚空蔵菩薩像を彫りだしました。
(↑画像、本堂の裏山が清澄山系の一座・妙見山の山頂)
山号の「千光山」は、この光る柏の木の逸話からだと思われます。
柏の木というのは秋に葉が枯れても、翌春に新芽が芽吹くまで葉が落ちない特性があります。冬の冷たい風を防ぐとか、代が途切れないという縁起の良い木として、神事に使われたり家紋に用いられたりするそうです。
端午の節句に食べる餅を、柏の葉で包むのも、縁起を担いでいるのだと思います。
不思議法師が自ら彫った虚空蔵菩薩像の前で21日間の修行をすると、傍らから水が湧き出してきたといいます。あまりに澄みきった水面に星影が宿ることから、この湧水は「星の井戸」として、現在も清められています。
そしてこの逸話が、清澄という寺名のルーツになっています。
妙見信仰は北極星、虚空蔵信仰は金星(明星)に関係するといわれています。
灯台などなかった昔、海の民は星や山の位置を頼りに舟を操ったそうです。清澄山に星信仰があるのも、海の存在抜きに語れないと思います。
清澄寺の近くに「天富神社」というお社があります。
神武天皇に仕えた天富命(アメノトミノミコト)は、肥沃な農地を求めて阿波国からこの地に舟で来て、安房国を開いたそうです(どちらも「アワ」なのはそういった由来)。天富命は妙見山にも登っており、そのいわれから、ここにお社があるようです。
遠い昔から、海の民は黒潮に乗って来ていたんですね!
不思議法師が修行されてから60年以上が経過した頃、東国を遊化していた天台僧の円仁上人が虚空蔵菩薩像の前で21日間修行し、天台宗のお寺を創建したそうです。
清澄寺境内には練行堂↑がありますが、この場所で円仁上人は修行されました。
(日蓮聖人も若い頃、ここで修行されていたそうですよ!)
ちなみに円仁上人は、のちに比叡山延暦寺の第3代天台座主になった、慈覚大師と呼ばれる方です。師匠の伝教大師最澄上人が法華経を重んじていたのに対し、円仁上人は天台宗に積極的に密教を導入してゆきました。
そのためか、日蓮聖人の時代の清澄寺は密教色の濃い、修験の行場でもあったということです。
清澄寺の参道脇に蔵王権現堂があるのも、修験の名残りかもしれません。
そういえば清澄寺本堂の扁額には「摩尼殿」と書いてありました。
摩尼殿って、どこかで見たことがあるぞ・・・う~ん・・・
思い出した、七面山!
敬慎院の本殿の扁額には「摩尼殿」って書かれていました。
摩尼とは仏教用語で、珠玉とか宝石って意味のようです。
七面山と清澄山のつながりはもう一つあります。
↑は僕が昨年6月、七面山で拝んだご来光ですが、春夏のお彼岸には、光の矢が清澄山頂→富士山頂→七面山頂と一直線に結ばれ、最終的に出雲大社に至るのだそうです。
七面山も清澄山と同じく、昔は修験の行場でした。修験と摩尼、そして太陽って、とても深い関係があるのかもしれませんね!
話を戻しましょう。
日蓮聖人が修行された鎌倉時代が清澄寺の最盛期で、僧坊が12、祠堂が25もある大寺だったそうです。
しかし室町時代に入ると戦乱や火災で、徐々に衰退してゆきました。
↑は室町時代の宝篋印塔です。混乱した当時の切なる思いが、この塔に込められているのでしょう。
江戸時代になると状況は一変します。
徳川幕府から庇護を受けた真言宗の頼勢法印がこの山を賜ったことで、清澄寺は一気に格式が高まります。
↑は江戸時代建立の中門ですが、当時の雰囲気が偲ばれます。
ちなみに本堂(摩尼殿)の幕にある「五七の桐」は京都醍醐寺の紋章でもあります。
清澄寺が真言宗寺院である醍醐寺三宝院の関東別院でもあった名残りだと思われます。
明治維新を迎え、廃仏毀釈の波は清澄寺にも押し寄せました。
神仏習合色の強いお寺は、宗派問わず徹底的にやられたようです。清澄寺は神仏習合の典型でしたから、その厳しさは想像に難くありません。
一方、日蓮聖人の法孫達にとって、宗祖が得度され立教開宗された、いわば最高の聖地であるこのお山が、時代を経てもなお、他宗の一寺院であることを、ずっと無念に思ってきたはずです。
いつか清澄山で声高らかにお題目を唱えたい、いつか旭ケ森に宗祖像を建立したい・・・と祈念しながら亡くなっていった先師達が沢山いたはずです。
時代は大正になり、当時、日蓮宗管長だった河合日辰上人の夢に虚空蔵菩薩が現れ、お告げを授けられました。
「聖人の法華経布教事蹟を示したまえ」
(↑画像は旭ケ森・日蓮聖人銅像の由緒看板より)
早速、河合日辰上人は清澄寺を訪問したそうです。このことが契機となり、当時の清澄寺30世貫首・玉瀧義秀上人との交流が始まりました。
初めて会った時から、二人は親子兄弟かと思うほど馬が合い、日蓮聖人銅像を旭ケ森に建立する話へと至りました。
そこで玉瀧上人は「日蓮聖人は吾が先師の弟子でもあります。それは私にとって深い法縁です。私が犬馬の労を取ります。」と申し出てくれたそうです。
犬馬の労、僕は知らなかった言葉ですが、調べると「人のために力を尽くして働くことをへりくだって言う語」とありました。
河合日辰上人の強い思いが伝わったんですね。
そこに至るまでは幾多の困難があったでしょう、果たして大正12(1923)年8月30日、日蓮聖人が初めてお題目を唱えた旭ケ森に、宗門念願の大きな銅像が建立されました。
(ちなみに銅像建立の翌々日に関東大震災が起きるのですが、全く無傷だったということです)
銅像の台座には、ご高齢ながら建立に尽力された河合日辰上人の熱い思いが漢文で刻まれています↓。
これ以降、4月27・28日、10月27・28日は日蓮宗に全山開放されることになり、信者さんの登詣がどんどん増えていったそうです。
江戸時代に将軍より下賜されて以来、清澄山は真言宗が護持してきたが、日蓮門下にとっても清澄山は信仰の原点であり、聖地である・・・。
参詣する法華信者さん達を目のあたりにして、違和感を感じたとしたら、それはごく自然なことだと思います。
玉瀧義秀上人から清澄寺貫首を継がれた31世・岩村義運上人は、真言宗僧侶でありながら、清澄山という聖地においては、日蓮聖人をリスペクトしていたようです。
戦後間もなく、身延山84世法主・深見日圓上人が清澄寺を訪れ、改宗の話し合いがなされました。
日蓮聖人の時代とは違い、昭和の時代に宗旨を変えるのが並大抵の事でないことは、素人の僕にもわかります。真言宗智山派との交渉はもちろん、何より末寺や檀家さんの同意も得なければなりません。
岩村義運上人は、いろんな板挟みの中で、改宗に向けて奔走したようです。
昭和24(1949)年2月16日、ついに清澄寺は、日蓮宗に改宗しました。
そこに至るまでには、岩村義運上人の大英断があり、それにより末寺との関係も絶ちました。決して表には出せないような苦渋を、岩村上人は味わい続けたはずです。
僕は今回その経緯を知り、本当に心を揺さぶられました。
清澄山という日蓮聖人の聖地が日蓮宗ではなかった、そのねじれを解消するために、命懸けで尽力してくれた先師達がいたことを、決して忘れてはならないと思います。
清澄寺の名所といえば日蓮聖人銅像でしょう。
↑画像で左に行くと、旭ケ森の日蓮聖人銅像に至ります。しかし信徒の方、時間があれば是非、右の細い坂道を歩いて行って下さい。
50mほど歩くと右側に階段があります。
清澄寺歴代お上人の御廟です。
遠い昔から、お山を護ってくださってきたお上人方を供養しています。
天台宗→真言宗→日蓮宗の経緯があるので、梵字の石も沢山あります。
その中に、改宗に尽力してくれた二人のお上人のお墓もありました。
こちらが清澄寺中興三十世 大阿闍梨僧正義秀不生位
玉瀧義秀上人のお墓です。
大正12(1923)年、旭ケ森に立派な日蓮聖人銅像を建立できたのは、玉瀧義秀上人の尽力に他なりません。法華信徒に初めて参拝の機会を与え、改宗の礎を築いてくれました。
その隣が日蓮宗清澄寺第一世 大僧正智泉院日秀聖人
岩村義運上人のお墓です。
岩村義運上人は清澄寺を改宗させた後、初代貫首に任命されましたが、すぐに山を下りられたそうです。自分の仕事はここまで、という覚悟を持っていたのでしょう。
(以降、清澄寺貫首は日蓮宗管長が兼務し、僧侶の代表として別当が就くことになっています)
最後に、岩村義運上人のお墓の側面に刻まれた文字を記して、今回のブログを終えたいと思います。
「昭和廿四年二月十六日 真言宗より日蓮宗に改宗の大先覚者 始祖たり
昭和五十年七月七日 遷化」
このブログをアップする今日、768回目の立教開宗会です!
わずか71年前の偉業に、心から感謝し、恩に報いる日にもしたいと思います。
南無妙法蓮華経。