日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

鎮西身延山本佛寺(うきは市浮羽町)

2019-10-06 23:11:30 | 旅行
九州最大の川・筑後川
阿蘇山を源とし、西へと流れ有明海に注ぎます。
古くから氾濫を繰り返してきた厄介な川でもあり、「日本三大暴れ川」の異名を取ります。
ちなみに「日本三大暴れ川」とは利根川、筑後川、吉野川をいうそうです。


記憶に新しい平成29(2017)年の九州北部豪雨では、筑後川本流だけでなく支流も大暴れし、甚大な被害が出ました。
東峰村から朝倉市にかけての谷あいでは、復旧工事が急ピッチで進められています。
被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。


朝倉市に隣接する「うきは市」
筑後川の南側に位置する丘に、有名な宗門寺院があると聞き、訪問しました!


本佛寺です。
斜面にそびえ立つ山門が偉容を誇ります。


向かって右に阿行


左に吽形が睨みを利かせています。


山号は「鎮西身延山」です。
鎮西は九州の別名、ってところでよろしいでしょうか。


今まで訪問した宗門寺院の中には、
 「北身延」(遠野・波木井山智恩寺)、
 「東身延」(鎌倉・妙厳山本覚寺)、
 「西身延」(京都・法鏡山妙傳寺、岡山・具足山妙本寺)
という通称を持つお寺もありましたが、山号に「身延山」と入っているのは本佛寺が初めてです!


瓦の一枚一枚に「本」の文字。


本佛寺にはお祖師様の御真骨が分骨されているようです。


山門を通した景色から、境内が丘の上にあることがわかると思います。


耳納山地の北麓に境内が広がっています。
境内の広さ、驚きの3万坪以上!


美しい方形屋根の本堂です。
まだ廃仏毀釈の雰囲気冷めやらぬ明治17(1884)年に建てられたといいます。
先人達がどんな苦労をして、この総欅造りのお堂を建立したのかと想いを馳せました。


日本全国が自然災害に翻弄される昨今、胸に滲みる言葉です。


総受付は信徒会館の建物にあります。
本佛寺は九州宗門の一大拠点になっているようで、何人もの若いお上人たちが元気に動き回っていました。
ご首題を受け付けて下さったお上人は、僕が暮らす町の隣町に学生時代に住んでいたそうで、地元の話題で盛り上がりました!


歴代お上人の御廟を参拝。
本佛寺は明治17(1884)年創建、それこそ宗門のみならず、日本仏教界が激動だった頃に始まったお寺です。


幕末~明治維新期、国学を柱とする尊皇攘夷思想が高まり、仏教もその槍玉に挙げられました。
幕府に庇護された外来宗教である仏教を排除し、わが国ゆかりの神道を国家宗教にしよう、という動きが全国を席巻しました。
神仏分離、廃仏毀釈です。わが宗門も大打撃を被ったといいます。
とはいえ、当時の宗門は身延、池上、中山、京都の本山がそれぞれ独自に活動しており、明治新政府と交渉しようにも組織のトップが一本化されないという状態だったそうです。


そこで宗門のまとめ役として頭角を現したのが、新居日薩上人でした。
明治政府から身延山久遠寺住職に任命された新居日薩上人は、大変な苦労をして宗門を一つにまとめ上げ、宗名「日蓮宗」を公称できるように尽力されました。

一方、古くからお坊さんの学校として「檀林」という施設が宗門にもありましたが、やはり身延、東京、千葉、京都にばかり偏在している状態でした。
そこで新居日薩上人は、九州初の檀林「鎮西栴檀林」をこの地に設け、大寺院に依らずに法華信仰のない地方でもお坊さんを養成できる環境づくりを目指したようです。
恐らく大きな賭けだったと思います。
新居日薩上人から任命された中洲日振上人が法華不毛なこの地に入り、ゼロから作り上げた鎮西栴檀林が今の本佛寺のルーツだと思われます。


明治17(1884)年に創建された本佛寺を支えてこられた第八世までのお上人の法名が刻まれています。
令和の時代まで法灯を継いで下さった先師達に、心から感謝です。
開山に尽力された唱導院(中洲)日振上人の前に、自厚院日鑑上人の名前がありますね。

激動の明治期宗門を、新居日薩上人とともに苦労してまとめ上げた偉人に吉川日鑑上人という方がいますが、自厚院日鑑上人はまさにその方だと思われます。


本佛寺の開山に先立ち、明治14(1881)年に身延山から日蓮聖人の御真骨が分骨されました。


このお堂が御真骨堂の拝殿です。


真っ白な御真骨堂の前面に拝殿がある設計は、身延山と全く同じです。


こちらに安置されているのは左肩の御真骨だそうです。


思えば各地の寺院で拝ませていただいた日蓮聖人のご尊像、左手には法華経の巻物を握っていることが多かったな・・・。
また小松原の法難で折られたのは左腕だったし、それらの部位を支え続けた左肩、感謝の想いも強くなります。


山の斜面に沿って続く境内には、日蓮宗ならではの守護神をお祀りするお堂が点在します。


こちらは鬼子母尊神堂です。
本佛寺より少し西側の田主丸(たぬしまる)という場所で地域崇拝されていたご神体がお祀りされているそうです。


清正公大神祇堂です。
法華経信仰を背景に、猛将でありながら農地改革など善政を行ったことで、庶民の尊崇を生んだ加藤清正公。
清正公信仰は全国的にみられますが、やはり九州の方々の信仰の篤さは別格のようです。


そして本佛寺独特の守護神、永遠大明王(えいおんだいみょうおう)をお祀りするお堂です。
第五世の日菅上人が感得された守護神だそうです。
苦しい者に手を差しのべる神様で、開山してしばらくの間、異変に悩まされた本佛寺も、そのご加護に恵まれたといいます。


この紋、七面山麓の神力坊をはじめ、修験道や天狗に関係する場所でよく見られます。
本佛寺自体、耳納連山の麓にあるわけで、永遠大明王は地域に根付いた山の神様が由来なのかもしれません。


ところで永遠大明王を勧請された日菅上人は、俗名を佐野前励さんといい、本佛寺の中興の祖としてのみならず、日蓮宗の改革者としても知られた方だそうです。逆風にさらされ続けながらも信念を貫き、宗門の近代化に努めたと聞きます。

今後は明治期の宗門を支えた偉人達についても、意識してお寺巡りをしてゆきたいと思います。