日蓮聖人のお弟子さんに、最蓮房上人という方がいます。
最蓮房日栄上人とも、最蓮房日浄上人ともいう説がありますが、ここでは「最蓮房上人」で統一させていただきます。
このブログで参考資料として、いつも使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入) にも、最蓮房上人のお姿が描かれています。
最近、読む機会に恵まれた日蓮聖人のご遺文「生死一大事血脈鈔」の末尾には、「最蓮房上人御返事」と綴られていました。
この「生死一大事血脈鈔」は文永9(1272)年2月11日付、ということは、お祖師様が佐渡、それも塚原三昧堂で苦労されていた、まさにその頃に、したためられたお手紙だということがわかります。
(↑画像は佐渡根本寺・戒壇塚)
元・天台宗の僧侶だった最蓮房上人は、日蓮聖人が流される以前から、何らかの理由で佐渡に流されており、佐渡塚原で日蓮聖人に帰依した、と思われます。
「生死一大事血脈鈔」の日付からすると、最蓮房上人は前月の塚原問答を実際に見聞きした上で、法華経信仰に改めたと考えるのが自然だと思います。
最蓮房上人はのちに佐渡流罪を赦免され、本土に戻ることが出来たそうです。
(↑画像は佐渡・松ヶ崎から望む新潟の山並み)
当時、佐渡流罪は重く、まず本土へは戻れなかったと聞きます。
最蓮房上人の赦免は日蓮聖人の赦免と無関係ではない、と考えるのは邪推でしょうか。
その後、最蓮房上人はお祖師様の後を追い、身延山に入ったようです。
お祖師様に給仕しながら、お近くで教学を深めたかったのでしょうね。
この最蓮房上人が、身延で開山したお寺を参拝してきました。
下山の本國寺です。
「最蓮上人𦾔跡」と刻まれている石碑もありますね。
(𦾔跡は旧跡と同じ意味です。)
本國寺というと最初に浮かぶのはこのイチョウの大木!
葉っぱの上に実が付く「お葉付きイチョウ」として有名です。
お祖師様の身代わりとなった白犬の逸話が残る上沢寺はこの近くにありますが、上沢寺の「逆さイチョウ」も、本國寺のと同じ種類のイチョウだそうです。
この種類の巨木は国内でも珍しいそうで、いずれも天然記念物に指定されています。
しかし2年前の台風24号で、上沢寺のイチョウは根元から倒れてしまい、現在、再生に向けて尽力されているそうです!
(↑画像は2016年に参拝した時の上沢寺・逆さイチョウ)
それだけに、本國寺のイチョウには、ますます頑張ってもらいたいですね!
本國寺のある下山郷は身延山久遠寺の北東2~3kmに位置します。
すぐ目の前に身延山の山塊が見えます!
200年近く昔、宗祖550遠忌に建立された題目碑が迎えてくれます。
総門でしょうか。
青空に映えますね~!
山号は長栄山です。
仁王門もあります。
目力の強い阿行と
吽形が聖域を護っています。
提灯に描かれた寺紋は・・・イチョウの葉と実だ!
本堂に参拝。
境内全体が落ち着いた雰囲気のため、気持ちよくお自我偈を唱えることができました。
もともとこの場所は、下山郷の地頭・下山兵庫助光基公の邸でした。
下山公は天台宗、熱心な念仏信者だったようです。
屋敷内に平泉寺という氏寺を設けるほどだったといいます。
下山公の子であり平泉寺のお坊さんでもあった因幡房上人もまた、親の信仰を継ぎ、阿弥陀経を読み、念仏をあげる日々を過ごしていました。
実はこの因幡房上人と、佐渡帰りの最蓮房上人は、共に比叡山で修行した旧地の仲でした。
下山と身延山、メチャメチャ近くですから、再会し旧交を温めたに違いありません。
建治元(1275)年、因幡房上人は最蓮房上人に誘われ、身延山に登りました。
当時の日蓮聖人は、もはや一見さんが気安く会える存在ではなかったのか、あるいは因幡房上人が遠慮したのか、わかりませんが、
「閑所より忍て参り 御庵室の後に隠れ・・・」(下山御消息より)
他の方々にお説法する日蓮聖人を、曲がりなりにも近くで見聞きし、目からウロコが落ちたのでしょう。
因幡房上人は信仰を改め、法華経を読むようになりました。
因幡房上人の改宗に激怒したのは、父の下山兵庫助光基公でした。
信仰の自由が保障されている現代とは違い、家の信仰、親の信仰は絶対だったと考えられます。
この因幡房上人のピンチに、日蓮聖人が動きました。
建治3(1277)年、下山公宛てにしたためた「下山御消息」です。
僕もこのブログの為に「下山御消息」を読んだのですが、結構長くて、一週間かかりました(笑)。
「例時に於ては、尤(もっと)も阿弥陀経を読まるべきか」から始まるお手紙は、法華経の優位、そして日蓮という僧の存在を客観的に、丁寧に説明していると、僕は感じました。
阿弥陀経ではなく法華経を信仰するのは「父母の為にて候」と結論付け、親子の関係を修復させたい気持ちが読み取れました。
驚くのは、お手紙の最後、差出人が「僧日蓮」ではなく「僧日永(因幡房のこと)」となっていることです。
お祖師様自身は一歩引き、因幡房上人の立場、気持ちを最優先にしている・・・本当に繊細な、心遣いだと思います。
お手紙を読んだ下山公は息子の信仰を許し、また自らも日蓮聖人に帰依し、法重房日芳という法名をいただきました。
お手紙に込められた気持ちを、読み取ることができた下山公も、心の清い方だったのでしょうね。
ちょっと話は脱線しますが、「下山御消息」が執筆されたのと同年同月に、日蓮聖人は「頼基陳状」も書かれています。
(↑画像は鎌倉・桑が谷療養所跡)
日蓮聖人のお弟子さん・三位房上人が、忍性の息のかかった竜象房と問答し、徹底的に論破しました。四條金吾公がその場に静かに立ち会っていたのですが、のちに四條金吾公が力で威嚇して問答に入り込んだ、という讒言が流れたのです。
これが四條金吾公の主君・江間光時公の耳に入り、領地は没収され、江間氏から改宗を迫られてしまいました。(桑が谷問答事件)
この四條金吾公のピンチに、日蓮聖人は江間氏あてに「頼基陳状」をしたため、丁寧に四條金吾公の身の潔白を説明しているのです。
この時期は、池上兄弟と父との信仰上の確執もあった頃ですし・・・お祖師様はさまざまな人間関係修復の為に日夜、頭を悩ましていたのでしょうね。
話を本國寺に戻しましょう。
本國寺歴代お上人の御廟を参拝。
鎌倉時代からのお寺だけに、お上人方の墓石もたくさん!
これまで法灯を継いでくださったことに感謝です。
氏寺であった平泉寺は、下山公の改宗に伴い、本國寺に改められました。
開山には、法華信仰の道を開いてくれた最蓮房上人を迎えています。
ん?鹿の足跡だ!!
里にも普通に下りてくるんですね・・・。
弘安5(1282)年9月8日、日蓮聖人は住み慣れた身延山を下りました。
数年前から体調が芳しくなく、周囲からのすすめもあって、常陸の湯へ湯治に行かれる決心をされたのです。
旅の最初にお泊まりになったのが、ここ下山兵庫助光基公の屋敷だったそうです。身延山からほんの目と鼻の先です。
佐渡配流の際には、1日で依知から久米川まで歩いた日蓮聖人の印象があるだけに、その11年後、還暦を過ぎたお身体には相当、キツかったのだと推測できます。
波木井公の用意した栗鹿毛の馬に身を委ね、ゆっくり、ゆっくりと、やって来たのでしょうね。
(↑画像は水戸・常陸の湯の石碑)
山には人の心を休める霊気がある、といいます。
9カ年もの間、身延山で暮らし続けた日蓮聖人が山を下り、里に姿を見せた時、里の人々にはどう映っていたのかな・・・。
最初に、下山親子が目にしているはずです。
身体こそ、ボロボロではあったけれど、研ぎ澄まされた、極めて清浄な存在が、こちらにやって来る、そんな感じだったと、勝手に想像しちゃいます。
御一泊の際、聖人自らお手植えされたイチョウが、現在のお葉つきイチョウに育ったといわれています。
700年以上昔、余命わずかなお祖師様が残した新しい命が、今も春には若葉を付け、秋には実を落としている・・・。
脈々と継がれる法華信仰を象徴しているかのようですね。
庫裏でご住職にお話を伺った際、昨秋に実った銀杏の実をいただきました。
地面に植えれば育つかもしれません。やってみよっ!!