日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

隠井山妙徳寺(水戸市加倉井町)

2020-06-22 11:01:20 | 旅行
身延山を下りた日蓮聖人が目指した常陸の湯。
実は小松原法難の翌年、日蓮聖人は傷を癒やすために当地を訪れ、湯に浸かっていたということが、常陸の湯にある石碑に刻まれていました。

この「常陸の湯」霊跡を長年にわたって護持してくださってきたのが、妙徳寺です。



常磐道の水戸インターからほど近く、加倉井町という場所に妙徳寺はあります。


大きな題目碑!
特徴的な、ひげ題目ですね。


山門です。
丁寧に造られた四脚門です。


扁額には山号の隠井山。
一般的に「常陸の湯」と呼ばれているのは、平安後期に源義家が発見した泉・隠井(かくれい)の事なのです。
妙徳寺は隠井から南に2kmほど離れています。


本堂です。
品の良い唐破風が印象的です。



ん?ここにもひげ文字が!
妙徳精舎、かな?


本堂前に、宗祖七百遠忌記念事業の顕彰碑(昭和56年建立)があったので、これを参考にして妙徳寺の縁起を紐解きたいと思います。



この界隈はもともと日蓮聖人の大檀越・太田乗明公の領地で、かつ南部實長公の三男・實氏公の城趾だったそうです。
正直僕はいまだに領主と城主の違いがわかっていないのですが、いずれにしろお祖師様とご縁の深い方々が治めていた場所なのでしょう。


日蓮聖人が小松原法難の翌年、つまり文永2(1265)年に傷を癒やしに隠井↑を訪れたのも、弘安5(1282)年秋に身延山を下りて湯治目的で目指したのも、治安上のメリットがあったからだと思われます。


石碑にはもう一つ、興味深いことが刻まれていました。
建治2(1276)年、日蓮聖人のご尊名により、中老僧の日高上人が隠井で百座百講を務め、法華経を広めたということです。
建治2(1276)年というと日蓮聖人は既に身延山に入られており、遠隔地での布教は直接されていませんが、敢えてお弟子さんを遣わせて百座百講(って連日お説法しっ放しですよね?)までさせたわけで、隠井に対するお祖師様の思い入れの強さが窺えます。



日高上人のお姿は、このブログでも参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。
日高上人は太田乗明公の子という説が一般的ですが、そうなると隠井に遣わされ、そこで徹底的に布教をしたというのも自然に思えます。

そのためでしょうか、本堂には太田桔梗といわれる紋が刻まれています。
中山法華経寺もこの桔梗紋を使っていますよね!


この地での日高上人の布教活動は、南部實氏公にも支えられたようです。
父・實長公の後ろ姿を見てきたからでしょう。お上人と檀越の良い関係を築いたと思われます。
一方、實氏公のお母様である妙徳尼は、晩年を隠井で暮らしました。
妙徳尼は南部實長公の奥様であるわけで、法華経にも深く帰依していたと思われます。
實氏公は日高上人と妙徳尼のためにお堂を設け、日蓮聖人御真筆のご本尊を安置したようです。のちに妙徳尼が亡くなったのを機に、隠井のそばにお寺を開創し、隠井山妙徳寺と名付けました。


さきほどの↑妙徳精舎の扁額も、「妙徳尼のためのお寺」という意味なのでしょうね。


歴代お上人の御廟に参拝。
鎌倉時代に創建されてから実に700年以上、常陸の信仰拠点を護り続けてきた先師達に感謝です。



御廟の石には武田菱が刻まれています。
南部氏は甲斐源氏の流れを汲むため、この紋なのだと思われます。
そもそも新羅三郎義光公の次男・義清公が、常陸国武田郷を所領としたのが武田氏の始まりなわけで、武田と常陸国は切っても切れない関係なんですよね!


妙徳寺開山の日高上人は、身延で日蓮聖人にお仕えしながら、祈祷の方法などを直接、学ぶことができたようです。



日常上人(富木常忍公)入寂後、中山の法華寺二世を継ぐために妙徳寺を離れた日高上人は、同じ時代に父・太田乗明邸の持仏堂跡に本妙寺を創建し、両山の住職を兼務しました。
のちにこの二山は合併し、中山法華経寺となったのです。
(↑画像は法華経寺の法華堂)



墓誌に妙徳寺歴代お上人の法名が刻まれています。
四世・日永上人代に戦乱でお寺が焼けてしまったそうですが、五世・日通上人代に現在の場所に再建されたといいます。


現在、妙徳寺があるのは隠井から2kmほど離れた場所で、山門脇の石柱には「加倉井館跡」と刻まれています。
もともとは南部實長公が築城したと伝えられる波木井館ですが、のちに隠井という地名に因み加倉井館と改称したようです。


本堂裏手にお城の堀跡がありますよ、と妙徳寺の奥様に教えていただきました。
ここを治めた加倉井一族は、江戸氏の有力な家臣でした。
江戸氏に変わって佐竹氏が台頭してからは加倉井氏は帰農し、代々子孫が妙徳寺を護持してきたようです。



本堂正面に日蓮聖人の供養塔があります。



台座を見ると、供養塔建立に数多くのお檀家さん達が浄財を寄進したことがわかります。
当時の加倉井さんの名前も数多く刻まれています。


それこそ金何両とか


金何分とか、刻まれています。

今の貨幣基準でどれくらいかわかりませんが、妙徳寺を護持するために一人一人がひねり出した、価値ある浄財なのでしょう。
自然と感謝の念が深まります。



日蓮聖人のご尊像に合掌。


実はこのご尊像、台座に人のシルエットが刻まれているんです。


お相撲さんだぁ!


戦前に大活躍したあの大横綱・双葉山です。

まだ横綱になる前、巡業で水戸を訪れた双葉山は、妙徳寺がお祖師様のご霊跡と聞いて来山、祈願をしました。以来、妙徳寺のご住職との交流は続き、境内に宗祖像を建立する際には、多大な協力をしてくれたそうです。


いまだ不滅の69連勝で有名な双葉山ですが、その土俵態度も語り継がれています。
相撲は常に真っ向勝負。立会いの際、決して自ら「待った」をかけることはなく、時間前でも受けて立ったそうです。



また、双葉山には右目と右手にハンディがあったようですが、そのことを決して人に語ることなく、厳しい相撲界で活躍し続けました。
日蓮聖人の教えが、現役時代の双葉山を精神的に支えていたのかもしれませんね。



日蓮聖人が小松原法難の翌年に湯治し、ご入滅の直前にも目指した隠井。今もこんこんと湧き続けています。
常陸最初の信仰の拠点として、果してきた役割は本当に大きいと思います。時代時代で、何ものかを生み出す源泉になってきたのでしょう。



これからも末永く清められてゆくよう、もう一度合掌して、妙徳寺をあとにしました。