日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

御松山実相寺(佐渡市市野沢)

2018-08-31 23:16:57 | 旅行
1272年4月7日、日蓮聖人の身柄は塚原から一ノ谷に移されました。

常時御草庵に拘留されていたわけではなく、近所へ足を伸ばしておられた跡が見られます。
この点は、塚原三昧堂の頃と大きく違うと思われます。



御草庵跡のある妙照寺からほど近い場所に、日蓮聖人が朝日に向かって拝んだ丘のご霊跡があります。
実相寺です。



境内は奥に深く、参道の途中には先人の思いが詰まった古い法塔などがあります。



仁王門が見えて来ました。
妙照寺本堂もそうでしたが、佐渡には茅葺きの堂宇がごく自然にあります。



扁額には山号の「御松山」。
松にまつわる逸話がありそうですね~。



あ!ここにもウサギの彫刻!



仁王門をくぐると、一気に鎌倉時代にタイムスリップするような感覚です。



佐渡のお寺は、小川にかかる橋を渡って向こう側に行く造りが目立ちます。意味がありそうですね。
身延の御廟や池上本門寺の「霊山橋」に似ていますね。



8月も中旬を過ぎたのに、まだ紫陽花が咲いています。



山門が見えてきました。
山門横にある大木は、三光の杉といわれ、佐渡市指定の天然記念物だそうです。

新潟県のホームページに興味深いことが書いてありました。「三光の杉」の名前は、この杉にサンコウチョウ(三光鳥)がしばしば訪れていたことに由来するそうです。「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」という鳴き声で鳴くことから、「月・日・星」のサンコウチョウ(三光鳥)と名付けられたといいます。
まさに三光天子を篤く信仰する日蓮聖人につながりますね~!



山門をくぐると正面に重厚な本堂があります。



その隣には、これまた茅葺き屋根の祖師堂です。



境内には松が多いのがわかると思います。
お檀家さんと思われるご夫婦が、境内の草刈りや剪定をしていましたよ。ご苦労様です。



その中に玉垣に囲まれた松がありました。日蓮聖人袈裟懸けの松です。
その太さからいって、もう何代目かなのでしょう。杉や公孫樹は時々鎌倉時代からの現役を見かけますが、松は寿命が短いんですね。



江戸初期の絵師・狩野探幽の絵が、石碑になっていました。
この場所であった逸話を描いているようです。


お寺の縁起によると、「三光の杉と袈裟懸けの松の間に停ち、梵天・帝釈・日月・四天に帰倉(鎌倉へ帰ること)を念誦されるや、白頭のカラス飛来す」とありました。絵の中にカラスは見当たりませんが・・・念誦中のお祖師様を描いているのですね!



祖師堂の隣に妙見堂があります。三光天子と関係の深いご霊跡なんですね。
ちなみに佐渡の北側を走る大佐渡山地には妙見山という名の山があり、頂上の祠はこの妙見堂の奥ノ院になるそうです。

いろんなことがことごとくリンクするんですね。深い・・・。



歴代お上人の御廟に参拝。
大切なご霊跡を維持してきて下さったことに感謝です。



歴代御廟の隣の、高い台座の上に日蓮聖人のご尊像が建っていました。
「望郷思親の祖師像」です。



この場所は小高い丘になっており、日蓮聖人の故郷にどことなく似ているそうです。
日蓮聖人は一ノ谷の御草庵から、時々この丘にやって来て、東から昇る旭日を拝み、遠い故郷や亡きご両親を偲ばれたといいます。



知れば知るほど奥が深いですね~!当時の佐渡の方々が驚き、畏敬し、どんどん帰依者が増えていったのも理解できます。


白頭のカラスが飛んできたってことは、日朗上人がご赦免状を持って佐渡にやって来る日も近いのかな?

・・・いやいや、そこがまた、なかなか一筋縄ではいかなかったそうなんですよ・・・







御井戸庵(佐渡市中興)

2018-08-31 18:51:03 | 旅行

宿泊していたホテルのほど近くに、「中興」という信号がありました。
中興といえばご遺文にもある「中興入道」を連想しますよね!

「丈六の卒塔婆を立て・・・」という「中興入道御消息」は、毎日のお勤めの際に読む、馴染みのあるご遺文です。

ちなみに「入道」という敬称ですが、必ずしもイコール僧侶ではないようで、在家信者でも「入道」のケースはあるようです。
ただ位の高い方に「入道」の敬称が用いられる事が多いようです。中興入道も地元の有力者だったのでしょう。



中興交差点にも能楽堂がありますね~。本当に佐渡は能が盛んです。



能楽堂の向かいにひっそりと「御井戸庵」というご霊跡があります。



小さいけどお堂が建っていますね。



法華堂です。
「中興」という地名からもわかるように、この付近に中興入道一族の屋敷があったと思われます。
江戸時代に、道照日宣法師が開基となって庵を結んだようです。



お堂の裏側に、中興入道の御廟がありました。



時代を経て摩耗した、小ぶりの宝塔が中興入道ご夫妻の墓石だと思われます。



中興入道のお父様は次郎入道信重といい、塚原問答の際に日蓮聖人の法話を聞いて感銘を受け帰依した、佐渡では阿仏房と並んで古参の信者です。
子の中興入道も強い信仰を継ぎ、はるか遠い身延山まで日蓮聖人を訪ねて行き、ご供養を尽くしたそうです。
そのせいでしょうか、先述の中興入道御消息だけでなく、奥様宛てのお手紙などもあるそうで、日蓮聖人とご縁がとても深かったと想像できます。



「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも中興入道のお姿が見られます。



中興入道とそのお父様、そして中興入道の奥様に感謝しながら、合掌しました。



ところで、このご霊跡は「御井戸庵」でしたよね。
井戸にまつわる逸話でもあるのでしょうか?


実際、お堂に護られた井戸があります。
現役の井戸だそうです。



一ノ谷の妙照寺が奉納した法塔がありますね。
お寺の縁起によると、井戸は日蓮聖人の霊験により掘られたもので、井戸水(奥之清水)は眼病によく効いたといいます。



また、この奥之清水を汲んで草庵に持ち帰り、墨を擦り、観心本尊抄を著したのだそうです。
その後の教学信仰の根幹をなす渾身の著作を、敢えて一ノ谷から直線距離で2~3kmは離れている中興の井戸水・奥之清水で書いた、というわけですから、この井戸、そして水が持つ霊力の強さが窺えます。



大荒行を5回も成満された佐渡内他寺のお上人とお話しした際、大荒行中、お曼荼羅を書く修行の時には、中興の奥之清水をわざわざ取り寄せ、墨に足したもので書く、という逸話を教えて下さいました。
すごくないですか!?



御井戸庵を訪問したのは朝の6時過ぎ、まだご近所にも人の姿がなく、とても静かに参拝することができました。



よく清められているご霊跡で、いかに佐渡の宗門の方々が大切にしているかが窺えました。



「中興史の会」があるんですね!
いろんなこと聞いてみたいのはヤマヤマです。活動、頑張って下さい~!



妙法華山妙照寺(佐渡市市野沢)

2018-08-28 23:45:16 | 旅行

1272年1月、日蓮聖人は塚原三昧堂で数百人相手に法論対決をし、圧倒しました。
問答が終わり、帰ろうとしている本間重連公を呼び止め、自界叛逆難(幕府の内乱)が近づいていることを示唆しました。



本間重連公は当初信用していませんでしたが、塚原問答の翌月、実際に北条氏一門内で内乱が起きたのです。
あまりに正確な予言の的中を目の当たりにし、本間重連公は日蓮聖人の法力を認めざるを得なかったようです。



塚原問答の3ヶ月後、日蓮聖人の身柄は、塚原から5kmほど西にある一ノ谷(いちのさわ)に移されました。

南に向いた谷戸にはのどかな田園風景が広がっています。



住所表示では「市野沢(いちのさわ)」という表記ですが、お寺の方によると、いろんな事がここから始まる・・・的な意味を込めて、日蓮聖人が数字の「一」を充てたという説があるそうです。



佐渡観世流師範である遠藤家のお墓がありました。
世阿弥が配流された影響で、佐渡では能が非常に盛んです。能舞台もいたる所で目にしました。



一ノ谷妙照寺の寺域に入ったようです。

仁王門です。
昔は朱塗りが美しかったんだろうな、と思います。



仁王門の横には鐘楼


そして仏舎利塔があります。



仁王門をくぐり、参道の木立の中を歩いてゆきます。



広~い寺域を持つお寺ですね!



やっと本堂らしき建物が見えてきたぞ~



山門です。
妙照寺は霊跡本山なんですね。


日蓮宗ポータルサイトによると、霊跡本山は現在、14ケ寺あります。うち2ケ寺(妙照寺、根本寺)が佐渡のお寺です。


山門にはウサギの彫刻がありました。
他寺でもウサギの彫刻を見ましたが、何か由来があるのかな?



本堂です。
とても大きなお堂でありながら茅葺き屋根なんですね!


妙照寺は北側が丘になっており、本堂の屋根をじっくり拝めます。
大量の茅が、キレイに切り揃えられていますね~。



丘から見る境内は風景画のようです。
とても穏やかな気持ちになります。



丘の中腹に、祖師堂があります。
ここに日蓮聖人の御草庵があったといわれています。


お供物の彫刻でしょうか、珍しい大根?かぶ?の彫刻です。


こんなのもありましたよ!何なのかな~



祖師堂の近くに、御井戸があります。


柄杓もあるので、現役の井戸なのでしょう。
日蓮聖人は佐渡で50篇のご遺文を書かれていますが、うち42篇がここ一ノ谷で著されたものだそうです。


お祖師様の代表的著作「観心本尊抄」もその一つです。
「今本時の娑婆世界は・・・」から始まる一節は、お勤めの際によく読むので、とても馴染みがあります。


日蓮聖人は、観心本尊抄の中で「三大秘法」という信仰の根幹をなす部分を著しました。
お題目、ご本尊、戒壇がそれにあたります。

正直僕にはめっちゃ難しい内容なんですが、観心本尊抄がその後の宗門の基礎、座標軸でいうと原点になったことは間違いないようです。
「一ノ谷」の地名の意味が、ここにあるような気がします。



本堂の前に立派な宝塔がありました。
一ノ谷は、お祖師様が大曼荼羅本尊を初めて書かれた場所でもあり、それを讃え、感謝する宝塔だと思います。



本堂内に掲げられている一代記の絵の中に、日蓮聖人がお曼荼羅を書かれている場面がありました。
どのお寺に行っても、小さなお堂にも、また僕の家の仏壇にも、必ずお曼荼羅はお祀りされています。ここから始まったんですね・・・。

それにしても↑の絵では、お祖師様の周囲に法衣を着たお坊さんが沢山座ってますよね!
塚原時代を描いた絵にはなかった光景です。お弟子さんが訪ねて来ることができる状況だったのでしょう。



また一ノ谷の周辺には、日蓮聖人の逸話が残る場所がいくつかあるようです。
軟禁、よりももう少し緩い身柄であったことが想像できます。



歴代お上人の御廟に参拝。



塚原問答を機に帰依を誓った人、塚原問答では半信半疑だったが一ノ谷に訪ねてそこで帰依を誓った人などなど・・・お弟子さん・信徒は徐々に増えていったようです。二祖の日静上人も、元は学乗房という真言僧でした。
日蓮聖人がご赦免・離島後に、日蓮聖人を開山とし、御草庵をお寺にしたのが妙照寺のルーツです。



一ノ谷での生活は、1274年3月に鎌倉から赦免状が届き、終えることとなりました。


約2年間の濃厚な時間で、お祖師様は完全に、その教えを確立し、公表されたのだと思われます。















蓮華王山妙宣寺(佐渡市阿仏房)

2018-08-28 15:08:39 | 旅行
(↑画像は根本寺・三昧堂の額)
塚原の三昧堂に密かに食事を運び、日蓮聖人の命を支えた阿仏房夫妻。
阿仏房夫妻の旧宅は現在の佐渡市役所のほど近く、金井新保という場所にあったと言われています。

阿仏房の死後、息子盛綱が旧宅をお寺に改め、「阿仏房」としたようです。日蓮聖人が身延山に入山して4年後のことです。


この「阿仏房」をルーツにした、阿仏房ゆかりのお寺があります。
妙宣寺です。


駐車場には車が何台も停められており、訪問する信徒や観光客が多いお寺だということがわかります。


昔は門前にお土産屋さんもあったのかな?


大きな法塔がありますね~。


「北陸道七ケ國 法華之大棟梁」とあります。
妙宣寺を創建した日満上人が、師匠である日興上人から頂いた称号のようです。広大な北陸エリアのトップだったんですね!


おぉ~っ!何てクラシックな!!
仁王門です。妙宣寺で最も古い建物らしく、既に350年近くが経過しているそうです。


見事な茅葺きです。メンテナンスが大変なんですよね!ご苦労様です。


参道は緑で日光が遮られ、暑さがいくぶん和らぎます。


妙宣寺には佐渡唯一の五重塔があります。
開山の阿仏房、法号:日得上人をお祀りする五重塔なのだそうです。


お檀家さんでしょうか、五重塔のメンテナンスをしていましたよ。


阿仏房の旧宅にあったお寺「阿仏房」は、二度ほど場所を移転して現在の地に落ち着きました。
ここは地頭本間氏の居城であった雑太(さわた)城があったところで、空堀が残っています。


これも雑太城の石垣の一部と思われます。


山門です。
柱の部分が吹き抜けになっており、境内を見通せます。


扁額には「阿仏房」。
ちなみにこの界隈の現在の住所表示も阿仏房となっており、土地の人に浸透した名前だということがわかります。


日野資朝(すけとも)公の墓があります。
日蓮聖人の時代よりも少し後、後醍醐天皇の時代に、後醍醐天皇と倒幕を企てた罪で佐渡に流され、のちに不当にも処刑された公家の方です。
佐渡は順徳天皇をはじめ公家や上級武士、僧侶、神職、文化人など、幕府に都合の悪い人や時代が早すぎた人が流される島であったことがわかります。


本堂です。
一本一本の柱の太いこと!その堅牢さにご住職やお檀家さんの心意気が窺えます。


祖師堂です。
お祖師様自ら開眼の祖師像がお祀りされ、脇には阿仏房日得上人、千日尼のお像が配されているそうです。
祖師像に日蓮聖人の魂が宿っているとするならば、何て幸せな場所なんだろうとお祖師様も思われているはずです。
僕も何かに包まれるような感覚で、お経を唱えさせて頂きました。


阿仏房が初めて日蓮聖人に出会った(恐らく法論をした)時が83才、日蓮聖人がご赦免後、身延に入山された時が86才の計算になります。
それから三回も(86才、87才、90才の時)身延のお山に日蓮聖人を訪ねて行った、当時の道を歩いて行ったわけです。
想像をはるかに超える信仰の深さに、畏敬の念を感じざるを得ません。


91才で阿仏房日得上人が遷化されたあと、息子盛綱は父のお骨を首に掛け、身延山に納骨に行ったといいます。

日蓮聖人の御廟のすぐ脇、最も近い一画に、阿仏房日得上人の御廟があります。
日蓮聖人を敵視する者だらけの塚原で、味方は誰もいない中、初めて帰依を誓い、命を賭して給仕してくれた老夫婦・・・。
御廟の位置は日蓮聖人の思いそのものでしょう。(↑画像は身延山御廟所)

日蓮聖人が身延に入られてすぐに、順徳天皇に縁のある甲州のお寺を教化したのも、阿仏房夫妻への恩返しなのかもしれません。
(↑画像は甲斐・常説寺)


夕空にそびえる五重塔。

阿仏房夫妻を思いながら、合掌しました。


塚原山根本寺(佐渡市新穂大野)

2018-08-26 23:09:58 | 旅行
塚原のご霊跡を訪問してきました!


日蓮聖人のご一代記やご遺文を見聞きした上での塚原のイメージとしては、とにかく極寒、激しい吹雪が叩きつける悲しい場所、という感じでしょうか。
(葉山・本圓寺の日蓮聖人像の台座)
そうそう、こんな感じです。


ただ今回は、8月中旬、猛暑日の昼間に訪問してしまったので、汗ダクダクの訪問となりました(笑)


お寺の入口から少し歩いた田んぼとの境あたりに、境内を示す石がありました。
このあたりから寺域だと思われます。


根本寺の正面です。
入口だけ見ると、本山特有のドーンという感じがなく、質素な印象です。


ご霊跡に「謫居」という文字を見たのは、伊東の佛現寺以来かな?
それはそうですよね、どちらも流刑法難の地ですもんね。


管理維持費として300円を納めて門をくぐります。
扁額には「開目道場」。
開目抄を著された場所でもありますね。


戒壇塚です。
三昧堂の跡だとも言われています。(諸説あるようです)
当時は死体を葬る墓地の一画であったそうです。
日蓮聖人への扱いの低さが窺えます。


戒壇塚の隣に、江戸時代に造られた三昧堂があります。
立派な造りですね~!


大正10年に信徒さんが奉納した絵が掲げられていました。
往時の三昧堂は・・・さ、寒そう・・・。
日蓮聖人に課せられたのは、知り合いも誰もいない離島で、冬場にこんなスカスカの小屋に放置されるという刑だったのですね・・・。
食事も乏しかったそうですから、普通なら餓死、凍死でしょう。

どうやってこの状況から復活されたのでしょうか?


境内は奥に深く、見どころたくさんです。


仁王門です。


阿行と


吽形が睨みを利かせています。


周囲は国仲平野の田園地帯。


根本寺の境内だけは深い森になっています。あ~涼しい~!


わー、圧倒的な迫力!二天門です。


山号は「塚原山」です。
四方に持国天、毘沙門天、弁財天、大黒天が安置されています。


正面の丘の上に祖師堂があります。
雪の中で読経を続けるお祖師様の姿を思い浮かべながら、参拝しました。


祖師堂のある丘は、人工的に造られた「布金壇」だそうです。
江戸初期に、佐渡の金銀山で労働者を率いる山師・味方但馬氏が資金を出して造り上げた丘です。
味方氏は、根本寺の多くの堂宇についても、建築資金を拠出した大壇越です。


ゴールドラッシュに沸く佐渡の山師がどれほどの財産を築いたのか、とても想像できません。
一方で財産に執着せず、ご霊跡の中興のために施したその姿勢に、素直に尊敬してしまいます。


本堂です。
両側の松とのマッチングが絶妙です!


本堂内で貫主様が自ら筆を執って、ご首題を書いてくれました。
貫首様によると、佐渡は昔も今も、念仏が盛んな島なのだそうです。
日蓮宗の寺院が多いんだろうと勝手に思っていましたが、寺院数でいえば日蓮宗は5番目ということです!


そんな島にいきなり、お題目を唱え、念仏無間、禅天魔・・・とやるお坊さんが流されてきたわけですから、塚原界隈は相当ザワついたはずです。
阿仏房はこんな状況の中で最初に帰依した信者でした。


阿仏房は、承久3(1221)年に起きた承久の乱のせいで佐渡に配流された順徳天皇に帯同してきた武士だったようです。
日蓮聖人のご誕生が承久4(1222)年ですから、日蓮聖人よりもずっと年長の方だったと思われます。
計算してみよう・・・う~ん、阿仏房は日蓮聖人よりも34才も年上だ!
で、日蓮聖人が佐渡に流されたのが49才の時だから・・・え~!83才での帰依!!びっくり~


阿仏房とその妻・千日尼は、寒さと空腹に耐える四面楚歌の日蓮聖人のもとに、密かに食事を運び続けたそうです。
昼間だと人目があるから夜間、それも死体を運んでるように見せかけたといいます。
お祖師様はどれほど、どれほど嬉しかったことでしょう。
伊豆法難のときの船守弥三郎夫妻といい、お祖師様のいちばんキツい時に、命の危険も顧みず給仕してくれる人が現れるんですね・・・。
僕は生涯、彼らへの感謝を忘れずに暮らしてゆきたいと思います。


日蓮聖人が塚原三昧堂に入られた翌年1月、有名な塚原問答が行われました。
一対数百人の、外から見れば一瞬で袋叩きに遭いそうな状況だったようです。


ちょっと脱線しますが、真野というところに「佐渡歴史伝説館」という観光施設があります。
順徳天皇や世阿弥といった、佐渡に配流された偉人の逸話を、ロボットでリアルに紹介するのですが、そこに日蓮聖人のロボットも鎮座していました。
動く日蓮聖人、初めて見ました(笑)。
塚原問答の鬼気迫る状況が表現されていました。
圧倒的多数の他宗僧侶から浴びせられる罵詈雑言でガヤガヤしていますが、矢継ぎ早に飛んでくる問いに、日蓮聖人がそれぞれ即答し、バッサバッサと斬ってゆくさまが目の前で展開され、正直スゲ~!って思いました。


のちに日蓮聖人は「鎌倉の真言師、禅宗、念仏者、天台の者よりも、はかなき者どもなれば、ただ思ひやらせ給へ」とご遺文に書かれています。
法論を繰り返してきた百戦錬磨の日蓮聖人にしてみれば、口ほどにもない法敵だったのでしょう。

塚原問答を境に、少しずつ帰依する人が増えてきたということです。逆境をチャンスに変えたのですね!


それでも日蓮聖人を恨む者はいたようで、暗殺を目論んだ跡がありました。
根本寺にある犬塚です。
日蓮聖人に供養された食事の中に毒が盛られた事を察し、日蓮聖人はこれを犬に与えると、犬は即死してしまったそうです。犬の霊を供養するため、阿仏房が築いた塚と伝えられています。


ここ塚原は、日蓮聖人が代表的な著作「開目抄」を執筆された地としても知られています。


「儒家の孝養は・・・」から始まる一節は、朝のお勤めで読んでおり、馴染みがあります。日蓮聖人の仏教観がよく著されているご遺文だそうです。
開目抄は、四條金吾公を仲介にして一門に送られたようです。


歴代お上人の御廟に参拝。
開山が日蓮聖人、二祖が日朗上人であり、現在のご住職で53世だそうです。
根本寺は、歴史的に京都妙覚寺とご縁の深いお寺です。
京都妙覚寺は時代の変遷の中で、宗祖の教えを頑なに守り抜こうとしたお寺、「塚原」という地への思い入れは強かったはずです。
天文21(1552)年、妙覚寺から来島した大泉坊日成上人が、荒廃した塚原の野に留まったのが、お寺としての根本寺の始まりだと思われます。
慶長17(1612)年に妙覚寺から来た栴檀院日衍(にちえん)上人が法灯を継承、山師・味方但馬氏の強力な外護を得て妙覚寺から独立しました。
当時は社会を揺るがす不受不施論争があり、お寺としての方向性をどう定めるのか、難しい時代でもあったと思います。
いずれにせよ、今日までお寺を護ってくれた先師達に、心から感謝致します。



根本寺には鐘楼もありますが、珍しい「太鼓堂」もあります!
メチャクチャ立派じゃないですか?


中にはでっかい太鼓!佐渡で一番だそうです。
高らかに打ち鳴らす音、聞いてみたいな~!


塚原のお寺、寂しい所なんじゃないか?という先入観は、見事に裏切られました!
日蓮聖人にとって、宗門にとって転機となったとても大切なご霊跡なんですね。


日蓮聖人は5ヶ月間の塚原での生活ののち、一谷(いちのさわ)に移りました。


御梅堂(佐渡市小倉)

2018-08-26 21:37:38 | 旅行
小倉峠を越えてきた日蓮聖人は、小倉川に沿って歩いてきたのでしょうか。
中佐為(なかさい)という土地あたりで休憩したと伝えられています。


日蓮聖人が山越えされた道は、のちに世阿弥も歩いたと思われます。
時代が違うから、細かいルートは違うかもしれませんが、大まかには同じでしょう。


中佐為は谷戸になっており、のどかな田園風景です。


石碑がたくさん並んでいました。念仏の石塔とともに、お題目の法塔もありました。
佐渡ではこのように念仏とお題目が隣同士、という光景をよく目にしました。
庶民の、ご宗旨による垣根の低さが想像できます。


お題目の法塔をよく見てみると・・・


餓死された方の霊を供養する法塔だということがわかりました。
念仏の供養塔にも「餓死」の文字が刻まれていました。江戸時代に佐渡でも飢饉があったそうで、その際の餓死者の霊を弔う石碑がここに並んでいるようです。


石碑群からほど近い場所に、小倉の集落があります。


小学校もあるようです。


御梅堂はその小学校の隣にあります。


宗祖藤梅之霊場、御梅堂です。



お祖師様が山越え中、お休みになっていると、白髪の老人が現れたそうです。


老人は海を渡ってきた日蓮聖人に、御神酒と藤豆をすすめたといいます。


不思議に思われた日蓮聖人は、老人に「あなたは如何なる人ぞ」とお聞きになりました。


すると老人は姿を消し、空から「我は物部大明神なり」という声がしたそうです。


里に下りてきて集落の人に話を聞くと、そこの方は物部大明神の社人だということがわかりました。
お祖師様は何か吉兆を感じたのかも知れません、物部神社に棟札を納めたそうです。


御梅堂から200mほどのところに、物部神社があります。


物部神社は奈良時代創建の古いお社です。こちらに日蓮聖人が納めた「住吉大明神」という木札が実際にあるそうです!
以来、土地の人は物部神社を「住吉さん」と呼んでいるようです。


日蓮聖人は集落の方に話を聞いた場所で、依知から杖として携えてきた星下りの梅の枝を地面に差しました。
のちに杖が根付き、梅の木になったそうです。


星下りの逸話が残っている依知の3ケ寺にも行ったことがありますが、ここまで幹が太く枝ぶりも見事な梅の木はありませんでした。


もしかしたら、佐渡の気候が合い、現役で生きている梅の木なのかもしれません!
まさか佐渡の地で、星下りの梅に出会えるとは思いませんでした。(もしかしたら何代目かもしれませんが)


御梅堂は梅のご霊跡であると同時に「藤」のご霊跡でもあります。


日蓮聖人はこの場所で、さきほど白髪の老人に頂いた藤豆を播きました。
我が妙法が広まるならば、この場所に藤の花が咲くだろうと祈念しながら・・・。


藤豆は芽を出し、のちに木になりました。
現在では隣にある欅に寄り添うように成長し、大木になっています。


現在でこそ、看板などで「御梅堂」と表記されていますが、古くは「藤梅霊場」と呼ばれていたようです。


江戸時代になり、阿波からやってきた巡礼者夫婦、常光さん・妙光さんが発願し、御梅堂が建立されたといいます。


正直、御梅堂のお堂は老朽化が激しい印象があります。


もちろん、御梅堂はお寺ではないのでお檀家さんもなく、近隣の信者さん達で維持されているそうです。
しかしその信者さんも高齢化の波で、現在は数人ほどに減ってしまったといいます。
本当に憂うべき問題ですね・・・。


それでも御梅堂を維持・管理して下さっている信者さん達の信仰心に、心から敬服します。


ちなみに御梅堂のお堂の中に、ご朱印があります!
お祖師様が11月1日に御休息された「藤梅之霊場」という印です。


ぜひ佐渡を訪問することがあったら、御梅堂を訪問してみて下さいね!


宝塔さま(佐渡市浜河内)

2018-08-26 15:24:47 | 旅行
種種御振舞御書には
「十月十日に依知を立って、同き十月二十八日に佐渡の国に着きぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの塚原と申す山野の中に・・・」
とあります。11月1日から刑に服せよ、という命令でもあったのでしょうか。

だとすると、荒れ狂う海峡を渡り上陸したわずか4日後には、山越えして塚原に出頭しなければならなかったことになります。


佐渡は中央に国仲平野がありますが、見渡す限り、というような広大な面積ではありません。


そのため山間部には、苦労して作ったと思われる「棚田」がたくさんあります。


日蓮聖人はこの急峻な小倉峠を越えて、塚原の地へ赴いたと思われます。


小倉峠の山中に、古くから地元で「宝塔さま」と呼ばれてきた石塔があるという情報を事前に得ていましたが、土地を知らない僕には見つけられないんだろうな~・・・と半ば諦めていました。

で、ダメもとで本行寺のお上人に「宝塔さま」の場所を聞いてみたところ、「旅行の方が見つけられるような所じゃありませんよ!僕が案内しましょう!」と申し出て下さいました。
な、何ていいお上人!!!


お上人の軽トラに先導して頂き、近くまで行くことになりました。
小佐渡山地を越える小倉峠周辺の道路は、小さな工事、大きな工事などがあって、随所で交通規制があります。
昔も今も、峠越えは大変です。


県道181号線のトンネル手前で細道に入り、数分走ったところで、お上人が小さな石碑を示してくれました。


「日蓮聖人御旧蹟参道」
この石碑はお上人のお祖父様が建てたものらしく、いわゆる「宝塔さま」に至る山道の道標となっているようです。


山道は上へと続いていますが、真夏のこの時期は草が生い茂り、界隈にはマムシも多いそうで、お上人の軽トラで参道を廻りこむ道を行き、「宝塔さま」の前まで乗せていって頂きました。


もう道も何もわからないくらい、山道が草に覆われています。
佐渡にはツキノワグマもイノシシもいないようで、その点では安心です。


5分ほど走った頃でしょうか、何でこんな山奥に~!?と思われる開けた場所に、石塔が数基、建っていました。
古くから地元の方が「宝塔さま」と呼んでいた場所です。
左側の祠が馬頭観音、右側の背の高い石塔がお題目の法塔です。


日蓮聖人がどのルートで小倉峠を越えて行かれたのか、専門家の間でも意見が分かれているようです。
一説には、ここを歩いて峠越えをし、御梅堂のある小倉の集落に至ったとも言われているそうです。


この法塔の裏側を見ると、江戸末期の安政年間に建てられたものだということがわかります。
安政というと、ペリー来航から開国、国内では幕末の政情不安、それから自然災害も多かったといいます。当時の法華信徒が「末法」を感じていた可能性は否めません。


お祖師様が歩いたかもしれない山道に、多くの信徒の、いろんな思いを込めて建立した「宝塔さま」だと思います。
気持ちを込めて、合掌、唱題させて頂きました。


しかし、緑深い山奥の「宝塔さま」、自分では絶対に見つけられなかったと思います。
僕の思いに応えて下さった本行寺のエネルギッシュで心優しいお上人に、ただただ感謝です。ありがとうございました。

お上人方有志は、「宝塔さま」を信徒でも参拝できるよう、定期的に周囲の草刈りをして下さっているそうです。
どうりで「宝塔さま」の一画は、清められていると感じたわけです。
本当に頭が下がります。


「宝塔さま」に限らず、知る人ぞ知る、あるいは地元の方に護られているご霊跡を、ブログで紹介することに、正直、多少の躊躇はあります。
しかし(これは佐渡だけでなく日本全体の問題ですが)迫り来る高齢化、人口減少、信仰離れ・・・を考えると、今は少しでも多くの方に見て頂いて、心ある方に実際に参拝して頂くことが、結果的に永くご霊跡を守ることにつながるのではないかと思い、紹介させて頂きました。


松﨑山本行寺(佐渡市松ヶ崎)

2018-08-24 22:53:24 | 旅行
古くから越後からの船の上陸地点であった松ヶ崎は、佐渡国府の港として、また松前船の中継地として栄えた港町でした。


日蓮聖人が上陸後、最初の晩を過ごしたと言われる「おけやき」だけでなく、


ん!?「日蓮さんの腰懸石」もあるぞ。行ってみよう!


いい路地だな~


このあたりでは今でも苗字とは別の「屋号」が現役で使われており、墓石にも「○○家」の他に「○○エ門」「○○屋」みたいな屋号が刻まれてます。


各お宅には屋号の表札も掛かっているんですよ!
この八幡屋さんと鍛冶屋さんとの間に、腰懸石はあります。


この平たい石が、地元の方の間で昔から「日蓮さんの腰懸石」と伝承されてきた石です。
しかし看板も矢印もなく、足下に自然に、置かれています。
宗門関係の広報とか本にも載っていない石だけど住民の言い伝えがある・・・ご霊跡めぐりの醍醐味ですね~!グっときます!
同時に松ヶ崎の住民にとって、お祖師様がとても身近な存在であることが窺えます。


松ヶ崎の町なかに日蓮宗の古刹があります。


本行寺です。


わ~、立派な法塔!550遠忌だから、200年近くも前のものですね。


「大士著岸之𦾔跡」とあります。
「著」っていう漢字、「着」の意味があるのかなぁ?


山門です。
江戸時代、本行寺の再興に貢献した菊池家の門を移築したものだそうです。
華美な色彩を排除した山門だけに、ひときわ「防火水そう」の赤看板が目立ちます!


山号は地名から取ったのでしょう、「松﨑山」です。


本堂です。
屋根の高さといい瓦の色といい、松ヶ崎の街並みに溶け込む、落ち着いた造りです。


本堂の裏手には墓地がありますが、そのすぐ向こうに海が見えます。
まさに海辺の古刹、ですね!


歴代お上人の御廟に参拝。
大切なご霊跡「法華岩」や「おけやき」を含め、現在まで維持してくるのには、大変な苦労があったと思われます。感謝しかありません。


日蓮聖人が上陸された当時、この場所には真言宗の庵があったそうです。
庵主はいわゆる「塚原問答」の場に臨み、日蓮聖人に帰依、庵を法華に改めたそうです。
開山は日蓮聖人、二祖が庵主・仏善坊日量上人ということです。


本堂の左側には以前、松の大木「龍燈の松」があったそうです。
それはそれは大きな松で、海上からもひと目でわかるほどだったようです。



その松があった場所に、現在は日蓮聖人のご尊像が鎮座しています。「龍燈説法像」だそうです。

1271年10月28日、日蓮聖人を乗せた船が佐渡に近づいたのは、夜の帳が下りた頃だったのかもしれません。
ここにあった松の大木に、燈明を掲げる龍神様が現れ、そのお導きで着岸できたといいます。
今でもこの古松跡にはお祖師様の魂が棲み続けているということなのでしょう、22年前の立教開宗の日にご尊像が建立されたそうです。


日蓮聖人は着岸3日後の11月1日に、いよいよ塚原に入らねばならないことになっていたようです。
そのためには小佐渡山地を越えなければなりません。体力的にもキツかったんだろうな~。


このあと、日蓮聖人が山越えした道、山越えする際に残されたご霊跡を訪問してゆくのですが・・・

これに関して、本行寺のお上人がものすっごく協力して下さいました!


次回を待て!!


おけやき(佐渡市松ヶ崎)

2018-08-24 20:02:59 | 旅行

「法華岩」に着岸したその夜、役人は日蓮聖人を残して他所にいなくなってしまったそうです。



今でこそキレイな街並みがありますが、これは江戸時代に造られた町であって、750年も昔は・・・どうだったのでしょうか。



法華岩から100mも歩かない場所に、日蓮聖人が佐渡で最初の晩を過ごしたご霊跡があります。
「御逗留霊木」とありますね~。



「おけやき」というご霊跡です。



題目法塔の側面には「日蓮大菩薩 御槻所」と刻まれていました。
「槻」は「つき」って読むから、「お祖師様がお着きになった場所」なのかな?
でもネットで調べると、ケヤキ(欅)って別名ツキ(槻)と言うらしいです。そっちの意味でしょうね。



おぉ~!圧倒的な迫力!!



今から30年前の環境庁の調査で、この欅は幹廻り6.83m、樹齢300年以上とわかったそうです。
多分2代目の欅の木だろうということです。



それこそ日蓮聖人の顔も名前も誰も知らない離島、それも寒い晩秋の夜、この「おけやき」の空洞で過ごしたと伝えられています。



白髪の老人に姿を変えたこの地の氏神・春日明神に、日蓮聖人は「おけやき」に導かれたそうです。



「おけやき」の所有者のお婆さん(てことはこの付近に当時お住まいになってたんですね!)が、名も知らぬお坊さんのために三日三晩、お粥を作って差し上げたという逸話が残っています。

僕も今回佐渡に来て、人の温かさを実感しました。人なつこいというか、よく話しかけてくれるし、助けてくれるし・・・当時のお婆さんもごく自然にお粥を供養されたと想像できます。



日蓮聖人はそのお礼に、自らの血で(!)書かれた血曼荼羅を差し上げたそうです。



氏神様の不思議なお導きと、優しい松ヶ崎の人の助けで、日蓮聖人は命をつないだのですね!

一信徒として、深い感謝の気持ちで、美しい松ヶ崎の街並みを歩きました。

法華岩(佐渡市松ヶ崎)

2018-08-23 23:22:41 | 旅行
以前から行きたい、行きたい、行きたい~っ、と思っていた念願の佐渡を訪問してきました!!
お盆休みシーズンをズラしたので、上越新幹線は余裕で座れました。
今回乗ったMaxときの車両は、車体がでかく高速化に対応できないため、数年後に引退するようなことをニュースで言っていました。お疲れ様です!


新潟に到着。全っ然涼しくない~。


ちょっと奮発して水中翼船・ジェットフォイルで海を渡ります。
旅客機のボーイング社が造る船みたいです。


約1時間で佐渡の両津港に至ります。


上陸~!


2年5ヶ月もの間、不当な配流生活を送った佐渡ですから、大事なご霊跡が沢山あるようです。


僕がレンタカーで廻った多くのご霊跡を、日蓮聖人の時系列順に紹介していこうと思います。



島の南東岸を走る県道45号線から、少し山側に入る路地に折れると、松ヶ崎の街並み保存集落が連なっています。


黒い屋根に黒い壁に統一された木造の民家ばかりで、とてもまとまりがありますね。
江戸時代、蝦夷・松前~大坂間を航行した北前船の中継地として栄えた名残りを、街並みに感じます。


龍ノ口の奇瑞のあと、1271年10月10日に依知を出発した日蓮聖人は、角田浜から日本海を渡り、10月28日に佐渡に着岸されました。


着岸したのはここ松ヶ崎の、鴻の瀬(こうのせ)という浜だそうです。
佐渡と本土の最短距離は、新潟市角田~佐渡市松ヶ崎の31.5kmで、距離的には最も効率の良いルートを航海してきたのだと思われます。


お、ここが着岸の霊場かな?


小径を少し歩くと・・・


ありました!この岩ですね。


こんもりとした大きな岩です。海岸の地形なんて変わりますからね、もしかしたら昔は波が洗う岩だったのかもしれません。
古くから地元では、日蓮聖人がこの岩に着岸した、と言い伝えられているようで「法華岩」と呼ばれているようです。


当時の11月を目前にした佐渡海峡、冷たい風が吹いて、本当に寒かったんだろうな・・・。
現に日蓮聖人を乗せた船は、大風に荒れる海のため、相当苦労して渡ってきたようです。


法華岩の上にある五輪塔は、佐渡霊跡護持会の方、そしてこの至近にある本行寺の護持会の方が施主となって、3年前に建てられたそうです。
ご霊跡を維持して頂き、心から感謝します。


画像からもわかるように、法華岩の真上には道路の高架が走っています。
ちょっと残念な感じもしますが、雨や雪から岩を守ってくれる頑強な屋根、って前向きに考えましょう。


いよいよ佐渡に着き、不当にも罪人としての生活が始まります。
当時、佐渡流罪というのは政治犯や思想犯など、幕府に都合の悪い人に課せられたとても重い刑だったそうです。
生きて帰ることなど叶わないのが常識だったそうです。


どうやって2年5ヶ月をお過ごしになったのか、そしてなぜ罪が赦されたのか、個人的にとっても興味があります。

早く次のご霊跡へGO~!

桜清水霊場(身延町横根)

2018-08-16 12:49:49 | 旅行
桜清水の霊場を訪問してきました!


身延町の南端の「横根」という集落は、山の中腹にあります。
赤い屋根の小さなお堂が見えますね!


近くで見ると、とても立派な造りのお堂です。
手前左側に井戸が見えます。


桜清水の井戸です。今でも現役、こんこんと湧いているようです。

わ~、滑車まで桜だぁ!


1274年5月17日、南部を発った日蓮聖人ご一行は当時の険しい山道を歩いてきて、この地で休憩されたそうです。
しかし川もない山中、水を飲みたくても周囲に水場が見当たりません。もともとこの地は水が乏しく村人も困っていました。


そこで日蓮聖人は、手にしていた桜の杖で岩をうがち、祈祷されると、岩から清水が湧き出しました。


さらに杖を地面に差して、この清水が村人や旅人の役に立つようにと、祈念されたということです。
のちに杖から桜の芽が出たことから、「桜清水の霊場」と呼ばれるようになったそうです。


井戸の向かい側に、清水家の屋敷跡の石碑がありました。


桜清水の井戸を管理してきてくれた村人だと思われます。


井戸の場所からさらに上に上ってゆく階段がありました。


ここに実教寺があります。


山号は「玉林山」です。


歴代お上人の御廟を参拝。


開山は不動院日成上人、寂年が・・・弘安5年、お祖師様と同じ年ですね!


日蓮聖人が休憩された当時、ここは真言宗のお寺で、不動院という山伏が住持をしていましたが、改宗して日成上人となって実教寺を開山したそうです。
めちゃめちゃ歴史のあるお寺じゃないですか!


お寺のすぐ横は深い谷。水が流れてはいますが、ずっと下まで汲みに行かなくてはなりません。
周辺の村人にとって、いかに桜清水が貴重な水源になってきたかが窺えます。


集落の名称にもなっているようで、集会所にも桜清水の名がついていましたよ。


見晴らしの良い集落からは、来年開通予定の中部横断自動車道が見えました。
南部町や身延町に住む人にとっては念願の高速道路でしょうし、県外に住む我々にとっても、身延山へのアクセスは更に楽になるはずです。
身延山インターチェンジもできるようです。


一方で、身延山にダイレクトに行けてしまうと、周辺に点在するご霊跡に立ち寄る信徒が減ってしまうのではないか?という心配を、僕は個人的にしています。


便利に慣れた人が、高速を途中で下りて、不便な古道沿いのご霊跡を訪ねるのかなぁ・・・という漠然とした不安があります。


本山とか有名な寺院でなくても、お祖師様とのご縁がとても深いご霊跡、実は沢山あります。

宗門内の広報だけでなく、道路公団とか道の駅などにも、積極的にその存在を紹介することで、逆境をチャンスに変えてゆけるのではないかな?と思います。

僕は今後も、地味だけどガチなご霊跡を、このブログで淡々と紹介していこうと思っています。
見知らぬ誰かが「へ~、行ってみようかな?」というきっかけになれば、幸いです。

延寿山妙浄寺(南部町南部)

2018-08-13 23:01:28 | 旅行
1274年、日蓮聖人が身延山にお入りになる際の経路は、中山の富木殿に宛てて書かれた手紙に、詳しく記録されています。


5月12日に鎌倉を発った日蓮聖人のご一行は、
12日 さかわ 酒輪(匂) (↑画像は小田原市酒匂の法船寺)


13日 たけのした 竹ノ下 (↑画像は小山町竹ノ下の常唱院)


14日 くるまがへし 車返 (↑画像は裾野市深良の車返し霊場)


15日 ををみや 大宮 (↑画像は富士宮市黒田の本光寺)

暇を見つけて少しずつ訪問しているうちに、もうここまでやって来ました!

今日は16日にご一行がお泊まりになった「なんぶ 南部」のご霊跡を訪問しました。

山梨県南部町は東に天子山系、西に身延山系がそびえ、その間を流れる富士川に沿って民家があります。
南部町というだけあって山梨県の最南端に位置します。
しっかし暑い!昼過ぎに訪問したせいか、暑くて人が誰もいません。


わ~、大きな法塔。
ここから妙浄寺の寺域なのかな?


台座に寺名が刻まれています。


山裾にお堂が見えますね!


境内の手前に、日蓮聖人のご尊像。
合掌姿のお祖師様です。僕も合掌。


厳しい表情です。
そういえば富木殿御書には、身延に至る道中の状況として「けかち(飢渇)申(す)ばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。・・・」ともあります。
度重なる天変地異や政情不安の影響が、こんな山間部にも及んでいることに、日蓮聖人は驚いたのかもしれませんし、また法華経弘通への決意を新たにしたのかもしれません。


ご尊像の近くに井戸がありました。「御硯水𦾔蹟」となっています。

日蓮聖人がこの地にお泊まりになったのは16日、ちょうど生涯の師・道善房の月命日であったことから、この井戸で手水をし読経をしていたそうです。
そこに臨月の妊婦が瘧(おこり:熱病だと思います)を起こして危険な状態になり、日蓮聖人に加持祈祷を求めてきました。
妊婦は花枝を手に持っていました。日蓮聖人はその花を井戸の釣瓶に差して祈祷し、その水で護符を書いて飲ませたところ、瘧は治癒して安産したそうです。この由縁で井戸は「花釣瓶井戸」、井戸水は「護符水」と呼ばれているそうです。

日蓮聖人はこの井戸の水でお曼荼羅をお書きになったので、「御硯水」とも呼ばれているそうです。
お祖師様の御硯水、けっこう訪問してきたな~。もういくつ目だろう?


山門が見えてきた!


山門です。屋根の張り出しがキレイなラインを描いています。


山号は「延寿山」です。薬いらずの山号です。


本堂です。周囲の景色のせいでしょうか、昔の庵を感じさせる、いい雰囲気のお堂です。


扁額には「轉灋輪道場」。今の漢字でいうと「転法輪(てんぽうりん)道場」でしょうか。
「転法輪」は仏教用語で、お釈迦様の教えが世界中のあらゆる人の元に行き渡る的な意味だと思います。

このお寺で何があったのでしょうか?


日蓮聖人が南部の地を訪れた時、このお寺は真言宗の妙楽寺だったそうです。
ここからがミソで、妙楽寺を開創したのは新羅三郎義光公、つまり甲斐源氏の祖であり、あの南部家の遠い祖先の方でした。
そのため、甲斐源氏にとっても、南部家にとっても大切なお寺だったのです。


ちょっと話は脱線しますが、妙浄寺のほど近くに、南部館址の碑がありました。
波木井實長公の居館跡は久遠寺の至近にありますが、長くこの地を治めていた南部氏の本拠地は、古くはこのあたりだったのかもしれません。

もちろん碑の隣にはお題目の法塔。
南部氏先祖の霊を法華経で手厚く供養していることが窺えます。


話は戻って1274年5月16日、日蓮聖人は早速、妙楽寺の住職と法論し、帰伏させたといいます。
南部家の祖先が開創した大切なお寺であるからこそ、法華経の正しい教えが必要だと思われたのでしょう。


住職は日蓮聖人に帰依して法名を「日寿」、寺名も妙浄寺に改め、開山を日寿上人、開基を波木井實長公(法寂院日圓上人)としました。
このため、甲州では最初の弘教霊場とされています。

さきほどの扁額「轉灋輪道場」の由縁でしょう。


本堂裏の小高い場所にある歴代お上人の御廟に参拝。
日寿上人の墓石を探したのですが、古く刻字が不明瞭な墓石が多く、わかりませんでした。


振り返るとすごい景色!天子山系ギリギリを富士川が下っているのがわかります。

七百数十年前、お祖師様もこの景色を眺めて、何を思ったのでしょうか。


翌5月17日、富木殿御書でいう「このところ(身延山)」にお着きになりました。


僕は足かけ3年かけてご入山の道を辿りました。
日蓮聖人は超筆マメであったゆえに、700年以上昔の人でありながら、生涯に歩かれた経路、お泊まりになった場所が結構、わかっているようです。
中でもご入山のルートは、その逸話も含めて特にはっきりと判明しており、日蓮聖人は明治か大正くらいのお坊さんだったんじゃないかと錯覚しそうになります。

実は、僕が住む家のすぐ近くの小径も、その経路だったと菩提寺のお上人に教えられました。
普段何気なく歩いている小径が、お祖師様棲神の地・身延山に通じているのかと思うと、より愛着が湧いてきますし、同時に身が引き締まる思いです。

また何か新しい情報が入手できたら、このブログで報告します!

正住山内船寺(南部町内船)

2018-08-12 21:57:30 | 旅行
日蓮聖人が遭われた大難の中でも、斬首寸前までいった「龍ノ口の法難」は、それこそ絶体絶命のピンチとして語り継がれています。
(↑画像は藤沢片瀬・龍口寺の日蓮聖人ご霊窟)
多くの武装兵に日蓮聖人が召し捕られ、龍ノ口の刑場に連行されている、という知らせを受けた四條金吾頼基公は、刑場まで日蓮聖人に随行し、「日蓮聖人が処刑されるのならば自分も腹を切って死ぬ」と願い出ました。
光り物の奇瑞により処刑は中止となり、日蓮聖人は一命を取り留めました。

それまでも数々の法難に遭ってきた日蓮聖人でさえ、龍ノ口の出来事は特別だったようで、それだけに四條金吾公を共に死の淵まで行った同志の様に思ったのかもしれません。
のちに日蓮聖人は崇峻天皇御書で「何なる世にか忘れなん」と記しています。



四條金吾夫妻が晩年を過ごし、墓所のある南部町の内船寺を参拝してきました!
富士川の東側、思親山(ししんさん)の麓に内船(うつぶな)の集落はあります。
身延のお山も望める風光明媚な場所です。


山梨県内でも温暖で、かつ降水量の多い南部町では、お茶の栽培が盛んです。


JR身延線の踏切を越えると、大きな題目法塔が目に入ります。


これら法塔を結界として、内船寺の寺域に入ってゆくと思われます。


階段の上に内船寺があるようです。


段数は結構ありますが、なだらかなので景色を楽しみながら上がれます。


階段の途中には、歴代の壇信徒の方々が奉納した法塔が、いくつもあります。


結構上ってきたな~!


お堂が見えて来ました。よく手入れがされている境内です。


山門をくぐる前にお祖師様のご尊像がありました。


穏やかなお顔でお説法をしているご尊像です。


施主でもなければ建立者でもなく、「納経者」が刻まれています。


大きな枝垂れ桜が風になびいています。
その季節になったら、キレイだろうな~


山門です。
我々信徒のヒーロー、四條金吾公のお寺の入口です。ちょっと緊張します!


山号は「正住山」です。


お寺の紋は、井桁に三階松ですね。
華やかではないけど威厳のある松の木は、四條金吾公によく似合っていると思います。


本堂です。
当日はお檀家さんの法事が営まれており、お上人の読経が境内に聞こえていました。
訓読で読まれていました。


歴代お上人の御廟に参拝。


その左端、ちょうど本堂の真裏に四條金吾夫妻の御廟があります。
中央の石室の中に、四條金吾公と奥様の供養塔が並んでいるそうです。


1277年、四條金吾公48歳の時に、内船に持仏堂を建立したのが、内船寺のルーツです。


(↑画像は鎌倉・長谷の桑ケ谷療養所跡の碑)
1277年といえば、桑ケ谷問答の年、四條金吾公にとっては激動の年だったに違いありません。
日蓮聖人のお弟子さんの圧勝で終わった桑ケ谷問答の場に、四條金吾公が立ち会っていた事が元で、あらぬ讒言(ざんげん)が流れました。主君の江間氏はこの讒言に流されて、四條金吾公を謹慎処分にしてしまったといいます。


しかし間もなく江間氏が重病にかかり、その際、医術に長けた金吾公の調薬で回復したことで、金吾公の謹慎は解かれ、内船に移住したようです。
日蓮聖人はこの年の末あたりから体調を崩し始めたようで、四條金吾公は内船を拠点にして日蓮聖人の看護にあたったと思われます。


(↑画像は身延山・東谷の端場坊)
さらに日蓮聖人の最晩年になると、御草庵に近い東谷に端場坊を設けて全力で看護・給仕をしたようです。
そして、日蓮聖人がご入滅後も、熱心に御廟に給仕していたといいます。


日蓮聖人がご入滅されてから14年後、四條金吾公は67歳で亡くなったそうです。
法名・収玄院日頼上人は生前に日蓮聖人に頂いたものだそうです。
内船寺では毎年遠忌法要を、特に最近は御命日の3月15日厳修に戻すようになったと聞きました。


今年で719遠忌になるそうですよ。


四條金吾公を支え続けた奥様は、その3年後に亡くなったようです。殊勝院日眼上人の墓石がありました。
お二人が晩年を過ごした邸跡は、ご夫妻を開山として今の内船寺となりました。


四條金吾公が我々信徒の心を揺さぶるのは、お祖師様のご遺文にも垣間見える、その人間臭さでしょう。
日蓮聖人が龍ノ口の刑場で斬首されるとなれば、自分も切腹して続く!と願い出るなど、師匠に対する気持ち、信仰の深さは図抜けた人だったと思われます。
一方で、その気の短さとか慢心とかを、お祖師様は時折厳しく指導しています。元来は血気盛んな一武士なのでしょうが、何ていうか僕のような市井の一庶民、一信徒にも通ずる部分があり、だから身近に感じられる偉大な先哲なのかもしれません。


内船寺は山の中腹にあるにもかかわらず、お檀家さんとか近所の方、そして通りすがりの旅人などがひっきりなしに訪れていました。
ご住職によると、お寺に至る階段は、配達の人なんかが昼休みに昼寝してることもあるそうです(笑)。

敷居の低い、オープンな雰囲気は、四條金吾公のお寺ならでは、なのかもしれませんね!

日圓山妙法寺(杉並区堀ノ内)

2018-08-05 21:19:25 | 旅行
うだるような暑さの8月初旬、以前から行ってみたかった東京堀之内の妙法寺を訪問することができました!
丸ノ内線の新高円寺駅から歩いたので、山門とは反対側からのアクセスになりました。


妙法寺の境内は広い広い!
延々と壁が続きます。


まだ?まだ?
シャツは汗びっしょりです~!


へ~、宗立の学寮もあるんですね!
お坊さんを養成する場所でもあるようです。


妙法寺の正面にやっと到着~!


お寺を囲む石の柵(玉垣、でいいのでしょうか?)には浅草や深川など、江戸の町衆の名前が刻まれています。


「厄除日蓮大菩薩安置」と刻まれています。
お祖師様自らが開眼された祖師像が奉安されているようです。


今月の行事予定がありました。
妙法寺では「3」が着く日が縁日のようですね!


山門です。
18世紀に建立された、存在感のある建築です。


左右に仁王様が配されています。もともと江戸城鎮護の赤坂日枝神社にあったそうですが、神仏分離の影響でしょうか、明治元年に妙法寺に遷座されたといいます。


山門をくぐると、正面に祖師堂があります。
まずは祖師堂に参拝し、ご首題をお願いしました。

江戸時代から庶民の法華信仰のシンボルとなってきた「堀之内のお祖師様」である厄除け祖師像は、この祖師堂に安置されているそうです。


厄除け祖師像は日蓮聖人の伊豆法難にまつわるご尊像なのだそうです。
日蓮聖人を乗せた船が波間に消えた後も毎日、日朗上人は由比ヶ浜で日蓮聖人の無事を祈念していたそうです。

そんなある夜、由比ヶ浜で祈念していた日朗上人のもとに光る霊木が流れ着きました。


日朗上人はこの霊木に聖人のお姿を刻み、以後ご尊像にお仕えしました。

日朗上人の祈りが通じたのでしょう、1263年2月、配流が赦免となった日蓮聖人は無事鎌倉へ帰られ、ご尊像を自ら開眼して魂を込められたそうです。
この時、聖人は数えで42歳の厄年であったことから、ご尊像は「厄除け祖師」と呼ばれ、のちに庶民の信仰を集めることになったそうです。


他寺に奉安されていた厄除け祖師像が妙法寺に遷座されたのは江戸時代になってからで、祖師堂は江戸時代の後期になってからの建立のようです。
お祖師様の42歳の厄年にちなみ、祖師堂は42本の欅の柱からなっているそうですよ!


祖師堂の扁額は「感應法閣」とあります。
「感應(感応)」は仏教用語でもあるようで、仏様の人への働きかけ、またそれを受け止める人の心を「感應(感応)」というそうです。

(↑画像は横浜・金沢八景の安立寺祖師堂の扁額)
以前訪問した横浜・金沢八景の安立寺で初めて「感應(感応)」の意味に触れ、自分の中での大切な言葉になりました。
祖師堂に限らず、我々信徒がお寺に参拝したり、毎日お勤めすることそのものが、お祖師様、そしてお釈迦様との感應(感応)なのだと信じています。


妙法寺の各堂宇は渡り廊下で連絡されているので、いちいち靴を脱ぎ履きする必要がありません。


本堂です。
寄棟造りのスッキリとしたシルエットです。


本堂は別名三軌堂というそうです。
「三軌」は法師品第十の後半で説かれているもので、法華経を信じ説く人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座って説きなさい、という心掛けのことだそうです。
正直、何のことだかトンチンカンですが、将来少しでもその意味を理解できたら嬉しいです。


歴代お上人の御廟に参拝。
松の木が作り出す日陰が、とても柔らかな雰囲気を醸し出しています。


開山は妙仙院日圓上人、女性のお坊さんだったようです。
もともとこのお寺は真言宗の尼寺であったそうなのです。


その息子である覚仙院日逕上人は、お母様の菩提のためにお寺を法華に改宗し、お母様を開山、自身は二祖となったそうです。


山号の「日圓山」も、日圓上人の法名が由来のようですね!


二十三夜堂です。

月は周期的に、形や出る時間も変化してゆきますが、昔はこれに対する興味、怖れが強かったようで、「月待ち信仰」というものがあったそうです。
明治時代に太陽暦に変わるまで、暦は月の周期に従っていました。毎月23日の月は真夜中に昇っていたようで、みんなで集まって話をしたり、食事をしながら、月を待っていたようです。
太陽暦になった現在もその名残りで、妙法寺では23日を縁日としているようですよ。


妙法寺の建築物の中で異彩を放つのがこの門
鉄門です。
日本近代建築学の恩師といわれるイギリス人、ジョサイア・コンドル博士の設計といわれています。


洋風の部分と


和風、仏教的な部分を併せ持つ鉄門で、色遣いもビビッドです。


コンドル博士のお弟子さんには、東京駅や日銀本店を設計した辰野金吾博士もいます。
辰野金吾博士は、東郷平八郎元帥に影響を受けた、法華経の篤信者であったことで有名です。
今後その足跡を追ってみたい偉人の一人です。


いや~、堀之内の妙法寺、見どころ多過ぎでおなかいっぱい!

この他に古い石碑や絵馬なども、境内至る所にあり、ひとつひとつ刻まれてる文字を読んでいったら相当な時間が必要だと思いました。

現代に生きる我々信徒の想像をはるかに超える、江戸法華の一大拠点。
法華信仰が確実に庶民のものになっていたんだという片鱗が見て取れました。

また近いうちに伺います!

龍水山海長寺(静岡市清水区村松)

2018-08-02 13:43:15 | 旅行
霊峰・富士山を囲む山梨県、静岡県には、750以上もの日蓮宗寺院・教会・結社があります。
この二県にまたがった「山静教区」には、総本山・身延山久遠寺のほか、本山が15ケ寺もあるのだそうです。

僕が本格的にご霊跡めぐりを始めてから2年近くが経過しますが、山静教区の15本山のうち12ケ寺は訪問し、既にブログで紹介してきました。

今回、残り3ケ寺のうちの海長寺を訪問する機会がありましたので、レポします!


静岡県清水区の、有渡山の東麓に海長寺はあります。
海長寺は「由緒寺院」なんですね!


山門です。
当日は折からの猛暑・酷暑の最中だったので、日差しを遮る屋根がありがたく思えます。


山号は「龍水山」です。
緑の文字が爽やかです。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


光の加減でしょうか、僕には何となくお祖師様が微笑んでいるように見えました。


本堂です。
8月の日差しをいっぱい浴びた屋根が、まぶしく映ります。
本堂内には日蓮聖人自らが開眼されたご尊像が奉安されています。日蓮聖人のお近くで仕えた日法上人刻と伝えられ、恐らく実際のお姿にとても近いご尊像だと思われます。


シャチホコじゃないよな・・・靴のようにも見えるけど。
何か意味のあるものなのでしょう。


歴代お上人の御廟に参拝。
歴史の古いお寺だけに、墓石も沢山ありました。


開山は治部阿闍梨日位上人です。


日位上人は、やはり本山である青龍山本覚寺も開創している方で、日蓮聖人ご存命中は、聖人によくお仕えしたと聞きます。

海長寺は本覚寺から直線距離で5kmほどでしょうか、有渡山を挟んでいますが至近にあります。
もともと天台宗のお寺でしたが、日位上人が当時の住職を教化し改宗、龍水山海上寺と寺号を改めたそうです。
(「海長寺」に改称するのは江戸時代になってからだそうですよ!)


墓碑には69世(!)のお上人までが刻まれていました。
海長寺では世襲制は禁じられているそうで、10年ごとに貫首様が交代するそうです。
対応して下さった海長寺のお上人(笑顔の絶えない方でした!)によると、現貫首様は71世なのだそうです。
だから71世=710年以上で計算が合います!

そして実は70世を務められたお上人は・・・
大本山・池上本門寺の現貫首様(83世)の菅野日彰師です。
実は以前、宗務所主催の団参で本門寺を訪問した際、法話を下さったのが菅野師でした。
柔らかい口調に聞き惚れてしまう、印象的なお上人でした!


海長寺の境内を歩いていて気付くのは、堂々と「三つ葉葵」紋を掲げていることです。


それも屋根瓦とかにもことごとく三つ葉葵!まるで寺紋のように!!


本堂横に「御朱印の椿」がありました。
その昔、海長寺の寺域には1000本以上の椿の林があったといいます。
徳川家康公が武田軍に猛追され、椿の巨木に身を隠しました。武田の追手が当時の住職に家康公の居場所を聞いたところ、住職は「知らない」と突っぱねたそうです。それこそ血眼になって探す荒武士達からの尋問ですからね、住職も命懸けだったことでしょう。


住職の機転のおかげで一命を取り留めた家康公はのちに天下を統一し、海長寺に対し朱印を与えるなど外護したといいます。


このソテツも徳川家からの奉納なのだそうですよ!

そんなわけで、海長寺と徳川家のご縁は深く、以来、三つ葉葵を寺紋として堂々と掲げているそうです。


しかし太平洋戦争末期、至近に日立の軍需工場のあった清水は、米軍の空襲や艦砲射撃にさらされ、海長寺もこの鐘楼と宝蔵以外は全焼してしまったそうです。
なので現在の本堂他の建物は戦後に建てられたもののようです。


ソテツ、椿とともに海長寺のシンボルになっているのがこの大クスノキです。
樹齢何百年にもなるんでしょうね、太平洋戦争も、戦国時代も、人々を見てきた大木だと思います。
もうこれ以上、争いごとがなくなるように、クスノキにも手を合わせてきました。


「命の危険もある」今年の夏の暑さ、そこだけオアシスのようでしたよ!