4年ぶりに、越前武生(たけふ)を旅しました!
(総社大神宮境内 越前国府の碑)
かつて武生には、越前の国府が置かれ、政治、経済、文化の中心地として栄えました。そのため、この界隈は「府中」とも呼ばれたようです。
永仁2(1294)年、日蓮聖人からのご遺命である帝都開教を果たすため、孫弟子の日像上人は、一大決心をもって京都に向かいました。
北陸界隈、日像上人はおよそ北国街道沿いを京都に向かって歩かれた、といわれています。
(小丸山城址公園内 日像上人銅像)
その途次、各地で熱心な布教を行ったため、特に越前は法華信仰が篤いことで有名です。
武生の町なかには旧北国街道が縦貫しているのですが、実際、旧街道沿いには日蓮宗寺院が沢山あるようです。
早朝に付近を散歩してみました。
北陸ですから、確かに浄土真宗系のお寺が多いんですが、歩いたのが早朝だったせいか、そこかしこからリズミカルな木鉦の音が聞こえてきて、日蓮宗、頑張ってるな~、と嬉しくなりました!
(本境山妙智寺本堂にて)
あるお寺では、(恐らく)在家の方が自主的に読経、回向文を読み、勤行を完結していました。
すげぇ!カルチャーショック!
また、散歩の途中、明治の政治家・関義臣氏の生誕地も見つけました。
関義臣氏は、英国人・甲比丹ゼイムス氏に、初めて法華信仰の道を示した信徒です。
越前は、在家の信仰もディープです!
旧北国街道から路地を一本入ったところに、経王寺があります。
経王寺の入口です。
今から11年前、現ご住職が中山大荒行を五行成満(!)された良い砌に、建立された題目法塔があります。
お題目の独特の揺れ方から、日像上人のお寺だとわかりますね。
山門です。
後ろに控え柱のある薬医門です。
経王寺の寺名は、諸経の王といわれる法華経のことでしょう。
山号は華岳山(けがくさん)です。
日蓮聖人のご尊像は、合掌のお姿です。
立教開宗750年を記念して、先代ご住職が中心となって建立されたようです。
方形屋根の本堂です。いい雰囲気ですね!
豪雪地帯らしく、鉄骨フレームでお堂を囲んでいます。
本堂の右手を行くと、歴代お上人の御廟に至ります。
長きにわたって、信仰の拠点を護り続けてくださった先師達に感謝し、合掌しました。
経王寺のルーツは永仁2(1294)年、日像上人が上洛の途次に巡化された霊地で、もともとは一乗谷にあったといわれています。
(一乗谷朝倉氏遺跡内を流れる一乗谷川)
福井平野の南東、一乗山の麓を流れる川沿いに、一乗谷はあります。
戦国時代、越前を百年以上治めた朝倉氏5代が、ここに城を築いて首府としました。
(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の展示)
1.7kmの谷間には武家屋敷、町屋、そして多くの社寺があり、経王寺も住民の暮らしに根付いていたんだと思います。
(一乗谷朝倉氏遺跡)
ところが天正元(1573)年、織田信長の攻撃により朝倉氏は滅亡、一乗谷は焼き尽くされてしまいました。翌年には一向一揆が猛威を振るった記録もあり、この前後に経王寺も廃寺となったようです。
(金沢城公園内 前田利家銅像)
一乗谷の戦いから2年後の天正3(1575)年、越前地域を統治する名目で、前田利家公が府中(現在の武生)に入城します。
経王寺の縁起には、「名跡再興の為に前田家の庇護を蒙り、現在地に寺領を賜り、建長元(1596)年、堂宇を建立した」とあります。
(越前武生の街並み)
度重なる戦乱で町が荒廃し、人心も痛んでいたのでしょう。前田利家公は町割りを作るにあたって、土地の人が慣れ親しんだ経王寺のようなお寺を、積極的に組み込んでいったのだと思います。
経王寺の復活にあたり、再興開山を担ったのが、実成院日淳上人です。
日淳上人の父親は朝倉義景公の家臣だった上木新兵衛、そして妹(異母妹)は千代保(ちよぼ)、すなわち、のちに前田利家公の側室となる寿福院です!
※寿福院は幾世→千代→千代保と名前が変わりますが、このブログでは「千代保」、前田利家没後は「寿福院」で統一します。
ちなみに上木新兵衛は、前妻との間に日淳上人をもうけましたが、前妻と死別後、前妻の妹を後妻とし、千代保が生まれたそうです。
一乗谷の南西10kmほどに、高木町という場所があります。
上木家は代々、この周辺で暮らしていたようです。
付近の八幡神社境内には、「寿福院生誕地」の石碑もあります。
上木家は篤信の法華の家系、一族には出家者も多いといいます。
(一乗谷朝倉氏遺跡)
一乗谷の経王寺を菩提寺としていたようですから、日淳上人や千代保の法華信仰は、一乗谷経王寺によって育まれたのでしょうね。
(経王寺境内の説明板)
それだけに前田利家公が越前府中に、経王寺再興のきっかけを作ってくれたこと、上木一族はどんなに喜んだことでしょう。
そして日淳上人は熱い志をもって、経王寺再興に尽力されたと思います。
(浄土宗正覚寺山門:府中城山門が移築されたもの)
前田利家公の府中在城は、天正3(1575)~天正9(1581)年の約6年間でしたが、この頃、千代保は自ら志願して、府中城に奉公したといいます。
まだ10才にも満たない子供なのに・・・偉いですね。
健康的な美貌と、腹のすわった性格を兼ね備えた千代保は、やがて前田利家公の目にとまり、側室として迎えられます。
一方、信長や秀吉の信頼が厚かった前田利家公は、論功行賞として能登、加賀、越中を与えられました。
千代保も府中を離れ、金沢に移ります。
文禄元(1592)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、前田利家公は肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に赴くことになりました。遠方ということで、正室・芳春院は金沢に留まる中、側室である千代保は名護屋に随行しました。
(肥前名護屋城跡)
この時、千代保は前田利家公の子を身籠ります。
金沢に戻って出産したのは元気な男の子、のちの2代藩主・前田利常公です。
(金沢城石垣)
慶長4(1599)年、前田利家公が没すると、側室である千代保は髪を下ろし、以後、彼女は法号である「寿福院」を称するようになります。
能登滝谷に、金栄山妙成寺があります。
日像上人開山の、日蓮宗本山です。
寿福院はここを自らの菩提寺と定め、亡き利家公の菩提を弔うと同時に、一粒種の利常公が活躍し、そして何より無事でいてくれるよう、祈ったといいます。
(妙成寺五重塔)
寿福院の妙成寺への貢献は、桁違いだったそうです。
五重塔含めた現在の伽藍群、仏像、経巻に至るまで、寄進を尽くしました。
また慶長6(1601)年、金沢城下にもう一つの経王寺、寿福山経王寺を創建しています。
府中は越前、いわば他国になってしまったため、自国に経王寺が欲しかったのでしょう。寿福院にとって経王寺は、それほど大切な存在だったのです。
日淳上人は、この金沢経王寺の開山上人も務めています。
また寿福院によって整備が始まった当時、妙成寺の貫首さんをされていたのも、日淳上人でした。
寿福院の法華信仰は常に、お兄さんと二人三脚だったんですね!
それにしても寿福院、側室の立場でありながら、なぜこれほど知られた存在なのでしょうか?
実は前田利家公には正室との間に、嫡男・利長公(初代藩主)がいましたが、その利長公は男子に恵まれませんでした。
(金沢城公園)
一方、寿福院の子・利常公(2代藩主)は、もともと政略結婚として正室に迎えた珠姫(徳川2代将軍秀忠の次女)と非常に相性が良く、のちの3代藩主・光高公など、子宝に恵まれました。
以後、明治維新を迎えるときの最後の藩主・慶寧(よしやす)公、さらに言えば現在の当主まで、寿福院の血は途切れることがありませんでした。
まさに前田家のビッグマザーなんですね!
そうは言っても徳川政権にとって、前田家は外様大名です。
藩主の母親である寿福院は44才の時、住み慣れた北陸を離れ、人質として江戸屋敷で暮らすことを余儀なくされます。
(江戸城和田倉門跡周辺)
加賀藩江戸屋敷といえば現在の東京大学を連想する方も多いと思いますが、当時は江戸城和田倉門近くにあったと聞きます。
今じゃ大ビジネス街、とてもじゃないけど当時を想像できません・・・。
幕府の監視下にあったとはいえ、江戸周辺には寿福院の足跡が残っています。
池上本門寺の大堂近くには、寿福院の逆修塔があります。
生前に自らの手で供養を行い、死後の菩提を予め弔うというのが「逆修」です。
(逆修塔台座の刻字:左側に法号が刻まれている)
戒名も生前に持つのが、当時は一般的だったといいます。
「寿福院殿華岳日栄大姉」
ちなみに、二つの経王寺の山号(寿福山、華岳山)は、寿福院の戒名からいただいているそうです。
ほかにも鎌倉比企谷の妙本寺には、寿福院の銘が入った五輪塔がありますし、
(中山法華経寺五重塔)
身延山久遠寺(※)や中山法華経寺の五重塔も、寿福院の力で建立されたと聞いたことがあります。
(※)初代五重塔
江戸初期の日蓮宗門に、多大な貢献をされた女傑といえば、徳川家康公の側室・養珠院お萬様も連想されます。
調べてみると、寿福院はお萬様の7才年上です。
(七面山白糸の滝 養珠院お萬様銅像)
側室という身分、それまでの波瀾万丈な人生、そして法華経に深く帰依しているなど共通点が多く、実際、お二人はとても仲が良かったともいわれています。
また寿福院の孫、つまり3代藩主・光高公に正室として嫁いだのは、徳川頼房公の四女・大姫です。頼房公の娘ということはお萬様の孫、つまり寿福院とお萬様はファミリーでもあったわけです!
(妙成寺境内にある寿福院の御廟)
寛永8(1631)年、加賀藩江戸屋敷にて寿福院は亡くなります。
逆修塔のある池上本門寺で荼毘に付され、自らが建立した金沢経王寺で葬儀、遺骨は大檀越として支えた能登妙成寺に納めました。
(府中経王寺山門の彫刻:加賀前田家は菅原道真の末裔のため、天神様と同じ梅鉢紋らしい)
府中経王寺の寺紋は、加賀前田家と同じ「加賀梅鉢」ですが、寿福院の生涯を知ると納得です!
府中経王寺の本堂前には、大きな題目法塔が一対あります。
第25世のお上人により建立されたようです。
「一字一石宝塔」と刻まれてますから、この下の地中に法華経の文字が書かれた69384個の石が埋められていると思われます。
朝倉家、前田家、寿福院や日淳上人など、経王寺に関わった多くの先師達を、追善供養しているのでしょう。
嘉永5(1852)年の府中大火で、本堂はじめ伽藍が焼失してしまいますが、当時のお上人方の尽力で再建され、現在の寺容に至るそうです。
僕が参拝させていただいた時、本堂ではお檀家さんの法事が行われていました。法事終了後、お疲れにもかかわらず、ご住職は笑顔を交えてお話をしてくださいました。
心より感謝致します。