身延山久遠寺本堂の裏手から、奥之院に続く山道が延びています。
身延山ロープウェイが開通したのが昭和38(1963)年といいますから、60年前まで奥之院の参詣をする人の多くは、この山道を歩いていたんですね!
杉や檜の大木が立ち並ぶなか、古いお堂やお墓が点在しており、独特の雰囲気があります。
遠い昔の身延山の風景がそのまま残っており、個人的に「萌える」エリアです。
5分ほど急坂を上ると、本地堂が現れます。
本地堂は祖師堂のちょうど真上に位置します。
祖師堂→本地堂→釈迦堂が一直線に並んでいるのは、日蓮聖人が自らを、法華経流布のために仏様から遣わされた上行菩薩である、と自覚されていたことを意味するようです。
本当によく考えて配置されているんですね!
この本地堂のすぐ右横に、一基のお墓があります。
英國人・・・
甲比丹・・・
ゼイムス墓。
いったい誰なんだろう?ただ者じゃないんだろうけど・・・そもそも信徒さん?甲比丹って?・・・
実は、以前からずうっと、気になっていました。
今回は、「甲比丹ゼイムス」について調べてみました。
まずは「甲比丹」、これは「カピタン」と読むそうです。
船長さんのことを、英語やラテン語で”Captain”といいますが、これに漢字を当てたのでしょう。
(↑J.M.ジェームス氏:サライ1999/6/17号より)
甲比丹ゼイムス氏(以下ゼイムス氏)、本名はジョーンズ・マシューズ・ジェームズ(Johns Mathews James)といい、1839年にイギリスで生まれました。
14才で当時英領だったインドに渡り、イギリス海軍に入隊します(※)。
海軍中尉まで務めたのち退役、20才の時、上海でイギリスの貿易会社であるジャーデン・マジソン商会に入社しました。
何か、ものすごく早熟ですよね!
※十代の頃のゼイムス氏の経歴については、英国内で商船に乗っていた等、諸説あるようです。
ちょうどその頃、日米修好通商条約によって長崎が開港されることになり、のちにゼイムス氏はジャーデン・マジソン商会の長崎代理店に赴任しました。
長崎代理店は「グラバー商会」といい、設立者があのトーマス・グラバーです。
トーマス・グラバーが住んだ家は、「旧グラバー住宅」として保存されています。現存する洋風木造住宅としては、日本最古だそうです。
グラバー商会は幕末期の混乱にいち早く注目し、武器取引で莫大な利益を上げたことで有名です。
明治5(1872)年、日本に初めて海軍が創設されると、ゼイムス氏はその航海経験を買われ、海軍省に雇い入れられます。
幕末~明治初期の日本、開国したは良いけど、同時に諸外国と対等に付き合うための「近代化」が急務でした。そして近代化を急ぐには、外国を模倣するのが近道だと気付きます。
そこで明治政府は政治、経済、軍事、教育、産業、芸術・・・とあらゆるジャンルにわたって指導的役割を担う「お雇い外国人」を日本に招き、彼らから生きた知識、技術を学び取る、大プロジェクトを敢行しました。
特に当時は、並み居る列強の脅威にさらされていた背景もあり、軍事、それも海軍の近代化が急がれていました。
幕末~明治初期にかけて、世界最大・最強の海軍力を持っていたのはイギリスでした。また、下関戦争や薩英戦争を通じてその強さを肌で感じていたからでしょう、明治新政府はイギリス海軍をモデルにすることを決めました。
(↑甲比丹ゼイムス墓・左側面)
ゼイムス氏は、イギリス海軍出身の「お雇い外国人」として、日本の若者達と航海を繰り返しました。
それこそ日本海軍の草創期ですから、操船や航法だけでなく、ロープワーク、気象や海流、船内のチームワークに至るまで徹底的に教え、多くの人材を世に送り出しました。
ちょっと脱線しますが、ゼイムス氏が乗っていた船が、なんと今も現存していることがわかりました!
灯台船「明治丸」です。
明治13(1880)年、8年間の海軍省のお雇いが終了した後に艦長を務めました。行方不明になった船を捜索するなど、活躍したそうですよ!
現在は東京海洋大学の構内に展示されています。
僕が訪問した時は、残念ながらお色直しのため、カバーで覆われていました。
実際には白く、気品のある船体だそうです。いつか全体像を見てみたいです。
ちなみに、これはゼイムス氏が艦長をする前の話ですが、明治丸は明治天皇の東北御巡幸に使われています。
この御巡幸、明治丸が横浜港に帰着したのが7月20日ということから、この日が「海の日」のルーツになっているのだそうです。目からウロコ!
日本のために力を尽くしてきたゼイムス氏ですが、恐らく最大の貢献と思われるエピソードが、篠原宏著「日本海軍お雇い外人」(中公新書:昭和63年)に記されていました。
明治27(1894)年、朝鮮をめぐる清国との対立が激化します。
まさに日清戦争開戦直前、56才になったゼイムス氏は海軍大臣・西郷従道から直々に、清国艦隊の動静を探ってほしいと依頼を受けます。
これを受け、ゼイムス氏は上海に拠点を設け、清国艦隊の行動だけでなく、石炭や火薬の積み込み情報も探知しました。
ゼイムス氏の情報により、日清戦争では清国艦隊への物資補給を断つことで、日本海軍の被害を最小限に抑えることができた、と云われています。
(↑甲比丹ゼイムス墓正面)
明治28(1895)年、明治政府はゼイムス氏に勲二等旭日章を授けます。
当時、海軍お雇いの外国人は沢山いましたし、階級が高い人も多い中、勲二等旭日章を叙勲されたのは、ゼイムス氏含め4人だけです。
(↑甲比丹ゼイムス墓・左側面)
既に明治22(1889)年に終身年金の資格を与えられ、また明治25(1892)年には逓信省管船局の名誉顧問に迎えられていたことなどを考えると、いかに明治政府がゼイムス氏に感謝、そして信頼していたのかが窺えます。
ゼイムス氏はお雇いが終了してもイギリスに帰らず、日本に留まりました。
東京・南品川に住居を構え、日本人女性と結婚して暮らしていたそうです。
JR大井町駅から北へ延びる道
その昔、この道は浅間坂と呼ばれる急坂でした。生活物資を運ぶ大八車が通れないほどの傾斜だったといいます。
この坂沿いに暮らしたゼイムス氏は、住民たちが急坂に困っているのを知り、私費を投じてなだらかにしたそうです。
人々はやがて浅間坂と呼ばずに「ゼームス坂」と呼ぶようになりました。
なだらかになったと言っても、結構な坂です。
自転車の少年も、ギアを切り替えて奮闘しています!
ゼイムス氏の住居跡には現在、巨大なマンションが建っています。
石のプレートにその名残りをとどめています。
ゼイムス氏は近所の人に慕われていた、と刻まれていました。
本当に日本に馴染んでいたのですね!
ところでゼイムス氏、彼はやはり日蓮宗に帰依していたようです。
イギリス人でありながら、身延山に何度も登詣し、朝夕には太鼓を叩きながらお題目を唱えていたという・・・。
彼の法華信仰のルーツ、それはグラバー商会で働いていた江戸末期に遡ります。
(↑グラバー邸から長崎港を望む)
グラバー商会は生糸、茶、そして武器などの取引をする一方で、海外渡航が厳しく禁じられる中、日本の若者達に世界を見せるために、密出国の手引きもしていたようです。
慶應2(1866)年、28才になったゼイムス氏は、坂本龍馬からの依頼を受け、自分の船で海援隊士を密出国させます。
うち一人が、福井藩士の関義臣(せき よしおみ)氏でした。
長崎を出航した船は、上海、香港を経由し、西に進みます。
そしてシンガポールに向かう途次、激しい嵐に遭遇してしまいます。
嵐は三日三晩続き、船は難破、救助されるも今度は海賊に狙われてしまいます。絶体絶命・・・!
ゼイムス氏は拳銃、関義臣氏は日本刀で対峙し、海賊を退けました。
二人は無事生還、帰国後もずっと、固い友情で結ばれていたといいます。
(↑青山墓地にある関義臣氏の墓)
関義臣氏は越前府中(現在の福井県武生市)出身の武士で、のちに法曹界や政界で活躍する人です。
天保10(1839)年生まれですから、ゼイムス氏と同い年ですね。
ここでちょっと脱線。
僕は3年前、旅行で武生市を訪れました。
市内を南北に貫く北国街道沿いには、日蓮宗寺院が軒を連ねるように沢山あったことを記憶しています。
浄土真宗王国といわれる北陸にありながら、越前府中(武生市)は永らく、法華信仰の一大拠点となってきました。
(↑日像上人開山の武生市・長榮山本行寺)
これは、日蓮聖人から遺命を受けた日像上人が上洛する途次、布教を重ねていったから、と云われています。
話を戻しますね。
(武生市街にある関義臣氏生誕地)
関義臣氏のご実家も、篤い「越前法華」の家系であり、義臣氏自身も法華経を深く信仰していたそうです。
一方、ゼイムス氏のもともとの信仰は不明ですが、イギリス出身ですからキリスト教だったのかもしれません(イギリス人の7割はキリスト教徒といいます)。
生死の境を共にした2人は、腹を割っていろんな話をしたことでしょう。
最初にゼイムス氏に法華信仰の道筋を示したのは、関義臣氏でした。
日蓮宗のお寺に出入りし、信徒と交流する中、ゼイムス氏は小川泰堂(おがわ たいどう)という在家信者に出会います。
(↑小川泰堂居士:撮された戦前の本門寺・池上本門寺霊宝殿刊より引用)
小川泰堂居士は、明治維新前後の大変な時代に活躍した、医師であり、日蓮聖人の研究者です。
彼は25才の時、東京下町の古書店でたまたま手に取った日蓮聖人ご遺文「持妙法華問答鈔」に衝撃を受け、以来30年間、コツコツと日蓮聖人ご遺文の校訂作業を続けました。
「校訂」を辞書で調べると、「著作の本文をより良い形に訂正すること」とあります。
日蓮聖人のご遺文は鎌倉時代に書かれたものですから、言葉の使い方が現代人に理解しづらい部分もあるはずです。また、お祖師様からみて身近なお弟子さんに宛てたお手紙などは、結構省略して書かれていたとしても、当時のお弟子さんは阿吽の呼吸で理解できたのでしょう。
(↑池上本門寺・小川泰堂墓誌より)
小川泰堂居士はこれらを校訂し続け、明治9(1876)年に「高祖遺文録」を刊行するという大偉業を成し遂げました。
僕は毎日のお勤めの時、身延山久遠寺の朝勤に倣って「朝夕諷誦 日蓮聖人御遺文」↓を少しずつ読んでいます。
明治以降に刊行されたご遺文集は全て、小川泰堂居士の「高祖遺文録」を基礎としているといいますから、僕も知らず知らずのうちに、小川泰堂居士とのご縁に恵まれていたのかもしれません。
小川泰堂居士の墓所↑は、池上本門寺にあります。
日蓮聖人生身の御尊像が格護されている大堂の、すぐ横です!
ほら、こんな近く!
(左から小川泰堂、師・詩佛大窪、父・小川天祐墓)
これほどの超一等地にお墓・・・小川泰堂という方が、いかに宗門内でリスペクトされているかが窺い知れます。
これほどまでの方です。ゼイムス氏も泰堂居士から大きく影響を受け、法華信仰がより深まっていったと、考えられます。
(当時の新聞に載ったゼイムス氏の信行 小野文珖著「平成みのぶ道の記」より引用)
ゼイムス氏が母国に帰らず、日本に骨を埋めたひとつの理由が、ここにあるのでしょう。
(↑横浜一般病院:新関光二編・BLUFF STORYより)
明治41(1908)年1月8日、ゼイムス氏は急性腎炎のため、横浜山手のジェネラルホスピタルで亡くなりました。71年の生涯でした。
ジェネラルホスピタルがあったといわれる場所には、現在も地域に住む外国人向けの、小さな医院があります。
(↑The Bluff Medical & Dental Clinic)
病室の窓からどんな風景が見えたんだろう、海は見えたのかな、などと、晩年のゼイムス氏に想いを馳せました。
(↑甲比丹ゼイムス墓裏面)
ゼイムス氏は生前、「遺骨は身延山に」と言っており、彼の遺志を尊重して、身延山久遠寺にお墓が建立されました。
戒名は「東海院殿忠篤義國日光大居士」。
生涯を日本に尽くしたゼイムス氏に、相応しい戒名だと思います。
墓石の左側面には、40年来の友人であり、ゼイムス氏に法華信仰のきっかけを与えた、関義臣氏の碑文が刻まれています。
「英国人ゼイムス氏 来住日本在 慶応二年七月 年二十八 王政維新後 為海軍御雇教師 又逓信省顧問
明治四十一年一月八日 病没 年七十一 及 其病革 皇室為御慰問 洋酒二函 享後 又 賜祭資金千円 友人 従三位 男爵 関義臣 記」
僕は漢文が苦手で上手く理解できなかったんですが、自分なりに以下のように解釈しました。
「英国人ゼイムス氏は、慶応2年7月に28才で来日した。明治維新後は海軍省のお雇い教師として活躍、のちに逓信省の顧問も務めた。
明治41年1月8日、病により71才で逝去。ゼイムス氏の生前の貢献に対して、皇室から洋酒2ダースが供された。葬祭費用千円を納めた。
友人 従三位 男爵 関義臣 記」
洋酒はやっぱりスコッチウイスキーだったのかな?
ちなみに明治40年代の貨幣価値、調べたら当時の1円が現在の3000円位というから、千円=300万円!!
甲比丹ゼイムス氏、やはりただ者ではありませんでしたね!
海に囲まれた島国にあって、航海の近代化が果たした功績は計り知れません。
彼の偉業に心から感謝するとともに、関義臣氏、小川泰堂居士、ゼイムス氏と続く、民族を越えた法華信仰の系譜があった事、またそれが遠い異国で暮らすゼイムス氏の支えになっていた事、しっかり心に刻んでおきます。
次回、身延山を訪れる時にも、また甲比丹ゼイムス氏のお墓をお参りしようと思います!