6月にこのブログにアップした↓村雲御所瑞龍寺
宗門のお寺を参拝させていただく際、僕は大抵、歴代お上人の御廟をお参りさせていただくのですが、実は瑞龍寺の境内には見つけられませんでした。
その後調べてみると、京都の善正寺という場所に、瑞龍寺の歴代御廟があるということを知りました。
事前に連絡し、アポを取って参拝してきました!
善正寺の場所をざっくり言うと、京都御所から見て鴨川の向こう(東)側あたり、有名な↑京都大学医学部付属病院から比較的近いところです。
付近には「聖護院門跡」(本山修験宗)や、
「近衛通り」など、何となく皇室と関係がありそうな雰囲気!
また付近の山裾には、「金戒光明寺」という浄土宗の大本山があります。
画像の手前は金戒光明寺の塔頭、そして奥は料亭などに卸す豆腐屋さんでしょう。
細い路地ほど、古き良き京都を感じられます。
多少迷いましたが、着きました。善正寺です。
隣の建物は、市立の支援学校だそうです。
これはお地蔵様じゃないかな?
以前、丹後半島を旅した時に、同じように化粧されたお地蔵様をよく目にしました。
よく清められていますね!
いわゆる山門らしいものはなく、2本の門柱が聖域を区切っています。
確かに表札には村雲瑞龍寺、豊臣秀次公御墓所となっています。
山号は妙慧山です。
善正寺境内はセキュリティシステムで守られているようです。
やはり門跡の歴代御廟を擁しているお寺ですからね、その辺はきちっとしています。
参拝をされる方は、必ず事前にアポを取って下さいね!
向かって左手前に祖師堂、左奥に本堂、右に鐘楼、そして正面に庫裡、という位置関係です。
扁額が「本師堂」となっていますから、祖師堂でしょう。
丸太柱のお堂って、結構珍しいと思います。
本堂です。
ご住職にご首題をお願いしている間、清浄な本堂を参拝させていただきました。
本堂の内陣、左右の脇間には、豊臣秀次公とその母・妙慧日秀尼の木像が、それぞれ格護されています。
さぞ無念であったであろう彼らを思い、ほんの少しでも鎮魂になればと、お経をあげさせていただきました。
豊臣秀次公は、子に恵まれなかった叔父・秀吉の後継候補として、一時は関白摂政の地位にありながら、のちに秀吉と淀君の間に秀頼が生まれるや、手のひらを返すように秀次公は邪魔者扱いされ、謀反の疑いをかけられてしまいます。
(↑村雲瑞龍寺門跡本堂内に展示されている豊臣秀次卿銅像の木型)
文禄4(1595)年、わずか28才の若さで、高野山に蟄居ののち、秀次公は自刃に追い込まれました。
秀吉の猜疑心は凄まじく、秀次公の子女妻妾まで、皆殺しにされてしまいました。
秀吉の猜疑心は凄まじく、秀次公の子女妻妾まで、皆殺しにされてしまいました。
今回僕は、善正寺参拝の前に、三条大橋のたもとにある瑞泉寺を訪れました。
現在は納涼の川床とか、デートスポットで有名な鴨川の河原ですが、その昔は刑場として知られた場所だったといいます。
(↑豊臣秀次一族が葬られた塚:瑞泉寺の掲示物より引用)
秀次公の一族はここ三条河原で処刑、埋葬され、秀次公の首を納めた石櫃とともに塚が作られました。
しかし、鴨川の度重なる氾濫などで、いつしか塚はなくなってしまったそうです。
(↑角倉了以翁像:瑞泉寺の掲示物より引用)
江戸時代になり、角倉了以翁(※)が高瀬川を開削中にこの塚の跡を発見、慶長16(1611)年にお堂を建立して彼らの霊を慰めたのが、瑞泉寺のルーツです。
(※)各地の顕彰碑に倣って、敬称を「翁」とさせていただきます。
境内には、秀次公を中心として一族それぞれの供養塔があります。その数の多さに、本当に胸が痛みました。
瑞泉寺は浄土宗のお寺ですが、合掌し、小さな声でお自我偈を唱えさせてもらいました。
(↑京都の街なかを流れる高瀬川)
ところで高瀬川を開削した角倉了以翁、京都の豪商であり、河川土木の専門家でもあるんですが、宗門関係の調べものをしていて、よくお名前を目にします。
(↑富士川・旧岩淵河岸にある角倉了以翁紀功碑)
その昔、身延山登詣には富士川舟運が重要な足として使われていましたが、富士川を開削して水難事故を減らしたのは角倉了以翁でした。
また、妙慧日秀尼の師僧は、六条本圀寺16世の日禛(にっしん)上人 ですが、日禛上人が隠棲された嵯峨・常寂光寺の寺域を寄進したのは、角倉家ということです。
(↑京都・高瀬川畔にある角倉了以翁顕彰碑)
角倉了以翁自身、お墓は二尊院、当時は四宗兼学(天台宗・真言宗・律宗・浄土宗)という特殊なスタイルのお寺らしく、まぁとにかく日蓮宗ではなさそうですが、日蓮宗門とも意外に、深いご縁があるのかもしれませんね。
話を善正寺に戻しましょう。
豊臣秀次公の母・ともさんは、豊臣秀吉の姉にあたります。
ともさんには秀次のほかに秀勝、秀保という男子がいましたが、秀勝は朝鮮出兵時に病死、秀保は不審死しています。
それに追い打ちをかけるような長男秀次公の自刃、それも弟・秀吉の計略によって・・・ともさんの悲しみは如何ばかりだったかと思います。
心を痛めたともさんは、京都本圀寺の日禛(にっしん)上人のもとで出家得度、妙慧日秀尼となります。
日秀尼は京都嵯峨の小庵で、亡き子供達の冥福を、一心に祈り続けました。
日秀尼は京都嵯峨の小庵で、亡き子供達の冥福を、一心に祈り続けました。
(↑京都今出川にあった旧村雲御所の地図:村雲瑞龍寺門跡本堂内の掲示物より引用)
この話が時の後陽成天皇の耳に入り、京都村雲の地に寺領と、瑞龍寺の寺号を下賜されました。
(↑西陣会館の一画にある村雲御所跡碑)
瑞龍寺の初代住職は妙慧日秀尼、そして天皇ゆかりのお寺ということで以後、皇女や公家の娘さんが歴代住職を務める門跡寺院となりました。
これが現在、近江八幡市にある本山「村雲瑞龍寺門跡」のルーツです。
これが現在、近江八幡市にある本山「村雲瑞龍寺門跡」のルーツです。
(↑善正寺の石垣)
豊臣秀吉の没年は慶長3(1598)年ですが、それ以前は猜疑心の強かった秀吉を警戒して、たとえ子の追悼といえども、表立ったことはできなかったと思われます。
慶長5(1600)年になり、妙慧日秀尼は秀次公をきちんと弔ってあげようと思ったのでしょう、本圀寺塔頭・求法院(大きな檀林だったようですね)の日鋭上人を開山に迎え、東山に妙慧山善正寺を建立します。
ちなみに山号は妙慧日秀尼の法名から、寺名は秀次公の戒名「善正寺殿高岸道意大居士」から名付けたようです。
本堂に祀られていた豊臣秀次公、妙慧日秀尼の木像は、慶長6(1601)年、秀次公七回忌の砌に仏師に彫らせ、日鋭上人が開眼したのだそうです。
ご住職によると、妙慧日秀尼の生前に彫られたお像なので、その容姿、表情はそのまま生き写しのようだ、と伝えられているそうです。
寛永2(1625)年、妙慧日秀尼は92才の長寿を全うされました。
先立った子供達の追善に奉じた半生でした。
せめて来世は、権力や戦争とは無縁の世の中に、彼らが生まれてくることを願ったのでしょう。
妙慧日秀尼の遷化と相前後して、善正寺内に東山檀林が開かれました。
明治の廃檀まで、広大な敷地で多くの学僧が研鑽を積んだ、といいます。
(↑善正寺参道脇にある「學室」碑)
江戸時代の京都では、松ケ崎、鶏冠井(かいで)、鷹峰、山科、求法寺(本圀寺)といった宗門檀林があり、これに東山を加えて京都六檀林として知られています。
ご住職にお願いして、本師堂裏手にある豊臣秀次公の墓所を案内していただきました。
「善正殿」の扁額が掛かるお堂が、秀次公の御廟です。
その左側には村雲瑞龍寺門跡歴代お上人(秀次一門と刻まれています)の供養塔が並びます。
お塔婆に歴代の法名が書かれていますね。
初祖は瑞龍寺殿日秀大比丘尼、妙慧日秀尼のことですね。
二祖を継がれたのは瑞圓院日怡大比丘尼、妙慧日秀尼の曾孫にあたる方です。豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)姫が九条家に嫁ぎ、生まれた女子といいます。
ちなみに大正天皇の奥様、貞明皇后は、完子姫の子孫になります。つまり妙慧日秀尼は、現在の皇室の先祖でもあるわけで、瑞龍寺が門跡寺院というのも納得です。
村雲瑞龍寺門跡15世までのお墓が並んでいます。
もちろん、10世を務められた日榮尼(※)のお墓もありました。
心を込めて合掌させていただきました。
(※)拙ブログ「村雲御所 瑞龍寺」に日榮尼のエピソードを書かせていただきました。
この御廟域からは、五山送り火のうち、東山如意ヶ嶽の「大文字」がよ~く見えます!
というか界隈でも特等席のようで、例年8月16日にはお檀家さんが集まり、ここで精霊送りの火を眺めるのだそうです。
非業の死を遂げた秀次一門の精霊も、お盆には善正寺はじめ縁の地にやって来て、8月16日、送り火を見ながら、霊山浄土に還ってゆくのでしょうね。
善正寺のご住職は、笑顔の絶えない、口調の柔らかな男性のお上人です。
敷居の高いお寺だろうと緊張気味で訪問しましたが、ご住職のお人柄に癒され、すっかりリラックスしてしまいました。
(↑村雲瑞龍寺門跡の山門)
善正寺と村雲瑞龍寺門跡とは、現在でもご縁が非常に深く、大きな法要があるとお互いに協力しながら修めているということです。
また、村雲瑞龍寺のルーツである嵯峨の庵は、現在も「村雲別院」というお寺として続いているとお聞きしました。来年あたり、参拝したいものです。
さらに大荒行で知られる千葉中山の遠壽院とも関係が深いようです。
江戸末期、遠壽院の鬼子母尊神像が西国に出開帳された際、禁裏御所で孝明天皇が拝まれた(天拝)ことがありました。
その際、取り次ぎ一切を担ったのが、村雲門跡ということです。
(↑千葉中山の遠壽院)
このご縁で、ご住職は遠壽院行堂で、百日の大荒行を成満されたそうです。
妙慧日秀尼の蒔かれた信仰の種は、こうして大きな木となっているのですね。
帰り際、善正寺本堂の天水桶に↓文字が刻まれているのを見つけました。
法華経薬草喩品第五の一節です。
この世界には、いろんな草や木が生い茂っており、名前も姿もそれぞれ異なっている。 雨は一様に潤すけど、それを受ける植物は姿も形も千差万別、それぞれのあり方に応じて雨を受け止めて、それぞれがそれぞれのペースで成長する・・・。
お釈迦様が二千何百年の昔に説かれたお話なのに、これこそSDGs、多様性の尊重とか、ジェンダー平等を先取りしていますよね!
古くから尼僧さんが活躍されてきた、妙慧日秀尼門下に相応しい教えだな、と妙に納得しながら、善正寺をあとにしました。