日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

七面山奥之院(早川町角瀬)

2024-10-01 23:02:15 | 旅行
今年も6月に、妻と七面山に登ってきました。
このところ毎年の恒例となっており、コロナ禍を挟んで5度目の登詣となりました。
(麓の羽衣橋から七面山方面を望む)
今回は初めて、奥之院に参籠させていただきました。


敬慎院から北に15分ほど歩くと、奥之院に至ります。

よくいらっしゃいました!と、お上人方が歓待してくださいました。
当日は結構な雨でしたが、その笑顔に、疲れも吹っ飛びます。
今晩の参籠は、我々だけだそうです。



案内されたのは入口近くの部屋。
濡れた荷物を新聞紙の上で乾かしているのがわかると思います!
ちなみに、乾燥機も使えます。(箱に志を入れて下さいね)



すぐにお風呂にも入らせてくれました。
こたつでお茶なんか飲んじゃって・・・もう、至れり尽くせりです。


ところで風呂場へ向かう途中、中庭に注連縄の張られた岩があるのに気付きました。

傍らの碑文によると、戦前に七面大明神が影現した「宝厳石(ほうごんせき)」というそうです。
この岩に七面大明神を感応されたのは、当時奥之院で給仕されていた高橋妙進法尼というお上人だそうです。
とても霊感が冴えた方で、その能力で多くの人を助けたといいます。


高橋妙進法尼は、奥之院の門前にある出世稲荷堂にも、深く関わっておられます。
(七面山奥之院 出世稲荷堂)
もとは奥之院の拝殿に祀られていたお稲荷さんでしたが、高橋妙進法尼の霊感によってこちらにお堂が設けられ、お祀りされたといいます。
苦労して登ってくる参詣者を護り、運を開いてくれる神様。この場所にあるということに、大きな意味があるのでしょう。


(宝厳石の由来碑)
七面山という最高の霊場で、実際に神々の言葉を受け取り、伝えることができた高橋妙進法尼。
人の幸せを願って、ひたすら尽くされた先師に、思いを馳せました。



夕食は5時半から。
野菜の煮物、ひじき煮、沢庵、みそ汁、白飯にお神酒というメニューは敬慎院とほぼ同じです。
どれも美味しくいただきました。


6時半から本殿でお開帳、続いて拝殿で夕勤です。(お社の内部は撮影禁止のため、画像はありません。)
ちなみに奥之院の七面大明神像は、両足を揃えてお座りになっているお姿でした。
確か敬慎院のお像は、片足が胡坐だったと記憶しています。ちょっと違っているのも興味深いですね!
(七面山奥之院拝殿)
お上人方のすぐ後ろで、一心にお経を読ませていただきました。
七面様、どうか我々の心の扉を開いてください。



夕勤から戻ると、部屋には布団が敷かれています。
これ、完全に熟睡できるやつですね!
心地よく、眠りにつきました。



翌朝、雨はすっかりあがり、ご来光こそありませんでしたが、富士山の頂上まで拝めました。



4時半から拝殿で朝勤。
その後の朝ごはんの美味しかったこと!



奥之院は、施設の規模が小さく、お上人やお勝手さんの人数も少ないですが、そのぶんアットホームな雰囲気で、何もかもが想像よりちょっとずつ良かったです。


それではそろそろ、奥之院の歴史について、お上人に教えていただいたお話も交え、書いてみたいと思います。

奥之院のランドマークといえば、何と言ってもこの大岩です。
太い注連縄が巻かれていますね!
自然信仰、磐座(いわくら)信仰(※)の最たるものでしょう。
(※)日本では古くから、巨石は神が宿る、降臨する場所と考えられてきた

七面山奥之院はこの大岩が、そもそものルーツです。


(七面山敬慎院 大鐘の縁起銘文)
永仁5(1297)年9月、日朗上人と波木井公が、このお山に七面大明神を勧請するために登山しました。


日蓮聖人がご在世中、七面大明神が身延山の高座石に示現し、法華経守護を誓ったというのは有名なお話ですが、その際、七面大明神は自らを「七面山の池に住むもの」と語ったそうです。
(七面大明神の示現:堀内天嶺画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
実際にお山に登り、池の畔に七面大明神を法華経でお祀りすることは、日蓮聖人の悲願だったことでしょう。


(七面山奥之院に掲げられる縁起板)
当時、七面山には参道的なものはなく、日朗上人ご一行はお山の北側から尾根伝いに(今の北参道)登られたのではないかといわれています。
途中に日朗上人お手植えの御神木もあるようですね。


おおかたお山を登りきった頃、目の前の大岩に七面大明神が影現(ようげん:お姿を現すこと)し、ご一行をお迎えしたと伝わります。

日朗上人はこの大岩を「影嚮石(ようごうせき)」 と名付け、祠を設けて「影嚮宮(ようごうのみや)」としたのが、奥之院の始まりだそうです。



時は下り延宝3(1675)年、身延山の学禅院日逢(ぽう)上人が、ここに初めてお社を建立しました。


この日逢上人、調べてみると他にも敬慎院や神力坊のお堂を整備された方として、知る人ぞ知るお上人だそうです。
(身延山妙石坊)
また、身延山高座石の霊跡に妙石坊を開山されたのも、日逢上人だということです。


いずれも養珠院お萬さまが七面山に登られ、女人禁制を解いた少しあとに建立されています。
(羽衣白糸の滝にあるお萬さまのお像)
世間に信仰が広がり、登詣者が増える中、日逢上人が中心となって様々な施設を整備したのでしょうね。
影嚮宮も徐々に形になってゆきます。


江戸中期、宝暦年間(1751~1763年)になると、影嚮宮に本格的なお社を造立しよう、という機運が高まります。
このとき、中心となって尽力されたのが宮原講中(※)です。
(戦前の影嚮石:七面山奥之院廊下に貼られていた古写真より)
奥之院のお上人によれば、古い棟札には「宮原講中」の名が記されており、いわば施主となって丹精されたのだろう、ということでした。
(※)宮原地区は富士川の東岸、今の西八代郡市川三郷(いちかわみさと)町にあります。宮原講は地区の住民で構成される題目講だと思われます。


(七面奥之院拝殿の扁額)
その際、宮原講の方々は身延山にお願いをし、七面山本社から御神体をいただいて、新しい影嚮宮に安置しました。
恐らくこの頃から、影嚮宮は七面山の奥之院的な存在になっていったと考えられます。
(実際に「七面山奥之院」の称号が使われ始めたのは、江戸後期ということです。)


(戦前の拝殿:七面山奥之院廊下に貼られていた古写真より)
現在の奥之院の社殿は、明治期の全面改築で建立されたもので、その時も宮原講が全面協力し、無事に竣工できたそうです。


(七面山二の池の鳥居:太い注連縄が掛けられている)
聞くところによると、この令和の時代になっても宮原講の丹精は変わらず、影嚮石だけでなく拝殿、稲荷堂、二の池、御神木…などの注連縄は、宮原講の方々が毎年作り、掛け替え作業までしてくださるとか。

宮原講、すげえ・・・。


気になって仕方がないので、後日、実際に宮原地区を訪れてみました。

最寄り駅は身延線の甲斐岩間駅です。



この辺り、旧地名を「六郷」といったそうです(※)
甲州産の水晶加工に始まる印鑑作りが地場産業で、六郷のハンコはなんと、国内シェアの半分を占めるといいます。
(※)戦後、宮原村など近隣が合併して六郷村(町)となり、さらに平成の大合併を経て、現在の市川三郷町になりました。


(中部横断道六郷IC付近から宮原地区を望む)
宮原地区の界隈には、歴史の古い日蓮宗寺院が2ヶ寺(妙法山定林寺、妙覺山本定寺)あります。
宮原講中の多くが、この2ヶ寺のお檀家さんだと思われます。


実は七面山奥之院の別当さんは、この2ヶ寺から4年交替で(!)、奉職することになっているそうです。

お上人方はさぞ大変だろうと思いますし、同時に菩提寺のお上人を、4年毎にお山に送り出す宮原講中の覚悟も、相当なものでしょう。


それではその2ヶ寺、実際に訪れてみましょう。


まずは日向山(ひなたやま)を背にする妙法山定林寺です。



歴代御廟の墓誌を見ると、いちばん最初に身延山15世宝蔵院日叙上人が刻まれています。


日叙上人が法主として在職中、武田信玄の身延山攻めがあり、これを撤退させたのは(一説には)七面大明神の力によると伝わっています。
確か敬慎院拝殿に、その様子を描いた大きな絵馬が掲げられていたのを記憶しています。
(身延山歴代御廟にある第15世日叙上人墓)
身延山守護を誓った七面大明神が、武力の脅しに一歩も引かなかった日叙上人を、神力で救ったのだと思います。
これを境に、七面山信仰が一気に世間に広まっていったといいます。


(定林寺歴代御廟にある日定上人墓)
ここ定林寺は、日叙上人のお弟子さんである定林院日定上人が、真言宗寺院を教化改宗させたお寺だそうです。
ちなみに、さきほどの宝厳石の高橋妙進法尼は、定林寺にご縁が深いようですよ。


一方、定林寺から身延線を挟んで反対側、いわゆる宮原地区のど真ん中にあるのが、妙覺山本定寺です。

現在(令和3~7年)の七面山奥之院の別当さんは、ここ本定寺のお上人が務めています。


歴代御廟の墓誌を見ると、開山は妙覚院日福大徳となっています。



六郷町史によれば、本定寺はもともと真言宗寺院でしたが、身延山9世 成就院日学上人が教化改宗、時の住僧は妙覚院日福と称して本定寺を開山したそうです。


調べてみると日学上人も、七面山と深いご縁がありそうです。
日学上人が法主在職中、赤沢村の人々が七面山の山上に、初めて七面大明神のお社を建立したといわれています。その際、初代別当として選ばれたのが赤沢村妙福寺のご住職でした(妙福寺が七面山の鍵取り寺となった由縁です)。

(赤沢 長徳山妙福寺)
かつて真言系修験の行場であったといわれる七面山のこと、いきなり身延山が乗り込んでゆかず、まずは修験にゆかりの深い赤沢村、そして妙福寺(※)に管理を任せるあたりは、身延山トップであった日学上人の細やかな配慮がうかがえます。
ちなみに「長徳山妙福寺」という日蓮宗の寺号に改めたのも、日学上人代ということです。
(※)妙福寺はかつて真言宗で、修験者の拠点だったといわれる


日叙上人、日学上人とも、七面山の歴史を語る上で、欠かせないお上人だったんですね!
(本定寺境内から宮原地区を望む)
ここ宮原地区に、七面山信仰が深く根付いている理由が、何となく見えてきました。


「七面山は身延山の裏鬼門(申未:ひつじさる・南西)をおさえている」といわれます。
一方、宮原地区を地図上で探すと、七面山からみて鬼門、丑寅(うしとら・北東)の方角に位置していることがわかります。
(Google earthに加筆)
宮原地区の住民総出で鬼門をおさえ、七面山を全力でお護りしながら、同時に七面大明神にお護りされている。
そんなふうに思えてなりません。



僕が宮原地区を訪問したのが9月初旬、本定寺の本堂縁側には、ブルーシートに包まれて、すでに注連縄が準備されていました。


お縄上げ大祭は9月17日。
無事滞りなく行われますように。

南無妙法蓮華経。

(追記)
七面山奥之院ブログに、今年のお縄上げ大祭の様子がアップされています。


(参考文献)
・「身延山史」(昭和48年:身延山史編纂委員会)
・「六郷町誌」(昭和57年:六郷町編)
・「七面山」(昭和58年 宮川了篤 林是晋 共著:批評社)
・「無限なる大光明 七面さまのお話」(令和3年 功刀貞如著:大東出版社)