日蓮聖人ご降誕の霊跡、誕生寺を訪問してきました!
当日はあいにくの雨。でもお祖師様の故郷・小湊に来ることができて嬉しいです!
交差点に「日蓮」の名前が付いているんですね。
日蓮交差点から5分も歩くと・・・
総門に到着します。
寄りかかった松の木が、小湊らしさを醸し出しています。
父・貫名重忠、母・梅菊の子として、日蓮聖人(幼少期は善日麿)がお生まれになった場所です。
ご降誕の日は2月16日、お釈迦様の涅槃会が2月15日ですから、まさにお釈迦様の生まれ変わりを思わせます。
年間行事がズラリ!
2月16日の宗祖御降誕会では、お祖師様のご幼像を載せたお神輿が練り歩くそうですよ。
両側を大きな石灯籠に護られながら、境内を進みます。
誕生堂です。
日蓮聖人のご幼像と、聖人のご両親(貫名重忠、梅菊)をお祀りしてあるお堂です。
日蓮聖人がいなければ、いや、そもそもご両親が出会っていなければ、今日の我々の信仰はなかったはずです。心から感謝します。
日蓮聖人がお生まれになる直前、小湊では不思議な出来事がいくつも起きたと言われています。
普段は深海に棲む鯛が、海面近くに無数に集まってきたそうです。
何かしら良いことが起きる前兆じゃないかと人々が噂し合ったといいます。
そのため現在でもこの近辺の海は通称「鯛の浦」といわれますが、地名としては「妙の浦(たえのうら)」とあります。
いずれにしても、とてもおめでたい名前ですね!
ちなみに境内には鯛塚もあります。
小湊界隈では鯛はお祖師様の化身ともいわれ、海域の鯛を獲ったり食べたりしないそうです。
別の漁でかかった鯛が死んでしまった場合、この鯛塚で手厚く葬って供養するといいます。
鯛に限らず、生き物を手厚く供養する碑や卒塔婆を、宗門寺院で多く見てきました。
日本人独特の精神性でしょう。とても大切なことだと思います。
(↑画像は伊東・佛現寺の鰻供養碑、鶉供養碑)
もう一つ、日蓮聖人ご降誕時に起きた現象として伝えられているのは、庭から清水がこんこんと湧き出した奇瑞です。
早速家人がその水を汲み、日蓮聖人の産湯として用いたそうです。
僕はてっきり日蓮聖人の生家跡に誕生寺が建立されたと思っていましたが、実は生家はもっと海側にあり、残念ながら室町時代の地震・津波で海中に没してしまったそうです。
ところがその後、現在の地に誕生寺が再建されるや、不思議なことに新たに清水が湧き出したといいます。
何か見えない大きな力で、守護されていると思わずにはいられません。
巨大な仁王門が迎えてくれます。宝永3(1706)年の建立といいます。
誕生寺は宝暦8(1758)年の大火でほぼ全焼してしまいましたが、唯一この仁王門だけは焼失を免れたそうです。
宝永年間の出来事を調べてみると、富士山の宝永大噴火だけでなく、各地で火山の噴火、大地震、津波など、とにかく天変地異に翻弄された時代だったようです。
仁王門の建立はそういった災厄を鎮める目的もあったのかもしれませんね。
仁王門に掲げられる扁額には山号の「小湊山」。
古くは山号を「高光山」といったそうですが、江戸初期に地名に因んだ「小湊山」に改めたといわれています。
仁王門の裏側では、般若の彫刻が睨みを利かせています。
江戸時代の彫り師・左甚五郎の作と伝えられているそうです。左甚五郎は東照宮の「眠り猫」で有名ですよね!
ん?仁王門の手前にある背の高い法塔、表面がゴツゴツだぞ~。
「蓮華潭(れんげがふち)涌現之塔」と刻まれています。
日蓮聖人がお生まれになる直前に、海際の漁村に何故か蓮華の花が咲いたことから、生家周辺は「蓮華潭」と呼ばれたといいます。
日蓮聖人ご降誕日は2月16日ですが、ふつう真夏に咲く蓮華が開花したわけで、まさに奇瑞(おめでたい事の前兆として起こる現象)でしょう。
江戸時代、その場所が宗祖ご降誕の聖地であることを示す蓮華潭の石碑を造立したのもつかの間、翌年の大津波で石碑は失われてしまいました。
しかし!明治になり、この石碑が海中から発見されたのだそうです。
波に洗われ続けながら発見される日を海中で待ち続けた石碑。これを再び塔身させたのが「蓮華潭涌現之塔」なのです。
由来を知れば知るほど、祈りも深くなります。
日蓮聖人のご尊像に合掌。
普通のお寺ならば出家・剃髪した大人の日蓮聖人像ですが、誕生寺の境内に奉安されているのは、まだ善日麿だった頃のご幼像です。
見るからに利発そうなお顔です!
建立されたのは昭和10年となっています。
発起人には東京の講中や睦(お会式なんかで纏を廻す信徒さん達なのかな?)の代表者が名を連ねています。
実はこのご尊像も太平洋戦争時、金属ということで供出の憂き目に遭いました。
戦後、両国駅構内でほぼ無傷で発見され、欠けていた左手も修復されて誕生寺境内に戻ってきました。
当時の壇信徒の方々の喜びはいかばかりだったでしょう。
祖師堂です。
総欅造りのお堂は、江戸末期の建立だそうです。
屋根の最上部、宗紋が掲げられている部分を「大棟(おおむね)」といいます。
誕生寺祖師堂、高~い大棟が特徴的です。
軒下の彫刻が見事です!
朝は5時半開堂です。
ちなみに毎朝5時50分から朝勤があります。
実はこの日の朝、早起きして朝勤に参加しました。
正面に650年以上の歴史を持つ日蓮聖人の坐像がお祀りされていました。
とても柔和な表情のお祖師様に見守られてのお勤めは格別です!決して敷居は高くないので、ぜひ多くの方に参加して頂きたいと思います。
歴代お上人の御廟を参拝。
82世までのお上人が刻まれています。
今日まで法灯を継いで下さったことに感謝です。
日蓮聖人を開山に仰ぎ、二世に日家(にけ)上人のお名前があります。
日家上人は日蓮聖人の壇越・佐久間氏の家系の方で、小松原法難の直前、日蓮聖人が小湊のお母様を見舞われた際に帰依したといわれています。
このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも日家上人の姿が描かれています。
日家上人は「中老」僧なんですね!
日蓮聖人の祈祷により蘇生されたお母様が、命を永らえたことに感謝して「菩薩荘厳堂」というお堂を建てたそうです。
そして日蓮聖人が身延入山後の建治2(1276)年、日家上人が当地にお寺を建立したのが誕生寺のルーツです。
太田稲荷堂です。
「太田」とは名門・太田家のことで、最初に江戸城を築いた太田道灌公もこの家系です。
太田家では古くから「太田稲荷」という稲荷大明神を守り神にしていたようです。また法華信仰も篤い家系で、太田稲荷は法華経でお祀りされる神様だといいます。
太田堂の向拝には見事な龍の彫刻!
あの有名な「波の伊八」の孫が彫ったんだそうですよ。
実は、太田道灌の名前、以前どこかの宗門寺院で目にしたような・・・僕は自分の記憶を必死にさかのぼりました。
確か・・・太田道灌の子のお墓って、横須賀のお寺になかったかな?
そうそう、平成29(2017)年3月に訪問した横須賀の大明寺!
太田道灌の子・資康(すけやす)は、妻の実家である三浦氏が北条早雲の攻めに遭い、救援のために江戸城から馳せ参じましたが、戦死してしまいました。
大明寺に葬られたという記録はあるようなのですが、墓が見つからなかったようで、昭和56(1981)年に三浦氏末裔の方(東京の宗門寺院だそうですよ)の奥様が、供養塔を建立し霊を慰めたそうです。
僕の記憶が確かならば、三浦氏の血筋に勝浦正木氏がいて、当主・正木頼忠公の娘は、あの養珠院お萬様だったはずです。
不思議といろんな方がリンクしてきますが、それもこれも、辛い時代にみんな法華経を信仰することで救われ、そして死後、法華経によって手厚く供養されてきたからこそ、ブレない一本の線でつながっているのだと思います。
改めて、法華経の教えを弘めて下さったお祖師様に感謝です!
3年後の令和4(2022)年は日蓮聖人ご降誕800年の節目だそうです。
全ての始まりであった、ここ小湊・誕生寺が末永く清められてゆくことを祈ってやみません。
※台風15、19、21号による被害に遭われた皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
ご霊跡はじめ宗門寺院が数多くある千葉県内の被害は甚大だったようで、心が痛みます。
少しでも復興の手助けができるよう、努めたいと思います。