日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

仏住山蓮昌寺(岡山市北区田町)

2021-03-01 18:14:31 | 旅行
晴れの国 岡山。
風光明媚、食べ物も美味しくて、個人的に大好きな県です。


古くはこの界隈を「吉備国(きびのくに)」といいました。黍(キビ)の収穫量が多かったことに由来するそうです。
現在の岡山県と、広島県の東部が、吉備国に該当します。
後に吉備国は、(東から)備前、備中、備後に分割されました。
新幹線の停車駅を例にとって備前は岡山、備中は倉敷、備後は福山、と覚えると、少しは位置関係がわかるかもしれません。


今回は備前のお寺を参拝した際のレポをしたいと思います!


備前岡山の中心にそびえる岡山城。
漆黒の外観から、別名「烏城」と呼ばれています。
カッコいいですよね!


お城が建つ小高い場所が「岡山」だったことが、地名のルーツになっているそうです。


岡山市の人口は、なんと70万人以上!
想像以上に賑やかな街を歩きながら、目的のお寺を探しました。



市電も走る柳川筋から一本入った路地に・・・


街なかのお寺・蓮昌寺がありました!
薬医門スタイルの山門です。


妙法蓮華経第一といえば、序品ですよね。
その序品の冒頭部分は「如是。我聞。一時。仏住。王舎城。耆闍崛山中。・・・」です。
その昔、お釈迦様が王舎城近くの耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に住んでいた時のお話が、ここから始まってゆきます。
蓮昌寺の山号「仏住山」は、この経文が由来なのかもしれませんね。


山門脇の題目碑、文字がゆらゆら揺れていますね~!
ということは・・・、あの方が関係するお寺でしょうか!?



幼稚園が併設されており、子供のはしゃぎ声が聞こえます。
賑やかな境内です!


鉄筋コンクリート造りの本堂です。
1階はホールとか会議室になっており、ご本尊がある、いわゆる本堂は2階にあります。



蓮昌寺の守護神・一丸さまをお祀りするお堂です。
お寺の創建時に勧請された、歴史のあるお稲荷様だそうです。
お祖師様も篤く信仰された三光天子(日、月、明星)と関係が深いということです。


鳥取城の一の丸にあったお稲荷さんだから、この名前だとか。

岡山の人にとっては、とても身近なお稲荷さんです!



日朝上人のご尊像がありました。
身延山第11代法主様として、当時不安定だった宗門を建て直した偉大なお上人です。久遠寺を現在地に移したのも日朝上人ですよね!
それにしてもどうして、日朝上人のお像がここに?


「朝師 分骨 西国最終之霊場」
日朝上人が由緒にあるお寺は、関東に多い印象ですが、西国布教もされていたんですね!
そしてここ岡山が最西端だった、ということだと思います。
室町時代、日朝上人や日親上人が積極的に西に教線を延ばしたことが、今日の西日本宗門の基礎になっているのかもしれません。


歴代お上人の御廟を参拝。
法華塔を中心に、右側に日像上人、左側に大覚大僧正の供養塔が建てられています。
お寺の創建は大覚大僧正が行い、開山には師匠の日像上人を仰いだ、と思われます。
やはり、さきほどの題目碑は日像上人の「波ゆり題目」でしたね!


大覚大僧正といえば日像上人の直弟子、かつ京都妙顕寺↓の二世としても有名なお上人です。

もともと嵯峨大覚寺に仕える真言僧で、「大覚妙実」と名乗っていたそうです。
正和2(1313)年、北野天満宮の参詣客で賑わう御前通りで、熱心に辻説法する日像上人に出会い、帰依しました。



のちに大覚妙実上人は、その場所にお堂を建立しています。
現在の妙喜山法華寺↑のルーツとなります。
気持ちの落ち着くお寺です。いつか詳しく紹介したいと思います!


その頃の日像上人といえば、教えを広めては他宗に睨まれ、京を追放される・・・ということを繰り返している真っ最中で、ホントに厳しい状態だったと思われます。

それまで四面楚歌であった日像上人は、大覚妙実上人がお弟子さんになったことで、布教活動にも弾みがついたはずです。


元享元(1321)年、日像上人は後醍醐天皇から寺領を賜り、京都で宗門初となる法華堂を建立します。妙顕寺のルーツです。
法華堂という拠点ができて約10年、日像上人と大覚妙実上人が熱心に布教をした結果、町衆を中心に信徒が増え、単なる新興宗教といえない存在になっていました。(↑画像は京都妙顕寺)
そんな時、大覚妙実上人は日像上人から、西国弘通の使命を託されます。


日像上人は今の山陽地方に注目していたようです。
古くから陸上、海上交通とも盛んで、人の往来も多いこの地域に法華信仰を浸透させることは、ひいては宗門を天下公認にする助けになると考えたのかもしれません。


大覚妙実上人は手始めに備前を訪れ、町なかで辻説法を始めました。

ある日、宗論を挑んできた真言僧を教化しました。実はこの真言僧は備前の古刹・福輪寺の住職で、これを機にお寺は法華経信仰に改めました。


この一件は、備前富山城主・松田元喬(「もとたか」でいいのかな?)公の耳にも入りました。
福輪寺は城からも近く、何故あれほどの名刹が宗旨を変えてしまったのか、大覚妙実とは何者か、城主として疑問に思ったはずです。

松田元喬公は実際に、妙実上人と真言僧を城に呼び出し、法論を戦わせて真実を見極めようとしました。
その結果、なんと松田元喬公自身が妙実上人に帰依してしまい、のちに一寺を建立したのが、蓮昌寺のルーツです。正慶2(1333)年頃といわれています。


京都妙顕寺が後醍醐天皇の綸旨を賜り、勅願寺となったのが建武元(1334)年ですから、まさに蓮昌寺の開山と同時期です。
(↑画像は京都妙顕寺・山門)
宗門が天下公認になり、そして松田氏という有力者の帰依も得て、大覚妙実上人の布教は勢いを増してゆきます。


ところで、備前の宗門を語る上で忘れてはならないのが、以前訪問した野山の妙本寺↓です。

警護の役人として、龍ノ口の奇瑞を実際に目撃し、日蓮聖人に帰依した武士・伊達弾正朝義公が野山の郷に地頭として赴任、なんと宗祖ご在世中の弘安4(1281)年に、何らかの拠点が建立されています。


信仰の篤い朝義公はアクティブで、近隣10ケ寺を自ら改宗、住民全てが代々法華経を信仰するほどの地を創り上げていたのです。

これから布教してゆこうとする山陽地方の一画に、既に50年前から法華信仰が根付いている場所がある・・・。
大覚妙実上人にとって、これほど心強い味方はなかったでしょうし、当然、野山の郷を重要な活動拠点にしていたと思われます。



康永元(1342)年、日像上人が化を遷されました。
これに伴い、山陽地方に数十のお寺を開創させた大覚妙実上人は京都に戻り、妙顕寺↑の二代目住職となります。



日照りの続いていた延文3(1358)年、大覚妙実上人は雨乞いの祈祷で水不足の危機を救った功績を評価され、後光厳天皇から、宗祖の日蓮聖人には大菩薩号、師匠の日朗、日像上人には菩薩号、そして大覚妙実上人には「大僧正」の称号を賜りました。
(↑画像は妙顕寺・三菩薩堂の扁額)



大僧正はお坊さんの最高位、もちろん宗門初です。
それを天皇から賜ったわけですから、宗門、妙顕寺、そして大覚「大僧正」が開いた蓮昌寺のステイタスも急上昇したのでしょうね!


話を戻しましょう。

蓮昌寺の縁起によると、開山当時のお寺は今の岡山城中、「榎の馬場」にあったといいます。


岡山城の真ん前に県庁や図書館がありますが、この辺りに榎の馬場はあったと思われます。


時代により岡山城主が変わると、町割りも変わるせいでしょうか、寺地は転々としたそうです。

戦国時代、宇喜多氏が城主の時は、旭川の東側、国富という場所でした。
(↑画像では川の向こう側)


ところが宇喜多氏は関ヶ原で西軍の主力として戦ったため、八丈島に流されてしまいます。

変わって入城した小早川氏の時代に、蓮昌寺は現在地に移ってきました。


ここで特筆したいのは、松田氏はもちろん、歴代の岡山城主が一貫して、法華信仰を奨励、保護してきたことです。
その結果、住民全員が法華経を信仰する、いわゆる「皆法華」も珍しくない状態になってゆきました。


蓮昌寺はこの「備前法華」の象徴として繁栄します。
一時は境内地が一万坪、檀家が7000軒、末寺を48ヶ寺も擁する、中国地方随一の大寺だったようです。

説明板に戦前の写真が掲示されていました。
巨大な本堂、三重塔が見えます。これらは当時、国宝指定されていたといいます。
それこそ岡山のお寺といったら蓮昌寺、というほど、宗派を超えて知られた存在だったそうです。


昭和20年6月29日未明、140機ものB-29爆撃機が岡山市上空に飛来、大規模な無差別爆撃が行われました。
不意の襲来だったのでしょうか、警戒警報は発令されなかったといいます。また、日本軍の応戦も全くなく、岡山城はもちろん、市街地全体が炎に包まれたそうです。

蓮昌寺境内からも見えるビル「クレド岡山」↑の辺りが爆撃の中心だったようです。
中国地方一の大寺だった蓮昌寺は無惨なくらい焼かれ、当時の住職も空襲の犠牲になってしまったという・・・本当に悲しく、残念に思います。合掌。


さきほどの大覚大僧正の供養塔、文字が崩れ落ちていたのも、空襲のせいなんですね。



これは平成12年、境内の工事中に掘り起こされた題目碑です。
もともと穏やかな世の中を願う、先人達の想いが詰まった供養塔だったはずです。
平和を祈り、手を合わせました。


戦後、焼け野原の境内に仮本堂が建てられ、戦災から復興する備前信徒の、心の拠り所ができました。

昭和43年に現在の新本堂が完成し、仮本堂は解体されましたが、内陣だけは残され、大仏殿として使われています。
戦後のいちばん辛い時期を支えてくれたお堂の一部です。壇信徒の思い入れはひとしおでしょう。


最後に、「岡山の聖者」と呼ばれた坪田利吉さんを紹介したいと思います。
明治3(1870)年に備後府中(今の広島県府中市)に生まれ、天涯孤独、不遇な幼少期を過ごした利吉さんは、10才の時に熱心な法華信者に助けられ、千ヶ寺参りをしながら、全国を歩きました。
21才で蓮昌寺に仏縁を結び、67才まで市内で社会奉仕に粉骨砕身されたそうです。


「薄幸の身ながら飢え死にもせず、成人できたのも仏様のご加護、多くの人の情けのおかげ。これからは恩返しに生きよう」と、小柄な体で大八車を引き、行商をして得たわずかな利益をコツコツ貯め、市内の全小中学校に二千本以上の傘を寄附し、貧しい旅人のために無料宿泊所を建てました。

さらに木造家屋ばかりだった当時、火の見櫓を12基も設置し、町の安全に寄与しました。
蓄えを自分の為には遣わず、みんなの幸せの為に寄附する・・・これこそ喜捨、大乗仏教を体現した「聖者」だと思います。


警戒警報がなかった岡山大空襲の際、利吉さんの築いた火の見櫓が避難誘導の助けとなり、多くの命を救ったといいます。

蓮昌寺の山門をくぐってすぐのところに、「坪田利吉君頌徳碑」はあります。
空襲でバラバラになった塔身を、鉄骨で固定しています。
本当に苦心して、先人の威徳を讃え、後世に残そうとしている・・・。
今も息づく備前法華の心意気、しっかり感じましたよ!!


おまけ!!


蓮昌寺開基となった松田元喬公、備前松田氏のルーツは、実は僕の地元に近い神奈川県の松田町にあります!



松田町の山中には、相模松田氏が拠点としていた城址が残されています。
鎌倉幕府御家人の波多野氏から枝分かれした血筋ということです。



承久の乱で功績を挙げ、相模松田氏の一部が備前に移り住んだ、という説が一般的なようです。
備前法華のルーツが、神奈川県にあったなんて!
一気に身近になりました!