日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

具足山妙本寺(吉備中央市北)

2019-06-23 23:33:26 | 旅行
(↑画像は藤沢・片瀬の龍口寺)
お祖師様自らが「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と仰るご生涯の中でも、龍ノ口の法難は最も生死の境に近づいた事件ではないかと思います。


当時、度重なる天災や疫病、それから内乱に蒙古の脅威などにより、日本は疲弊し荒廃していました。
これを憂えた日蓮聖人は、著作「立正安国論」を幕府に奏上するとともに、二度にわたり幕府に諫暁しました。
(龍口寺祖師堂と五重塔)
一方、幕府側にしてみれば自分達のお膝元・鎌倉の路傍で日々政権を批判し、評定所では声高に国の行く末を予言してみせ、悔しいことにその通りになりつつある・・・今すぐにでもあのうるさい無名の僧侶を引っ捕らえ、存在を消し去ってしまえ、という動きがあったようです。


(龍口寺御霊窟:刑の執行まで幽閉されたと伝わる)
文永8(1271)年9月12日夕方、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人は捕らえられ、刑場であった龍ノ口へ連行されてしまいました。
日付が変わり午前2時、幕府の正式な決定も待たず、今まさに斬首されようとした時でした。

 「江ノ島の方より月の如くひかりたる物 まりの様にて辰巳の方より戌亥の方へひかりわたる・・・」(種種御振舞御書)

突然の奇瑞により太刀を構える役人の目がくらみ、斬首の刑は中止となりました。


(龍口寺山門の扁額)
その場に居合わせた人々の様子は、こう記されています。

「兵共おぢ怖れ興醒めて 一町計りはせのき 或は馬よりをりてかしこまり 或は馬の上にてうづくまれるもあり・・・」(種種御振舞御書)


実はこの兵(つはもの:警護の役人)共の一人が、日蓮聖人に帰依し、開いたお寺が岡山県にあります。

吉備中央町にある妙本寺です。


周囲はのどかな田園風景。和みますね~。
昔は「野山の郷」といわれた場所だそうですよ。


楼門です。
普段は仁王様がお祀りされているようですが・・・


現在は修理中のようです。
長年の風雨にさらされながらお寺を護ってきた仁王様。ときにはこうやってメンテナンスを施して、次世代に遺してほしいものです。


うわぁ、大きな草鞋(わらじ)!
仁王様は健脚とか健康の神様ということで、古くから仁王門には草鞋が奉納されてきたようです。


(楼門に掛かる扁額)
山号は「具足山」です。
・・・ん?具足山って京都で聞いたことがあるなぁ。何だったっけな?


(楼門前にある宗門史跡碑)
お寺の縁起によると、日蓮聖人に帰依した鎌倉武士・伊達弾正朝義(ともよし)公がこの野山の郷に地頭として赴任、居館の北東の丘に(恐らくお堂を)創建したのが妙本寺のルーツだそうですが、これが何と!弘安4(1281)年のことといいますから、それこそ日蓮聖人がご存命中に、すでに西日本に何かしらの法華の拠点が築かれてたことになります。


僕のつたない知識の中では、西日本に初めて築かれた法華のお寺は、元亨元(1321)年に日像上人が開いた京都・妙顕寺↓ではないかと思います。
ところがその40年も前に、京都よりもずっと西の備中に、法華の道場が開創されていたわけですね。カルチャーショック!
備前地方では「西身延」と呼ばれる名刹のようです。


境内が、緩やかに傾斜した丘の上にあるのがわかります。


雨粒が滴る梅の花の向こうに、日蓮聖人のご尊像が見えます。


合掌姿の日蓮聖人です。僕も相対して合掌。
頬の張りやしわの様子から、お年を召した頃のお祖師様と想像できます。


本堂です。
お寺の縁起によると、妙本寺の本堂は鎌倉時代の建治元(1275)年建立、妙本寺開山よりも古いわけですから、もともとは他宗のお堂だったのでしょう。
何度もの大修理を経て現在に至るようです。もしかしたら創建当時の部材も現役で使われているのかもしれません。



屋根は椹(さわら)葺きだそうです。
瓦葺きにはない独特の曲線がセクシーです。
本堂屋根もこれから修理するそうで、僕もちょっとだけ、小遣いを喜捨させていただきました。


振り返ると眼下に楼門。
気が付かなかったけど、石州瓦の屋根だったんですね!



味のある鐘楼です。
2階建ての鐘楼は小室の妙法寺や大野の本遠寺、静岡の本覚寺など、時々目にします。
やはり遠くまで音が響くように、梵鐘を高い位置に据えているのでしょうか?


番神堂です。
安土桃山時代の建築、全国的にみても最も古いといわれる番神堂だそうです。
日蓮宗における三十番神信仰は、日像上人にルーツがあると聞いたことがあります。


歴代お上人の御廟を参拝。


六十世までのお上人が刻まれています。
738年もの歴史を支えてこられた先師たちに感謝し、合掌しました。


開山を日像上人と仰ぎ、二世に日像上人のお弟子さんである大覚大僧正となっています。
伊達弾正朝義公がこの地に法華の道場を開いた弘安4(1281)年の時点で、日像上人は11歳、大覚大僧正はお生まれになっていません。つまりお堂など信仰の拠点はあったけれど、正式な「お寺」となったのは後のことなのでしょう。
日蓮宗ポータルサイトによると、この地への日蓮聖人、日像上人の招聘は叶わず、実際に野山の郷を訪れたのは大覚大僧正だったようです。


開山の経緯については、本堂内に絵入りの縁起が掲げられていたので、紹介します。(※本堂内、撮影はせず、メモしました)

「伊達弾正朝義公が 備中野山の郷の地頭職として赴任するに当り 身延山に日蓮聖人を訪ねて 任地野山の郷に寺を新しく建立したく思うので 開基となって戴きたいとお願い申し上げたところ 聖人は西国弘法の道師と定めて居る弟子が居る 其の者が適任であると 弘安五年十月十一日 日蓮聖人御入滅の前々日 当時十三歳の経一丸 後の日像菩薩を枕もとに召されて 朝義公が此のたび建立する寺の開基となるよう命ぜられ 寺の名を具足山妙本寺と命名し 御自筆の御曼陀羅と極細字の法華経の一巻をお授けになった 現在もこの二品は妙本寺の秘宝として代々伝えられている」

とありました。


目からウロコの話ばかりで・・・鳥肌が立ちます(笑)
日蓮聖人は身延在山中に、すでに経一丸を西国弘通の適任者と決めていたということになります。
また「具足山妙本寺」の寺名もお祖師様ご自身が決められたのです。

そして・・・今思い出しました!「具足山」は妙顕寺はじめ京都の三山に冠せられている山号でしたね。日像上人が開山された妙顕寺、妙覺寺、立本寺の三山は「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれていると、昨年の京都訪問で知りました。
歴史としては妙本寺の方が古いのかもしれませんね。


野山法華七百年法要の石塔がありました。

北条氏の家来でありながら、日蓮聖人に深く帰依した伊達弾正朝義公が、野山の郷に赴任してきたのは、配置換えという名目の左遷、だったようです。
つまり幕府は、朝義公を日蓮聖人からできるだけ遠ざけたかったのだと思われます。
しかし朝義公の信仰はむしろ深くなり、妙本寺の創建のみならず、近隣10ケ寺を朝義公自ら改宗し、野山を法華の郷に変えていったといいます。


すごい・・・お寺も、お寺を支える村人もみな日蓮聖人の教えを受け容れ、次の世代に伝えてきた地域が、すでに鎌倉時代にあったのですね。
この地域の法華信仰は「野山法華」と呼ばれ、現在まで受け継がれているそうです。


大覚大僧正が初めて野山の郷を訪れた時の驚き、喜びは、いかばかりだったでしょう。
現在も岡山県には日蓮宗のお寺が多くありますが、実は大覚大僧正がこの妙本寺を拠点として、根気よく布教活動された結果だといわれています。


日蓮宗ポータルサイトによると、妙本寺は「西国弘通最初の法華道場」として宗門史跡に指定されています。
これだけの由緒があり、かつ宗門に果たしてきた貢献を思えば、誰もが納得することでしょう。


それにしても龍ノ口での出来事は「法難」でありながら、結果、例えば警護の役人の心を動かし、信仰の種になり、現在に至っているさまを、遠く備中野山で見せつけられました。

めでたいことの前兆として現れる現象を「奇瑞」と呼ぶそうですが、まさに奇瑞、龍ノ口では奇瑞が起きたんだと、深く納得し、野山をあとにしました。



後日談
それから4年半が過ぎ・・・
(令和5年12月1日付 日蓮宗新聞より)
妙本寺本堂の保存修理が無事完了し、令和5年10月15日に記念法要が営まれたようです。

我が家にもお礼状と、本堂の屋根の古材(椹:さわら)を送ってくださいました!
「長い年月、妙本寺の本堂を守り、お経が沢山つまった屋根の古材です」と添えられていました。ご住職、ありがとうございました。
今後は我が家の仏壇で、僕と妻の拙いお経を、毎日供養していきますね!

誓いの井戸(伊勢市倭町)

2019-06-16 09:32:23 | 旅行
平成の終わり頃、日本人の心のふるさと・伊勢神宮を参拝してきました。
参詣者がまだ少ない朝一番に訪問したので、境内は静寂に包まれていました。


見たこともない柄杓の数!さすが最高峰の神宮です。


お祭りの順序にならい、豊受大御神をお祀りする外宮から


天照大御神をお祀りする内宮の順に参拝させて頂きました!


内宮と外宮の中間点あたりには倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をお祀りする倭姫宮があります。
かつて天照大神は当時の皇居にお祀りされていましたが、十一代垂仁天皇の皇女である倭姫命が御祠を五十鈴川の畔に安置したのが、伊勢神宮のルーツだといわれています。
神宮の基礎を築かれた神様のお宮ですから、この一帯は内宮、外宮と並び特別に神聖な場所だと思われます。


倭姫宮からほど近く、伊勢消防署前の大きな交差点


その一角に、玉垣で囲まれた場所があります。



静謐で、そしてただならぬ雰囲気!



「日蓮三大誓願 宗門発祥聖地」と書かれた札が掲げられています。
伊勢という神聖な土地柄か、宮内庁が御陵に掲げる札の雰囲気に何となく似ていますね~。
「正法護持財団」という方々が所有・整備されている場所のようです。

 
日蓮聖人がまだ蓮長法師だった頃、当時の仏教の中心地であった比叡山を中心に京都、奈良、大阪で諸宗を徹底的に勉強しました。
いずれの宗派も「お釈迦様の教えを忠実に伝えている」と主張しているが、本当はどうなのか・・・?
蓮長法師が真理を求める旅は足掛け12年に及びました。


お釈迦様の教えの真髄は法華経にあると確信した蓮長法師は近畿からの帰路、特別な思いを抱いて伊勢神宮の内宮に参拝したといわれています。
法華経を世の中に広めるんだという強い決意を天照大神に誓ったのです。


蓮長法師は内宮参拝の前に、この地にあった常明寺という天台宗寺院に参籠していたそうです。


蓮長法師が身を清めるため、水垢離をしたというのがこの井戸です。
まだ春も浅い3月に水垢離すること何と100日!

「誓いの井戸」として伝えられています。


話は逸れますが、昔の参拝者は内宮のすぐ横を流れる五十鈴川で身を清めていたのだそうです。


これはおかげ横町の地下道に展示されている屏風絵です。江戸時代の「おかげ参り」を描いたものです。
人々は川に入って手を洗ったり口をすすいだりしています。
中にはからだ全体を水に沈めて禊をする人もいたそうですが・・・

やはり日蓮聖人の100日の水垢離は、いかにその誓いが特別なもので、意志が堅固なのかを想像することができます。


ちなみに内宮の正宮に対面する人々は、一様に砂利敷きに正座ですよ!
見えない何ものかを畏敬する気持ちは江戸時代ですらこうですから、鎌倉時代は・・・どんな位置付けの場所だったのか、想像すらできません。


話を戻しましょう。
誓いの井戸霊跡の境内は意外と奥に深くなっています。


いちばん奥に大きな宝塔が鎮座しています。
信仰のある方々が境内を清めて下さっていました。お話を伺うと輪番でお掃除されているそうで、今日は四日市のお寺のお檀家さん達だそうです。
「皆さんのおかげで、本当に気持ちよく参拝できます」と感謝の言葉をお伝えしました。


日蓮聖人の「誓い」といえば、開目抄の「三大誓願」を連想します。

実はこの宝塔の台座には、三大誓願の銅板がはめ込まれています。

「我為日本柱 我為日本眼目 我為日本大船」
(われ日本の柱とならん われ日本の眼目とならん われ日本の大船とならん)

開目抄は1271年11月から翌年2月にかけて、日蓮聖人が佐渡の塚原におられた時に著されたそうですが、実はそれより18年も前、ここ旧常明寺の井戸での水垢離、そして内宮で天照大神に誓いを立てたことが三大誓願のルーツになったといわれています。


僕は今まで三大誓願は、立教開宗以後の相次ぐ法難を経験されてきた日蓮聖人が、それでも一歩も退くものかという決意を新たに誓ったものと考えていました。
しかしこのご霊跡を訪問して、根底に脈々と流れる誓いは学僧・蓮長法師の頃から全く変わっていなかったと認識できました。
いや、そうだろうとは思っていましたが、確信しました!


明治維新期の神仏分離政策の影響でしょうか、常明寺が廃寺となり、日蓮聖人が水垢離をされた井戸周辺は一時荒廃していたそうです。
大正13年に伊賀上野出身の貿易商である川合芳次郎氏が境内を整備し、現在は三重県宗務所が管理して下さっているそうです。
入口の札にあった「正法護持財団」は川合氏が設立したようです。
本当に頭が下がります。彼らへの感謝の気持ちも込め、合掌しました。


ところで誓いの井戸の手水場には、かわいいアマガエルが住んでいます!


柄杓の下に静かに佇んでいたのに驚かしちゃってごめんね!
境内をお掃除していた信者さんによると、いつの間にかまた手水場の上に戻っているそうです。

ご霊跡はアマガエルを含め実に多くの方々に護られているんだなぁ、と清々しい気持ちになりました。