会津若松を訪問してきました!
明治維新150年である今年は日本各地で、幕末の自藩について検証した展示がなされていましたが、特に最大の当事藩であった会津には、今年のうちに訪れておきたかったのです。
白虎隊士が自刃した飯盛山
その麓の住宅街に妙國寺はあります。
寺域を示すお題目の石塔があります。
妙國寺は日什上人の「誕滅霊場」と刻まれていますね。
山門です。
総けやき造りだそうです。
山号は宝光山です。
本堂です。
福島県界隈のお寺の屋根は、雪対策でしょうか、全体的に黒っぽいです。
日蓮聖人のご尊像に合掌。
お祖師様も静かに合掌されています。
こちらが玄妙阿闍梨日什上人の御廟です。
会津武士の子として生まれた日什上人は幼い頃から頭脳明晰で、6才で儒教の経典を読んだとか!
19才で比叡山に入られ「玄妙」と称し、勉学修行に勤しまれ学頭まで上り詰めました。
58才で比叡山を下りたあとは羽黒山東光寺を拠点に活動されていたようです。
そこまで教学を究めた玄妙上人ですが、どうしてもモヤモヤした部分があったのでしょう。多くの書物を読み漁る中、ついに日蓮聖人の著作である開目抄、如説修行抄に出会ったのです!
玄妙は相当な衝撃を受けたと思います。でなければ66才の高齢で改宗するはずがありません!
玄妙上人は真間の弘法寺に入門、法名を「日什」と変え、日蓮聖人の教えを深めながら京都・鎌倉をはじめ各地で布教をしたのち、78才で故郷の会津へ戻ってきました。
そしてその翌年、この地で化を遷されたということです。
仮に日什上人がお祖師様の著作に出会うことなくご入滅されていたら、心のどこかにしこりを持ったままだったのでしょうが・・・そう考えると日什上人は今世の後半に、素晴らしい宝物を得た上で遷化されたわけで、幸せなお坊さんだったに違いありません。
日什上人が15才の時に亡くなったご両親のお墓は、日什上人の御廟の後方にひっそりとあります。
もしかしたらご両親の死が、日什上人が出家し、ここまで深く仏道を究める源泉になっていたのかもしれません。
激動の生涯を生き抜き、やっと生誕の地、ご両親埋葬の地に帰着したわけです。
この縁深い地に、日什上人のお弟子さんが庵を結んだのが、妙國寺のルーツです。
妙國寺はまた、会津における戊辰戦争の戦後処理が語られる際、たびたび名前が出てくるお寺でもあります。
「官軍に捕まり生き恥をさらすより、自刃して武士の本分を明らかにしたい」と飯盛山中で自ら命を絶った白虎隊の少年達。
新政府は彼らの遺骸に手を付けることすら許さず、戦後しばらく風雨にさらされたままだったようです。
近所に住む吉田伊惣次はこの惨状を目の当たりにし、夜な夜な密かに、少しずつ、遺骸を妙國寺に運び仮埋葬をしていったといいます。
こちらが白虎隊19士の仮埋葬地です。
現在は慰霊碑が建立されています。
合掌。
それから7年後に自刃地・飯盛山に立派な墓地が造られ、改葬されたそうです。
墓地には現在も焼香、合掌する人が絶えません。安らかに。
また、会津藩主・松平容保親子が戊辰戦争後に28日間謹慎したのも、ここ妙國寺だったそうです。
激戦が終わって間もなくの何もかもが疲弊している時に、会津の殿様をお迎えするわけですから、当時のご住職はそれはそれは大変なご苦労だったのでしょうね・・・。
会津の町を歩いていて、この「什の掟」というのが目につきました。
会津では昔から、同じ町内に住む藩士の子供たちは、「什 (じゅう)」と呼ばれる十人前後のグループを作るのが常でした。
彼らは毎日集まり、この「什の掟」に背くことはなかったかをお互いに確かめ合う反省会を行ったといいます。
白虎隊をはじめとする会津の少年達の精神的な逞しさは、こういうところに源があったんですね!
「什の掟」の精神は現在も、「あいづっこ宣言」という形で継承されているようです。
ところでこの「什」の文字、日什上人の「什」と同じなのは偶然なのでしょうか?
多分「什の掟」は藩校ができてからの話でしょうから、法名「日什」の方がずっと先だと思いますが、清廉で一途なお人柄(と想像できる)の日什上人と、ならぬことはならぬ「什の掟」がどうしても無関係には思えません。
果たして真実は・・・???