埼玉県西部に位置する県内唯一の村、東秩父村を訪れました。
村の中心部を流れる槻川は、荒川の上流です。
車を走らせていると「和紙」の看板をよく見かけます。
山に自生する楮(コウゾ)の木と清流を生かし、昔からこの界隈では和紙作りが盛んなようです。
槻川の畔に、お題目の法塔が立っています。浄蓮寺です。
石畳の奥に山門が見えます。
周囲の木々と馴染んでいますね。
薬医門造りの山門です。
山号は「妙栄山」です。
巨木を背景に、伽藍が横並びしている様子は、ちょっと身延山久遠寺に似ていますよね!
めちゃめちゃクラシックな庫裏で、御首題をお願いしました。
若お上人の対応がとても親切で、もうそれだけで、良いお寺に来たな~、と思います。
よく手入れされた本堂前で、お自我偈を唱えていると、ご住職がいらしてお堂を開けてくださいました。
本堂に掲げられた寺号の扁額は、池上本門寺の貫首様、日蓮宗第48代管長を歴任された田中日淳上人の揮毫です。
日淳上人は、戦争で灰燼に帰した本門寺の復興に尽力された方として、よく知られています。
浄蓮寺の先代お上人の葬儀にいらしたご縁で、書いてくださったそうです。
内陣がとにかく煌びやかでした。
天井画の龍、これ特殊な紙を裏打ちした、とても珍しいものだそうです。
また画像はありませんが、欄間彫刻はビビッドな色づかいで印象的でした。
秩父夜祭りで曳き廻される屋台を彩色する職人さんが塗ったそうですよ!
祖師堂です。
室町時代に刻された「厄除けの祖師像」が祀られているようです。
祖師堂の脇から渡り廊下をくぐると、その向こうに歴代お上人の御廟があります。
今日まで法灯を継いでくださった先師達に感謝し、合掌しました。
浄蓮寺のご住職は物腰が柔らかく、とても謙虚な方です。
その上、知識も豊富なので、たくさんお話を伺っちゃいました!
浄蓮寺の歴史はとても古く、なんと鎌倉時代の創建だそうです。
ここに住む大河原神冶(しんじ)太郎光興公が、何かのきっかけで、日蓮聖人に帰依しました。
そして法名を「浄蓮」と賜り、この地で信仰を育みました。
この界隈、つまり槻川の支流域に広がる一帯は、古くは「大河原」という地名だったということです。
駐在所には地名が残ってますね~!
昔は地元の方が、浄蓮寺のことを敬意を込めて「御堂(みどう)」と呼んでいたそうです。これがそのまま現在の住所表示になっています。
鎌倉幕府開府の立役者となった武士団・武蔵七党の中に、大河原氏の系統が記録されています。
大河原氏は武蔵七党のうち、「丹党」という武士団に属していたということですから、神冶太郎光興公もその一員だったと考えられます。
(↑画像は、梅沢太久夫・さきたま文庫「浄蓮寺」より)
ところで大河原神冶太郎光興のひと文字、正確には「治」でなくて「冶」になっています。
ご住職によると、大河原氏は武士団の中でも、鍛冶屋さんとか刀工を輩出した一族なのではないか、と考えられているそうです。
(↑画像は道の駅ひがしちちぶ・伝習館に展示されている御物太刀 ※レプリカ)
のちに大河原一族は播磨国に移り住みますが、立派な太刀を鍛造し、秩父神社に奉納しています。
刀身には、かつて秩父の地に暮らした旨が刻まれているそうですよ。
ここでちょっと脱線。
秩父地方の信仰に興味があったので、浄蓮寺のすぐ近くにある八幡山神社を参拝してみると・・・
金山彦神や火産霊神など、鍛冶屋さんに関係しそうな神様が祀られています。
こちらの神社の創建年代は不明ですが、この土地に根付いた神様であるのは、間違いなさそうです。
一方、鉱山と妙見様はとても関係が深い、と聞いたことがあります。
妙見様に導かれて山中に分け入ると、そこに鉱脈があった、的な逸話は各地にありますし、山師、鉱山労働者には妙見様を信仰する人も多かったようです。
浄蓮寺から歩いて15分くらいの場所に身形神社があります。
こちらでは三人の女神を、妙見様として祀っています。
妙見信仰の霊地・秩父神社があるせいか、この界隈にもその信仰は根付いているようです。
ちなみに、鳥居に使われる朱の顔料のことを、昔は「丹(に)」といいました。
丹は水銀を含む鉱物で、「丹生(にう)」はその産地、あるいはそこで働く人をいったそうです。
丹党の大河原氏がここで刀工に従事していた、という裏付けになりそうなキーワードが沢山ありますね!
話を戻しましょう。
正応元(1288)年、大河原神冶太郎光興公は六老僧の日朗上人を開山に招いて一寺を建立しました。
「九老僧が日朗上人を開山に仰ぎ・・・」というお寺は多いですが、日朗上人直々に開山したお寺は、結構珍しいのではないでしょうか。
開山の年号は、日蓮聖人の七回忌と一致します。
宗祖を偲ぶ良い砌に、秩父の地に信仰の拠点を築きたかったのでしょうね。
ここで一つ、疑問が生じました。
「大河原神冶太郎光興公は、どういう経緯でお祖師様と知り合うことができたのだろう・・・?」
この疑問をストレートにご住職にぶつけてみました!
ご住職によると、記録されたものがないので推測になってしまうが、比企氏を通じて交流があったのではないかと考えている、ということでした。
その裏付けとなるのは、まず開山の日朗上人です。
(↑画像は佐渡・経島の日朗上人像)
日蓮聖人のご遺命により日朗上人が護持されたお寺に、
長興山妙本寺(本山比企ヶ谷妙本寺)
長栄山本門寺(大本山池上本門寺) があります。
この二山は昭和16年まで両山一主制が執られ、日朗門流の拠点となってきました。
浄蓮寺の山号は「妙栄山」ですが、
「妙」は長興山妙本寺から、
(↑画像は比企ヶ谷妙本寺・総門の扁額)
「栄」は長栄山本門寺から、それぞれいただいているそうです。
(↑画像は池上本門寺・仁王門の扁額)
特に「栄」の旧字は「榮」ですが、お寺ですから火の字を嫌い、土ふたつの栄にしてあるのは、↑池上本門寺と全く同じです。
池上本門寺は日蓮聖人がご入滅された池上宗仲邸の法華堂を由来とします。
一方、↑比企ヶ谷妙本寺は、鎌倉幕府の御家人であった比企能員(よしかず)をはじめ一族が滅ぼされた(比企の乱)のち、唯一生き残った能員の子・能本(よしもと)公が日蓮聖人に帰依し、一族が暮らした比企ヶ谷に建立した法華堂を、聖人に寄進したのが始まりです。
(↑画像は妙本寺参道の題目法塔)
儒学者、書家として高名な大学三郎こと比企能本公(法名:本行院日学上人)は、お祖師様より20才近く年上ですが、立正安国論を奉献前に校閲したり、龍口法難時は問題解決に奔走するなど、お祖師様とは堅固な信頼関係があったと思われます。
(↑画像は埼玉県立嵐山史跡の博物館の展示資料)
埼玉県の中央部には現在も「比企郡」があります。東秩父村の東隣ですね。
昭和の時代、町村合併により一部が東松山市となりましたが、今の比企郡と東松山市を含めた広大な地域が、古くから比企郡と呼ばれていました。
源頼朝の乳母を務めた女性に、比企尼という方がいます。
平安末期、頼朝が伊豆に配流されるタイミングで、比企尼夫妻は郡司として比企郡に移り住んだ、と考えられています。
東松山市北部、今の↑宗悟寺(曹洞宗)周辺が、かつての本拠地だったようです。
来年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。
頼朝の天下取りを支えた13人の武将のうちの一人が、比企尼の猶子である比企能員であるからでしょうか、この界隈には番組の幟が目立ちます!
宗悟寺境内には、地元の方々が建立した比企一族顕彰碑もあります。
一方、比企郡川島町の↑金剛寺(真言宗)には、比企一族の墓所があります。
こちらには、比企氏の末裔が眠っています。
比企の乱で生き残った子孫は、戦国時代の頃から再び比企郡に館を構えていたようです。
今も末裔の方が近くに暮らしているのかもしれません。
比企尼は頼朝が伊豆に流されている間、20年にわたって物心両面で支援し続けた、といわれています。
当時の乳母というのは家族同然の結びつきだったのでしょうね。
(↑画像は比企ヶ谷妙本寺の参道)
この恩義もあったのでしょう、のちに頼朝が初代将軍になり鎌倉に入ると、自らの居館からほど近い谷戸に、比企尼を迎え入れました。
これをきっかけに、一族は比企郡から鎌倉に移り住んだようです。
比企ヶ谷のルーツです。
いろいろと話が飛びましたが、大河原神冶太郎光興公と、比企氏の末裔の方(能本ご本人か、周辺の方か)の活動地域が隣接していたのは間違いないようですし、実際に交流があったのなら日蓮聖人や日朗上人とのご縁も、自然の成り行きと考えられます。
浄蓮寺境内には杉の巨木がニョキニョキ!
左下のお堂は瘡守稲荷です。
眷属のキツネさん、お利口そうです。
早く新型コロナが終息しますように。
谷沿いに墓地が広がっています。
お檀家さん、多そうですね~!
室町時代、松山城主だった上田氏の墓所があります。
比企郡は武将達の覇権争いが激しく、特に松山城は常に誰かに狙われる戦略上の拠点だったとか。
出城のあった大河原、そして浄蓮寺は心安まる地だったのでしょう。上田氏は浄蓮寺を手厚く保護したそうです。
お寺の隣は小学校です。運動会の練習かな?
小学校開校以前は、浄蓮寺が寺子屋だったそうです。昔は庶民の生活にお寺が深~く関わっていたんですね。
境内を歩いていて、一番目を引くのはこれ↓
「石塔婆」というそうです。
隣の小川町で産出される緑泥石片岩を加工した、地域独特の石碑です。
てっぺんが三角形のが多いですが、いわゆる板塔婆を模したタイプもあります。
先人達がひたすら祈り、思いを石に刻んだ「信仰の証」ですね。
ところで、さきほどの浄蓮寺山号の扁額、揮毫者の名前をよく見ると・・・
下半分は日・・・薩・・・、ん?新居日薩上人!?
明治維新後、神道を国教にすべく宗教改革が行われました。
神仏分離令に始まる仏教弾圧の中、各本山の発言力が強く、まとまりのない日蓮宗門はガタガタになりました。
(↑画像は身延山歴代墓所)
新居日薩上人は 初代管長として、そんな宗門を一つにまとめ上げた大偉人です。
ご住職によると、日薩上人のご実家(群馬県桐生市)は法華信仰の篤い家で、ここ浄蓮寺から大車院日軌上人というお坊さんが出向いていた、ということです。そして日薩上人は日軌上人を師匠として仏門に入り、浄蓮寺で修行をされました。
高僧となられてからも浄蓮寺に立ち寄られたようです。
境内には明治時代に建立された日軌、日薩師弟の供養碑があります。
近代宗門の根っこの部分は、秩父にあったんですね・・・!
近代宗門の根っこの部分は、秩父にあったんですね・・・!
なかなか濃厚な、東秩父・浄蓮寺でした。
突然の訪問、そしていろんな質問に、快く応じて下さったご住職に、心から感謝致します。
まさか大学三郎の名前が出てくるとは、思いませんでした!
実際に現地を訪れて、土地の人とお話しをすると、必ず新たな発見がありますね~。今回改めて思いました。
秩父って、山に囲まれてて閉鎖的かな?という先入観がありましたが、全然!!むしろ住民の方々が人懐っこくて、すれ違うとよ~く挨拶してくれます。
今度は宿をとって、ゆっくり歩いてみたい、お気に入りの場所になりました!
最後に、比企地方を巡っていて気付いた事!
東松山市の宗悟寺の山号は、鎌倉・源氏山麓と同じ「扇谷」!
宗悟寺近くを流れる川は、鎌倉・比企ヶ谷近くを流れているのと同じ「滑川」!
浄蓮寺近くにある城跡は「腰越」!
ここは鎌倉かっ!!と思ってしまう地名連発。探せばもっとありそう。
埼玉って、裏鎌倉なんですね!