日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

千光山清澄寺(鴨川市清澄)

2020-04-28 09:29:13 | 旅行
前半は道善房と日蓮聖人の師弟関係を中心にブログを書かせて戴きました。
ちょうど13世紀、鎌倉時代のお話でしたが、実は清澄寺の歴史は、更にずう~っと昔に遡ります。そこからまるでジェットコースターのような栄枯盛衰を経て、今日に至るのです。


例えば↑は祖師堂、日蓮門下ならではのお堂ですが、わずか70数年前、清澄寺は他宗であり、もちろんこういったお堂は建てられませんでした。

後半も境内を巡りながら、いかにして清澄寺が宗門寺院になったのかを追ってゆきたいと思います。





清澄寺の本堂である大堂です。
17世紀後半の建築だそうです。



大堂の中央部には、清澄寺のそもそものルーツである虚空蔵菩薩像が安置されています。

奈良時代、不思議法師という旅のお坊さんがいたそうです。
不思議法師については現在もその素性がわかっておらず、名前も「仮に不思議法師としておきましょう」という感じだそうですよ。



不思議法師は清澄山の頂上が光っているのを見つけ、山に分け入りました。すると目の前に妙見様が現れて、この山で修行するよう、お告げを残したそうです。
光っていたのは柏の木でした。不思議法師はこの柏の木から虚空蔵菩薩像を彫りだしました。
(↑画像、本堂の裏山が清澄山系の一座・妙見山の山頂)



山号の「千光山」は、この光る柏の木の逸話からだと思われます。

柏の木というのは秋に葉が枯れても、翌春に新芽が芽吹くまで葉が落ちない特性があります。冬の冷たい風を防ぐとか、代が途切れないという縁起の良い木として、神事に使われたり家紋に用いられたりするそうです。
端午の節句に食べる餅を、柏の葉で包むのも、縁起を担いでいるのだと思います。



不思議法師が自ら彫った虚空蔵菩薩像の前で21日間の修行をすると、傍らから水が湧き出してきたといいます。あまりに澄みきった水面に星影が宿ることから、この湧水は「星の井戸」として、現在も清められています。
そしてこの逸話が、清澄という寺名のルーツになっています。



妙見信仰は北極星、虚空蔵信仰は金星(明星)に関係するといわれています。
灯台などなかった昔、海の民は星や山の位置を頼りに舟を操ったそうです。清澄山に星信仰があるのも、海の存在抜きに語れないと思います。



清澄寺の近くに「天富神社」というお社があります。
神武天皇に仕えた天富命(アメノトミノミコト)は、肥沃な農地を求めて阿波国からこの地に舟で来て、安房国を開いたそうです(どちらも「アワ」なのはそういった由来)。天富命は妙見山にも登っており、そのいわれから、ここにお社があるようです。
遠い昔から、海の民は黒潮に乗って来ていたんですね!


不思議法師が修行されてから60年以上が経過した頃、東国を遊化していた天台僧の円仁上人が虚空蔵菩薩像の前で21日間修行し、天台宗のお寺を創建したそうです。

清澄寺境内には練行堂↑がありますが、この場所で円仁上人は修行されました。
(日蓮聖人も若い頃、ここで修行されていたそうですよ!)
ちなみに円仁上人は、のちに比叡山延暦寺の第3代天台座主になった、慈覚大師と呼ばれる方です。師匠の伝教大師最澄上人が法華経を重んじていたのに対し、円仁上人は天台宗に積極的に密教を導入してゆきました。
そのためか、日蓮聖人の時代の清澄寺は密教色の濃い、修験の行場でもあったということです。


清澄寺の参道脇に蔵王権現堂があるのも、修験の名残りかもしれません。



そういえば清澄寺本堂の扁額には「摩尼殿」と書いてありました。

摩尼殿って、どこかで見たことがあるぞ・・・う~ん・・・
思い出した、七面山!
敬慎院の本殿の扁額には「摩尼殿」って書かれていました。
摩尼とは仏教用語で、珠玉とか宝石って意味のようです。

七面山と清澄山のつながりはもう一つあります。

↑は僕が昨年6月、七面山で拝んだご来光ですが、春夏のお彼岸には、光の矢が清澄山頂→富士山頂→七面山頂と一直線に結ばれ、最終的に出雲大社に至るのだそうです。
七面山も清澄山と同じく、昔は修験の行場でした。修験と摩尼、そして太陽って、とても深い関係があるのかもしれませんね!


話を戻しましょう。
日蓮聖人が修行された鎌倉時代が清澄寺の最盛期で、僧坊が12、祠堂が25もある大寺だったそうです。
しかし室町時代に入ると戦乱や火災で、徐々に衰退してゆきました。
↑は室町時代の宝篋印塔です。混乱した当時の切なる思いが、この塔に込められているのでしょう。



江戸時代になると状況は一変します。
徳川幕府から庇護を受けた真言宗の頼勢法印がこの山を賜ったことで、清澄寺は一気に格式が高まります。
↑は江戸時代建立の中門ですが、当時の雰囲気が偲ばれます。



ちなみに本堂(摩尼殿)の幕にある「五七の桐」は京都醍醐寺の紋章でもあります。
清澄寺が真言宗寺院である醍醐寺三宝院の関東別院でもあった名残りだと思われます。



明治維新を迎え、廃仏毀釈の波は清澄寺にも押し寄せました。
神仏習合色の強いお寺は、宗派問わず徹底的にやられたようです。清澄寺は神仏習合の典型でしたから、その厳しさは想像に難くありません。



一方、日蓮聖人の法孫達にとって、宗祖が得度され立教開宗された、いわば最高の聖地であるこのお山が、時代を経てもなお、他宗の一寺院であることを、ずっと無念に思ってきたはずです。
いつか清澄山で声高らかにお題目を唱えたい、いつか旭ケ森に宗祖像を建立したい・・・と祈念しながら亡くなっていった先師達が沢山いたはずです。



時代は大正になり、当時、日蓮宗管長だった河合日辰上人の夢に虚空蔵菩薩が現れ、お告げを授けられました。

「聖人の法華経布教事蹟を示したまえ」


(↑画像は旭ケ森・日蓮聖人銅像の由緒看板より)
早速、河合日辰上人は清澄寺を訪問したそうです。このことが契機となり、当時の清澄寺30世貫首・玉瀧義秀上人との交流が始まりました。

初めて会った時から、二人は親子兄弟かと思うほど馬が合い、日蓮聖人銅像を旭ケ森に建立する話へと至りました。
そこで玉瀧上人は「日蓮聖人は吾が先師の弟子でもあります。それは私にとって深い法縁です。私が犬馬の労を取ります。」と申し出てくれたそうです。

犬馬の労、僕は知らなかった言葉ですが、調べると「人のために力を尽くして働くことをへりくだって言う語」とありました。
河合日辰上人の強い思いが伝わったんですね。



そこに至るまでは幾多の困難があったでしょう、果たして大正12(1923)年8月30日、日蓮聖人が初めてお題目を唱えた旭ケ森に、宗門念願の大きな銅像が建立されました。
(ちなみに銅像建立の翌々日に関東大震災が起きるのですが、全く無傷だったということです)


銅像の台座には、ご高齢ながら建立に尽力された河合日辰上人の熱い思いが漢文で刻まれています↓。

これ以降、4月27・28日、10月27・28日は日蓮宗に全山開放されることになり、信者さんの登詣がどんどん増えていったそうです。

江戸時代に将軍より下賜されて以来、清澄山は真言宗が護持してきたが、日蓮門下にとっても清澄山は信仰の原点であり、聖地である・・・。
参詣する法華信者さん達を目のあたりにして、違和感を感じたとしたら、それはごく自然なことだと思います。



玉瀧義秀上人から清澄寺貫首を継がれた31世・岩村義運上人は、真言宗僧侶でありながら、清澄山という聖地においては、日蓮聖人をリスペクトしていたようです。

戦後間もなく、身延山84世法主・深見日圓上人が清澄寺を訪れ、改宗の話し合いがなされました。
日蓮聖人の時代とは違い、昭和の時代に宗旨を変えるのが並大抵の事でないことは、素人の僕にもわかります。真言宗智山派との交渉はもちろん、何より末寺や檀家さんの同意も得なければなりません。
岩村義運上人は、いろんな板挟みの中で、改宗に向けて奔走したようです。



昭和24(1949)年2月16日、ついに清澄寺は、日蓮宗に改宗しました。

そこに至るまでには、岩村義運上人の大英断があり、それにより末寺との関係も絶ちました。決して表には出せないような苦渋を、岩村上人は味わい続けたはずです。

僕は今回その経緯を知り、本当に心を揺さぶられました。
清澄山という日蓮聖人の聖地が日蓮宗ではなかった、そのねじれを解消するために、命懸けで尽力してくれた先師達がいたことを、決して忘れてはならないと思います。



清澄寺の名所といえば日蓮聖人銅像でしょう。
↑画像で左に行くと、旭ケ森の日蓮聖人銅像に至ります。しかし信徒の方、時間があれば是非、右の細い坂道を歩いて行って下さい。


50mほど歩くと右側に階段があります。


清澄寺歴代お上人の御廟です。
遠い昔から、お山を護ってくださってきたお上人方を供養しています。


天台宗→真言宗→日蓮宗の経緯があるので、梵字の石も沢山あります。

その中に、改宗に尽力してくれた二人のお上人のお墓もありました。
こちらが清澄寺中興三十世 大阿闍梨僧正義秀不生位
玉瀧義秀上人のお墓です。

大正12(1923)年、旭ケ森に立派な日蓮聖人銅像を建立できたのは、玉瀧義秀上人の尽力に他なりません。法華信徒に初めて参拝の機会を与え、改宗の礎を築いてくれました。


その隣が日蓮宗清澄寺第一世 大僧正智泉院日秀聖人
岩村義運上人のお墓です。
岩村義運上人は清澄寺を改宗させた後、初代貫首に任命されましたが、すぐに山を下りられたそうです。自分の仕事はここまで、という覚悟を持っていたのでしょう。
(以降、清澄寺貫首は日蓮宗管長が兼務し、僧侶の代表として別当が就くことになっています)


最後に、岩村義運上人のお墓の側面に刻まれた文字を記して、今回のブログを終えたいと思います。

「昭和廿四年二月十六日 真言宗より日蓮宗に改宗の大先覚者 始祖たり
 昭和五十年七月七日 遷化」

このブログをアップする今日、768回目の立教開宗会です!
わずか71年前の偉業に、心から感謝し、恩に報いる日にもしたいと思います。
南無妙法蓮華経。

道善房墓所(鴨川市清澄)

2020-04-28 09:28:52 | 旅行
僕はこれまで数多くの、全国の、日蓮聖人とそのお弟子、信者さん達のご霊跡を巡ってきました。
それは日蓮聖人の時代のみならず、戦の時代、太平の時代、はたまた最近の、先人達が信仰を守り抜いた証でありました。

今回、このブログは200回を迎えます。記念というとおこがましいですが、全ての法華経信仰の起点となったお祖師様の立教開宗の聖地・清澄山について、2回に分けて紹介させていただきます。

前半は「道善房墓所」として、日蓮聖人と清澄寺との関わりを、後半は「千光山清澄寺」として、清澄寺の縁起を紐解いてみたいと思います。
(道善房のお墓は清澄寺境内にあります)


本来なら、清澄山の遠景を捉えた画像をアップできれば良いのでしょうが、鴨川や勝浦は山が迫っている場所が多く、これというのがありません・・・。


唯一、↑は、西条華房にある日蓮聖人が額の刀傷を洗ったといわれている井戸(左下)から北東方面を写した画像なんですが、奥に清澄山系と思われる山々がありました。
清澄山は、清澄八峰といわれる山々の総称だそうですよ。



安房天津からキレイに舗装された山道を上ります。



勾配が急すぎる場所には、現在ループ橋を建造中です。


お猿さんも普通にいます!


麓から15分ほど走ると巨大な黒門が迎えてくれます。


清澄寺は大本山なんですね!
日蓮宗ポータルサイトによると、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、池上本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺、そして清澄寺の7ケ寺に、大本山の称号が付いているそうです。




清澄寺の山門は仁王門です。
朱塗りの門ですね。



日蓮聖人が立教開宗した場所としてはよく知られていますが、得度した場所でもあったんですね。

ところで、日蓮宗のお坊さんになるには、得度、度牒、僧道林、検定試験、読経試験、信行道場などのステップを踏む必要があるそうです。
ここで言う「得度」とは、師僧のもとで弟子となることで、修行して師僧に信頼され、日蓮宗が認めれば「度牒(どちょう)」という証明を戴けるようです。
そこで初めてお坊さんのタマゴになれるのですが、この度牒の交付式は清澄寺で行われているそうですよ!



日蓮聖人にも「道善房」という、清澄寺に仕える師僧がいました。道善房のもとで得度・修行し、のちに立教開宗してゆきます。
その過程を、清澄寺境内の事物を巡りながら見てゆきましょう。



日蓮聖人(幼名・善日麿)は貞永2(1233)年、12才で清澄山に入りました。
名前を薬王麿と改め、道善房を師匠として、預けられました。
当時はもちろん学校はなく、初等教育はお寺に委ねるのが一般的でした。
鎌倉時代、最盛期には清澄寺に12もの僧坊があったといいますが、薬王麿はこのうち道善房の坊舎である諸仏坊を拠点に、兄弟子の浄顕房、義浄房にも教わりながら4年間、夢中で学問や修業に打ち込みました。
(↑画像は小湊誕生寺境内の日蓮聖人ご幼像)



当時、清澄山は女人禁制だったため、たとえ母親でも女人堂という遙拝所までしか登って来ることはできませんでした。
幼い薬王麿を心配して、母・梅菊はここまでやって来たそうです。



薬王麿は面会に来た梅菊に「生まれ故郷が恋しくなり、勉学に励めなくなるので、会いに来ないでほしい」と伝えました。
息子の強い意志を感じた梅菊は、涙を流しながら山を下り、以後、清澄山には登らなかったそうです。



女人禁制時代の遺構である女人堂跡、そして梅菊が涙をこぼした涕涙石跡は、清澄寺入口から500m位手前の側道にあります。目立たない場所ですが、参拝の折には訪れてもらいたいです。



嘉禎3(1237)年10月8日、16才で剃髪して出家得度し、名を是聖房蓮長と改めました。
ここから僧侶としての本格的な修行が始まりました。
(↑は蓮長が修行された練行場井戸)



師匠の道善房は蓮長の非凡な資質を見抜いていたのでしょう、懸命に教育をし、修行を見守ったようです。
一方、蓮長の知識欲は旺盛で、更に自分の能力を高めるため、ついには清澄寺のご本尊・虚空蔵菩薩像の前で三七日(21日間かな?)不眠不休の行をしました。
「日本第一の知者となしたまえ」と願をかけて。



満行の日、本物の虚空蔵菩薩が蓮長の前に現れ、智慧の宝珠を授けられました。
その瞬間、蓮長は吐血して倒れ、周囲の笹を血で染めたといわれています。
境内には↑凡血の笹として霊跡をとどめています。



ここの笹は葉に赤い斑点が出るのが特徴だそうです。
蓮長が吐いたのは凡人の血と言われ、これ以降、蓮長の記憶力や理解力はズバ抜けて良くなったといいます。



その頃、蓮長は究極の疑問にぶち当たっていました。

「お釈迦様の教えの本質はどこにあるのか?」

数ある経典、居並ぶ既存教団の中で、人々を幸せに導くのは何なのかを知るために、蓮長は当時の仏教の中心地・関西への留学を決意しました。師匠の道善房も、もはや自分の手に負える器でないと思ったのでしょう、蓮長の背中を押してくれたようです。



当時、仏教の総合大学的な場所だった比叡山を拠点にして、蓮長は京都、奈良、大阪にも出かけ、仏教を広く深く、学び尽くしました。留学は足掛け12年にも及びました。
(↑は比叡山・横川の定光院)



お釈迦様の教えの本質は法華経にあると確信した蓮長は、留学の最後に伊勢大廟(神宮)を訪れ、天照大神の前で法華経を広める誓いをしました。
(↑は蓮長が伊勢大廟参拝前に水垢離をした、通称誓いの井戸)


留学を終え、久しぶりに清澄寺に戻った蓮長は、大勢の前で留学の成果を報告することになっていました。
蓮長自身、それは天地をひっくり返すような事になるだろうと予想していたはずです。

建長5(1253)年4月28日早朝、清澄山上の旭ケ森において、太平洋上から昇る太陽に向かって、初めてお題目を唱えられました。
そして、末法の世から人々を救済しようという決意の現れなのでしょう、世を照らす「日」と、泥に咲く「蓮」から、自らの名を日蓮と改めたといわれています。



この日の正午、馴染みの坊舎である諸仏坊にある持仏堂で、留学の報告会が催されました。(現在、↑道善房のお墓がある場所が、かつての諸仏坊の跡だそうです)
日蓮聖人は聴衆に対して南面していたといいます。これは天子が臣下に対面する時の位置関係であり、ある意味、お釈迦様になり変わって、お話をされる決心だったのでしょう。

聴衆は日蓮聖人が天台宗総本山である比叡山で、天台の教えをどんなに深めたのかを期待していたことでしょう。
ところが日蓮聖人は、世の中を救う唯一・最高の教えは法華経である、念仏など無間地獄だ、と堂々とお説法したことにより、地頭・東条景信はじめ聴衆の怒りを買ってしまいました。



怒り狂う聴衆に命の危険を感じた日蓮聖人は、兄弟子の浄顕房、義浄房の助けもあり、西条華房の蓮華寺に逃れました。
実はこれは師匠・道善房の機転だと言われています。お説法に驚愕しながらも、大切な弟子の命だけは護ろうとしたのではないでしょうか。
(これを機に、道善房は日蓮聖人を表向き「勘当」したそうです)

以後、日蓮聖人は二度と清澄山に登ることはありませんでした。



文永元(1264)年、母・梅菊の病気の知らせを受けた日蓮聖人は、急いで安房に帰郷し、祈祷により母を蘇生させました。孝養を尽くし、母の容体も落ち着いてきた11月、日蓮聖人は蓮華寺で道善房に再会しています。
9年前、憤った聴衆から自分を護ってくれたことへの感謝を伝え、改めて法華経への帰依を道善房に勧めましたが、師匠の信仰を変えることはできなかったといいます。

 

このすぐあとに起きたのが、小松原の法難です。
東条景信は密かに道善房の動きを探り、日蓮聖人襲撃の機会を狙っていたのかもしれません。
事件の報せを聞いて、道善房はどんなに悲しんだことでしょう。
(↑は小松原の鏡忍寺)



のちに日蓮聖人は身延山に入りますが、両親への思慕と同様に、師匠への感謝の思いも、変わらず強く持ち続けたようです。
(↑は身延山御草庵跡)


身延山久遠寺の奥之院思親閣には、日蓮聖人がお手植えされたという杉の老木が現役で残っています。樹齢700年以上!!



うち1本は、道善房の恩に報いたいという気持ちで植えられた「道善房杉」です。
信仰は違えど、自分の根っこの部分を作り上げてくれた道善房は、やはり紛れもない「師匠」だったのでしょう。



建治2(1276)年3月16日、道善房は化を遷されました。

念仏中心の天台宗寺院に給仕する僧侶でありながら、日蓮聖人という規格外の異端を弟子に持ち、肩身の狭い思いをすることもあったでしょう。信仰についても立場上、一線は越えられなかったのだと思います。
しかし、幼い頃から大切に育て、見事に成長し、羽ばたいていった弟子を、道善房はいつも遠くから心配し、応援していた、というのは邪推でしょうか。



道善房ご遷化の報せを受け、日蓮聖人は感謝の想いを文章に著しました。報恩抄です。
自分の代理として、日向上人を遣わせ、浄顕房・義浄房立会いのもと、墓前で報恩抄を読ませることで、師匠の霊を供養したそうです。
日蓮聖人自身、駆けつけたい気持ちはあったでしょうが、隠棲の身でもあり、これ以上波風を立てたくないという配慮だったと思います。



僕は毎日のお勤めの際、妙行日課を少しずつ読むのですが、報恩抄の一節も載っています。
印象的なのは次の部分です。

「されば花は根にかへり 眞味は土にとどまる この功徳は故道善房の精霊の御身に聚(あつま)るべし」

今の自分がいるのは、あなたに育ててもらえたからです。いつも影で支えてくれていた。自分がこれまで積み重ねてきた功徳を、道善房、あなたに振り向けて、霊を慰めたいと思います・・・。

そんな意味だと勝手に解釈して、清澄寺の前半「道善房墓所」を締めたいと思います。
南無妙法蓮華経。


常陸の湯(水戸市加倉井町)

2020-04-15 18:03:55 | 旅行
晩年の日蓮聖人の体調は、決して良好とは言えなかったようです。

弘安元(1278)年11月、日蓮聖人56才の時、池上宗仲公の弟・宗長公に送られたお手紙にはこう書かれています。

「去年の十二月の卅日より はらのけの候しが 春夏やむことなし」

「はらのけ」というのは、どうやら冷えによる下痢のようです。
在山中、悪化と軽快を繰り返しながらも、身延の厳しい寒さも相まってお祖師様の体力を奪っていったと想像できます。
食も細くなり、全身が衰弱してゆくのを見かねて、まわりの方々が温泉療養することを勧めました。

波木井實長公が用意した栗鹿毛の馬に身を委ね、向かったのは「常陸の湯」でした。


茨城県水戸市の西部に、加倉井(かくらい)町という場所があります。
どうやらこの近くに、日蓮聖人が行こうとしていた常陸の湯があるようです。



まずは加倉井町にある日蓮宗寺院・妙徳寺を訪問しました。
妙徳寺は常陸の湯を由緒とするお寺です。
とても親切な奥様に常陸の湯への行き方を教えて戴きました。
妙徳寺については後日、レポしますね!


現地は水戸ゴルフクラブというゴルフ場に隣接しています。
↑画像に池が見えますが、この界隈には古くから池が多く、景勝地としてよく知られた場所だったそうです。


ゴルフ場のクラブハウスを過ぎ、細い横道に折れると、石碑などがある広い一画に行き着きました。


すぐそこにグリーンが見えます。
ナイスショットでも出たのでしょうか、時折歓声と拍手が聞こえてきます。



OBになっちゃったボールもちらほら(笑)


「常陸の湯」の石柱がありました。
以前は本当に入浴施設があった(↑奥の建物かな?)そうですが、現在は閉鎖されているといいます。



この鳥居の右側に・・・


源泉がありました!
温泉成分によって水路が赤みがかっていますが、箱根のような硫黄臭さはありません。


昭和18(1943)年に建立された石碑に、由緒が刻まれていました。
妙徳寺で戴いた由緒も交えて、探ってみたいと思います。


常陸の湯の歴史は古く、平安後期に遡ります。

永承5(1050)年、奥州討伐に向かっていた源氏の軍勢が、この地で飲み水を探していたそうです。
そして篠(しの:丈の低い笹)の藪の中に、こんこんと湧き出す泉を発見しました。
飲むだけでなく浴水(多分身体にかける)に用いたところ「霊効」があったといいます。
以来この場所は、篠叢中の隠泉ということで「隠井(かくれい)」と呼ばれるようになりました。現在の地名・加倉井は隠井がルーツのようですね。



この軍勢を率いていた武将は、源義家公でした。
史実からすると、義家公が隠井を発見した翌年に、前九年の役(陸奥国の豪族・安倍氏との合戦)が始まっています。
奥州の手前にある常陸に、軍勢の疲れを癒やす場所があったというのは、戦略上メリットが大きかったのではないでしょうか。


源泉の隣にはよく清められた祠があります。
「八幡大菩薩」と書かれていました。
源義家公自らが戦勝祈願のために感得した八幡様で、「隠井八幡宮」と呼ばれているそうです。



ここからちょっと話は脱線しますね。

義家公は、東国で源氏の地位を確固たるものにしたことで知られる源頼義公の長男です。
次男は義綱公、三男は義光公であり、それぞれ元服した神社名から、八幡太郎、加茂次郎、新羅三郎という通称が付いています。

隠井を見つけた八幡太郎義家公の子孫は、源頼朝公をはじめとする武家としての源氏の本流になってゆくのです。

ところで三男の新羅三郎義光公、どこかで目にした名前だな~と思いましたが、それもそのはず、甲斐源氏の祖に当たる方で、武田氏や加賀美氏、そして日蓮聖人の大壇越である南部實長公のルーツにもなっているのです。


ちなみに僕は昨年、比叡山を訪問した際に、義光公が元服をした新羅善神堂(園城寺/三井寺)にも立ち寄り、参拝しました。
日蓮聖人は比叡山に修学されている間、園城寺にも歴訪され、見聞を広めたことが知られていますが、そうなると当然、園城寺の守護神である新羅善神堂にも参拝されていたと思われます。

日蓮聖人と南部實長公がまだお互いに面識がなかった頃に、実は源義家公をめぐったご縁があったんですね~!
深いなぁ・・・。


話を元に戻しましょう。

それから200年以上過ぎた文永元(1264)年、いわゆる小松原法難が起きました。
二人の弟子信者さんが殺害されましたが、鬼子母神が出現し、日蓮聖人は一命を取り留めました。
(↑画像は小松原鏡忍寺)



重傷を負った日蓮聖人は、夜道を逃れて小湊の山中にある岩窟で一夜を過ごしたことが知られています。(↑画像は日蓮寺の養疵窟)


また清澄山を追放された直後に一旦身を寄せた西条華房蓮華寺の近くには、日蓮聖人が額の傷を洗ったと伝わる井戸が残っています。


実はこのあとの日蓮聖人の足取りが、なかなか追えずにいました。

中山法華経寺の縁起によると、小松原法難後、日蓮聖人はしばらく中山の地で身体を休めたといいます。
その際、自らを救ってくれた鬼子母神に霊験を感じ、鬼子母神のお像を刻んで開眼したそうです。これが「中山鬼子母神」のルーツとなっています。
(↑画像は中山法華経寺の法華堂)

小松原法難後のお祖師様の動向、僕の知りうる限りではこのくらいしかありませんでした。

しかしこの時代は、元国からの使者がたびたび来訪し、鎌倉幕府に圧力をかけており、政情が揺らぎ始めていたはずです。
日蓮聖人は房総各地をお説法しながら、不安に思う庶民達の教化に巡っていたと考えるのが自然でしょう。


ここで先ほどの常陸の湯の石碑に戻ります。

日蓮聖人は小松原法難の翌年、実はここ隠井を訪れていた事が石碑に刻まれていました。



更に、「是ニ浴シ」って、お祖師様が常陸の湯に浸かったってことですよね!
わぁ~、カルチャーショック!
日蓮聖人の布教は、房総だけでなく常陸にも及んでいたことになります。
やっぱり現地に来てみるもんですね~!



もともとこの場所は日蓮聖人の大壇越である太田乗明公の飛び地で、波木井實長公の三男・實氏公が領主をしていたようです。
まわりは敵ばかりの当時、安心してお湯に浸かることができる数少ない場所だったのかもしれませんね。



隠井の泉質は鉄分が多く(そのため赤っぽい)、炭酸が豊富であることがわかっています。一般的に含鉄泉や炭酸泉は、かけ湯をしたり飲泉することにより、胃腸病に効果があるといわれているようです。

日蓮聖人も周りの方々も、胃腸病への効果などがわかった上で、隠井での湯治を決めたと思われます。


弘安5(1282)年9月8日、日蓮聖人は身延の山を下りました。

気立てのいい栗鹿毛の馬に病身を預け、波木井公の息子達に護衛されながら、ゆっくりと常陸の湯を目指しました。

刀で切りつけられるほどの法難に遭いながらも、夢中で法華経を広めていた17年前、常陸での布教の疲れを癒やしてくれた隠井の地のことを、お祖師様は馬に揺られながら思い浮かべたことでしょう。



隠井のお湯をペットボトルに汲んで帰ってきました。
早速、我が家のお仏壇にお供えしました。

お祖師様、喜んでくれたかなぁ?

常在山藻原寺(茂原市茂原)

2020-04-01 08:51:36 | 旅行
建長5(1253)年4月28日、日蓮聖人は清澄山上の旭が森で立教開宗された後、念仏信者である地頭・東条景信の激怒をかい、清澄山を追われてしまいました。


清澄山を下り、鎌倉に向かわれる途中、笠森観音堂に参籠し、法華経布教の祈願をされました。


笠森観音は「大悲山笠森寺」という天台宗寺院ですが、現在でも「日蓮上人参籠ノ間」を保存・公開してくれています。
日蓮聖人がこのお堂に参籠中のある晩、二人の地元有力者の夢の中で、観音様からお告げがあったといいます。

「我に珍客あり、疾く迎えて供養せよ。」


この二人こそ、「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれている齋藤兼綱公と隅田時光公でした。
長い宗門の歴史上、最初の信者といわれています。


隅田時光公については、上総当時の肩書きがちょっとわかりませんでしたが、のちに武蔵新倉の領主となっていることから、名の知られた方だったと思われます。
新倉の領主をされていた時に、佐渡配流に向かう日蓮聖人と再会し、現在の戸田妙顕寺(↑画像)や新倉妙典寺の礎を築きました。


一方、齋藤兼綱公は茂原(昔は藻原と表記した)の豪族であり、藻原城の城主でもあった方です。
齋藤兼綱公は隅田時光公とともに観音堂に駆けつけ、日蓮聖人と初めて対面しました。
そして藻原にある自邸に日蓮聖人をお招きしたそうです。


齋藤兼綱公の屋敷跡にあるお寺が、藻原寺です。
黒がベースの総門が迎えてくれます。
宗紋にも使われている井桁を連想させますね。


境内は想像以上に広そうで、山門まで結構な距離があります。


左右には墓所が整備されています。


向こうに見えるのは茂原市役所ですね。


お寺の裏手には公園もあり、市民の憩いの場所になっています。


宝塔を模した特徴的な山門です。
よく見る和風の山門建築とは異なり、斬新ですね~!


昭和8年竣工とありました。
全国の宗門寺院を巡っていると、昭和ひと桁に建立された建造物や銅像が意外と多い事に気付きます。
明治の廃仏毀釈で徹底的にやられた宗門が、壇信徒の意識の高まりで徐々に再興してきた時代なのかもしれません。


山号は藻原山です。
この界隈には湿地が多いため、その昔は「藻原」と表記されていたそうですよ。


阿行と

吽形。
藻原寺の仁王様の表情は、めっちゃ歌舞伎チックです!


正面に祖師堂(大堂)が見えてきました。
梁や柱が朱色に塗られており、山門の雰囲気にマッチしています。
節分の直後に訪問したため、豆まき台が残るレアな風景です。


唐破風がとても立派!


特に彫刻は、あの有名な、波の伊八(二代目)の手によるものだそうです。
宗門寺院では鏡忍寺、誕生寺、それから堀之内の妙法寺でも、伊八の彫刻を見ることができますよ。


こちらは仏殿(本堂)です。
祖師堂と比べて色彩が少なく、素朴な外観です。

そういえば身延山久遠寺も、極彩色の祖師堂に対し、素朴な仏殿だったような・・・。


歴代お上人の御廟を参拝。
これまで法灯を継いで下さった先師たちに感謝です。


近くに開基堂があります。
笠森観音堂に籠られていた日蓮聖人を、藻原の自邸にお招きした齋藤兼綱公をお祀りしています。


日蓮聖人はこの地で、法華経の修行をお説きになったそうです。
これは清澄山での立教開宗後、初めてのことであり、齋藤兼綱公はじめ一族(隅田時光公も兼綱公の一族らしい)は皆、日蓮聖人の教えに帰依したといいます。
そして共にお題目を唱えたことから、この地は「お題目初唱之霊場」と呼ばれています。


縁起によると、兼綱公が建治2(1276)年7月に邸内に建立した法華堂が、藻原寺のルーツのようです。

建治2(1276)年というと、兼綱公がお題目を唱え始めてから23年後。
その間、日蓮聖人は幾多の迫害に遭ってきました。お弟子さんや信者さんもしかり、特に龍ノ口法難後、幕府の弾圧により、多数の弟子信者が退転してしまったとも聞きます。
そんな中、齋藤兼綱公は信仰を貫き通し、日蓮聖人の活動を支援し続けたのです。


兼綱公は同年11月、当地に法華の信仰拠点となる「常楽山妙光寺」を開くことにしました。
身延在山中の日蓮聖人を開山と仰ぎ、


藻原には日蓮聖人の命で日向上人が遣わされました。
なので日向上人が第二祖となっています。


第三祖の日秀上人は後醍醐天皇に拝謁する機会に恵まれた方として知られています。
後醍醐天皇から「常在霊山」の勅許を賜り、山号を「常在山」としました。


後醍醐天皇から続く皇族の中から、藻原寺の歴代貫首様に就任されている方もいるようですね。


江戸時代、徳川家康公より戴いた朱印状に「藻原寺」と書かれていたそうです。
以来、このお寺は「常在山藻原寺」と称するようになりました。
もう一つ、↑の看板には「東身延」と記されています。


(↑画像は身延山久遠寺)
弘安5(1282)年に日蓮聖人がご入滅されたあと、日向上人は身延山第二祖となりました。
つまり、日向上人は身延と藻原両寺の第二祖を兼務されたわけです。
それ以来、両寺は一人の貫首様によって運営されたため、常在山藻原寺は「東身延」と呼ばれるようになりました。
両寺の祖師堂、仏殿の雰囲気が似ていると感じたのも、そのせいかもしれません。


「両山兼務」で思い出すのが、比企ケ谷妙本寺と池上本門寺です。
↑は妙本寺の歴代墓誌ですが、昭和初期まで両山一首制をとっていました。

ただでさえ責任の重い大寺院の貫首様、その兼務はどれほど大変だったことでしょう。
先師達の威徳に感謝せずにいられません。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
お祖師様がこの地を訪れたのは立教開宗直後、31才の頃だからでしょうか、若くて溌剌とした印象ですね~!


藻原寺の境内に、ひときわ華やかなお堂があります。


藻原寺を守護する「華経房日徳尊儀」という守護神をお祀りしています。
地元では「華経房さま」として信仰されているそうです。


団扇の紋からもわかりますが、華経房さまは天狗などと同様、変化(へんげ)の人であったようです。
身延山周辺では妙法さまとしてお祀りされている善神が、こちらでは華経房さまとしてお祀りされています。
人、物、事柄など様々に姿を変えて日蓮聖人をお護りし続けた、ありがたい神様です。
感謝の気持ちでお参りしました。


大堂の裏手、こんもりとした丘の上に、石碑があります。
日蓮聖人が身延山から常陸の湯に向かった最後の旅でお乗りになった馬をお祀りした「御乗馬塚」です。


池上にお着きになった日蓮聖人は波木井實長公に宛て、旅の報告と、實長公への感謝の手紙をしたためています。
「波木井殿御報」です。
手紙には、馬の今後を案ずるお祖師様の気持ちも書かれています。(↑画像は波木井山円実寺の境内にある石碑)

「又くりかげの御馬はあまりをもろしくをぼへ候程に いつまでもうしなふまじく候 常陸の湯へひかせ候はんと思候がもし人にもぞとられ候はん 又そのほかいたはしくをぼへば 湯よりかへり候はんほど 上総のもばら殿もとにあづけをきたてまつるべく候に しらぬとねりをつけて候てはをぼつかなくをぼへ候 まかりかへり候はんまで 此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候 そのやうを御ぞんぢのために申し候 恐々謹言 日蓮
進上 波木井殿 御侍 
所らうのあひだ はんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」

余命いくばくもないボロボロのお身体でありながら、馬の事まで気にかけるお祖師様の優しさにグッとくる一文です。
そしてここに出てくる「上総のもばら殿」こそ、齋藤兼綱公のことだったのです。


藻原寺に御乗馬塚があるということは、実際に齋藤兼綱公が「くりかげの御馬」を引き取ったということでしょう。

立教開宗の直後に帰依し、信者として初めてお題目を唱えた「上総のもばら殿」。
良い時代も悪い時代も、一貫して日蓮聖人を支援し続けました。
ご入滅間近の日蓮聖人が、彼なら安心して任せられると思ったのは、必然でしょう。


しんみりしながら藻原寺をあとにしようとすると・・・
ど~~~ん!!
肩から上の巨大な祖師像です。
予定では像高20mの全体像になるようですが、現在台座部分の資金を集めている途中だということです。

ビックリした~!