日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長榮山本行寺(越前市武生柳町)

2019-01-15 17:33:08 | 旅行
1294年、日像上人は日蓮聖人のご遺命を果たすべく、都に上りました。


佐渡から七尾に向かう船中で、日像上人は石動山天平寺の学頭・萬蔵法印と法論を交わし、教化改宗させました。以来、萬蔵法印は日像上人のお弟子さんとなり、法名を日乗と改めました。
(↑画像は七尾市・小丸山公園内にある日像上人のご尊像)



日乗上人の懇請により日像上人は石動山に登り、僧侶達に向かって法華経の教えを説きました。
しかし迫害を受け、命さえ危うくなりました。この時、加賀太郎・北太郎兄弟の尽力で、日像上人と日乗上人は滝谷に逃れることができたといいます。
加賀太郎・北太郎兄弟は激高する大勢の石動山の僧侶達に襲われ、命を落としてしまいました。のちに彼らの菩提を弔うために日像上人が建立したのが中能登町の本土寺です。



滝谷に逃れた日像上人は、ここで日乗上人と別れて都へと急ぎました。
日乗上人は滝谷に縁を感じ、日像上人を開祖と仰ぎ、自らは二祖となって妙成寺を建立しました。


能登をあとにした日像上人の足跡は、このあと北陸各地で見ることができます。
今回は福井県越前市のご霊跡を訪問しました。



越前市内を縫うように、旧北国街道が走っています。車が一台通れるかどうかの細い道ですが、道沿いには旧跡が多く見られます。
かつてこの地には越前国の国府が置かれており、界隈は「府中」と呼ばれ、越前国の中心地だったようです。



街道沿いには寺社仏閣も多く建ち並んでおり、その一つが本行寺です。



法塔があります。
日蓮聖人、日朗上人、日像上人のお名前が刻まれています。



本行寺の山門です。
この山門、実はとても歴史のある建築物らしく、推定で室町中期の建立ではないかといわれています。



江戸後期、嘉永の府中大火により、この界隈のほとんどの建物が焼失したといいます。
しかし本行寺の山門だけは奇跡的に類焼を逃れました。現在でも焦げた跡が残っています。



本堂です。
それまで曇っていたのですが、お寺に近づくにつれて雲が切れて晴れ始めました。瓦屋根が光っています!!



山号は「長榮山」です。



本堂の隣は鬼子母神堂ではないかと思われます。


お堂の前には柘榴(ざくろ)の木がありましたよ。



このお寺、もともとは宗旨が真言宗だったそうです。
日像上人が北陸各地で論伏・教化を繰り広げ、お寺が次々に改宗しているという噂は、瞬く間に広まってゆきました。この旧寺の住職は早速、日像上人に法論を挑みましたが敗れ、日像上人に帰依したそうです。



民衆を救う仏教が隆盛を極めた鎌倉時代、異なる宗派間で教義の真偽をめぐり「法論」あるいは「問答」という言論の争いは頻繁に行われていたようです。
日蓮門下は専ら、その教えを広める目的で法論に臨んでいたようですが、自分の討論力でどの程度他宗に通用するのかを試したり、あるいは自分の信仰する教義は果たして正しいのかを確かめたりする目的で法論に及ぶお坊さんもいたのでしょう。

法論に敗れ、その教えに帰依するというのは決して恥ずかしい事ではなく、正しい教えの扉を開く、とても喜ばしい事だと、僕は思います。



当時のご住職は法名を府南坊日了律師と改めました。


お寺は日像上人開山と仰ぎ、自らは二祖となり、「長榮山本行寺」の歴史が始まったのです。以来725年間、越前府中に於いて法華経の道場として法灯を継いできたそうです。



このお寺の境内には「日像上人御染筆の岩題目」というとても珍しいご霊宝が格護されています。



ここ越前府中の町から西に5kmほど行った小野の山中の岩に、日像上人が書き残したといわれるお題目です。



ダム工事に伴い、本行寺境内に移設されたそうです。
類い希なる明晰な頭脳と弁舌を持ち、また由比ヶ浜での百日間の苦行にも耐えてきた日像上人でさえ、帝都開教のプレッシャーは計り知れないものだったに違いありません。
このお題目にどういう由緒があるのかはわかりませんが、北陸の山深い岩肌に、何か大きな誓いを残しておきたかったのでしょう。



本行寺の隣も日蓮宗寺院です。
浄土真宗寺院だらけの北陸において、日像上人の歩まれた道には、確実に法華経の信仰が息づいています。



付近には日親上人のご霊跡寺院もありました。
日親上人開山のお寺は能登にもありましたが、日像上人の歩いた道を巡拝されていたのでしょうか。



越前府中に法華経信仰の種を播いた日像上人は、このあと敦賀や小浜を経て、上洛を果たします。






法王山妙法寺(長岡市村田)

2019-01-10 13:31:05 | 旅行
村田の妙法寺を参詣してきました!


「妙法寺」っていう駅もあるんですね!
宗門寺院が駅名になっているのは、路面電車なんかでは見たことがありますが、JRでは初めて!



駅から妙法寺まで700m。妙法寺の背後に村岡城があるのかな?



のどかな田園風景の中を歩きます。天気が良くて気持ちいい!



大きな看板がありました。
妙法寺は本山なんですね!



案内地図を見ると、山城である村岡城の麓に、妙法寺があるような位置関係です。
こう見ると日本海も近いんですね!



参道の入口です。結構大きなお寺なのかもしれないぞ!



「日昭上人北越開教之霊地」
日蓮聖人が比叡山時代のご学友であり、かつ最古参のお弟子さんである日昭上人ゆかりのお寺のようです。



まず最初に現れるのは二天門です。その色から赤門とも呼ばれています。
重量感のあるゲートですね~!



緑のお顔の阿行と



青いお顔の吽形がお祀りされています。



想像通り、境内は広~い!
ずうっと歩いて行きます。



奥の階段を上がると・・・



四脚門が出迎えてくれます。
赤門に対しこちらは黒門と呼ばれます。いずれの門も江戸時代、徳川綱吉の頃ですからゆうに300年以上の歴史があるそうです。



ド~ン!圧倒的迫力の本堂です。
昨年の大雪で屋根が傷み、その修復作業が済んだばかりの時で、まだ足場が残っていました。豪雪地帯ですからね、対策も大変でしょう。



香炉には日圓山妙法寺の文字。日圓山って・・・堀之内の妙法寺ですよね!
同じ妙法寺どうし、交流があるのでしょうか。



庫裏から本堂に至る渡り廊下に、村岡城の石碑除幕式での記念写真が掲示されていました。
昭和33年、と記載されています。



当時の貫首様は清水玄正上人。
実は5年前に亡くなった僕の義父は、清水玄正上人の下、信行道場で結界修行をしたそうです。とても心優しく面倒見の良い方だったそうで、義父は「村田のお上人」と呼んで生涯にわたって師と仰ぎ、毎日お勤めの際に欠かさず感謝の言葉を唱えていました。
ここでお姿を拝見することができ、胸が熱くなりました。



開山堂(報恩堂)です。妙法寺の開基壇越である風間信濃守信昭公をお祀りしています。
武士の名前には「~守」っていうミドルネームみたいのが付きますが、これは武家官位といって、鎌倉時代は実際に治めていた地名が入ることが多いようです。今でいう~県知事みたいなものかな?
信昭公はここ村田で生まれ、信濃~越後地方を治めていた方だそうですよ。



信昭公は若い頃、鎌倉で日昭上人の教化を受け、日蓮聖人に帰依したそうです。信昭の「昭」は日昭上人から一字をもらった名前だそうで、二人の信頼関係は相当強固だったことが想像できます。



信昭公は生涯を通じて、日昭上人の活動を物心両面で支援したといいます。



以前訪問した鎌倉の實相寺
こちらにはもともと1284年に日昭上人の建立した濵土法華堂がありました。この建立には風間信昭公の尽力があったようです。



日昭上人は濱土法華堂を鎌倉での法華経弘通の拠点にしていたといわれています。日昭上人一門を「濱土流」という由縁でしょう。
ちなみに日昭上人の御廟は實相寺にあります。



濱土法華堂はのちに法華寺となり、戦乱に翻弄されながら各地を転々とし、三島の玉沢妙法華寺として落ち着きました。



また、1306年、宗祖二十五回忌にあたり、信昭公は日昭上人のために相州名瀬(現在の横浜市戸塚区あたり)に妙法寺を開きました。
一方、かねてから自らの領内、特に生誕の地・村田に法華経の道場を設けたいとも願っていたそうで、将来、自分が村田に移った時に、名瀬の妙法寺も村田に移したいと日昭上人に懇請していたようです。日昭上人も信昭公の気持ちを汲んでいたと思われます。



1323年に日昭上人がご遷化されると、信昭公は妙法寺を名瀬から村田に移しました。
これが現在の法王山妙法寺のルーツです。



こちらは千仏堂です。
戊辰戦争の際、この界隈は北越戦争という最激戦地でした。村岡城に奥羽越列藩同盟軍の拠点があったため、寺域全体が戦場になってしまったそうです。
多くの犠牲者を供養するためのお堂で、内部には千体の仏像がお祀りされています。



妙法寺には七面様のお堂もあります。
お寺の縁起によると、1693年に七面山から分祀したのだそうです。



お堂には信仰のある方々が奉納したと思われる絵が沢山掲示されていました。



中には身延の高座石でお祖師様がお説法中、七面大明神がお姿を現した絵図もありました。



蛇身解脱の、あの華瓶も描かれていました。



七面大明神が日蓮聖人の前に最初にお姿を現したのは越後、現在の角田浜妙光寺裏手のお岩屋といわれています。
そのせいでしょうか、越後や北陸あたりでは宗門寺院に七面様のお堂を目にすることが本当に多いです。



歴代お上人の御廟に参拝。



63世までのお上人が手篤く供養されていました。
歴史の波に翻弄されながらも、今日まで法灯を継いで下さったことに心から感謝します。



妙法寺のほど近く、民家の間を抜けると山に登る階段があります。



こちらに妙法寺の開基壇越・風間信昭公の墓所があります。
信昭公は南北朝時代、南朝方・新田義貞軍の武将として奮闘しましたが、戦死されたようです。



日昭上人を生涯にわたり支援した風間信昭公。

現在の宗門もこういう方に支えられてきたんだ、ありがとうございますと墓前で感謝し、村田をあとにしました。





















日蓮聖人御参籠借跡(太子町太子)

2019-01-03 21:20:08 | 旅行

大阪府の南東部、奈良県との県境近くに「太子」という場所があります。



地名からもわかるように、ここ太子はあの聖徳太子ゆかりの場所です。
飛び出し坊やも太子君です!



実は太子町には聖徳太子の御廟があるのです。
御廟を守護する目的で建立されたのが叡福寺です。



山号は磯長山(しながさん)です。
現在は真言宗系の単立寺院だそうです。



聖徳太子は大陸から伝来したばかりの仏教の隆盛に尽力し、自らの政治にもその精神を採り入れたことで有名です。
そのため、平安以降に登場した民衆救済の新しい仏教の開祖達が、こぞってここ叡福寺の御廟に参籠したそうです。
お寺の縁起によると、空海、親鸞、良寛、一遍、證空といったビッグネームとともに、日蓮聖人のお名前もありました。



こちらが聖徳太子の御廟です。宮内庁の管理になっています。
仏教の根付くこの国に生まれたことを感謝し、僕も参拝しました。



ところで目的の日蓮聖人のご霊跡、門前に一カ所だけ矢印があったものの、なかなか見つかりませんでした。
1時間近く境内をウロウロ捜索し・・・


やっと見つけました!
今後、信仰ある方がスムーズに参拝できるように、ご霊跡までの経路を記しておきますね!


この山門をくぐると・・・


正面奥に聖徳太子の御廟がありますが、ここまで行ってしまうと迷います!
御廟の手前を右に折れます。


すると「霊園事務所」の矢印看板があります。
画像右に見えるお堂と


その奥にある弘法大師堂の間の道を歩きます。


やがて境内の外側に出ます。
この道を数十m歩いた左側に、日蓮聖人御参籠借跡があります。



木立に囲まれた静謐なご霊跡です。



苦労して見つけたので、喜びもひとしおです。



手水もありました。水こそ溜まっていませんが、「清蓮水」で手を清められた気分になります。



正面に宝塔があります。



お花が供されていました。
心ある方によって清められていることがわかります。



宝塔の脇には昭和60年に建立された立派な納経塚もありましたよ!



このご霊跡の縁起と思われる石碑がありました。
古い文調なので正確じゃないかもしれませんが、大体の縁起を紹介します。



比叡山に遊学されていた学僧・蓮長法師(のちの日蓮聖人)は、さらに様々な仏教の教学を学ぶため、高野山ほか多くのお寺を巡りました。
そののち建長2年(1250年)の春、叡福寺を訪れ、聖徳太子の御廟を参詣されたそうです。



縁起には「参籠」と刻まれています。つまり単なるお参りではなく、一定期間叡福寺に引き籠って祈願をされたようです。
「一七日晝夜法華経ヲ読誦」と刻まれていました。これは17日間でなく1×7=7日間かな?ぶっ通しってことでしょう。



「結日」つまり参籠の最終日の夜、「慈顔温容」な聖徳太子が現れました。
そこで日蓮聖人は日本を救済する方法を聖徳太子に奏上されたそうです。



聖徳太子と日蓮聖人の「法談」は「盡クルヲ識ラス(尽くるを知らず、かな?)」、明け方まで続いたそうです。



朝になり聖徳太子のお姿は徐々に消えていったようですが、日蓮聖人はこの霊験に「法悦ニ咽ヒ」喜ばれた、と刻まれていました。
僕のような凡人にはちょっと理解できない世界ですが、お祖師様のような方は「識」を上手に使って法談できるのでしょうね!



石碑には「感應の神秘」って刻まれていましたよ。まさに!



どの教えが真理なのかを追求する旅で得られた成果を日蓮聖人は聖徳太子の御廟に報告されていた・・・そのご霊跡を訪問できたことはとても嬉しいです。
ただ、それ以上に叡福寺という他宗の大寺院の一角に、御参篭跡を設けた先師先哲の尽力に、感服してしまいました。
「借跡」なので叡福寺に土地をお借りしているのかもしれませんが、借りる側の執念、貸す側の懐の深さ、いずれもすげぇな~!と頭が下がります。



先述のように空海、親鸞、良寛、一遍、證空といった各宗の開祖達も、お祖師様と同じように参籠しているのです。
しかしその中で叡福寺に一角を借りてまで御参篭跡を設けたのは日蓮聖人の法孫達だけです。

この御参籠跡が末永く維持されてゆくことを祈念しますし、何よりもできるだけ多くの信徒にこの場所を知ってもらい、是非訪問して頂きたいと思います。



僕は信徒の端くれとして本当に光栄に思いました。あぁ、叡福寺に来て良かった!

素晴らしいご霊跡に出会えた事を、改めて聖徳太子に感謝し、叡福寺をあとにしました。