日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長遠山本成寺(富士宮市内房)

2022-08-01 10:51:06 | 旅行

僕は身延山を参詣する際、新東名の新清水ICで降りて、富士川に沿って走る国道52号線を北上することが多いです。


(南部町にある四條金吾公のご霊跡・内船寺)
内船、南部、相又など、日蓮聖人にゆかりのある地名が目白押しで、「あぁ、帰ってきたな~」と感じるルートです。


今回は52号線からちょっと逸れて、「内房」という場所にある宗門寺院を参拝しました。



日蓮聖人が「河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるが如し」とまで書かれた日本屈指の急流・富士川。



富士川三大難所の一つ「釜口峡」の西岸に、内房(うつぶさ)の集落があります。
 


知る人ぞ知る古刹・本成寺です。



立派な題目法塔が迎えてくれます。


お!石工は信州高遠の職人さんですね。

山深くにある高遠は耕作地が狭いため、農家の次男以下は石工に従事し、日本全国を旅しながら石碑や石仏を彫っていたようです。
特に江戸時代、高遠石工は技術が高く、引く手あまただったと聞いたことがあります。



山門です。
石垣の上に構える薬医門。いい雰囲気です。



山号は長遠山です。


ん?山門の向こうにも門?

上半分は木造の楼門風、下半分は漆喰の竜宮城風、ハイブリッド門です。
境内におられたお檀家さんにお話しを聞くと、これは鐘楼門、つまり上に梵鐘があるんだそうです。


真下から写すと・・・

おおっ!



本堂です。
屋根が二層になっている珍しい造りです。多宝塔をイメージしているのかな?
気持ちのいい晴天のもと、本堂前でゆっくりお自我偈を唱えさせていただきました。


(願満祖師像:本成寺縁起より引用)
本堂には彫刻の名手・日法上人ご親刻の、願満祖師像が安置されているそうです。
身延山と同じく、6月と10月に御更衣式をしているとのことです。



こちらは祖師堂です。
扁額の「國柱殿」は、開目抄の三大誓願が由来かな?


境内にお寺の縁起が掲示されていました。

読んでびっくり!
まず、ここ本成寺の歴史がものすごく古いということ。それこそ日蓮聖人が数々の法難に遭うより前の時代に、創建されています。
そして何より、本成寺の縁起が、日蓮聖人の立正安国論起草に大きく関わっていること・・・今まで全く知らなかった経緯が、そこにあったのです。


(長興山妙本寺蔵・立正安国論:鎌倉国宝館刊「北条時頼とその時代」より引用)
日蓮聖人渾身の著作「立正安国論」。
天災や疫病などで人々が苦しむ中、国家が本来あるべき姿、なすべき政策を提案した論文、檄文です。



正嘉元(1257)年から文応元(1259)年にかけて、東国では大地震、洪水や疫病、飢饉などが次々発生し、人々は困窮していました。幕府は寺社に働きかけて祈願をしましたが、状況は一向に改善しませんでした。


(本成寺の日蓮聖人銅像)
日蓮聖人はこの現状に疑問を抱きました。
災厄が起こる原因は、仏法を軽んじているからではないのか?
ならば・・・どうすれば良いのか?どうすれば人々は救われるのか?
日蓮聖人はこれらの原因と対策の糸口を経文に求めようと、動き始めました。


富士市岩本にある、岩本山實相寺。
(實相寺の楼門)
平安時代に鳥羽法皇の命で創建された、当時天台宗だった勅願寺です。
のちに第5代天台座主となる円珍上人が、唐から持ち帰った一切経二蔵のうち、一蔵が格護されているお寺として、全国に名を知られていました。


当時、一切経を所蔵するお寺は少なく、門外の僧が閲読したくても、そのハードルは想像以上に高かったようですね。
(實相寺境内)
高僧にツテがあるとか、大寺院の僧ならばともかく、ほんの数年前に一宗を興したばかりの日蓮聖人。おいそれとは一切経蔵に入れなかったのでしょう。



「日源上人とゆかりの寺院」(日源上人第七百遠忌御報恩奉行会刊)という冊子の中で、立正大学の寺尾英智教授(現在は学長さんなんですね!)は、
「日蓮聖人は諸経論を閲読するため、知友の僧や弟子たちに依頼するなど、苦心している。」
と書かれています。


(富士川堤防から岩本山を望む)
当時、實相寺がある岩本地域を治めていた郡代官は上野氏、この上野氏にお仕えしていた役人の中に、「内房殿」と呼ばれる人がいました。
内房殿は仕事の関係上、普段から實相寺にも出入りしており、お坊さん達とも顔見知りだったと思われます。


(實相寺の山門)
實相寺から門前払いを食らい続け、困り果てている日蓮聖人の姿を、ある日、内房殿は偶然目にしました。
内房殿は聖人に、何かを感じ、声をかけたのだろうと思います。


日蓮聖人に話を聞いて、心を揺さぶられたのでしょう。
それならばと、内房殿は實相寺に仕える巌誉律師(ごんよりっし)という住僧を紹介しました。
(實相寺の一切経蔵)
このご縁で、日蓮聖人は入蔵を許され、一切経を閲読することが叶ったのです。


この経緯、目から鱗でした。
日蓮聖人のご霊跡を巡り始めて6年経ちますが、この話は初めて知りました。
日蓮聖人は清澄山で修業し、比叡山で学ばれたわけで、だから天台宗の岩本實相寺には出入りできたんじゃないかと、勝手に思ってましたが・・・苦労されたんですね。
(妙法華経山安国論寺蔵・日蓮聖人註画讃)
この一切経閲読を基礎として数年後、日蓮聖人は立正安国論を書き上げ、北条時頼に献上したわけですから、内房殿の功績はあまりに大きいですよね!



内房殿のご実家は、岩本實相寺から10kmほど離れた、富士川沿いの内房という村にありました。胎鏡寺という、真言宗のお寺でした。


内房殿はさっき知り合ったばかりの日蓮聖人を実家に招き、改めて、母親とともに聖人の法話をじっくり聞きました。
胎鏡寺の宗旨とは違うけど、このお坊さんは本物だ!と感じた母子は、その場で日蓮聖人に帰依しました。

また、内房殿には胎鏡寺の住職を務める、東林坊、仏像坊という2人の弟がいましたが、日蓮聖人と法論を交わすうちに彼らも信伏し、日蓮聖人のお弟子さんになりました。
正嘉2(1258)年のことです。


本成寺の縁起によると、日蓮聖人はこのお寺に「一夏九旬」、滞在したようです。
一夏九旬(いちげくじゅん)とは、旧暦4/15~7/15のことで、仏教では安居(あんご)の期間といい、古くはインドの雨季、お坊さん達が外に出ず修行に専念していたのがルーツみたいです。

てことは日蓮聖人は3ヶ月間、ここ内房を拠点として實相寺に通ったり、立正安国論の構想を練られたのかもしれませんね!



そうそう、境内には日蓮聖人が使われたと伝わる、硯水井戸がありますよ。



鎌倉幕府をも動揺させた立正安国論は、このお水で墨を擦り、下書きされたのかな?想像が膨らみます。


歴代お上人の御廟を参拝。

開山以来765年(!)、この地で法灯を継承してくださった先師達に、心から感謝いたします。


日蓮聖人に帰依したことで、胎鏡寺は改宗して長遠山久成寺となり、のちに長遠山本成寺となります。

日蓮聖人を開山と仰ぎ、兄の東林坊は日報上人、弟の仏像坊は日浄上人という法名を日蓮聖人から賜り、それぞれ二世、三世を歴任されました。

ちなみに本成寺、他宗から法華経に改宗したお寺としては、宗門最初だそうですよ!



本堂の裏山にはお祖師様のご尊像。



縁起通りに解釈すると、お祖師様36才の時、内房に来られています。
肌に張りが感じられますから、その頃のお姿なのでしょう。


法華経を国家の柱にしたいという日蓮聖人の構想は、内房殿の機転によって立正安国論という形となり、一気に現実味を帯びるようになりました。

お祖師様はこの時の感謝の気持ちを生涯、忘れなかったのでしょうね。
身延御入山の際にもこちらに立ち寄られたようですし、内房殿のご家族に宛てたご遺文も、いくつか確認されています。



富士山が見える!
お祖師様もここから拝まれたのかな?


僕が本成寺を参拝した日は、何人もの職人さんが入って、境内の手入れをされていました。

ご首題をお願いがてら、対応してくださったお上人にお話しを伺うと、なんとそのお上人、これから本成寺の住職を継がれるとのこと!
さらには翌々日、入寺式が予定されているので、境内の整備をしてるんですよ!と仰っていました。


先ほどの縁起をまとめられたのが61世とありましたから、新住職は62世でしょうか?
ろ、62世・・・う~、気が遠くなる・・・。

だけどこうして一代一代、法灯は絶えることなく継がれてゆくんですね。
ゴツめのガタイに反して、笑顔の優しい、とても話しやすいお上人でした。

応援しています!!