日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

長榮山妙福寺(高根沢町亀梨)

2024-07-01 18:07:58 | 旅行
前回は、小松原法難後の日蓮聖人が、湯治をされたという伝承がある、那須のご霊跡を紹介しました。
(小川泰堂著「日蓮大士真実伝(復刻版)」ニチレン出版)
小川泰堂居士の著書「日蓮大士真実伝」によれば、文永2(1265)年の春、下総を発った日蓮聖人は、常陸国を経由して那須に至った、ということでした。


相当な長旅、どこか途中で宿泊された場所はなかったのかな?
あれば日蓮聖人が那須で湯治をされた、という説の根拠にもなるんだけどなぁ…

調べていたら、日蓮聖人が那須へ向かう途次、しばらくご滞在されたと伝わるご霊跡が見つかりました!
今回は栃木県高根沢町の妙福寺です。



高根沢町は、宮内庁の御料牧場があることで知られています。
御料牧場は、皇室の方々が口にする食材の多くを生産する場所です。昭和42(1967)年の成田空港建設に伴い、高根沢町に移転してきました。



広大な牧場は、皇族方の静養場所にもなっています。
昨年、天皇皇后両陛下が「ごっつんこ」された微笑ましい動画は、話題になりましたよね!


高根沢町一帯は、稲作も盛んです。鬼怒川から引いた用水路が整備されているため、水が豊富なんだとか。

苗がぐんぐん成長しています。
温暖化で米が穫れなくなってきてるといいますが、今年は豊作を期待しましょう!



鬼怒川の河岸段丘(喜連川丘陵)上には、古道「辰街道」が南北に通っています。
この古道沿いに、妙福寺があります。



大きな門柱が山門代わりになっています。



火灯窓が印象的な本堂です。
お堂の天井に天符が貼られているのがチラッと見えました。
御祈祷のお寺なのでしょうね。


山号は「長榮山」です。
(妙福寺本堂の扁額)
「栄」の旧字は「榮」ですが、池上のように火伏せの目的で土二つを充てたお寺もあるなか、こちらは火二つです。
実はこの「榮」の字、花の美しさとか、温かみのような意味合いもあるようですよ。


お寺に向かう前に電話を入れましたが、ご住職は先約があるそうで、直接お話は伺えませんでした。ちょっと残念!
(境内をゆっくり見させていただく許可はいただきました。)

はて、日蓮聖人がご滞在されたという逸話について、何か手掛かりはないだろうか・・・


と思っていたら、参道脇に妙福寺の縁起を刻んだ碑がありました。

昭和7(1932)年、妙福寺42世のお上人代で建立された板碑です。



碑文によれば、日蓮聖人がこの界隈を訪れたのは「小松原法難の後 那須温泉入湯の途次」だったそうです。
お、つじつまが合うぞ!


日蓮聖人がここからほど近い烏麦村にさしかかった頃には、すっかり暗くなってしまい、お弟子さん達とともに、近くのお堂で一夜を明かすことにしたそうです。
(旧烏麦村付近にあるお堂:宗祖御一泊のお堂かは不明です…!)
そこは偶然にも、お釈迦様をお祀りするお堂だったといいます。


お堂の中で夜通し法華経を唱えているうちに、空が白んできました。
村人たちが何事かと、集まってきました。
(旧烏麦村付近の田園風景)
日蓮聖人は村人たちに、わかりやすくお説法をしたそうです。
そして村人たちもその教えをよく理解したのでしょう。


村人たちは、このお坊さんならば!と、悩みを打ち明け始めました。



烏麦村から隣村に行くには、山道を抜ける必要がありましたが、当時、近くの池には毒蛇が棲んでおり、「屡々(しばしば)村民の危害を被る所となり 其の悲惨な事 例ふべからず」、つまり噛まれて命を失う人が続出していたのです。



話を聞いた日蓮聖人は、村人に「絹川(鬼怒川)より清浄なる小石数万個を採取」して来させました。



そして「大聖人も一石一字の経を書写して塚となし 門弟日〇(※)日法の二人と共に祈願大行せられ」ると、
(※)刻字が達筆で読めず。日「興」上人か?



忽ち毒蛇を駆除」し、それ以後、毒蛇は現れなくなり、村人は安心して山道を往来できるようになったということです。


いわゆる一字一石経という修法でしょう。
(石和・鵜飼山遠妙寺境内の説明板)
僕が今まで参拝したご霊跡では、石和の鵜飼山遠妙寺で、似たような逸話がありました。


(石和遠妙寺境内、済度された鵜飼の霊をお祀りするお堂)
成仏できない鵜飼の亡霊が悪さをし、土地の人が悩んでいたところ、日蓮聖人が法華経の経文を書いた69,384個の小石を川底に沈めて供養、亡霊は成仏できたということでした。


マムシやヤマカガシといった日本の毒蛇は本来、非常に憶病で、近づいてつっついたりしなければ、攻撃してくることはありません。
(旧烏麦村付近の田園風景)
烏麦村の毒蛇は、鵜飼の亡霊と同様、成仏できない魂が姿を変えて悪さをしていたのかもしれませんね。


日蓮聖人は烏麦村に「数旬之間 留錫(※)」されたと石碑に刻まれています。
(※)行脚中のお坊さんが滞在すること

一旬が10日間ですから、数十日間はこの界隈(鈴木隠岐の守豊重公の館)に滞在し、「説法、祈願等を親修せられた」のでしょう。
村人は大喜びですよね!


ただ、日蓮聖人の本来の目的地は、那須温泉です。
烏麦村を去ろうとすると、村人が別れを惜しむので、随従していた弟子の日法上人(宗門屈指の仏師)に日蓮聖人のご尊像を刻ませ自らが開眼、当地に遺していったといいます。


(妙福寺境内にある柘榴の木)
烏麦村の住民たちは、祖師像をさぞ大切にしたでしょうし、またこの村を中心として独自に法華信仰が護られ、少しずつ広まっていったと考えられます。


(小松原法難翌年の日蓮聖人の推定足跡)
これだけの逸話があるわけですからね~!
日蓮聖人が那須温泉に湯治に行かれたという伝承は、さらに真実味を帯びてきました。



妙福寺歴代お上人の御廟を参拝。
宗祖直々のご霊跡を、今日まで護持してくださった先師達に、心から感謝致します。


墓誌には44世までのお上人が刻まれています。

開山は…日什大聖師、すなわち室町時代の傑僧・玄妙阿闍梨日什上人です!


日什上人は、ここからそう遠くない会津の出身、もともとは「玄妙」という天台僧でした。
(日什上人画像:磐田玄妙寺縁起より引用)
相当頭が切れる方だったようで、比叡山のトップ・学頭にまで上り詰めました。
のちに比叡山を下り、故郷会津に近い羽黒山で活動されていたようです。


66才の時、ひょんなことから「開目抄」「如説修行抄」を読んで衝撃を受け、改宗して法名を「日什」と改めました。
(日什上人生誕・遷化の地である会津妙國寺の日什上人御廟)
日什上人のすごいところは、高齢にもかかわらず何度も上洛し、遂には天皇に上奏、一派を導き(※)公武にわたって法華経を弘めたことでしょう。
日蓮聖人滅後100年が過ぎ、宗門各流派が本家争いに明け暮れる中、日什上人は純粋に宗祖のスタイルを貫き、とにかく布教活動に力を尽くしたのです。
(※)現在の顕本法華宗の淵源


古希間近になっても気力は衰えず、各地に多くのお寺を開山しています。
(飯田本興寺の題目碑「開山日什大聖人」)
ちなみに、僕が以前参拝した横浜市飯田の本興寺は、弘和2(1382)年、日什上人69才の時に開山(※)していますし、
(※)もともと宗祖鎌倉辻説法の霊地に直弟子の天目上人が開創したが、天目上人は迹門不読を是としており、のちに住持となった日什上人が、事実上の開山上人とされる。


(磐田玄妙寺の日什大正師頌徳碑)
磐田市の玄妙寺は元中2(1385)年、日什上人72才での開創でした。


妙福寺も恐らくその頃に、日什上人が正式なお寺として開いた、と考えられます。

先ほどの石碑には、「日什大聖師 京都より会津へ往還の節」烏麦村を通りがかり、村人に「再三親教し 化導成満」したと刻まれています。


それより100年以上も昔、この地に宗祖直々の逸話があり、今も法華信仰が息づいていることに、日什上人は驚いたことでしょう。

その100年以上の「空白の期間」、村人がどうやって信仰を継続していたのか、そもそもお坊さんがいたのかとか、僕も非常に興味があります。


そのヒントとなりそうなのが、このお寺の説明板です。

妙福寺には寺宝として、近くで発見された題目板碑が2基、格護されている旨が書かれています。


板碑は板状の石を加工して造立される供養塔で、14世紀に全国で流行したといいます。

以前訪れた東秩父の浄蓮寺では、地元の緑泥石片岩を加工した石塔婆↑が沢山ありました。
妙福寺の題目板碑も、こんな感じかもしれません。


日蓮聖人が去り日什上人が訪れるまでの時代に、2基の板碑は造立されたようですから、その「空白の期間」、村人達は何か深い想いを込めた板碑建立を、共通の目標としてお題目修行していた、そう推測します。
(妙福寺の題目板碑は、高根沢町の有形文化財となっている)
本当に純粋な信仰だったのだと思いますし、それがまた日什上人のスタイルとよく合ったのでしょうね。


最後に、今回のブログを書くにあたって調べた高根沢町の郷土資料集に、興味深い記述があったので、引用させていただきます。

栃木県内の寺院を宗派別に見ると、真言宗が圧倒的に多く 次いで曹洞宗、天台宗、浄土宗と続く。」
「高根沢町には、真言宗が五カ寺、日蓮宗が四カ寺、曹洞宗と真宗が各二カ寺である。」
「県内で日蓮宗の最も多いのが宇都宮市の五カ寺、次いで高根沢町の四カ寺、鹿沼市と大田原市、矢板市の三カ寺である。寺院数や人口との比率から見れば高根沢町の四カ寺が最も多く、主に県北地方に教線の広がっていることがわかる。」 
(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム 町史コラム「高根沢と日蓮宗」より引用)


お祖師様が直々に蒔いた信仰の種が、村人の丹精によって芽を出し、日什上人の導きでゆっくりと成長し、根を張り、見事に花を咲かせた…。
高根沢町は間違いなく、下野国における法華の聖地なのでしょう。

妙福寺を訪問したのが4月初旬、境内の巨大な枝垂れ桜が満開でした!



(参考文献)
・「高根沢町史」(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム)
・「高根沢町郷土誌」(高根沢町)

那須山喰初寺(那須町湯本)

2024-06-01 14:44:09 | 旅行
今回は久しぶりに日蓮聖人のご霊跡です!

(小松原法難のご霊跡・鏡忍寺総門)
小松原法難後の日蓮聖人の足取りについては、ご遺文に明記されたものがありませんが、先人達は各地のお寺の縁起とか、地域で伝承されている逸話なども調べ尽くし、大体の経路を推定しています。


特に幕末~明治維新の時代、宗祖研究の権威として知られた小川泰堂居士は、著書「日蓮大士真実伝」の中で、かなり詳細に記しています。
(実は最近、この復刻本↓を購入し、時間があれば読んでます!)

これによると、小松原法難の翌年、すなわち文永2(1265)年の春にはもう、日蓮聖人の消息が確認できるようです。
まずは下総国 海上郡 鼻和(うながみごおり はなわ:現在の旭市塙)で布教され、真言宗のお寺を改宗させています。


(水戸市加倉井にある常陸の湯霊跡)
このあと進路を北にとり、常陸国に入ったと記されています。
いわゆる「常陸の湯」は、この時に訪れたのかもしれませんね。


さらに日蓮聖人は、筑波山を回り込んで那須に至り、そこで湯治をされたということです。
(google earthに加筆)
初めて目にする情報ばかり。
なんだか、居ても立ってもいられなくなりました。
よし、行ってみよう、那須!


というわけで、今回は6年ぶり(佐野妙顕寺以来)の栃木県!
那須のご霊跡を紹介したいと思います。
宇都宮でレンタカーを借り、走ること1時間余り、那須高原に至ります。



(那須高原を貫く県道16号線)
この道、古くは那須街道と呼ばれていました。
那須と水戸を結ぶ道として、江戸時代には人馬の行き来があったようです。


那須街道は、ほぼ那珂川に並行して走っています。
(水戸中心部を流れる那珂川:関東地方整備局HPより引用)
実は今回、初めて知ったのですが、水戸を流れる那珂川の源流は、那須岳にあるんですね!(那珂川の「那」は那須が由来)
那須と常陸、古くから人の往来があったことは間違いなさそうです。
お祖師様も、那珂川沿いを歩いて那須に行かれた…かもしれません。



目的のご霊跡に到着しました。
那須山喰初寺(※)です。
インパクトのある寺名ですね!
(※)読み方ですが、縁起には「くいそめじ」とありました。また「くいぞうじ」と書く文献もありました。



場所は「新那須」というバス停の目の前です。
この界隈にはいくつも温泉郷がありますが、新那須温泉はその名の通り、大正時代開湯の一番新しい温泉だとか。



お寺の入口はこんな感じ。
30年前に建立された大きな鐘楼が目印です。
僕のレンタカーと比べても、その立派さがわかりますよね。



辺りには、ほのかに硫黄の香り。
石塔には「日蓮聖人御入湯霊場」の文字が刻まれています。
さて、どんな縁起があるんだろう?わくわく!



こちらが本堂です。
窓が多いので、お堂の内部は結構明るいかも。
木の感じからするとこのお堂、そう古くはなさそうです。



事前に電話をしましたがつながらず、庫裡もご不在だったようです。
残念ですが、本堂前に掲げられている縁起↑をもとに、各種資料を漁りながら、喰初寺の歴史を探りたいと思います。


さきほどの「日蓮大士真実伝」によると日蓮聖人、那須湯治の目的は「近き頃、中風の御心地にてありければ…」とあります。

「中風」は漢方医学的には、風邪にあたった(中った)時に起こるような、しびれ、麻痺、めまいなどの症状のことで、脳血管疾患後にもよく見られるといいます。


小松原法難でお祖師様は頭部に3寸(9cm)もの刀傷を負いました。
また南条兵衛七郎殿御書によると「自身も切られ 打たれ…」とあるほどですから、衝撃だって相当あったでしょう。
(小松原山鏡忍寺の祖師堂扁額)
脳にひずみが生じれば「中風」的な症状も出ていたかもしれません。
傷の治療とともに、「中風」を軽くするため、那須に湯治に来られたのでしょう。



喰初寺から車で3分も上がれば、那須温泉の元湯に至ります。


那須温泉の歴史は古く、今から1400年ほど昔、飛鳥時代には開湯されていたといいます。

鹿を射損じた猟師が、逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿が傷ついた体を温泉で癒していた、そんなルーツがあるそうです。
効能多い温泉に感謝して創建された、温泉(ゆぜん)神社もあります。



時間があったので元湯「鹿の湯」に入ってきました。


真っ白で硫黄臭強め、そして熱めのお湯でしたが、芯から温まりました。
(鹿の湯 パンフレットより引用)
日蓮聖人もこのお湯に浸かったのかなぁ、なんて妄想してたら、のぼせる一歩手前!
ふぅ~、あぶないあぶない。


ところで那須には、九尾の狐伝説があります。
(資料によって細部が微妙に違うのですが、大まかには以下の通りです。)
(那須町による殺生石由来の説明板より)
平安時代、日本を滅ぼそうと時の上皇に悪さをした九尾の狐がいました。
武士に追われた九尾の狐は那須まで逃げ、そこで巨大な石に化けて長い間、毒気をふりまき、人畜の命を奪い続けました。
結局、ある高僧が法力でこの石を打ち割り、九尾の狐はやっと姿を消したというお話です。



石は割れて飛び散り、その破片の一つが元湯エリアにある殺生石だといいます。
注連縄でお祀りされていますね。



実はこの時飛び散った別の石が、喰初寺のルーツだと伝えられています。


日蓮聖人は湯治からの帰途、草むらの中に巨大な岩石が横たわるのを見付け、ここに邪気が籠っているのを即座に見抜いたのでしょう、すぐに筆を執って七字のお題目を墨書きしました。
その上で、法力を込めて数珠を打ちつけると、巨石は二つに割れ、隠れていた九尾の狐は昇天したといいます。



境内には九尾稲荷社があります。



済度された九尾の狐を、稲荷神として法華経でお祀りしているのでしょう。
よく清められていました。


日蓮聖人がご入滅された後、弟子の日朗上人がここを訪れ、石に染筆されたお題目をそのまま刻み、後世に遺しました(爪で刻んだという伝承もあるそうです)。
(立てかけてある僕の折り畳み傘、長さ60cm弱)
喰初寺本堂の横に、恐らくそれと思われる巨石があります。
その逸話から「数珠割石」と呼ばれ、信仰を集めてきました。
手前に祠が設けられていますね。


巨石をくまなく観察しましたが、お題目の跡を見つけられませんでした。

いろいろ調べると、この石は屋外に野ざらしですから、野火に遭ったり、お守りとして石を削ってゆく人も後を絶たなかったといいます(←絶対ダメ!)。
そのため、後年にお題目の部分を碑石として切り離し、整形して本堂に格護したのだと思います。
本堂には「経題石」がご本尊としてお祀りされているそうです。


ところで寺名「喰初寺」の由来、気になりますよね!

さきほどの縁起によると、江戸後期、那須を治める黒羽藩主の娘が大病をし、ものを食べることができなくなってしまったといいます。


(喰初寺の縁起より)
両親は手を尽くしますが全く効果なく、途方に暮れていたところ、夢に日蓮聖人が現れ、方策を示されました。
早速示された通り、経題石に祈願を込め、そこに生えた苔を水に浸して飲ませると、娘はみるみる回復し、ものが食べられるようになったそうです。(諸説あり)


(喰初寺本堂の扁額「初喰佛」)
感激した藩主は経題石を「喰初佛」と名付けてお堂を建立、その逸話が広まって信仰を集めました。
転じて、この地域では子供が生まれると、母子で経題石に参拝し、石の前でお食い初め式をして、健やかな成長を祈るのだといいます。



数珠割石の裏手に、喰初寺歴代の御廟があります。
宗祖の由緒が残るご霊跡を、見事に復興・護持してくださった先師達に、感謝の誠を捧げました。



墓誌には、開山として通妙院日現上人が刻まれています。
文政期に遷化されていますから、さきほどの黒羽藩主と時代が一致します。
恐らく最初にお堂が建立された際、招かれたお上人なのでしょう。


ちょっと気になるのは、その次に刻まれているお上人は、一気に昭和の時代となることです。

実は当初、ここは正式なお寺ではなく、修験者や民間の霊能者のような人が堂守を継承するお堂「喰初庵」だったそうです。


昭和初期、喰初庵を正式な寺院にしようという機運が高まり、招かれたのが慈中院日源上人です。墓誌では中興開山とされています。

東京の二本榎・承教寺や池上近くの林昌寺で修業されたお上人だといいます(第2世、第3世も)。
承教寺も林昌寺も、池上本門寺とご縁が深いですよね。
恐らく経題石を刻んだ日朗上人の法縁から選ばれたのだと思います。



境内に復興記念碑があります。



裏面には、宗祖650遠忌の砌、諸堂の復興とともに、正式なお寺「那須山喰初寺」と改めたことが刻まれていました。
650遠忌ですから昭和6(1931)年、ちょうど満州事変の年です。


さらにその前年秋には、近くで山津波(大規模な土石流)が発生、多くの人が犠牲となっています。

境内には、当時の犠牲者を追悼するため、地蔵菩薩像が鎮座しています。


由緒あるご霊跡なのに、お寺でなかったために荒廃したり、相続により開発されてしまったような場所を、僕は各地で見てきました。
天災、政情不安、恐慌…と大変な時代に、それでも後世のことを考えて、正式なお寺にするよう尽くした喰初寺の先師達に、ただただ感謝です。

この復興記念碑は平成元(1989)年、現在のご住職(第5世)が歴代の偉業を顕彰するために建立されたようです。
碑に刻まれているからこそ、僕は今、先人のご苦労に思いを馳せることができる。
正しく伝えるっていうのは、一番の布教だと思います。


(那須温泉の元湯付近)
それにしても日蓮聖人、「中風」を我慢しながら、よく下総から那須まで歩いて来られたと思います。
それだけ那須温泉の効能が、当時から知れ渡っていたのでしょう。


そしてもう一つ、これはあくまで空想、オカルトですが…
レンタカーのナビを見ていて気付いたことがあります。
(google earthに加筆)
那須の先は白河。
実は結構近くて、箱根駅伝一区間分もありません。
(東北道の那須~白河は17.2km)


明治時代に書かれた「高祖日蓮記」という宗祖御一代記には、小松原法難で犠牲になった鏡忍房日暁上人について、こんな事が書かれています。
(小松原上人塚の日暁上人供養碑)
鏡忍房は元奥州白河の住人、白河八郎と云って武門に育ちたるもの
で、故あって浪人となり、諸国を流浪するうちに、日蓮聖人の弟子となったそうです。彼は
三十人力もあらうといふ剛勇の人
だからお祖師様が大勢に襲われた時、傍らに生えていた松を引っこ抜き、振り回して応戦できたのだと。
そして絶命する寸前まで日蓮聖人を護りぬき、最期は
無念、無念と叫びながら落命
したと書かれていました。



義理堅い日蓮聖人のこと。
法難の翌春、進路をわざわざ北にとったのは、もしかしたら、鏡忍房日暁上人の故郷・白河を訪れる目的もあったんじゃないかな、なんて思いを巡らせながら、霧雨に包まれる那須のご霊跡をあとにしました。



(参考文献)
・長沢利明「食い初めの寺」(西郊民俗)
・「那須喰初佛」(那須町誌)
・大坪朴堂「高祖日蓮記」(三芳屋書店)
・小川泰堂「日蓮大士真実伝」(ニチレン出版)

菩提梯(身延町身延)

2024-05-01 15:13:47 | 旅行
先日、昔の写真アルバムを整理していたところ、僕が初めて身延山に登詣した時の写真が見つかりました。
(身延山奥之院山門にて、手前左が僕:1974年夏)
昭和49年ですから、今からちょうど50年前のことです。
その旅のこと、ほぼ忘れてしまったのですが、実は1ヶ所だけ、鮮明に覚えているところがあります。


家族で登った菩提梯です!(当時の写真がないのが残念)

小学1年生の僕が、いいとこ見せたくて、壁のような石段を一気に駆け上がっていた記憶。
そして遙か下を必死に登ってくる両親や姉を見下ろして、悦に入っていた記憶。
およそ煩悩だらけの思い出ですが、それが僕の、身延山での一番古い記憶です。


今回はその菩提梯について、書いてみたいと思います。



まぁ、いつ見ても圧倒されます。
三門と本堂、標高差104mを一直線で結ぶ、287段の石段です。


登った人にはわかると思いますが、1段1段が高い!

単純計算で1段あたり36cm(一般的な階段は20cm位)。
傾斜角40度前後が延々続くわけですから、キツいはずです。


ただ、この菩提梯がなかった時代、参詣者は土の、それも急峻な道を通ってゆくしかありませんでした。
雨の時などは、さぞ大変だったでしょう。



菩提梯脇にある説明板には
「26世日暹(せん)上人代の寛永9(1632)年に、佐渡の住人 仁蔵の発願によって完成したものです。」
とあります。



仁蔵、すげえな・・・。
これだけの巨大建造物です。どんなに信仰が深くても、いち民間人がおいそれと造れるレベルではありません。
仁蔵、何者なんだろう?と、以前から不思議に思っていました。


身延町誌には、地域で伝承された民話として、こう書いてあります。
(寺平の身延山大学グラウンドから身延山を望む)
「寛永年間に仁蔵という佐渡の船頭が、身延山に登山した。当時まだこの石段はなかったので、仁蔵は本堂前の急坂を見て、どうかして石段を作りたいと考えた。そして、宗祖の御前へ参籠して、『石段を作るだけの金を授け給え』と祈願した。」


(真野湾越しに大佐渡山地を望む)
「それから後、船頭仁蔵は佐渡の近海を航海していた時、佐渡の山の上に何か光るものを見た。不思議に思って登ってみると、一面の金であった。偶然とも不思議とも例える言葉もないような幸運につきあたった仁蔵は、これも日蓮聖人が下されたものであると堅く信じ、巨万の金を持って身延山へ登山した。」



「そして、立札を作り『石一つ運んだものに銭百文を与える。』と村々へ布告した。金の力は偉大なもので、数日の間に必要以上の石材が集まった。こうして、あの天にも届くかと思われる大菩提梯(ぼだいてい)ができ上ったのであると伝えられている。」
(身延町誌 第七節の一、口碑伝説)

身延界隈では「仁蔵」は佐渡の船頭で、偶然佐渡の金脈を発見した人、だと伝わっているようです。
ちょっと信じがたいですが、夢のある話ですね!


一方、身延山26世智見院日暹上人は、「仁蔵」に対し、実際にご本尊を授与しています。
この脇書には、「仁蔵」の正体に迫る記述があります。(脇書は漢文調、カッコ内は僕の現代語訳です。悪しからず…)
(身延山短大仏教文化研究所編「身延山諸堂記外」より引用)

「仁蔵法諱蓮心宗門無類信士其先但州之人也」
(仁蔵 法名蓮心は、宗門でも無類の篤信者、但馬の人)

「佐州金銀山之開基味方但馬守家政(※)之父也」
(佐渡の金銀山を開発した山師 味方但馬の父)
(※)味方但馬は名を「家政」とも「家重」ともいわれる。佐渡宗門では「家重」の方が一般的

「寛永九壬申春三月初吾山壇階之切石搆営重畳之砌」
(寛永9年3月初め、切石を積み重ねて身延山に石段を造るという大事業の際)

「投置一石者附与銅銭一百穴焉」
(一石を投げ置く者には銅銭一百穴を付与した)

「以郡郷雲如来役夫山如集不日成功」
(そのおかげで役夫が山のごとく集まり、日ならず完成した)

「畢况復塚原中興之大檀那也」
(大事業を終え、佐渡塚原中興の大檀那に戻った)



ここで味方但馬(みかたたじま)家重(=家政)について解説したいと思います。
(史跡 佐渡金山入口:味方但馬も開発した青盤脈にある)
味方但馬家重(元の名は村井孫太夫)は佐渡金山を開発した山師、いや大山師です!
もともと武家だった一族は、播磨国三方(今の兵庫県中西部)に拠点があり、味方姓を名乗ったようです。
播磨国には鉱山が多かったためでしょうか、いつからか鉱山稼業に転換、一族の中でも、味方但馬家重(以降 味方但馬と表記します)は山師としてのセンスが抜群で、佐渡奉行・大久保長安の招きにより、当時大金脈が発見されたばかりの佐渡に渡りました。


山師は鉱山の専門家であると同時に、企業家でもありました。
多くの労働者を雇い、坑内作業から選鉱、精錬、運搬まで、鉱山の仕事全てを、自分の資力と責任で経営していました。
(山師も立ち会う鉱脈の試掘:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
大鉱脈に当たれば一夜で大富豪に、逆にひとたび落盤や水没でもあれば破産してしまうという、博打のような仕事でした。
(「山師」って言葉、ギャンブラーや詐欺師的な意味合いもありますよね!)


江戸初期、佐渡には40人以上の山師がいたようですが、味方但馬はその中でも一番稼いだ山師ではないでしょうか。
(水上輪による排水:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
味方但馬最大の強みは排水技術の高さ。水没により他の山師が手放した坑道を再生させ、巨大金脈を開発します。


(史跡 佐渡金山内に展示される金貨)
最盛期にはわずか10日間で、今の価値にして十数億円分もの鉱石を掘り出したようです。
このうち3~4割を幕府に上納、すると幕府の財政も潤います。
そのため味方但馬は徳川家康に謁見を許され、このとき「味方但馬守家重」の名を頂戴した、といわれています。


(具足山妙覺寺山門)
一方、味方但馬の一族は、代々日蓮宗を信仰しており、京都妙覺寺を菩提寺としていました。自身も熱心な信者だったようです。

味方但馬は金山開発で得た莫大な富に溺れることなく、佐渡の日蓮宗寺院に軒並み喜捨し続けました。
まさに佐渡宗門を支えた大檀那、大功労者なのです!


(塚原山根本寺境内)
特に当時の佐渡根本寺住持は栴檀院日衍(えん)上人、本寺の京都妙覺寺から来島したというご縁もあったのでしょう、味方但馬は深く帰依、根本寺は彼一人の資力で、山容を一新することができました。


(根本寺祖師堂)
(築山は「布金壇」といわれる)
根本寺祖師堂は小高い築山の上に建立されていますが、「味方但馬は土を運んだ者には一簀(み)あたり銅銭一百穴を与えた」旨が書いてありました。
お!?このやり方、まさに菩提梯の工事と同じですね!


かなり話が逸れちゃいました。さきほどのご本尊の脇書に戻りましょう。

この脇書によれば、「仁蔵」は「味方但馬の父」と読み取れますが、調べると味方但馬の父である村井善左衛門は慶長8(1603)年に病没、また味方但馬自身も元和9(1623)年に亡くなっており、いずれも菩提梯建立を発願したといわれる寛永9(1632)年には既に鬼籍に入っています。
(フェリーから佐渡島を望む)
ちなみに味方但馬が佐渡に渡った時期は、大久保長安が佐渡奉行に就任した慶長8(1603)以降でしょうから、「仁蔵」が金山を発見し、巨万の富を築いたというのは、のちに作られた話ではないかと思います。


ちょっと気になるのは、菩提梯発願の年のわずか2年前、江戸城で身池対論が行われていることです。
受布施を主張する日暹上人など身延山と、不受不施を主張する日樹上人など池上との対論で、幕府は不受不施派を敗者とする裁定を下しました。
(具足山妙覺寺本堂)
これにより不受不施派の拠点はことごとく身延山側に接収されます。
特に味方但馬の菩提寺である京都妙覺寺は、不受不施派の祖・仏性院日奥上人を輩出したお寺でしたから、人事は慎重を極めたのでしょう、身延山21世を歴任された寂照院日乾上人が入っています。


味方但馬は佐渡金山の他にもいくつか鉱山開発をしていましたが、摂津国(今の兵庫県東部)の多田銀山もその一つでした。
多田銀山は能勢妙見山↓のすぐ近く、それこそ10km程しか離れていません。

古くから鉱山に携わる人々は、妙見様への信仰が強かったと聞きます。
天空の星々が地上に降って鉱物になる、と考えられていた時代もあったようです。


(妙見山の頂上付近に白い自衛隊のレーダー施設が見える)
そう、佐渡金山の近くにも妙見山↑がありますね!


(能勢妙見山境内の日乾上人像)
多田銀山にほど近い能勢の妙見山は、古来地元で信仰されていた星信仰を、寂照院日乾上人が法華経で勧請し直し、山頂に妙見大菩薩をお祀りしたのがルーツです。
なんか不思議!いろいろリンクしてきます。


(身延山歴代墓所にある日暹上人墓)
一方、さきほどの身延山26世日暹上人は、日乾上人からみれば弟弟子(身延山22世日遠上人)の直弟子という、ほぼ一枚岩の関係です。
味方但馬の人となりは、日乾上人から日暹上人へ、確実に伝えられていたと、想像します。


僕は「仁蔵」について、こう考えています。

金山を当てて巨万の富を築いたのは味方但馬。
彼は「仁蔵」こと父・村井善左衛門が抱いた壮大な夢「身延山菩提梯」を継承し、子々孫々、今後何代に渡ろうとも、完成させようと決意したのだと思います。
前人未踏の巨大事業、味方但馬は金山経営と並行して、工事の段取りを模索していたのでしょう。


そんな矢先、味方但馬は60才で亡くなりますが、息子の二代目味方但馬家次が遺志を継ぎます。

寛永5(1628)年に身延山に晋山した26世智見院日暹上人は、味方但馬代々の熱い思いを汲み、寛永9(1632)年、「仁蔵」という佐渡の住人の発願という形で、快く事業開始を了承した、ということだと考えています。
つまり「仁蔵」は、味方但馬の父から始まる代々の総称、とするのが自然だと思っています。


実は昨春、佐渡を訪れた時、僕は佐渡金山近くで生まれ育ったお上人2名に、菩提梯を造った「仁蔵」は誰だと思うか、興味があって聞いてみました。
(大佐渡山地:山塊左端の奥に佐渡金山がある)
いずれのお上人も「仁蔵」は味方但馬で間違いない、佐渡ではそう考えられている、という結論でした。
もはや僕の中では、味方但馬説で決着しています(笑)。



ちなみに佐渡相川の金山近くには、二代目味方但馬家次が父・家重の菩提のため、日衍上人を開山に迎えて建立した光栄山瑞仙寺があります。



ご住職に瑞仙寺本堂裏にある味方家先祖代々の墓地(※)を案内していただきました。今でも末裔の方が島の内外にいらして、墓参に訪れるそうですよ。
僕も合掌し、「仁蔵」さんに感謝の気持ちをお伝えしました。
(※)味方但馬代々の墓所は、京都妙覚寺にもあるようです。


菩提梯は造営からそろそろ400年。

歪みやズレは多少ありますが、まだまだ圧倒的な存在です。



半世紀前、あの煩悩だらけだった少年が、今やこうして「仁蔵」の思いに感応しながら登っているんですから、この石段は単なる巨大建造物でなく…そう、悟りへの梯(きだはし)なのかもしれません。



最後に後日談。


この3月、身延山参詣の折、菩提梯の採石場跡を訪問してきました。
身延山の北側、下山地区の山間に、ひっそりと遺されています。



大きな岩が数塊あり、注連縄で丁寧にお祀りされています。


直線的に開けられた矢穴が、当時の石工の仕事ぶりを想像させてくれます。

お題目を独特の調子で唄いながら、ノミを打ち込んでいたのかな。
こういう観光地化されてない遺跡、僕はホント、気分がアガります!



説明文には、菩提梯の工期が寛永9(1632)年から80年間と書いてありました。
あれだけの傾斜ですから、大雨とか地震で崩れたりもしたでしょう。
修復に修復を重ねて、安定したのが80年後、だったのかな?と考えます。


ところでこの採石場跡、味方但馬が関わっていたのなら、妙見様が近くにあるんじゃないかと思って現地に赴いたのですが・・・なんと!

採石場跡のすぐ上に、北辰妙見大菩薩をお祀りするお堂、妙見寺があるではないですか!!



これにはマジで驚きました。
身延町誌によると、法光山妙見寺は文亀11(1514)年の創立とありますから、菩提梯造営よりも前に存在していたことになります。 

まあ、オカルトでしょうが・・・意外とこういうの、あるんですよね!
やめられません(笑)。

明光山妙勝寺(岡山市北区船頭町)

2024-04-01 09:24:39 | 旅行
一昨年、2代目の愛犬が老衰で逝き、しばらく犬不在の日常が続きました。
犬がいない生活は、旅に出やすいなど、それはそれで快適だったのですが・・・やはり元来の犬好き、気付けばネットで3代目候補を探し始めてました。

そんな時、岡山で里親募集してる雑種犬(メス・1才半)に、妻がビビッときまして、昨年6月にわざわざ湘南から岡山まで対面しに行きました!



元野犬、相当警戒心が強いやつでしたが結局、情が移っちゃって、今は我が家で暮らしています。


今回は、その岡山の旅の途中で訪問した、宗門寺院を紹介したいと思います。


(JR岡山駅)
岡山市の人口は、驚きの70万人超!
お隣の倉敷市と合わせると、実に100万人以上が界隈に住んでることになります。




JR岡山駅からは市電です。
市電は2系統ありますが、清輝橋線で終点まで乗ります。



清輝橋駅から少し歩くと、旭川に至ります。
児島湾が干拓される明治まで、この辺りは河口に近く、人や荷物を載せた多くの舟が往来していたようです。



今回、参拝するお寺は、旭川沿いの船頭町にあります。
舟運時代が偲ばれる地名ですね!



妙勝寺に到着しました。
この辺りの地質なんでしょうか、敷石も砂利も、そして法塔もベージュ色です。



山門です。
控え柱のある薬医門です。


左右に立派な灯籠を配した本堂です。
備前法華のお寺、沢山のお題目で護られたお堂なのでしょう。

これまで妙勝寺を護持してくださった先師達に感謝し、合掌しました。
そしてあの保護犬と仲良くなれるようにという思いも、ちょい込めました!



山号は明光山(みょうこうざん)です。


庫裡でご住職に挨拶させていただきました。
話の端々にユーモアを挟むお上人で、さぞ面白い法話をされるんだろうな~、と思いました。
これから法事があるような雰囲気でしたが、ご首題など、快く応対してくださいました。ありがとうございました!



境内の中心には、鎌倉末期から南北朝時代にかけて大きな功績を残された大覚大僧正の、巨大な供養塔が立っています。


当時、京都より西はまだ法華未開の地でした。
日像上人の命を受け、単身中国地方へ赴いた大覚大僧正は、吉備国(今の岡山県)全域で布教を行いました。
(備前市邑久町から瀬戸内海を望む)
特に備前では、松田氏(備前守護職)の援助も得て、のちに「備前法華」という言葉までできるほど、篤信のエリアを作りあげたのです。



大覚大僧正が開創したと伝わるお寺は、岡山県だけで40ヶ寺以上もあるそうですが、妙勝寺はその中でもごく早い時期に開かれたお寺で、備前日蓮宗の始まり、とされるようです。


妙勝寺が開かれたのは、南北朝動乱の真っ只中、興国3(1342)年前後だと伝わります。
(南北朝の動乱:明治図書刊「歴史資料集」より引用)
この時代、朝廷が真っ二つに割れ、全国あちこちで内戦が起きていました。
南朝(後醍醐天皇方)に仕える武将・多田頼貞(よりさだ)は、本拠地の摂津国能勢郷を離れ、各地を転戦していましたが、伊予で北朝方に敗れてしまいます。


多田頼貞は残兵とともに備前に逃れます。
(妙勝寺境内で栽培される蓮)
幸いにも地元の豪族・阿比六郎熊城(くまき)が味方に付いてくれたため、網浜という場所にある彼の屋敷を拠点とし、ここで再興を期すことにしました。


ところが備前国のすぐ東隣は播磨国、敵(北朝)方である赤松氏の所領でした。

備前網浜に多田頼貞が潜伏しているという情報は、すぐに赤松軍に伝わります。巧みに間者(スパイ)を潜り込ませていたのです。
その上で赤松軍は大軍勢で攻め込んできたため(網浜の戦い)、多田軍は完敗、頼貞は自ら腹を割いて逝きました。


戦いの跡には、多田軍の屍ばかりが放置されていました。

ある日、旭川を舟で上ってきたお坊さんが、この屍を集めて荼毘に付し、お堂を建てて丁重に弔いました。

(京都妙顕寺奉安の大覚大僧正坐像:京都像門本山会刊「大覚大僧正」より引用)
このお坊さんが大覚大僧正で、お堂は「法華霊堂」と号されました。
のちに大覚大僧正の法孫によって寺号が附せられ、「妙勝寺」と称するようになったということです。
(夙外生著「大覚大僧正」:大正5年刊)


また他の文献には、自邸を砦にした阿比六郎熊城が、当地を布教に訪れた大覚大僧正に帰依し、自邸をお寺にしたという、別の縁起も書かれていました。
諸説あるようですね。
(妙勝寺境内の紫陽花)
ご住職によると、妙勝寺は岡山大空襲で焼き尽くされ、昔のものはほとんど残っていない、ということでしたから、真相は闇の中、ちょっと残念ですね!


大覚大僧正供養塔のすぐ右側、木に隠れるようにもう一本、石塔が立っています。

これは能勢修理頼吉の供養塔と伝わります。
能勢修理頼吉は、文献によって多田頼貞の家臣とも後裔ともいわれます。
詳細は不明ですが、現在の妙勝寺に残る唯一の多田氏遺跡、ということは確かなようです。


妙勝寺は岡山市内を南北に流れる旭川の西岸にあります。
対岸は「網浜」という住所ですから、戦はこの一帯であったと考えられます。
(旭川:対岸は網浜)
布教のために舟でやってきた大覚大僧正が、備前で最初に目にしたのは、凄惨な戦いの跡だったわけですね。
まさに地獄絵図の中、大覚大僧正は戦死者の霊を慰め、生き残った者には信仰を通じて心のケアを施した、それは間違いないことでしょう。


一方、最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くし、圧倒的不利にもかかわらず勇猛に戦い、果てた多田頼貞に、敵(北朝)方の総大将である足利尊氏は感服したそうです。

頼貞の嫡男・頼仲(よりなか)は、能勢の旧領(摂津国)と、備前国17郷を安堵されました。そして姓を「多田」から「能勢」に改めた上で、代々足利に仕えたといいます。


時代は下り戦国時代、能勢氏は断絶の危機に陥ります。
(能勢妙見山参道の能勢頼次銅像)
当時の当主は能勢頼次(よりつぐ)。
明智光秀とは友好的な一方、その主君・織田信長とは敵対するという、とても微妙な立場でした。


そんな時、本能寺の変が起きるのです。
明智光秀の謀反により、信長は自刃します。

(本能寺夜討:香雨亭桜山著「絵本太閤記 真書実伝」より引用)

それからわずか11日後、首謀者の明智光秀は羽柴秀吉に打ち取られ、明智に加勢した能勢軍も、秀吉の大軍に敗れてしまいます(山崎の戦い)。


このとき、能勢頼次は数名の家臣とともに備前に逃れました。
能勢家の先祖にご縁の深い、妙勝寺です。
恐らくこの頃には、備前法華が地元で一大勢力となっていたことでしょう。
能勢頼次はここに身を隠し、彼らとともにお題目を唱えながら、再興の機をうかがったのです。
時代は繰り返すんですね!


のちに頼次は徳川家康に召し上げられ、関ケ原での活躍もあり、再び旧領を安堵されます。
ちなみに、頼次が時の身延山法主・寂照院日乾上人とのご縁によって、途絶されていた先祖代々の星信仰を、法華経でお祀りし直したのが、現在の能勢妙見山です。


北極星信仰の聖地・能勢妙見山の成り立ちに、間接的にではありますが、大覚大僧正や備前法華が関わっていたというのは、とても興味深いです。
(能勢妙見山内:石碑に刻まれた桐竹矢筈十字紋)
また「妙見山」という山や地名は全国にありますが、西日本、中でも岡山県に突出して多い、という話も聞きます。
真偽の程は定かではありませんが、西国における北極星信仰は、妙勝寺が大きなキーワードになるのかもしれません。
機会があったら掘り下げてみたいと思います。


話を妙勝寺に戻しましょう。
(空襲で焼け残った大覚大僧正供養塔)
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年6月29日未明 、岡山はB29による大規模な爆撃に遭い、多くの死傷者が出ました。
市街地の実に7割以上が焼き尽くされ、残念ながら妙勝寺も灰燼に帰してしまいました。


そんな中、信徒の西村多吉さんご一家が、妙勝寺再興に尽力されました。

戦後の物資がない時代、家族で木材を運んで本堂を再建、のちに表門や鐘楼など、およそ現在の寺容を整備した、妙勝寺の大偉人です。



こちらはご一家の偉業を称える石碑です。



石碑裏面には
「敗戦後、敵国政策下ニ置カレ」「極度ニ悪化」してしまった「信仰」「道義」「思想」を「善導」するために、「大覚大僧正ノ遺徳ヲ慕ヒ」「旧本堂再建ヲ誓」った
と、刻まれていました。


もともとお寺は、祈りで心を清める場所であり、学びの場所であり、地域の人を結びつける場所でもありました。
信仰心の篤い備前の人々にとって、お寺はアイデンティティそのものだったかもしれません。


ふと、お祖師様のご遺文「崇峻天皇御書」の一節を連想しました。
(妙勝寺境内の日蓮聖人銅像)
「蔵の財(たから)より身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」

戦後、多くの人が失いつつあった大切な「心」を取り戻すためには、まず本堂再建が必須と確信し、西村多吉さんご一家は力を尽くされたのでしょう。

一基の石碑から、大切なことを改めて教えられたような気がします。
備前法華衆の心意気を感じました。


ところで岡山出身の3代目犬、我が家に来てすでに8ヵ月が過ぎました。

当初なかなか人に慣れませんでしたが、食欲だけは旺盛、これを逆手に根気よく手なずけ、最近わずかずつ、心を開き始めました。

同時に体重も1割ほど、増えました。
妙勝寺の御利益もあったかな?

身延山大善坊(身延町身延)

2024-03-01 11:07:16 | 旅行
1月の20、21日で、身延山にある義父のお墓参りを計画していました。
(2024年1月21日の天気図:日本気象協会HPより)
ところが当日は南岸低気圧で雪模様の予報!
スタッドレス履いてないし・・・なかなかこういう機会もないよね!とポジティブに考え、電車で行くことにしました。


久しぶりの身延線。
富士駅から特急「ふじかわ」に乗って、ほぼ富士川沿いに北上してゆきます。


明治から大正にかけて、法華の篤信者である堀内良平氏、小野金六氏らが中心となって敷設した「富士身延鉄道」を前身とするJR身延線。

まだ鉄道そのものが認知されていなかった時代、地元の説得に、資金繰りにと奔走した彼らに思いを馳せるうちに、うつらうつらして・・・1時間弱で身延駅に到着!



幸い雪は降っておらず、小雨の中、義父の墓参ができました。
タクシーで御廟に行き参詣、そこから大善坊へ歩いてゆきました。



東谷参道には沢山の坊がありますね!
このうち現在、宿坊として営業しているのは7ヶ坊だと思います。



大善坊に行くには2つのルートがあります。
歩行者は窪之坊さん先の分岐を右へ、自動車はさらにその200m先を右に折れます。



歩行者道は往古からの参道なのでしょう、めちゃクラシックな碑があります。
※傾斜がきつい箇所があるので、荒天時は自動車道を歩くのがおすすめです。



覚林坊さんを過ぎると、突き当たりに大善坊があります。



朗らかな奥様が迎えてくれました。
宿帳に記入後、境内を歩きます。



グーグルマップで見ると、大善坊は寺平のお山の西麓にあります。



ちょうどこの真上に、さっきお参りした聖園墓地があるのだと思います。


まずは歴代お上人の御廟を参拝。
今日まで大善坊の法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝いたします。

大善坊の開山は、応仁の乱よりも古い長禄元(1457)年。
身延町史によると、大善院日邉上人がこの地に坊舎を建立し、隠棲したのがルーツだそうです。



この時代、日蓮門下では各門流が「我らこそ正当、正嫡だ!」と主張し、特に京都では将軍への諌暁など、実力を競っていました(※)
奇しくもこれが京都宗門に活力を与え、「題目の巷」といわれるほど法華信仰が広がりました。一方、比叡山など他宗から妬まれる原因ともなり、のちの天文法難の火種になります。
(※)そのため寛正7(1466)年、諸門が合同融和してやってゆこうという取り決め(寛正の盟約)がなされたほどでした。



一方、この頃の身延山はというと、「何等の変化もなく、守成し来れり」(身延山史)とあります。
辞書で「守成」を引くと「創始者の意向を受け継ぎ、その築きあげたものをより堅固なものとすること」だそうです。


(身延山歴代御廟:手前から7、8、9世墓石)
当時の法主様は7世日叡上人、8世日億上人、9世日学上人あたりでしょうか。
この3人は波木井一族出身の兄弟(身延山史)ということですから、地味だけど相当な安定政権、身延山は一枚岩の時代だったと思われます。


特に9世の成就院日学上人は、関東諸檀林を学び歩いた著名な学匠でした。
その上で、身延山は他と同じであってはならない、「行」も「学」も極めるための施設にしたい、という強い思いがあったようです。
(身延山歴代御廟:9世日学上人墓石)
日学上人のお弟子さんに鎌倉本覚寺を開いた一乗院日出上人がいますが、日出上人が将来の法器として手塩にかけて育てたのが11世行学院日朝上人、彼が実際に、身延山を行学二道の聖地に発展させてゆくのです。


(大善坊碑に刻まれた「日邉聖人」)
大善坊のルーツである大善院日邉上人も学僧だったといいますから、行学両道の基礎を造るべく、当時の法主様と尽力された方だったと思われます。


大善坊の名前が広く知られるようになったのは明治時代、ここに無料宿泊所「功徳会」が設立されてからでしょう。
(大善坊裏山から東谷を望む)
身延山史によると、明治39(1906)年、大善坊住職が「本堂下に老婆の枯死しているのを見て、無宿者の宿泊保護事業を志して、功徳会を創設した」とあります。


当時の身延山には、身寄りのない貧困者、周囲から忌み嫌われる難病を抱えた人などが多く参詣に訪れ、山内でいわゆる「行き倒れ」した人も少なくなかったといいます。
(明治15年頃の門前町:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
そういえば以前読んだ綱脇龍妙上人の伝記には、綱脇上人が初めて身延山を参拝した時の話として、身延川の河原に沢山のハンセン病患者が小屋を作って生活していて、その光景に驚いたと書いてありました。
今からはおよそ想像がつきませんが、それが身延山の日常だったわけですね。


当時の大善坊住職は、長谷川寛善上人。もともとは僧侶でなかったといいます。
眼の病気で視力をほぼ失い絶望していた時、眼病守護の神様といわれる「身延山の日朝様」のことを知人に聞き来山しました。
(覚林坊日朝堂の幟)
当時の覚林坊36世・正明院日温上人と出会い、感応したのでしょう。寛善上人はなんと出家得度し、覚林坊の隣地にある大善坊(当時は荒廃していたらしい)を任されることになったといいます。


そんな方ですから、弱者を見捨てることができなかったのでしょう。丸太小屋程度の無料宿泊所を設け、受け入れることからスタートしました。
(大正12年頃の大善坊前:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
行路病者だけでなく、心の病を患う人、無一文の人・・・多少の例外はあっても、大多数は社会から追い詰められ、命がけでやって来た人達でした。



国の制度として社会福祉が始まったのは明治7(1874)年(※)、まだそんな頃ですから、周囲の理解が少なく、寛善上人は「乞食の親方」と揶揄されることもあったそうです。
(※)国による最初の救貧制度「恤救(じゅっきゅう)規則」制定


当初は寛善上人個人による「慈善事業」であったため、功徳会の財政はいつも火の車状態でした。
(昭和初期の功徳会:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
しかし社会が徐々に成熟してくると、こういった事業にこそ公的な支援を!という機運が高まり、大正9(1920)年に山梨県から補助金が交付されるなど、寛善上人の善行はやがて「社会事業」として認知されてゆくのです。


(特養ホームみのぶ荘)
戦後、功徳会は養老施設として財団法人化され、大善坊境内から梅平に移転、経営も大善坊から離れ、現在は身延山が母体の「身延山福祉会」が事業を継いでいます。


(昭和8年の身延深敬園:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
今回、調べものをしていて気付いたのですが、長谷川寛善上人の「身延山功徳会」と、綱脇龍妙上人の「身延深敬病院」は、偶然でしょうか、いずれも明治39(1906)年に始まっています。


明治政府は欧米列強に早く肩を並べようと、富国強兵、殖産興業をスローガンに強い国づくりを進め、表向きの繁栄はあったのでしょう。
(官営八幡製鉄所:明治図書「歴史資料集」より引用)
しかし一方で、そこからこぼれ落ちる人々がいて、せめての救いを身延山に求めてやって来た、そのピークが明治39年頃だったのかもしれません。
そんな時に目を背けず、弱者に手を差し伸べた長谷川寛善、綱脇龍妙両上人の姿に、宗教の原点を感じずにいられません。


それでは宿坊としての大善坊を紹介します。


こちらが坊の玄関です。



お数珠とか簡単な仏具を販売するコーナーもあります!



角の広いお部屋に案内していただきました。



障子を開けると、霧に煙る鷹取山が見えます。



独特のパターンで編まれている畳!
久々の電車旅で疲れていたため、大の字で仮眠をとりました。



床の間の掛軸にはお祖師様。
日朗上人と身延山頂を目指しているところ、でしょうか。
御軸を見るのも、坊に泊まるときの楽しみです。


奥様にお願いし、本堂で自主的にお勤めさせていただきました。

内陣に七面大明神のお像がお祀りされていました。
現在のご住職は以前、七面山の別当さんを担われていたからかもしれません。ちょうど東日本大震災の頃でしたから、その祈りも、本当に切なるものだったのでしょうね・・・。


ちなみに、僕の認識が間違っていなければ、現在のご住職は長谷川寛善上人の曾孫にあたる方だと思われます。

身延山久遠寺の要職も兼任されているため、さぞお忙しい毎日だと思います。法務を終えて夜、帰坊されてから、快くご首題を書いてくださいました。
弾けそうな笑顔が印象的なお上人です!


さあ、晩ごはんの時間です!

どれも美味しいですが、特に土鍋で煮た大根と、栗ご飯が特筆もんでした!
腹はち切れそう。



熱めのお風呂につかり、寝る準備OK!
お休みなさい。


翌朝(1月21日)、まだ結構な雨が降っていたため、奥様が甘露門まで車で送迎してくれました。

いつも通り朝勤は進みましたが、いつもとちょっと違う点がありました。

通常、導師の偉いお上人が、法要の最後に朝勤参加者に挨拶をされるのですが、その日は脇導師を務めていた大善坊のご住職が代読されていました。



続く祖師堂での法要も、偉いお上人は参加されず、大善坊のご住職が導師を代行されていました。
ん・・・どうしたんだろう?


なんて考えながら大善坊に戻ると、既に朝ごはんが並べられていました。

夕べあれほど食べたのに、朝もおかわりまでしちゃうから不思議。



洗面所はどことなく七面山敬慎院のそれに似ています。
ちなみにトイレはウォシュレット付き便座、快適です!



帰りの身延線に合わせてタクシーを呼び、大善坊をあとにしました。
お世話になりました!


夕方、自宅に戻り、PCを開いて驚きました・・・。
(2月1日付日蓮宗新聞1面)
いつも身延山のフレッシュな情報を発信してくださる「ゆる身延」さんから、この日未明に内野日総法主猊下がご遷化されたとの訃報が・・・。
報道各社が発信する前の情報、さすが「ゆる身延」さん、ありがとうございます。


さきほどの朝勤の違和感は、このためだったんですね。
(大善坊裏山から本堂域を望む)
そういえば大善坊のご住職は、数年前まで法主猊下の随身長(お付きの秘書的な役割)もされていたといいます。
悲しみはいかばかりでしょう。



それにしても法主猊下のお逮夜を、僕は偶然にも身延山で過ごしていた、不思議なご縁をいただいたと感じています。
法主猊下、長い間本当にありがとうございました。

これからも微力ながら、僕はこんな形で発信を続けたいと思います。

南無妙法蓮華経

廣普山妙國寺(堺市材木町)

2024-02-01 13:21:05 | 旅行
前回のブログ「方広寺大仏殿跡」では、豊臣秀吉が両親の菩提を弔うために催した千僧供養会、その招請を受けるか否かを巡って、宗門が大混乱したお話を書かせていただきました。

そもそも日蓮宗、宗祖のやり方を累々と継承するならば、今でも僧侶信徒全員が不受不施、布教も折伏中心だったはずです・・・。


宗門が現在の受布施、摂受スタイルへと変化したのは、戦国時代の僧・日珖上人が一つのルーツだといわれています。
今回は、5年前に参拝した、堺妙國寺(日珖上人開山)の画像を交えながら、そのあたりのお話を書きたいと思います。


堺という地名は、「旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の境(さかい)に発展したまちであることから付いたといわれています。」(堺市HPより)とあります。
(堺市HPより)
市章もこの通り。「市」の字が3つ、ドッキングしてますね!



大阪天王寺と堺を結ぶ阪堺電車。




「妙国寺前」という駅名なんですね(※)
宗門寺院が駅名になっているのは、新潟村田の妙法寺以来です。
堺のお寺といえば妙國寺!って感じなんでしょう。
(※)寺名については、このブログでは「妙國寺」に統一します。



駅の近くにある伝統産業会館に立ち寄ってみました。



刃物、昆布製品、緞通(だんつう) という敷物など、堺の特産品がそのルーツとともに紹介されていました。


もともと奈良の外港として栄えた堺は、戦国時代、明(みん)やスペイン、ポルトガルとの貿易港として栄華を極めました。
(モンタヌス画『東インド会社遣日使節紀行』 に描かれた17世紀の堺の想像図)
ヒト、モノ、カネがどんどん集まるわけで「ものの始まり、みな堺」という諺(ことわざ)まであったといいます。


(堺の鉄砲鍛冶屋:「和泉名所図会」4巻より引用)
天文12(1543)年、種子島に伝来した鉄砲。堺は国内有数の鉄砲の製造拠点でもありました。
今でも堺と種子島は友好都市なんだそうです。


昔からそんなイケイケの町でしたから、武力で支配下に置こうとする大名たちに、常に狙われていたようです。
(環濠都市 堺:河合守清著「堺大絵図改正項目」より引用)
そこで堺商人たちは、町の周囲に濠をめぐらして傭兵を配置、さらに豪商が中心となって独自に町を運営していました。
こうして、いわば独立国のような都市を創り上げ、自由な交易を続けていたと、伝統産業会館の説明文に書いてありましたよ。

面白い~!堺は独特の町だったんですね!



それでは妙國寺に行ってみましょう。
妙國寺駅から東に300m位、歩きます。



昔の道標です。
「そてつ」とは、妙國寺の別名のようです。



妙國寺の門は西と北の2ヶ所です。



どちらにも菊の御紋が掲げられています。皇室の勅願所だったんですね。



日蓮聖人のご尊像に合掌。
聖人は比叡山ご遊学の際、聖徳太子に縁のある叡福寺(太子町)や四天王寺(大阪市)も訪れています。
ここ堺も歩かれた・・・かもしれませんね!



この辺りは和泉宗務所なんですね。


本堂です。
鉄筋とおぼしき二層のお堂です。

内部に宝物資料館がありました(拝観料が必要、撮影不可)。
やはり堺だけあって、海外の品、そして戦国武将ゆかりの品が沢山展示されていましたよ。


いただいた妙國寺の由緒によると、開山は戦国時代真っ只中の永禄年間(1558~1570年)とあります。
三好実休(じっきゅう:俗名・義賢あるいは之康)が、京都頂妙寺3世の仏心院日珖(にちこう)上人に、寺領とソテツを寄進したのが始まりだそうです。
(三好実休像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
四国阿波を本拠地とした三好氏ですが、一時は天下を狙える存在だったといいます。弱体化した室町政権乗っ取りの足掛かりとして、かつて堺を支配したこともあるため、堺には三好氏ゆかりの寺院が多いそうですよ。


一方、妙國寺開山の日珖上人は、地元堺の商人・油屋常言(じょうげん)の子として、天文元(1532)年に生まれました。
油屋は、当時希少な火薬や油も扱っていましたから、戦国武将たちにも重宝されたのでしょう。堺でも屈指の豪商だったようです。
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
お兄さんが家業を継ぎ、日珖上人は堺頂源寺(のちの長源寺)の正法院日沾(にってん)上人のもとで出家しました。
幼い頃から類い稀な秀才といわれた日珖上人ですが、比叡山、奈良、京都で学び、わずか12才で(!)長源寺3世を継ぎます。まさに神童だったんですね。



また特筆すべきは神道についての深い知識で、後年「神道同一鹹味(かんみ)抄」という「日本書紀」の内容を説いた著作を発表しています。
題名は、神道も仏教も海の中に入ってしまえば同じ鹹味(塩味)になる、という意味だそうです。
これは法華神道三大部の一つにも数えられる金字塔といいます。


日珖上人の師匠は日沾上人、さらに日沾上人の師匠は妙国院日祝上人という方で、もともとは中山法華経寺のお坊さんだったんですが、応仁の乱で疲弊する京都にやって来て布教、有力者の帰依を得て文明5(1473)年、あの聞法山頂妙寺を開創するのです。
(聞法山頂妙寺 山門)
そんなご縁もあり、弘治元(1555)年、日珖上人は23才の時に頂妙寺3世として晋山します。


当時は群雄割拠の畿内、血で血を洗う戦に明け暮れ、常に死と紙一重だった三好実休が、日珖上人に深く帰依したのは、その数年後だと思われます。
堺に寺領を寄進した実休ですが、その直後、戦死してしまいます。
(堺妙國寺 「和泉名所図会」4巻より引用)
日珖上人は30才となった永禄5(1562)年、豪商である父や兄の外護により、本堂など伽藍を整備し、妙國寺を開山するのです。
ここに三好実休の遺志が果たされたわけです。
ちなみに妙國寺という寺号、師匠の師匠である日祝上人の院号からいただいているそうですよ。


↓これはウチの娘が中学生の時に使ってた歴史資料集(明治図書)に載っていた戦国時代の畿内勢力図です(赤が信長派、青が反信長派の大名)。

三好長慶(ながよし)は三好実休のお兄さんですが、青、反信長派ですよね。これ、意外と大事なポイントなんで、覚えておきましょう!


当時の関西宗門といえば、天文5(1537)年に起きた、いわゆる天文法難の痛手からやっと復興したところでした。

(具足山妙覺寺境内にある天文法難殉教碑)
天文法難は、洛中で折伏をもって急激に伸張する法華勢力を、比叡山はじめ諸宗連合軍が武力で洛外に追放した事件です。
宗門諸寺は焼き尽くされ、多くの命が失われました。
生き残った僧俗は、安全な堺の末寺に避難しましたが以後6年間、洛中での布教や、寺院再興は許されませんでした。実際には比叡山との和議が成立するまで10年間、京都に帰れなかったということです。


(妙國寺境内の狛犬)
この10年間というのは、計算すると日珖上人が5才~15才の時になります。
心身ともにボロボロになって京都から堺に逃れてきた法華僧俗たちを、ちょうど多感な年頃に、否が応にも目にしたわけで、これは堺出身の日珖上人に少なからず影響を与えたことでしょう。


実は日珖上人の前半生は、宗祖以来の強烈な折伏スタイルだったといわれています。それこそ時の支配者の信仰が、日蓮宗よりも劣っている的な、逮捕スレスレの説法をされていたようです。
(織田信長像:安土城案内より引用)
ところがその頃、京都に入った織田信長には、日蓮宗のこうした折伏主義が見過ごせなかったんでしょう。安土城下で行われた、日蓮宗と浄土宗との宗論に至るのです。
信長は浄土宗と事前に謀り、申し合わせどおり日蓮宗を負けに導きます。


この安土宗論、日蓮宗側の代表として臨んだのが日珖上人でした。
信長の命令によって「日蓮宗が負けました、今後他宗との宗論はしません」という証文を、泣く泣く書かされたのです。
(具足山妙覺寺には比叡山焼討の難に遭った華芳塔が奉安されている)
信長の仏教弾圧は苛烈で知られ、比叡山焼き討ちに象徴されるように、教団を全滅させる力さえありました。ましてや日珖上人は三好氏(反信長派)のお寺を開山したお坊さんなのです。
日珖上人はギリギリの判断で、宗門を存続させる道を選んだのでしょう。


ここでちょっと堺妙國寺の縁起に書いてあったお話を。

妙國寺のソテツは、ちょうど安土宗論の年、信長によって安土城に移植されてしまいます。「妙國寺のソテツ、前から欲しかったんじゃ。日珖が弱っている今なら!」と持ち去ったのでしょう。
(廣普山妙國寺縁起より引用)
ところが安土城では、毎夜そのソテツから「堺へ帰りたい」という声が聞こえるようになりました。激怒した信長が部下に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく、のたうち回ったそうです。



さすがの信長も怖くなり、妙國寺に戻しました。
日珖上人は傷だらけのソテツを植えなおし、法華経一千部(!)を読んだところ、樹勢が回復したそうです。


このソテツに宿るのは龍神様で、日珖上人の夢枕に現れ、上人の善行に感謝したといいます。そして今後ずっと、妙國寺を守護することを約束しました。

この神様は宇賀徳正龍神として、境内のお社にお祀りされています。


話を戻しましょう。
(豊臣秀吉像:河内将芳著「秀吉没後の豊臣と徳川」より引用)
安土宗論からわずか3年後、本能寺の変で信長が自刃すると、代わって政権を握った豊臣秀吉は、日珖上人が書かされた詫び証文を「不当」として浄土宗から取り上げ、宗門の布教を許してくれます。



だから頂妙寺の仁王門に、宗門布教再開を許可したとされる書状が掲げられているんですね!



ところが当の日珖上人、この頃からスタイルを軌道修正し始めていました。
先述の「神道同一鹹味抄」では「開目抄」の一節を引用し、
「高祖も末法に摂受折伏あるべしと遊ばしたり。時処を見て弘むべき也」
と論じ、今は摂受の行が大切な時としたのです。


かねてから日珖上人は、妙國寺内に学室を設けていました。天文法難で堺に逃れた僧達を集めて、天台教学を講じていたのです。
ここで日珖上人の摂受スタイルは熟成し、教え子たちに受け継がれてゆきます。

「三光無師会」といわれるこの学室では、非常にレベルの高い教育がなされていたのでしょうね、のちの京阪本山貫首は、ほぼこちらの卒業生で占められることになるのです。例えば・・・
 一如院日重上人(京都本満寺)
 瑞雲院日暁上人(京都頂妙寺)
 功徳院日通上人(京都本法寺)
 仏眼院日統上人(堺妙國寺)
といったお上人方です。

彼らは堺で学んだため「泉南学派」といわれ、関西学派の母体になりました。


徳川家康が関東に拠点を移し、やがて江戸に幕府を開くと、京都諸山も関東に進出するようになります。
(身延山久遠寺の三門)
身延山には日重上人のお弟子さんが次々晋山、いわゆる「重乾遠」の時代を築き、不受不施が台頭していた関東宗門を変えてゆきます。


(正中山法華経寺の山門)
また当時不祥事が相次いでいた中山法華経寺貫首には、京阪の三山(頂妙寺、本法寺、妙國寺)が輪番であたることになりました(以降明治まで)。
そしてこの輪番の最初を担ったのも、日珖上人だったのです。


こうして今の宗門は、おおかた関西学派がベースとなっていったのです。
そうすると日珖上人って、宗門を語る上で欠かせない大偉人、ある意味ルーツみたいなお上人だったわけですね!
(日珖上人像:河内将芳著「日蓮宗と戦国京都」より引用)
慶長3(1598)年、中山12世であった日珖上人は遷化されます。
まさに戦国の世を映すかのような、激動の67年間でした。



妙國寺で戴いてきた縁起の表紙に「由緒寺院」と書かれていました。
日蓮宗ポータルサイトによると、由緒寺院とは「宗門史上 顕著な沿革のある寺院 」だそうです。

ブログを書きながら、「あぁなるほど!」と、唸らずにはいられませんでした。



最後に
1月21日、内野日総法主猊下が法寿九十九をもって、遷化されました。
衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

南無妙法蓮華経

方広寺大仏殿跡(東山区茶屋町)

2024-01-01 15:17:43 | 旅行
突然ですが、「京の大仏」って、ご存じですか?


かつて京都東山に、奈良の大仏をも凌ぐ、史上最大の廬舎那仏(るしゃなぶつ)坐像と、それを格護する巨大な大仏殿があったそうです。
(度重なる地震や火災で、残念ながら今は「跡」しかありませんが・・・。)
(昭和48年に焼失した4代目京の大仏:京都新聞社編集局編京の仏像 続」より引用) 
豊臣秀吉が天下統一した直後に落成した「京の大仏」ですが、皮肉にもこれが、日蓮宗門を激震させる大騒動の原因となってしまったと、別の調べものをしている時に知りました。


今回は大仏殿跡を巡りながら、その大騒動「不受不施論争」に、ほんの少し触れたいと思います。


ブログを書くにあたって、宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」(平楽寺書店)という本を購入しました。
ともすればセンシティブな題材かもしれませんが、終始、偏ることのない視点で書かれており、知識のない僕でも自然に読み進められました。
宮崎上人は兵庫県の出石出身、不受不施派研究のみならず宗門史研究の第一人者だったそうです。平成9(1997)年に遷化されています。


大仏殿跡は鴨川の東、五条と七条に挟まれた辺り(地図中✕印)にあります。

(智積院前にある観光案内図:方角は上が東)
付近には国立博物館や三十三間堂、妙法院や智積院など、有名どころが密集しています。


(豊国廟鳥居:奥に見える山が阿弥陀ヶ峰)
このエリアの東方にそびえる阿弥陀ヶ峰には、慶長3(1598)年に逝去した豊臣秀吉の廟所があるそうです。


こちらは秀吉を祀る豊国神社です。

徳川幕府により、廟所とともに廃絶されましたが、明治時代になり再興されました。


(方広寺本堂:ちなみに山号はないそうです)
豊国神社の北隣に、天台宗の方広寺があります。
ここには日本史上、最も有名な梵鐘があります。


で、でかい!身延山の大鐘よりずっとでかい!
(方広寺鐘楼)
調べたら身延山大鐘楼の大鐘は高さ2.4m、対して方広寺の梵鐘は驚きの4.12m!
狭めの境内に対して鐘楼も巨大で、なんというか、現在の方広寺は「鐘のお寺」って感じです。



秀吉没後、秀頼が父の追善として鋳造した鐘です。


(「国家安康」「君臣豊楽」の銘 は白く囲ってありました)
銘文の「国家安康」「君臣豊楽」が大坂の陣の引き金になったといわれるものですね!


それでは方広寺や豊国神社に隣接する大仏殿跡に行ってみましょう。

平成12(2000)年に発掘調査された場所が、大仏殿跡緑地として開放されています。



敷石らしきものも、ちらほら。


(奈良東大寺大仏殿:現在は江戸中期に建立された3代目)
室町時代末期、奈良東大寺の大仏殿が幕府内の主導権争いに巻き込まれ焼失(大仏も被災)してしまう事件がありました。
以来、江戸中期まで復旧されず、鎮護国家のシンボルが不在の状態でした。


天正14(1586)年、前年に関白となった秀吉は、大仏を京都に建立しようと発願、諸大名の普請で大工事が始まりました。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
途中、朝鮮出兵などもあり工事は滞ることもありましたが、文禄5(1595)年5月に大仏殿が落成します。



(大仏殿跡の案内板より)
西向きに造られた大仏殿は東西55m×南北90m、で、その大仏殿は東西210m×南北260mの回廊で囲まれており、これがいわゆる境内だったと考えられます。


付近の案内地図に大仏殿の境内を入れてみると・・・

(智積院前にある観光案内図に加筆:方角は上が東)
こんな感じかな?
お隣の妙法院も組み込まれていたとか、三十三間堂もその一部だったとか、文献によって解釈は違いますが・・・まぁ、とにかく巨大、東大寺大仏殿をも圧倒する規模だったわけです。


(東山警察署大仏前交番)
当初、この施設に寺名はなく、単に「大仏」と呼ばれていました。
というかこの一帯を通称「大仏」と言っていたようで、近くの交番にもその名残りがあります。
「方広寺」という寺名は、奈良の大仏が再建された江戸中期以降に付けられたようですね。


(大仏殿跡の案内板より)
この大仏殿の歴史を辿るとかなり激動で、大地震や火災のために荒廃と再建を繰り返し、今は跡形もないんですが・・・このブログでは「初代 京の大仏」の落成までにとどめておきたいと思います。


(豊国神社拝殿の提灯)
大仏(殿)が落成すると早速、秀吉は自分の先祖と亡き両親追善のため、今後毎月、ここに仏教8教団からそれぞれ100人の僧を集め、千僧供養会(八百僧ですけどね!)を修することを決め、必ず出仕するよう各宗に招請状を出しました。


招請状を受け取った京都日蓮宗門は、騒然となります。
この招請に応じることは、宗門が古来堅守してきた不受不施義に反するからでした。
(具足山妙顕寺表門:当時の住持・日紹上人も当初は不出仕を強く主張した)
「不受不施義」というのは、教義と宗教生活の純正を守るために、
●僧は法華不信・未信者、謗法者からの布施供養を受けない→不受
●信徒は法華僧以外には布施供養しない→不施
というスタイルを、僧俗ともに貫くという意味です。


出仕するとなれば、法華信徒でない秀吉の依頼を受けて、他宗の僧侶と同座してお経を読む、法要後に秀吉からの食事供養を受けることになる。
これは明らかに宗制に背くことだが、秀吉のこと、出仕を断れば、京都宗門は破却されるかもしれない・・・。
(六条の大光山本圀寺跡:現在は山科に移転)
早速、本国寺(現在の本圀寺)に京都諸本山が集まり、深刻な議論を闘わせました。


時あたかも天文法難や信長による日蓮宗弾圧を経て、宗門がどん底からやっと立ち直ってきた矢先のことです。
(聞法山頂妙寺仁王門「秀吉公台命」扁額:安土法難後の宗門布教を約束した証)
安土宗論(※)で日蓮宗が不当に書かされた詫び証文を、秀吉は浄土宗側から取り上げ、京都での布教再開を後押ししてくれた恩もありました。
宗制を破るのは極めて不本意だが、天下人の秀吉だけは例外にしようという、現実的な意見が大勢を占めました。
(※)天正7(1579)年、信長が安土城下で行なわせた、浄土宗と日蓮宗の法論。敗れた日蓮宗は詫び証文を書かされる等、厳しく処罰された。日蓮宗の勢力を嫌った浄土宗と信長が結託した、計画的な弾圧とされる。 


そんな中、妙覚寺の仏性院日奥上人と、本国寺の究竟院日禛上人は、いかなる理由であろうとも出仕すべきでない、不受不施義は守る、と敢然と主張したそうです。

ここで日奥上人、日禛上人のプロフィールを書かせていただきます。
(具足山妙覚寺大門:徳川の時代になり、聚楽第の裏門を移築したという)
日奥上人は京都の豪商の家に生まれ、10才で妙覚寺18世・実成院日典上人の門に入り、研鑽を積みます。真面目で努力家の日奥上人を、師匠の日典上人は全力で教え導きました。日奥上人もその期待に応え、28才で妙覚寺19世を継承します。


この時代の宗門は、世の中の変化に寛容に対応する関西学派と、宗祖以来の伝統的折伏主義で他とは相容れない関東学派、この二派に分かれていました。
ちなみに当時の身延山は、関西学派の流れを汲む法主様が続きましたから、関東にあって関西学派でした。
(具足山妙覚寺方丈の屋根瓦)
逆に妙覚寺は、京都にありながら昔から関東との交流が深く、師匠の日典上人も若い頃に関東諸山で教学を究め、帰洛後に妙覚寺貫首に就いたようです。


日典上人がバリバリの関東学派なわけですから、弟子の日奥上人が不受不施義を貫くのも、師匠の影響が大きいのでしょう。

(左が方広寺大仏殿、右に仁王門、奥に三十三間堂:梵氏祐祥著「京都社寺境内版画集」より引用)
日奥上人は、大仏が落成すれば必ず法会が催され、宗門は大混乱するだろうと予想し、大仏造営中から建立が成就しないよう、密かに祈願までしていたといいます。
日奥上人だって本当は波風を立てたくなかったのです。


一方、日禛上人は広橋家という公家の出身でした。
(山科・大光山本圀寺境内より)
学問の才覚は抜群、また人望もある方だったのでしょう、わずか18才で本国寺16世を継承、本国寺内に学室(求法院檀林)を開くなど、名声を轟かせます。


(旧飯高檀林歴代化主御廟にある蓮成院日尊上人墓石)
また飯高檀林を創り上げた教蔵院日生上人、蓮成院日尊上人とも親交が深かったことから、関東学派のスタイルも十分理解していたと考えられます。


日禛上人の直弟子の一人に、豊臣秀次公の母・ともさん(秀吉の実姉)がいます。
(村雲御所瑞龍寺本堂内にある豊臣秀頼公銅像原型)
一時は秀吉の後継者に指名されながら、秀頼誕生を機に、秀吉から謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次公は、28才の若さで高野山で自害に追い込まれ、子女妻妾まで一人残らず処刑されてしまいます。


(村雲御所瑞龍寺山門)
悲しみのどん底にいたともさんは、日禛上人のもとで得度して日秀尼となり、嵯峨の地に庵を設け、生涯秀次公一門の冥福を祈りました。
今の村雲御所瑞龍寺のルーツです。


(東山・妙慧山善正寺にある瑞龍寺歴代御廟:中央が日秀尼の墓) 
天下人の横暴により悲嘆に暮れている人が、自分の直弟子にいるということも、日禛上人が今回の千僧供養会不出仕の立場を貫き通したことに、少なからず影響したと僕は思います。


話を戻しましょう。
(六条御境の碑:現在は西本願寺、かつて一帯が本圀寺だった)
会議は紛糾し、なかなか結論が出ませんでしたが、最終的には「千僧供養会に一度だけ出仕して秀吉の面目を立て、次回からは不受不施義を主張する」という決定を下し、日奥上人と日禛上人の主張は押し切られました。


日奥上人と日禛上人は「一度でも出仕したら宗義に背くことになる」と、この決定に迎合せず、あくまで不受不施義を貫く姿勢を変えませんでした。
(京の大仏殿境内の基礎となった巨大な石垣)
ただそうなると、彼らが率いるお寺の衆徒や檀那も、断罪される恐れさえあることから、日奥上人は妙覚寺を退出して丹波小泉に、日禛上人は本国寺を退出して嵯峨小倉山に隠棲しました。
地位や名誉よりも、宗義を貫くことを選んだわけです。


千僧供養会は予定通り、同年9月25日から始まり、毎月毎月、欠かさず行われました。

(2代目大仏殿:「東山名所図会」京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブより引用)
当初、一日を時間で区切り、①真言②天台③律④五山(禅)⑤日蓮⑥浄土⑦時⑧一向(真宗)の順番で、各100人の僧が法要をやり続けるというものです。
ただこの順番に不服を唱える宗も続出し、あと法要を受ける側も飽きちゃうからかもしれませんが、秀吉没後は毎月一宗のみが出仕する、というスタイルに変わりました。


(妙法院表門)
会場は、秀吉がこのために大仏近くに誘致した天台宗南叡山妙法院(もとは祇園にあったそうです)の経堂、


(改修中の妙法院庫)
そして法要後に出仕僧に食事の供養があるのですが、この食事の準備は現在の妙法院庫裡でされました。
国宝指定されている庫裡は、現在改修工事中ですが、当時のかまど跡が地中から発掘されたそうですよ!


(妙法院土塀)
当初、日蓮宗は「一回だけ出仕」のはずでしたが、結局上奏できず、秀吉没後まで継続して20年間も(!)出仕し続けることになります。


一方、日奥上人と日禛上人のスタンスは、信条を貫き、権力に媚びなかったとして、実は当時の在家信者、そして関東諸山から圧倒的な賛同を得ていたとも言われます。
(豊国神社境内の豊臣秀吉像)
こうした宗内の亀裂は、豊臣政権からすれば好都合、手を出さずに敢えて放置したようです。


政権が豊臣から徳川に代わっても、日奥上人や関東諸山の主張は微動だにせず、宗内の対立はより深まってゆきました。
最終的には江戸幕府が介入し裁定(身池対論)、不受不施義そのものが邪義、禁教となります。
(身池対論が行われた江戸城跡:現在の皇居二重橋)
日奥上人は既に遷化されていましたが、見せしめなのでしょう、掘り返された遺骨が対馬に流され、関東学派の拠点となっていたお寺はことごとく、関西学派に接収されてしまいました。


行き場を失った関東学派の僧俗は、キリシタンとともに幕府から徹底的な弾圧を受け、断食、自害、流浪して亡くなる方も多かったようです。それでも信仰する者は、地下に潜伏、信仰の自由が保障される明治時代まで、命がけで信仰を継いだといいます。


現代、日蓮宗を信仰する僕には、どちらの道が正しかったのか・・・本っ当に答えが出せません。
関西諸山がこぞって宗義を優先し千僧供養会への出仕を拒否していたら、日蓮宗そのものが存続できなかった可能性が高いと思います。
(具足山妙顕寺本堂の屋根)
関西、特に公武の中心だった京都の諸山は、天文法難や安土宗論などの弾圧を経て、強硬一辺倒で突き進む怖さを、身をもって知っていたはずです。
古来からの宗制を主張しすぎず、ギリギリのところで妥協することで、生き残りの道を模索し続けた彼らの決断を、批判しようがありません。


一方、信仰の純粋を守るために、命の危険も顧みず、権力に対峙し、時代の流れに抗った方々がおられたことを知り、本当に心が震えました。
(身延山歴代御廟所にある第46世復歴・日唱上人墓)
僕は各地のお寺を参拝する時、歴代お上人の御廟をお参りするようにしています。
その中で、かつて不受不施義を主張し、あるいはそれを疑われて、お寺の歴代を除歴とされたお上人方のお名前を、目にすることが度々ありましたが、実はこのブログでは、敢えて触れずにいました。


今回、方広寺大仏殿跡を訪問、また宮崎英修上人の著書を読み、少し、考えが変わりました。
(大仏殿跡緑地)
純粋に、そして頑なに不受不施義を貫こうとした僧俗、逆に時の権力に対応しながら、後世に教団を残そうとした僧俗の歴史は、いずれも決してアンタッチャブルではなく、むしろ現代の日蓮宗信徒こそ、もう少し知っても良いのかな、と。


激流に揉まれながら石が丸くなってゆくように、現在の宗門は本当に寛容な教団になりました。硬軟両派の、辛苦の産物なのでしょう。
ならば是非、彼らのことを記憶に留めたうえで、今日、当たり前のようにお題目を唱えられる幸せを、感じてほしいと思いました。

南無妙法蓮華経

深草山寳塔寺(伏見区深草宝塔寺山町)

2023-12-01 14:58:10 | 旅行
深草にある日像上人のお寺、寳塔寺を参拝してきました!


深草丘陵の西麓に広がる地域、その昔は一面に草が生い茂り、そのため「深草」と呼ばれたようです。

深草は京都盆地の中でも、いち早く稲作が始まった場所でした。
そして穀物、農耕の神様として「伊奈利社」が鎮座されたのです。
今の伏見稲荷大社のルーツですね!
今やパワースポットとして、世界中から参詣者が絶えません。


寳塔寺は伏見稲荷のすぐ南側にあります。
(JR奈良線)
JR奈良線の稲荷駅からも、京阪電車の龍谷大前深草駅からも近く、アクセスは抜群です!



山門が見えてきました。
寳塔寺の入口ですね。



大きな石柱に、日像上人の御廟所である旨が刻まれています。


裏側に回ると、

お?大阪の川端半兵衛さん・・・見覚えのある名前だぞ。
ん~と・・・誰だったっけ?



室町中期と伝わる山門をくぐり、参道を進みます。


寳塔寺境内は背後にそびえる七面山(標高101m)の西側斜面に広がっています。
画像からも、緩やかな傾斜を感じてもらえると思います。
白壁の合間に、たくさんの塔頭寺院があります。
数えたら6ヶ寺もありました。



本堂域の直前にあるのは、朱塗りの仁王門です。
宗紋の大提灯といい、華やかですね!



仁王門の天井には牡丹の花がたくさん!
日像上人の後継者・大覚大僧正の出自は近衛家説が有力ですが、牡丹の天井画は近衛家の家紋(近衛牡丹)に関係あるの・・・かもしれません。



山号は深草山です。



本堂です。
間口が広いので、大法要も開けそうです。


寳塔寺の伽藍群は、室町時代の戦乱(応仁、天文法華)でほぼ燃え尽き、その後に再建されていったようです。

この本堂は慶長13(1608)年再建といいます。
ただそれ以降、火災に遭わずに現在に至っているって、素晴らしいですよね!



こちらの多宝塔は更に古く、永享10(1438)年の墨書きが残っていることから、戦乱でも焼けずに今に至る、京都でも最古級の多宝塔だそうです。



方丈で優しそうな奥様にご挨拶。
ご住職は法務でご不在でしたが、書き置きの御首題を戴くことができました。



歴代お上人の御廟に参拝。
墓誌には第48世までのお上人が刻まれていました。
日像上人の御廟を擁する大寺、今日まで護持するには、歴代大変なご苦労があったことでしょう。心から感謝致します。


縁起によると、もともとこちらには平安時代の公卿・藤原基経公(初代関白)の発願で創建された極楽寺(天台宗→真言律宗)があったようです。
(開山二世良桂律師、中興八世日銀上人の頌徳碑)
徳治2(1307)年、1回目の洛外追放に遭った日像上人が、極楽寺の住職・良桂律師と三日三晩問答し、破折しました。
これを機に、良桂律師は日像上人に帰依し、極楽寺も法華経に改宗したといいます。
なので、寳塔寺開山は日像上人、良桂律師が二祖となります。


いろんな資料を読んでゆくと、この問答、日像上人が鶏冠井の向日神社前で布教している時に、法論に及んだという説が有力なようです。
(鶏冠井にて、深草良桂上人、実眼上人が帰依する様子:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
時あたかも二度の元寇を経て鎌倉幕府が衰退し、不安渦巻く世の中。
大寺の住職でさえ、自分の信仰に実は納得しておらず、日像上人の説法に足を止めたのでしょう。



境内からは伏見の街、その向こうに西山の山並みが見えます。
あの麓あたりに、鶏冠井があるんですね!



客殿前には貴人がくぐりそうな高麗門。



で、手前の石灯籠には、また川端半兵衛さんだ!

・・・そうだ、思い出した!
僕は身延山久遠寺に参拝する際、まず御真骨堂と開基堂にお参りするのがルーチンなんですが、その開基堂前の石灯籠↓

裏側に、川端半兵衛さんと刻まれていました。


昭和60(1985)年、身延山久遠寺に大本堂ができる前、あの場所には本師堂という、釈尊立像(※)を奉安するお堂があったそうです。
(久遠寺本師堂:身延山久遠寺刊 身延山古寫眞帖より引用)
身延山史には、昭和初期、本師堂の修繕にあたって、「兵庫県の本願人 川端半兵衛夫妻は、仏壇仏具の荘厳や石灯籠にいたるまで、独力をもって寄進した」と記載がありました。
(※)四條金吾頼基公造立、現在は釈迦殿に奉安されている


後日、川端半兵衛さんについて寳塔寺のご住職に問い合わせると、丁寧に教えてくださいました。
代々の大坂商人であり、法華篤信の家系であった川端半兵衛さんは、寳塔寺に深いご縁、信仰があった、いわゆる大檀那的な存在のようです。

寳塔寺本堂にお祀りされているお釈迦様のお像は、川端半兵衛さんが久遠寺本師堂のお像と同寸同形に作らせたもので、昭和4年に寳塔寺に寄進されたといいます。
また、川端半兵衛さんご自身は昭和33年に逝去されますが、ご遺骨は一族とともに寳塔寺墓所に納められているそうです。
こういった方々の丹精のおかげで、現在の宗門があるのでしょう。感謝に堪えません。


本堂左側から日像上人御廟、そして七面宮に至る参道があります。

この辺りから、空気がシュッとしてきます。



日蓮聖人のご尊像や三十番神堂をお参りしたあと、鳥居をくぐり、森に囲まれた階段をさらに登ってゆきます。



急に視界が開け、妙見様、お稲荷さんなど、数棟のお堂が現れます。


このうち一番大きなお堂が七面宮です。

こちらに奉安されている七面様のお像は、寛文6(1666)年のものといいます。
身延山・高座石での七面大明神伝説を初めて記した深草元政上人(1623~1668)ご在世と一致しますから、こちらの七面様には元政上人が大きく関係しているのかもしれません。



ちなみに、妙顕寺で出家し研鑽を積まれた元政上人が、子弟を教育するために設けた深草山瑞光寺↑は、寳塔寺のすぐお隣にあります。


それでは日像上人の御廟に向かいましょう。
七面宮が山頂付近だとしたら、山の中腹に御廟域があります。

奥のお堂が像尊本廟、つまり日像上人の御廟です。



遥拝所まであります!
石の上に正座して、上人の遺徳に感謝しました。


御廟域には、日像上人が13才、経一丸時代の坐像があります。

弘安5(1282)年10月11日、ご入滅が近い日蓮聖人に頭を撫でられ、帝都開教のご遺命を受けているお姿だそうです。


(宗祖の御棺前で日朗上人に剃髪される経一丸:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
10月13日朝、日蓮聖人は入寂されますが、翌14日、御棺の前で(!)経一丸は師匠の日朗上人に剃髪され得度、肥後阿闍梨日像と改名します。


日像上人は宗祖13回忌を機に上洛、40年間もの艱難辛苦の末、「妙顕寺を勅願寺とする」という後醍醐天皇の綸旨を賜ります。
(具足山妙顕寺の表門)
ここに日蓮聖人との約束、帝都開教を果たし、ついに日蓮宗が天下公認となったわけです。
このとき日像上人は既に66才になっていました。


康永元(1342)年、74才となった日像上人は、後事を大覚妙実上人に託します。
(妙顕精舎にて遷化される日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
「没後、妙実を視ること、吾を視るごとくせよ」という言葉を、妙顕寺衆徒に伝えた2日後、11月13日に日像上人は化を遷されました。


生前、日像上人は常々、自分が死んだら、深草で遺体を荼毘に付し、山腹に葬ってほしいと話していたそうで、弟子信者たちがその通り、丁重に弔ったといいます。

寳塔寺参道、塔頭寺院に囲まれた場所に、日像上人御荼毘処が残っています。


日像上人の御廟が定まると、寺号をそれまでの「極楽寺」から「鶴林院」としたそうです。
(高麗門に掲げられた鶴紋)
お釈迦様がご入滅された時、沙羅双樹(さらそうじゅ)というお釈迦様とご縁の深かった木が、悲しみのあまり鶴のように白くなった、という伝説が転じて、鶴林院は日像上人の墓所、恩に報いる場所を意味するのでしょう。


御廟の墓標には、日像上人ご染筆の題目宝塔が用いられており、これにちなみ、のちに寺号が「寳塔寺」となりました。
(七口題目石の前で、草刈籠に座って説法する日像上人:京都本山妙覺寺刊 日像菩薩徳行絵伝より引用)
この宝塔は日像上人が若い頃、都の七つの出入り口(※)にわざわざ建てたもので、いわば「南無妙法蓮華経」を、可能な限り大衆の目にさらす戦略、布教塔だったと考えられます。すごい熱意ですよね!
(※)京の七口:鞍馬口、粟田口、伏見口、東寺口、丹波口、大原口、長坂口・・・諸説あり


また、日像上人御廟が寳塔寺にあることに倣い、妙顕寺の歴代御廟もこちらにあります。

妙顕寺のお上人が毎月お掃除にいらしているそうです。よく清められていました。


深草山寳塔寺は、妙顕寺からみて南東、つまり巽(辰巳)の方角にあたることから、「巽之霊山」と呼ばれるそうです。
(像尊本廟 屋根の頂部)
古くから巽(辰巳)は、縁起が良い方角とされました。


僕は巽(辰巳)と聞いて、二つ、連想することがありました。

一つは日像上人の師・日朗上人の御廟です。
(鎌倉・妙法華経山安国論寺境内の日朗上人御荼毘所)
日朗上人は元応2(1320)年1月21日に遷化されますが、上人の遺骸は遺言通り、鎌倉松葉ヶ谷で焼かれ、その裏山に葬られました。


(鎌倉・長興山妙本寺の祖師堂)
日朗上人が終生大切にされた住坊は、鎌倉比企ヶ谷にある長興山妙本寺ですが、ここは日像上人にとっても、自身が出家したお寺であり、数多の修行を重ねてきた、いわば聖地でした。


そして日朗上人御廟(現在の逗子・猿畠山法性寺境内)は長興山妙本寺から見て、まぎれもなく巽(辰巳)の方角に位置するのです。
(逗子・猿畠山法性寺境内の日朗菩薩墳墓霊場)
日朗上人が遷化された年、日像上人は翌年に3度目の洛外追放、そして妙顕寺開創という、帝都開教の今後を左右するほどの岐路にあり、どうしても京都を離れることができなかったと考えられます。葬儀には代理で妙実上人を遣わせました。
後日、妙実上人から葬儀の報告を、涙ながらに聞いたことでしょう。
師がいかに今生を終ったのか、日像上人はそれを自らの最期に投影した、そんな気がしてなりません。


もう一つは、お祖師様のご遺文「種種御振舞御書 」に記された、龍ノ口法難の部分です。

「江ノ島の方より月のごとく、光りたる物まりのやうにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」

(9/12深夜、片瀬・寂光山龍口寺の七面堂に至る階段上より、巽の方角を撮影)
暗闇の中、ひとり死の淵に置かれた日蓮聖人を救った光り物は、巽(辰巳)の方角から現れたのです。


孫弟子の日像上人も、「巽(辰巳)から現れる吉兆」というものに、何か深い信仰があった、というのは邪推でしょうか。
(寳塔寺本堂)
諸宗の讒訴によって京を追われ、洛外で一心不乱に説法していた若い頃。
誰も知る人がいない、石や瓦まで投げつけられる四面楚歌のなか、深草のお坊さんは、そんな自分に共鳴してくれた。

暗闇の中に見つけた一条の光。あれが起点だった・・・。



激動の生涯を過ごした日像上人が、自らの墓所を敢えて深草、妙顕寺の巽(辰巳)にした理由、僕はなんとなく、理解できました。


このブログを書いている只中、日像上人の第682遠忌、祥月命日 を迎えました。
11月とは思えない暖かい日和、南東の風がゆる~く吹いていました。

南無妙法蓮華経。


※川端半兵衛さんと寳塔寺さんとのご関係について、丁寧にご教示くださったご住職に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

鶏冠山北真経寺(向日市鶏冠井町) 

2023-11-01 22:45:28 | 旅行

9月初め、今年も京都を旅してきました!


アフターコロナで観光客が戻ってきた京都。

こんな外国人ツアーも沢山見られました。
メジャーな観光地は、バスも飲食店も笑っちゃうくらい、人だらけ。
やっぱり京都は世界中から注目されてるんだな、と感じます。


今回、僕が訪れたのは京都の南西部、向日市にある鶏冠井です。
・・・読めました?


向日は「むこう」、


鶏冠井は「かいで」と読むんだそうです!


ちなみに鶏冠井という地名、カエデにルーツがあるようです。
カエデを辞書で調べると、いろんな漢字(槭、楓など)がありますが、「鶏冠木」とも表記するようです。確かにニワトリのトサカ(鶏冠)に似てますもんね!
その昔、この界隈にはカエデの木、そして井戸が多く、当て字的な感じで「鶏冠井(かいで)」になった説が有力です。



京都の中心部から阪急電車で20分ほど、西向日駅で降ります。



西向日駅前にはレンタサイクルがあり、4時間210円でお借りできます。
今回の旅の友をパチリ。



この辺りは、かつて日本の首都・長岡京があった場所です。
自転車を走らせると「太極殿」「内裏」みたいな史跡が公園になっています。



駅から数分で北真経寺に着きました。



山号は鶏冠山(けいかんざん)です。



明治の初めまで、鶏冠井檀林というお坊さんの学校が、ここにあったんですね!
ちなみに西ノ岡はこの界隈一帯の地名、そこに鶏冠井村があるという感じかと思います。



山門(表門)です。
瓦屋根の存在感強めの、薬医門です。


境内はほぼ正方形、檀林時代はその四方に門があったそうです(現在、東門はありません)。

四つの門は、お釈迦様が語られた、苦しみをなくすための四つのプロセス「四諦(したい)」を表現しているとか。
仏教そのもののベースですよね!



庫裡(右)で面倒見が良さそうなご住職に御首題をお願いし、本堂(左)でお参りさせていただきました。


寄棟造りの本堂は、明治初期まで鶏冠井檀林の講堂として使われていた建物だそうです。

お堂内部の画像はありませんが、内側の壁には黒い札が沢山貼られていました。鶏冠井檀林で研鑽を積まれた学僧の名札なんだそうです。
耳を澄ますと彼らの読経の声が聞こえてきそうな、そんな雰囲気のある空間でしたよ!


本堂の西側には、波ゆり題目の法塔が数基あります。

こちらのお寺を開山された日像上人の供養塔ですね。


永仁2(1294)年、日像上人は上洛するとすぐに、人通りの多い場所を選んで辻説法を始めました。
(日像上人が最初に説法をされたという北野天満宮前)
鋭い舌鋒と熱気は、迷いの中にいた人々の心に刺さったのでしょう、日を追うごとに帰依する町衆が増え、やがて京都を席巻しそうなうねりとなってゆきます。


それが在来宗派からの嫉みを生み、激しい妨害を受けることになります。
(南真経寺山門横の題目塔)
「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」といって、洛中からの追放と赦免を、三度も繰り返しました。

1回目 徳治2(1307)年 土佐流罪→2年後に赦免
2回目 延慶3(1310)年 紀伊流罪→翌年に赦免   
3回目 元享元(1321)年 洛外追放→十数日で赦免


このうち1回目の土佐流罪、普通に行けば西国街道を下り、どこかで海を渡って阿波辺りに至り・・・というルートかと思います。

(北真経寺境内はサルスベリが満開!)
ところが日像上人、実際には洛南の山崎あたりに留まり、しぶとく布教をしていたという説が有力です(役人にバレなかったのかな?)。



北真経寺の縁起には以下のように書かれています。

「ある時、向日明神に法華弘通の祈願をされた折、境内に一夜を明かしたるところ、白髪の明神が現れ、夢の御告げを頂かれた。
『汝、この地に法華経を弘めよ』と。
これを縁として日像は西ノ岡において布教することになります。」


北真経寺の西数百mの西国街道(現在の府道67号)沿いに、向日神社があります。

創建は長岡京よりも前、養老2(718)年と伝わります。
ここにある向日山に、五穀豊穣の歳神様が降臨したことから、向日明神というそうです。



向日神社の大鳥居前に、日像上人説法石が、実際に残されています。



法華の篤信者である海軍軍人・佐藤鉄太郎氏によって大正10年に書かれた説法石由来によると、日像上人が老翁(向日明神)と出会ったのも、雲集する道俗に説法をしたのもこの石で、以後、法運が開け、帝都開教につながっていったようです。


この周辺の集落のなかでも、特に日像上人のお説法に興味を示す人が多かったのが、鶏冠井でした。

あのお坊さんの言ってることは、わかりやすいし心に響く。この世で生きながら成仏できるなんて、信じてみたい・・・そう感じる村人が日を追うごとに増えてゆきました。
ただ、先祖代々の宗旨、お寺を変えるわけにはいかない、という声も多かったことでしょう。


そこで日像上人は、村にある真言寺の住職・実賢上人を訪ね、昼夜に渡って法論を闘わせました。
(北真経寺の縁起を刻んだ碑より)
果たして日像上人は実賢上人を論破し、見事に一山一村の改宗を成し遂げたのです。このとき寺号も真経寺と改めたようです。




これが徳治2(1307)年、すなわち1回目の流罪中といいますから、松ケ崎とともに西日本最古クラス(※)の宗門寺院であり、法華集落なのでしょう。
(※)今まで僕が参拝したご霊跡では、備中野山の具足山妙本寺が弘安4(1281)年創建で、あちらも全村皆法華でした。

(向日市文化資料館刊「むこうしの文化遺産」より引用)
改宗を喜ぶ村民の姿は、鶏冠井題目踊りとして伝わります。
毎年5月3日、近くの法性山石塔寺(本化日蓮宗)で奉納されるそうです。
700年前の庶民の感情表現が、こうして踊りや音頭で残っているって、ホント興味深いです。



また、北真経寺のご住職によると、村人のなかでもいち早く帰依した「三郎四郎」という人がいて、この人は日像上人に宿を提供し、鶏冠井での上人の活動をサポートしてくれたそうなんですが、今でも三郎四郎の末裔は檀家さんにいらっしゃって、お寺の近くに住まわれているそうですよ!


時は下り承応3(1654)年、通妙院日祥上人というお坊さんにより、ここに宗門の学問所(鶏冠井檀林)が開設されました。

開設の経緯は不明ですが、恐らく日祥上人が非常に教育水準が高い方で、その学徳を慕って自然に学僧が集まってきた・・・そんな感じかと想像します。


このとき真経寺を南北に分け、北真経寺に鶏冠井檀林を置き、南真経寺を村人の信仰のお寺にしたそうです。
(南真経寺本堂)
南真経寺は北真経寺の300mほど南西にあります。
山号は北真経寺と同じく「鶏冠山」です。



(向日市が設置した北真経寺案内板より)
北真経寺境内の案内板に、江戸時代の鶏冠井檀林絵図がありました。
講堂を中心に、沢山の学寮がある様子は、他檀林とよく似ています。


ちなみに、僕が身延山史で調べた限りでは、第75世身延山法主の心妙院日修上人(三村日修上人)が、「京都妙覚寺日合師に従ひ、天保十年、洛西鶏冠井檀林に新説し・・・」とあります。講師として鶏冠井におられたのでしょうか。
(身延山御廟域にある日修上人廟)
日修上人は、仏教弾圧が激しかった明治初期の宗門を支えた傑僧で、祖山中興三師の一人に数えられます。
こうした優れた指導者のもとで、沢山の才覚が花開いたのでしょうね。


学制発布に伴い、明治8(1875)年に檀林制度自体が廃止されてしまいます。
200年以上、鶏冠井檀林として経営してきた北真経寺にとって、いちばん大変な時代だったかもしれません。

やがて北真経寺は檀家さんによって護持されるお寺になり、現在に至るそうです。
境内を囲む玉垣には、護持に関わった檀信徒さんなのでしょうね、沢山のお名前が刻まれています。



ところで、日像上人はなぜ、鶏冠井に目をつけたのでしょう?
向日明神のお告げも確かにあったでしょうが、日像上人のこと、何か戦略を持って、この小さな集落を拠点としたのではないか?という疑問が湧きました。


京都はよく、三方を山に囲まれた盆地といわれます。
(グーグルマップに加筆)
東側の「東山」、北側の「北山」は観光地として有名ですが、実は「西山」もあります!
洛西から向日市、大山崎町にまたがる山々が、まさに西山です。


(向日市文化資料館刊「乙訓の西国街道と向日町」より引用・加筆)
調べてみると、西山には善峰寺、光明寺、楊谷寺といった古刹が多く、また西方には極楽浄土があると信じられていたせいでしょうか、浄土宗の聖地でもあったようです。浄土宗西山派(今の西山浄土宗)という一派があるほどです。
鎌倉時代も、参詣者が絶えなかったはずです。


(向日市内の五辻交差点)
西山に点在するそれらのお寺への参詣道は、いずれも向日神社前で、西国街道から分岐してゆきます。


(向日市文化資料館刊「乙訓の西国街道と向日町」より引用・加筆)
鶏冠井集落は、まさにこの分岐にあるわけで、洛中で布教を禁止されていた日像上人にしてみれば、これ以上ない場所を押さえたわけです。
念仏信者が行き交うスクランブル交差点を、日像上人が見逃すはずはなかったと、僕は思います。
(注)参考にした資料は江戸時代の道ですが、参詣道については太古から大きく変わっていないと思います。


鶏冠井と相前後して、日像上人はもっと洛中に近い深草でも、真言宗の大寺を改宗させ、活動拠点を増やします。
(深草山寳塔寺の仁王門)
延慶2(1309)年に1回目の洛外追放は赦免にされるのですが、結局わずか2年間で日像上人は、むしろ洛外に信仰を弘めてしまったわけで、追放した側は目を丸くしたことでしょう。皮肉なものですね・・・。


(具足山妙顕寺の山門)
日像上人は、このあと二度の洛外追放に遭いますが、3回目の赦免の折に後醍醐天皇から寺領を賜り、妙顕寺を開山します。
ピンチをチャンスに変えて、見事に帝都開教の足掛かりを築いたのです!


最後に、ひとつ。
これ、北真経寺に隣接する鶏冠井公民館前に、何気なく設置されていたものですが・・・


昭和55年に解体された、旧公民館の鬼瓦だそうです。
真ん中にはなんと、「井桁に鶏」の紋。
敢えてもう一度書きます。
お寺の鬼瓦、じゃなくて、公民館の鬼瓦です!

信仰を守り続けてきた住民の、静かなプライドを感じまくった、鶏冠井参拝でした。

大谷山妙泰寺(南越前町西大道)

2023-10-01 03:37:32 | 旅行
越前地方には、日像上人が開山されたお寺や、伝承の残る場所(題目岩など)が沢山存在します。
(武生駅前のホテルからの眺め)
これらを地図上にプロットしてゆけば、日像上人の足跡が正確にわかるのではないか、と思えるほどです。


(越前市内・北国街道沿いにある長榮山本行寺)
それだけ日像上人が、こまめに説法をし、他宗と法論を闘わせ、土地の人の不安や疑問に道を示してきたのだと、感服します。


今回は越前地方における、おそらく核となるお寺・妙泰寺を紹介します。


武生から北国街道を南下してゆきます。
(南越前町清水辺り)
途中には北陸新幹線の高架も見られます。
計画では来年春、敦賀まで開通するみたいですね。


田園地帯の真ん中に、妙泰寺の案内碑。

「日像菩薩發軫霊跡」
發(発)軫とは、「最初」とか「スタート」みたいな意味だと思います。


法界の題目塔から、JR北陸線の踏切を越えて歩いて行きます。

総門までは結構な距離!
昔はめっちゃ広い境内だったんだろうな。


総門に到着!

前日、南関東には線状降水帯が発生するくらいの荒天でしたが、そのせいか北陸では今日、フェーン現象で激暑っ!日差しが痛い!!



参道の左右には、かつての塔頭跡がいくつも確認できます。
数えたら8ヶ寺分、ありました。
殆どは明治時代に本寺に合併され、今は唯一、本光院が現存します。



クラシックな庫裡で妙泰寺の奥様にご挨拶をしてから、諸堂を参拝しました。



うわぁ、立派な仁王門!
説明によると、この門は宝永年中の建築で、知恩院の三門をイメージして造られたようです。


こちらは本堂です。
静まり返った堂内で、ゆっくり読経させていただきました。

傾斜のある大きい屋根のお堂、周辺の雰囲気も含め、個人的には鎌倉比企ヶ谷の妙本寺祖師堂↓によく似てるな~と思いました。
(鎌倉比企ヶ谷の長興山妙本寺・祖師堂)
日像上人が上洛前、極寒の中、百日の行をされた時、拠点にされていたのが妙本寺。
まぁ、お堂のフォルムが似ているのは偶然でしょうが(笑)。



日蓮聖人と日像上人(恐らくご幼像)のご尊像が並んでる!
宗祖と孫弟子のコントラストは、他のお寺では見られないレアな配置です。


永仁2(1294)年、越前地方を巡化していた日像上人は、ここ大道(だいどう)に至りました。
(日像上人銅像)
小泉久左エ門という村人のお宅前で3日間、辻説法を行い、さらに村のお寺(当時は真言宗)の住職と問答し教化、一山一村をあげて改宗されたそうです。


開山は日像上人、そして二祖は妙文僧都と刻まれています。

調べてみると、妙文僧都の兄は元・石動山天平寺の座主・満(萬)蔵法印です。
恐らく兄弟で日像上人に帰依し、兄は日乗上人となり能登滝谷で妙成寺を開創(自らは二祖)、弟の妙文僧都は日像上人に随行して越前に至り、大道で妙泰寺を開創したと思われます。


実は日像上人、この地を訪れた時、「身延山の景色によく似ている」と直感されたといいます。

妙泰寺の正面には、こんもりとした日野山。
古くから山岳信仰の霊地だったそうです。


身延山のこんもり具合いと比べると・・・
(身延町下山・長栄山本國寺から見た身延山)
お・・・なんか似てる!!


(武生の万代橋より上流を望む)
近くを流れる日野川も、なんとなく富士川っぽいし!


日像上人は7才、まだ万寿丸だった時に、日朗上人に連れられ、初めて身延山を訪れています。日朗上人は早くから万寿丸の非凡さを見抜いており、これは自分の手元に置くよりも、身延の日蓮聖人に育てていただく方が良いと思ったのです。
(身延山 御草庵跡)
利発そうな童子の訪問を、日蓮聖人はたいそう喜ばれ、その時に「経一丸」の名を授けられたと、聞いたことがあります。
孫弟子にあたる経一丸を、お祖師様は本当の孫のように思われたのかもしれません。


それ以降、経一丸は日蓮聖人のもとで日夜、研鑽を重ねたそうです。
(身延山西谷の清水坊)
身延山には日像上人開創の坊があるくらいですから、お祖師様がお山を下り、ご入滅された後も、身延山を再訪していたかもしれませんね。


はるか遠くの越前大道で見つけた、昔懐かしい風景。
(大道付近から日野山を望む)
上洛を目前に控え、重圧で押しつぶされそうな心を、この山河がどんなに癒してくれたことでしょう。
日像上人がここにお寺を開いたわけが、なんとなく理解できました。



総門の扁額「北国身延」は、日像上人の実感なのでしょうね。


妙泰寺北側のお山には、七面大明神がお祀りされています。

僕の錯覚でしょうか、越後~北陸には七面山を模した「うつし霊場」がとても多い気がします。



お堂をつなぐ渡り廊下には、日像上人にご縁の深い三十番神。
こういうお祀りのしかたもあるんですね!



妙泰寺の歴代御廟を参拝。
気の遠くなるような年月、法灯を継承してくださった先師たちに感謝し、合掌しました。



こちらの一画に、僕が尊敬する綱脇龍妙上人の供養塔があります。


綱脇上人は菩提寺であった福岡法性寺、貫名日良上人のもとで出家されました。貫名上人は温厚で品のあるお坊さんで、弟子になりたいという人が多かったそうです。
(貫名日良上人の供養塔)
のちに貫名上人が妙泰寺に栄転、綱脇上人も随従され、足掛け10年以上をこのお寺で過ごされました。


ある夕暮れ、お檀家さん宅に回向(毎日の日課)に行った時のこと、家の人は田んぼに行って留守でしたが、普段から家人が不在でも、仏壇で棚経をあげてくれれば良い的な、そんな感じだったそうです。
(妙泰寺付近の集落)
檀家回向では法華経を一品ずつ(訓読)読んでいたそうですが、綱脇上人はその日、順繰りでたまたま、常不軽菩薩品を読み始めました。



一心に読み進んでゆくうち、不軽菩薩がどんな人にも、分け隔てなく合掌礼拝する姿勢を知り、この不軽品こそが本当の宗教ではないか?不軽品の実践こそお祖師様が伝えたかったことではないか!と気付き、衝撃を受けたといいます。
以来、綱脇上人は不軽品を生涯の指針とされました。


(身延深敬園跡:現在は障害者支援施設となっている)
のちに武生の篤志家・青山市之助氏から学費支援してもらい、東京に遊学、夏休みに参拝した身延山三門近くの河原で、行き場を失った数十人のハンセン病患者さんが生活する姿を目の当たりにしたのが、身延深敬園開創のきっかけでした。


以前読んだ綱脇上人の伝記に、こんな話がありました。

上人が妙泰寺にいた頃、ハンセン病を患った人が身近にいたそうです。
ところがその方の姿が急に見られなくなり、のちにお医者さんから、その方は富士裾野の、外国人が運営する療養所(※)に行ったのだと聞かされました。
弱者救済をしている人が実際にいるのだと、その時、深い感銘を受けたといいます。
(※)日本最初のハンセン病療養所・神山復生病院と思われます。のちに綱脇上人は神山復生病院を見学、多くのノウハウを得ることができたそうです。


そう考えると、ここ妙泰寺、そして越前という地が、綱脇龍妙という聖(ひじり)の、核の部分を育んだ・・・これは間違いないことだと思います。


ちなみに前述の青山市之助氏ですが、身延山大学の前身・祖山学院にも多大な寄付をされている、近世宗門の大檀越です。
青山氏の寄付で造られた木造校舎で、多くのお坊さん候補生が、戦後まで学んでいたのです。

(祖山学院の木造校舎 身延山久遠寺刊:身延山古寫眞帖より引用)
見返りを求めず、未来を担う若者に喜捨する姿勢。
越前法華の奥深さを感じます。


(日像上人と大覚大僧正邂逅の霊跡・妙喜山法華寺)
綱脇上人の供養塔がこちらにあるというお話、実は、昨年参拝した京都北野の法華寺で、ひょんなことから教えていただきました。
チャンスがあれば妙泰寺をお参りしたいな、と考えていました。


綱脇上人(深敬院龍妙日琢上人)の両側に刻まれているお上人方は、ここ妙泰寺で貫名日良上人に師事した兄弟弟子で、いずれも北野法華寺の歴代(36、38世)を務められています(※)

この3人はとても仲が良く、常にお互いを労り合って、苦しい時代を生き抜いたといいます。
(※)法華寺の先々代は、36世智照院日道上人のもとで修業研鑽されたそうです。


そんなわけで、3人にご縁が深い北野法華寺では毎年、妙泰寺を参詣し、供養塔を清めているということです。

こういったエピソード一つでも、教えていただくことで、僕はとても感銘を受けましたし、それそのものが「布教」なのだと思います。

先人のお話を、聞ける時に聞いておくこと。
そしてそれを、誰かに伝えること。
実は、とても大切なことなのだと、最近つとに思います。


僕が妙泰寺を参拝したのは6月3日でしたが、その日は偶然にも、年に一度の妙見様の大祭でした。

切竹矢筈十字の幕が張られた祖師堂の中で、お檀家さん、信者さん方が一心に手を合わせ、お題目を唱えていました。


(妙喜山法華寺の妙見堂)
思えば北野法華寺も、境内の中心に妙見様がお祀りされているお寺でした。


(妙泰寺祖師堂)
偶然とはいえ、何か呼ばれて来たような、ちょっとこそばゆいような、晴れがましいような(笑)、妙泰寺の参拝でした!

華岳山経王寺(越前市元町)

2023-09-01 12:58:08 | 旅行
4年ぶりに、越前武生(たけふ)を旅しました!
(総社大神宮境内 越前国府の碑)
かつて武生には、越前の国府が置かれ、政治、経済、文化の中心地として栄えました。そのため、この界隈は「府中」とも呼ばれたようです。


永仁2(1294)年、日蓮聖人からのご遺命である帝都開教を果たすため、孫弟子の日像上人は、一大決心をもって京都に向かいました。
北陸界隈、日像上人はおよそ北国街道沿いを京都に向かって歩かれた、といわれています。
(小丸山城址公園内 日像上人銅像)
その途次、各地で熱心な布教を行ったため、特に越前は法華信仰が篤いことで有名です。
武生の町なかには旧北国街道が縦貫しているのですが、実際、旧街道沿いには日蓮宗寺院が沢山あるようです。


早朝に付近を散歩してみました。

北陸ですから、確かに浄土真宗系のお寺が多いんですが、歩いたのが早朝だったせいか、そこかしこからリズミカルな木鉦の音が聞こえてきて、日蓮宗、頑張ってるな~、と嬉しくなりました!
(本境山妙智寺本堂にて)
あるお寺では、(恐らく)在家の方が自主的に読経、回向文を読み、勤行を完結していました。
すげぇ!カルチャーショック!




また、散歩の途中、明治の政治家・関義臣氏の生誕地も見つけました。
関義臣氏は、英国人・甲比丹ゼイムス氏に、初めて法華信仰の道を示した信徒です。

越前は、在家の信仰もディープです!



旧北国街道から路地を一本入ったところに、経王寺があります。


経王寺の入口です。

今から11年前、現ご住職が中山大荒行を五行成満(!)された良い砌に、建立された題目法塔があります。
お題目の独特の揺れ方から、日像上人のお寺だとわかりますね。



山門です。
後ろに控え柱のある薬医門です。


経王寺の寺名は、諸経の王といわれる法華経のことでしょう。

山号は華岳山(けがくさん)です。



日蓮聖人のご尊像は、合掌のお姿です。
立教開宗750年を記念して、先代ご住職が中心となって建立されたようです。



方形屋根の本堂です。いい雰囲気ですね!
豪雪地帯らしく、鉄骨フレームでお堂を囲んでいます。


本堂の右手を行くと、歴代お上人の御廟に至ります。

長きにわたって、信仰の拠点を護り続けてくださった先師達に感謝し、合掌しました。


経王寺のルーツは永仁2(1294)年、日像上人が上洛の途次に巡化された霊地で、もともとは一乗谷にあったといわれています。
(一乗谷朝倉氏遺跡内を流れる一乗谷川)
福井平野の南東、一乗山の麓を流れる川沿いに、一乗谷はあります。
戦国時代、越前を百年以上治めた朝倉氏5代が、ここに城を築いて首府としました。


(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の展示)
1.7kmの谷間には武家屋敷、町屋、そして多くの社寺があり、経王寺も住民の暮らしに根付いていたんだと思います。


(一乗谷朝倉氏遺跡)
ところが天正元(1573)年、織田信長の攻撃により朝倉氏は滅亡、一乗谷は焼き尽くされてしまいました。翌年には一向一揆が猛威を振るった記録もあり、この前後に経王寺も廃寺となったようです。


(金沢城公園内 前田利家銅像)
一乗谷の戦いから2年後の天正3(1575)年、越前地域を統治する名目で、前田利家公が府中(現在の武生)に入城します。


経王寺の縁起には、「名跡再興の為に前田家の庇護を蒙り、現在地に寺領を賜り、建長元(1596)年、堂宇を建立した」とあります。
(越前武生の街並み)
度重なる戦乱で町が荒廃し、人心も痛んでいたのでしょう。前田利家公は町割りを作るにあたって、土地の人が慣れ親しんだ経王寺のようなお寺を、積極的に組み込んでいったのだと思います。


経王寺の復活にあたり、再興開山を担ったのが、実成院日淳上人です。

日淳上人の父親は朝倉義景公の家臣だった上木新兵衛、そして妹(異母妹)は千代保(ちよぼ)、すなわち、のちに前田利家公の側室となる寿福院です!
※寿福院は幾世→千代→千代保と名前が変わりますが、このブログでは「千代保」、前田利家没後は「寿福院」で統一します。

ちなみに上木新兵衛は、前妻との間に日淳上人をもうけましたが、前妻と死別後、前妻の妹を後妻とし、千代保が生まれたそうです。



一乗谷の南西10kmほどに、高木町という場所があります。
上木家は代々、この周辺で暮らしていたようです。



付近の八幡神社境内には、「寿福院生誕地」の石碑もあります。


上木家は篤信の法華の家系、一族には出家者も多いといいます。
(一乗谷朝倉氏遺跡)
一乗谷の経王寺を菩提寺としていたようですから、日淳上人や千代保の法華信仰は、一乗谷経王寺によって育まれたのでしょうね。


(経王寺境内の説明板)
それだけに前田利家公が越前府中に、経王寺再興のきっかけを作ってくれたこと、上木一族はどんなに喜んだことでしょう。
そして日淳上人は熱い志をもって、経王寺再興に尽力されたと思います。


(浄土宗正覚寺山門:府中城山門が移築されたもの)
前田利家公の府中在城は、天正3(1575)~天正9(1581)年の約6年間でしたが、この頃、千代保は自ら志願して、府中城に奉公したといいます。
まだ10才にも満たない子供なのに・・・偉いですね。


健康的な美貌と、腹のすわった性格を兼ね備えた千代保は、やがて前田利家公の目にとまり、側室として迎えられます。

一方、信長や秀吉の信頼が厚かった前田利家公は、論功行賞として能登、加賀、越中を与えられました。
千代保も府中を離れ、金沢に移ります。


文禄元(1592)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、前田利家公は肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に赴くことになりました。遠方ということで、正室・芳春院は金沢に留まる中、側室である千代保は名護屋に随行しました。
(肥前名護屋城跡)
この時、千代保は前田利家公の子を身籠ります。
金沢に戻って出産したのは元気な男の子、のちの2代藩主・前田利常公です。


(金沢城石垣)
慶長4(1599)年、前田利家公が没すると、側室である千代保は髪を下ろし、以後、彼女は法号である「寿福院」を称するようになります。


能登滝谷に、金栄山妙成寺があります。
日像上人開山の、日蓮宗本山です。

寿福院はここを自らの菩提寺と定め、亡き利家公の菩提を弔うと同時に、一粒種の利常公が活躍し、そして何より無事でいてくれるよう、祈ったといいます。



(妙成寺五重塔)
寿福院の妙成寺への貢献は、桁違いだったそうです。
五重塔含めた現在の伽藍群、仏像、経巻に至るまで、寄進を尽くしました。


また慶長6(1601)年、金沢城下にもう一つの経王寺、寿福山経王寺を創建しています。
府中は越前、いわば他国になってしまったため、自国に経王寺が欲しかったのでしょう。寿福院にとって経王寺は、それほど大切な存在だったのです。

日淳上人は、この金沢経王寺の開山上人も務めています。

また寿福院によって整備が始まった当時、妙成寺の貫首さんをされていたのも、日淳上人でした。
寿福院の法華信仰は常に、お兄さんと二人三脚だったんですね!


それにしても寿福院、側室の立場でありながら、なぜこれほど知られた存在なのでしょうか?

実は前田利家公には正室との間に、嫡男・利長公(初代藩主)がいましたが、その利長公は男子に恵まれませんでした。
(金沢城公園)
一方、寿福院の子・利常公(2代藩主)は、もともと政略結婚として正室に迎えた珠姫(徳川2代将軍秀忠の次女)と非常に相性が良く、のちの3代藩主・光高公など、子宝に恵まれました。



以後、明治維新を迎えるときの最後の藩主・慶寧(よしやす)公、さらに言えば現在の当主まで、寿福院の血は途切れることがありませんでした。
まさに前田家のビッグマザーなんですね!


そうは言っても徳川政権にとって、前田家は外様大名です。
藩主の母親である寿福院は44才の時、住み慣れた北陸を離れ、人質として江戸屋敷で暮らすことを余儀なくされます。
(江戸城和田倉門跡周辺)
加賀藩江戸屋敷といえば現在の東京大学を連想する方も多いと思いますが、当時は江戸城和田倉門近くにあったと聞きます。
今じゃ大ビジネス街、とてもじゃないけど当時を想像できません・・・。


幕府の監視下にあったとはいえ、江戸周辺には寿福院の足跡が残っています。

池上本門寺の大堂近くには、寿福院の逆修塔があります。
生前に自らの手で供養を行い、死後の菩提を予め弔うというのが「逆修」です。


(逆修塔台座の刻字:左側に法号が刻まれている)
戒名も生前に持つのが、当時は一般的だったといいます。
「寿福院殿華岳日栄大姉」
ちなみに、二つの経王寺の山号(寿福山、華岳山)は、寿福院の戒名からいただいているそうです。



ほかにも鎌倉比企谷の妙本寺には、寿福院の銘が入った五輪塔がありますし、


(中山法華経寺五重塔)
身延山久遠寺(※)中山法華経寺の五重塔も、寿福院の力で建立されたと聞いたことがあります。
(※)初代五重塔


江戸初期の日蓮宗門に、多大な貢献をされた女傑といえば、徳川家康公の側室・養珠院お萬様も連想されます。
調べてみると、寿福院はお萬様の7才年上です。
(七面山白糸の滝 養珠院お萬様銅像)
側室という身分、それまでの波瀾万丈な人生、そして法華経に深く帰依しているなど共通点が多く、実際、お二人はとても仲が良かったともいわれています。



また寿福院の孫、つまり3代藩主・光高公に正室として嫁いだのは、徳川頼房公の四女・大姫です。頼房公の娘ということはお萬様の孫、つまり寿福院とお萬様はファミリーでもあったわけです!


(妙成寺境内にある寿福院の御廟)
寛永8(1631)年、加賀藩江戸屋敷にて寿福院は亡くなります。
逆修塔のある池上本門寺で荼毘に付され、自らが建立した金沢経王寺で葬儀、遺骨は大檀越として支えた能登妙成寺に納めました。


(府中経王寺山門の彫刻:加賀前田家は菅原道真の末裔のため、天神様と同じ梅鉢紋らしい)
府中経王寺の寺紋は、加賀前田家と同じ「加賀梅鉢」ですが、寿福院の生涯を知ると納得です!



府中経王寺の本堂前には、大きな題目法塔が一対あります。
第25世のお上人により建立されたようです。


「一字一石宝塔」と刻まれてますから、この下の地中に法華経の文字が書かれた69384個の石が埋められていると思われます。

朝倉家、前田家、寿福院や日淳上人など、経王寺に関わった多くの先師達を、追善供養しているのでしょう。



嘉永5(1852)年の府中大火で、本堂はじめ伽藍が焼失してしまいますが、当時のお上人方の尽力で再建され、現在の寺容に至るそうです。



僕が参拝させていただいた時、本堂ではお檀家さんの法事が行われていました。法事終了後、お疲れにもかかわらず、ご住職は笑顔を交えてお話をしてくださいました。
心より感謝致します。

水替無宿人の墓(佐渡市次助町)

2023-08-01 15:43:49 | 旅行
先日、5年ぶりに佐渡を訪れたわけですが、5年前と大きく違っていたのは・・・

こんなポスターが沢山、貼られていたことでしょう。


昨年2月、政府の閣議で「佐渡島の金山」のユネスコ世界遺産への推薦が、正式に決定しました。
(両津大橋付近)
実際には、推薦書に不備があったりとか、他国の市民団体からの抗議などで、登録の一歩手前で足踏みしている状態のようですが・・・。
魅力たっぷりの島、世界遺産登録をきっかけに、是非多くの方に訪れてほしいものです。


(両津港ターミナル内 佐渡金山ブースより)
この佐渡島、金の産地としての歴史は古く、今昔物語集(平安末期)には、佐渡で砂金を採る人のお話がある、といいます。


(大佐渡山地の山並み)
しかし佐渡の金が日本じゅうに知られるようになったのは、慶長6(1601)年、巨大な金脈が発見されたことに始まります。


そのわずか2年後には、佐渡が徳川幕府直轄の天領となり、佐渡奉行所管理のもと、膨大な金鉱石が掘られました。
(復元された佐渡奉行所跡)
また精錬技術も高く、佐渡の金は量、質とも当時の世界最高水準、江戸時代を通じて幕府の財政を支えたのです。



相川町から大佐渡スカイライン(県道463号線)が伸びています。



道沿いには、巨大な金脈を掘り進んでゆくうち、山が真っ二つに割れたような姿になってしまった「道遊の割戸」や、



山師・味方与次右衛門が一か八かで掘り進め、結果的に大金脈発見につながった「大切山坑」など、有名スポットが目白押しです。


それらの1kmくらい手前でしょうか、小さな案内板があります。

「水替無宿人の墓」入口です。



道は山奥に伸びています。
階段や石畳が整備され、よく草刈りもされているようです。



道の両側には石垣を積んで作った区画が沢山あります。
かつてここに人の生活があったことを感じます。



5分ほど歩くと、視界が急に開けます。
ここが今回紹介する「水替無宿人の墓」です。


金産出のピークは元和、寛永年間(1615~1644年)といわれます。
(相川金鉱脈の模式図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
初期の佐渡金山は、地表に露出している鉱脈を掘り取ればよいので、非常に効率よく採掘できました。


(坑内の様子:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
ただ、露天で採れる金にも限りがありますよね。
金脈を追って坑道は地中深くなるばかり、まさにアリの巣状態。
やがて坑道は海抜下にまで貫入します。


いたる所から地下水が湧き出し、放っておくと坑道が水没してしまいます。
佐渡金山の湧水量は、他の鉱山と比べてもケタ違いに多かったといいます。
(排水坑道の図:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
金山には排水専用のトンネル(排水坑道)も掘られましたが、ポンプなどない時代、深部の坑道から排水坑道までは人力で24時間、水を汲み続けなければなりませんでした。


(水替え作業:「図説 佐渡金山」テム研究所編著より引用)
数ある金山労働者の中でも、この「水替え人足」の仕事は特に過酷といわれ、人手の確保が佐渡奉行所の悩みの種だったようです。


一方、江戸中期、天候不順や火山の噴火が相次ぎ、たびたび飢饉が起きました。
(浅間山の大噴火:「歴史資料集」明治図書刊より引用)
貧困のために家を追われる人が急増、行き場のない人々が流れ流れて、江戸や大坂、長崎など、都市部に居つくようになります。


幕府は彼らのような戸籍のない人を「無宿人」と呼び、無宿人が増えると治安が乱れるだろうという理由で、片っ端から捕らえてゆきました。無宿人狩りです。
(航路より佐渡島を望む)
捕らえられた無宿人は、更生の名のもとに佐渡金山に送られ、水替え人足として苛烈な労働を強いられたのです。

江戸時代を通じ、佐渡に送られた無宿人は(確認されているだけで)1874人にも上るといわれます。



「無宿人の墓」の一画には新旧合わせ、いくつものお題目の供養碑が並んでいます。


ここで亡くなった水替無宿人なのでしょう、日蓮宗の戒名が刻まれています。
(水替無宿人28人の墓:嘉永6年建立)
下総、伊勢、越後・・・と出身地は多岐にわたり、また享年もほぼ40才を越えていません。
年間を通じてほぼ休みなく、空気の悪い坑道の底で、過酷な肉体労働をさせられるわけで、仕事に就いたら3年が寿命だったといわれるほどです。


こちらの新しい石碑は、無宿人に関わった遊女、そして水子を供養する塔です。

希望を失った水替無宿人たちを刹那、慰めた遊女たち。
多くは貧しい家庭に育ち、遊郭に身を投じたと聞きます。
ともすれば歴史に埋もれてしまいそうな諸霊も同様に、手厚く弔った先師がいらしたんですね。頭が下がります。



この周辺は水替無宿人たちの生活の場で、以前はここに妙法山覚性寺(※)という日蓮宗のお寺があったそうです。
つまり水替無宿人の墓石群は、もともと妙法山覚性寺の境内にあったと思われます。
(※)妙法山覚性寺:寛永7(1630)年建立、明治元(1868)年廃寺


江戸時代、相川の町はゴールドラッシュに沸き、全国から大勢の人が職を求めて移り住みました。
(相川町内に掲示された史跡散策マップより)
彼らは出身地や信仰ごとにつながり、新寺を建立して生活の中心に据えました。
また新天地を求めて集落ごと移転するケースも多く、そうすると彼らの菩提寺も引っ越してくるので、相川にはお寺が急増しました。


納税者であり地域の有力者であった上級町民は、真言宗や浄土宗を宗旨とする人が多かったようです。
(佐渡金山展示資料館より)
一方、苛酷な肉体労働に身を削る下層の町民では、日蓮宗と浄土真宗が多かったといいます。


(佐渡市市野沢 妙照寺付近の風景)
日蓮聖人は文永8(1271)年、法華弾圧のため佐渡に流されました。逆境の中、教学の礎を築き、島に信仰の種を植えました。



(越後居多ヶ浜に立つ親鸞上人像:京都大谷本廟会館に展示
それより65年ほど前、浄土真宗の開祖・親鸞上人も念仏弾圧に遭い、7年間を越後(国府=今の直江津辺り)で過ごしています。
親鸞上人が念仏信仰を深めた越後は、浄土真宗の聖地でもあるわけですね。


「一心に題目を唱えれば誰でも成仏できる」(日蓮宗)
「一心に念仏を唱えれば誰でも成仏できる」(浄土真宗)
(水替無宿人の墓:天明3年建立)
坑夫たち、とりわけ極めて短命といわれた水替無宿人たちにとって、これほどシンプルで、魅力的な信仰はなかったはずです。


前出の妙法山覚性寺(日蓮宗)が、水替無宿人たちが生活する地域に存在したというのは、お題目が彼らの中心にあったという証拠でしょう。

年に一度だけ許される外出日、水替無宿人は必ず、死んでいった仲間たちの墓に行き、香華を捧げました。
それから海に行って水垢離をとり、身の無事を祈ったということです。



もともと彼らは無宿人であったけれども、無宿人はイコール犯罪者ではなかったはずです。
無念とか不条理とかの言葉では、とても表せないほどの感情を秘めながら、それでも人としての矜持を忘れなかった彼らを想い、墓前で合掌しました。


毎年4月、相川の宗門寺院が中心となって「水替無宿人供養祭」が催されているそうです。
(両津・東光山妙法寺庫裡に掲示されていたポスター)
水替無宿人の方々が働かれた坑道跡を参加者全員で順拝、無宿人の墓前では慰霊法要、最後は近くの光栄山瑞仙寺で締めの法要を修するといいます。


光栄山瑞仙寺は、法華の篤信者であった山師・味方但馬の菩提寺です。
(相川・光栄山瑞仙寺の仁王門)
「水替無宿人供養祭」は今から半世紀前、瑞仙寺の先代ご住職の発案で始まったものだそうです。
実は今回、無宿人の墓の場所やその由緒などを、瑞仙寺の現ご住職に丁寧に教えていただきました。
心から感謝致します。


(相川・北沢浮遊選鉱場)
「佐渡島の金山」がユネスコ世界遺産に登録されると、全国から観光客が押し寄せ、相川の町もさぞ賑やかになることでしょう。


(佐渡金山展示資料館より)
膨大な金に象徴される、煌びやかな佐渡金山の歴史は、とても魅力的です。

しかしその裏には、苛酷な水替え作業を全うし、佐渡の土になった多くの無宿人たちもいたこと、是非、多くの人に知ってほしいと思います。

水替無宿人の墓が、末永く清められてゆくことを、願ってやみません。

渋手霊跡(佐渡市豊田)

2023-07-01 20:46:04 | 旅行
5月の中旬、久しぶりに佐渡を訪れました!

新潟市内は、ちょうどG7会議の真っ最中!
船着き場へのバスにまで警察官が乗り込んでくるなど、厳戒態勢でしたが、なんとかジェットフォイルに乗れました。


今回の佐渡訪問には、一つ目的がありました。

5年前に参拝させていただいた佐渡日蓮聖人大銅像

その大きさもさることながら、平成の時代に、佐渡という聖地に銅像を建立しようと力を尽くした、当時の方々の想いやエネルギーを感じ、初めて参拝した時の自分の気持ちを、ブログにさせていただきました。



建立から今年がちょうど20年、これを記念して法要が修されるという情報を聞き、これは是非、参加しなければ!と島に渡ったのです。


5月13日の午後、初夏の爽やかな空気の中、記念法要は始まりました。

当日は宗務総長、佐渡三本山の貫主さん方、建立の中心となったお上人方などが揃って参列されていました。



屋外で、沢山の檀信徒さん達とお経を唱える経験は初めてでしたが、そのシチュエーションのせいでしょうか、スカっと開放的な雰囲気で、笑顔の絶えない法要でした!



ちょうど今年は、日蓮聖人が佐渡流罪をご赦免となられ、鎌倉へ向けて出立されてから750年にもあたり、この良い砌に、佐渡に居られる幸せを嚙み締めました。



大銅像記念法要の翌朝、僕はレンタカーを走らせ、佐渡西部・真野湾沿いの「豊田」という浜を訪れました。



すぐ近くには、佐渡に流された順徳上皇が、初めに上陸された「恋ヶ浦」もあります。


豊田の浜は、古くは「渋手」と呼ばれ、ご赦免となった日蓮聖人が、佐渡の信者さん達とお別れした霊跡として、知られているそうです。

「去る文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ」(種々御振舞御書)

当時、生きては帰れないといわれた佐渡流罪を「赦免にする」とした幕府の文書が、日蓮聖人の元へ届けられました。


佐渡に流されてから既に2年4ヵ月余り、島内の信者さんも徐々に増え、その頃には日蓮聖人を慕う一大グループができていたことでしょう。
佐渡流罪ご赦免の報を聞いて、彼らが手放しで喜んだ様子が、なんとなく想像できます。

と同時に、今日まで、幸せに生きる心の在りようを、顔を突き合わせて丁寧に教えてくれた日蓮聖人は、島を離れて鎌倉へ帰ってしまう・・・
鎌倉時代のことですから、今生の別れとなることは、ほぼ間違いありません。
信者さんの心中は、複雑だったことでしょう。


日蓮聖人は5日間で旅の支度を整え、3月13日、真野湾沿いの「渋手」という場所で、信者さん達とお別れすることになりました。

真野湾は西に口を開け、深く切れ込んだ入り江です。
そのため湾内は、牡蠣やワカメの養殖が行われるくらい、波が穏やかです。




流れ着いたゴミを見ると、ハングル語とか中国語で書かれており、国境の海を感じます。



豊田漁港のすぐ近く(※)に、渋手霊跡の石碑があります。
※以前は違う場所にあったようですが、昭和57年、国道改修に伴ってこちらに移されたようです。



いくつかの石碑が並んでいますが、いわゆる渋手霊跡の碑は、一番奥のものです。



日蓮聖人がここから船出されたことを偲んで、建てられた碑のようです。



大正10(1921)年、世尊寺のお上人の発願で、この辺り豊田の住民有志で建立された石碑、ということがわかります。


渋手霊跡から東に3~4km離れた世尊寺は、国府入道夫妻ゆかりのお寺です。

昔から地元豊田では、ここ渋手が日蓮聖人のご霊跡として伝えられ、世尊寺を拠点として、大切に、大切に護持されてきたのでしょう。


宗門の説明板には「島民惜別の地」と書いてありました。

この浜に、日蓮聖人を支援した多くの島民信者さん達が集まり、互いに手を取り、涙を流して、聖人との別れを惜しんだと思われます。


国府尼御前御書には、恐らくこの時の日蓮聖人ご自身の感情でしょうね、綴られています。

「つら(辛)かりし国なれども そ(剃)りたるかみ(髪)を うしろへひかれ すすむあしも かへりぞかし」

さざ波の音しか聞こえない静かな浜で、感慨に耽りました。



日蓮聖人を外護した、例えば阿仏房夫妻、中興入道、国府入道夫妻、一谷入道夫妻などのご霊跡、つまり多くの信者さんの住まいは、いずれも国仲平野のやや西側に位置しています。
真野湾に比較的近い場所でもあり、ここ渋手がお別れの地となったのは、自然なことだと思います。


(佐渡松ケ崎・法華岩から本土を望む)
このあと日蓮聖人は佐渡守護所の国津・松ケ崎に至り、真浦で風待ちをしてから本土を目指した、という説が有力です。
先ほどの宗門の説明板にも、そう書いてありました。


渋手からは、船で松ケ崎に向かうこともできますし、また梨ノ木峠の入り口に位置していますので、峠越えで松ケ崎を目指すこともできます。
(県道65号線沿いの石碑)
もしかしたら渋手という土地は古くから、本土に渡る人々との、別れの地だったのかもしれませんね。


(日蓮宗新聞:令和5年5月1日号より)
先日の日蓮宗新聞には、3月に佐渡ご出立750年を記念した法要が行われた記事が載っていました。
これをもって、一連の佐渡法難750年の行事が、幕を閉じたようです。


今年は佐渡ご出立だけでなく、身延山開闢なども節目の年。
(それだけ750年前の日蓮聖人は、激動の渦中におられたということでもあります。)
(身延山久遠寺本堂前の慶讃高札)
50年毎の行事は、現実的には私達、一生に一度あるかないかでしょう。
日蓮聖人を宗祖と仰ぐ我々信徒は、そのチャンスに巡り逢えた喜びと同時に、終わってしまう一抹の寂しさを感じる、それが正直な気持ちではないかと思います。


皆さん一度、冒頭で紹介した佐渡の大銅像を見にいらしてください。
当時の青年僧たちが「あくまでもそのお姿を、聖地佐渡に顕現すべきである」という思いをもって建立された、圧倒的なお像と向き合ってみてください。

言葉では上手く表現できませんが、時間なんかはあくまで方便で、お祖師様の魂魄は今も、間違いなく存在していると、再認識するはずです!

南無妙法蓮華経。

身延山恵善坊(身延町身延)

2023-06-01 17:17:25 | 旅行

身延山久遠寺のエントランス、三門。
何度見ても、その存在感に圧倒されます。


今回は、そんな三門の目の前にある宿坊に、参籠しました。

身延山をよく参詣する方には、見覚えのあるエメラルドグリーンの屋根。
恵善坊です。



あれ?坊名を刻んだ石、屋根と同じ緑色だ!
坊名は赤い字ばかりだと勝手に思っていましたが、案外自由なのかも。



ところで我が家、随分昔から火除けと方位除けのお札を張っています。


最初は親戚から戴いたんですが、身延山参詣の折、偶然同じお札を見つけ、以来、毎年交換しながら既に20年。今や、そこにあって当たり前の存在になっています!


これらのお札、三門で売っています。
三門に売店?と思われるかもしれませんが、仁王像が安置される「間」の一画に札所があるんですね。

閉まってたり不在の時は、ピンポンすると恵善坊から人がやって来て、買うことができるんです。
そう考えると、我が家は恵善坊とすでに20年、ご縁があるわけです。



こちらは恵善坊の本堂です。
今晩お世話になります、と手を合わせました。



本堂横に、恵善坊歴代の御廟があります。
長きにわたって法灯を継ぎ、また巨大な三門を見守り続けてくださったことに、心から感謝し合掌しました。


恵善坊の歴史は、そのまま三門の歴史でもあります。

徳川将軍が2代秀忠から3代家光に移り、幕藩体制がようやく安定してきた頃、身延山も目覚ましい発展を遂げていました。
(↑身延山久遠寺境内)
江戸初期の身延山法主を調べてみると、
20世 一如院日重上人
21世 寂照院日乾上人
22世 心性院日遠上人
23世 慧眼院日祝上人
24世 顕是院日要上人
25世 寂妙院日深上人
26世 智見院日暹(せん)上人
と続きます。


(↑京都本満寺の山門)
20~22世は京都本満寺の出身ですし、23、24,26世は22世日遠上人のお弟子さん、25世は21世日乾上人の門下、ということで、この頃の数十年間はまさに一枚岩、大プロジェクトを敢行しやすかったと思われます。


山内のルール作りに始まり、西谷檀林の開講、そして戦国時代には難しかった諸堂宇の整備などが為されました。
(↑身延山久遠寺の菩提梯)
特に26世を継がれた日暹(せん)上人は、方丈、会合所、対面所、そしてあの菩提梯など、外部から身延山を訪れる人々の、利便性を高める施設を多く整えられたようです。


身延山に初めて三門が建立されたのも、日暹上人の時代です。
(↑三門の説明板より)
寛永17(1640)年に寄付を募り始め、その2年後に13間の巨大な楼門と、左右5間の山廊(※)が竣工します。
(※)楼門の左右にある、楼上への階段を囲む建物


(↑恵善坊の歴代御廟)
このとき設けられた三門別当寮が、恵善坊のルーツです。
なので恵善坊の開創は、三門と同じ寛永19(1642)年、智見院日暹上人が開基となっているそうです。


(↑身延山歴代御廟:左から22世日遠、26世日暹、27世日境上人)
日暹上人は、京都の篤信家・浦井宗府公の次男として生まれました。
兄は水戸藩主・頼宣公に仕える儒学者、弟が二人いて、一人は通心院日境上人(のちの身延山27世)、もう一人は立正院日揚上人(京都鷹峰檀林玄堂の初祖)という超エリート四兄弟。
さらに叔父は真応院日達上人、小西檀林の祖というから、驚くばかりの家系です。


日暹上人はとにかく弁が立つお坊さんで、「富楼那(ふるな)日暹」という異名もあったそうです。
法華経にも出てくる富楼那尊者は、お釈迦様の大勢いるお弟子さんの中でも弁舌ナンバーワン、説法第一と称された方です。


江戸初期の宗門は、法華経信者以外(将軍など為政者も含む)からは一切の布施、供養を受けず、また施しもしないという、池上本門寺をはじめとした「不受派」と、教団を存続させるため、ある程度は妥協すべきという、身延山をはじめとした「受派」に分裂、論争がヒートアップしていました。
(↑池上本門寺・総門)
そこで幕府は寛永7(1630)年、双方の代表者を江戸城に召喚し、城中問答を行わせました(身池対論)。
このとき身延山法主を務めていたのが日暹上人で、もちろん受派の代表者として対論に臨み、富楼那ばりの活躍をされたのでしょう、「不受派は邪宗である」という裁定を勝ち取りました。


(↑身延山・日蓮聖人御草庵跡)
そもそも宗祖日蓮聖人のスタンスを厳格に踏襲するならば、不受不施の考えが正統なのでしょう。対論で敗れたお上人方は、より純粋だったに違いありません。
しかし室町、江戸・・・と社会が変容し、人々が平和に共生する術を、懸命に模索してきたわけで、やはり相応の妥協は仕方なかったと、僕は思います。



そういう意味では、江戸初期の不受不施問題や、明治維新期の仏教弾圧を乗り越えてこられた先師達には、本当に感謝していますし、当時の舵取りは正しかったと、確信しています。

ずいぶん脱線しちゃいましたね。
話を三門、恵善坊に戻しましょう。



恵善坊の歴代を刻んだ墓誌を見ると、第一世が恵善院日信上人(江戸中期・寛政10年遷化)となっています。その院号から、恐らくこのお上人の代で三門別当寮は「恵善坊」と公称したのだと思います。



江戸末期以降、三門は火災と再建を繰り返します。
身延山史によると、初代三門は慶応元(1865)年の大火で焼失、このとき恵善坊も全焼してしまったようです(のちに再建)。
(↑再建された仮三門:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用)
翌年、仮門が建設されますが、その仮門も明治20(1887)年に焼け、数年後に再度、仮門が設けられました。


しばらくは仮門が身延山の顔だったわけですが、やはり正式な三門が渇望されたのでしょう、身延山78世を継いだ豊永日良上人(管長も兼任)が中心となり、2代目三門建設プロジェクトが始まりました。

日清・日露戦争もあった時代、建設費に困難を極め、予想外の時間がかかりましたが、明治40(1907)年にようやく現在の三門が完成しました。


ここでふと思い出したのが、ハンセン病救済に尽力された綱脇龍妙上人です。
ちょうどこの時代、救らい施設建設を豊永日良上人に直訴しましたが、「三門建設で手一杯、宗門としては一銭の補助もできない」と資金提供は断られてしまいました。
(↑身延深敬園創立時の仮病室:加藤尚子著「もう一つのハンセン病史」より引用)
しかし豊永日良上人は、代わりにポケットマネーと、三門近くの大工小屋を提供してくださったそうです。
これを仮病室として明治39(1906)年に始まったのが、あの身延深敬園です。



乾いた雑巾をなお絞って、お金と知恵をひねり出していた当時のお上人方を、我々は決して忘れてはなりません。
こうしたエピソードを知ると、三門がとても愛おしく思えます。


そろそろ宿坊としての恵善坊を紹介したいと思います。

恵善坊では参籠者参加の夕勤はなく、受付を済ませたら夕食までフリーです。



案内されたのは2階の桔梗の間です。
今まで参籠した坊と比べ、より旅館テイストを感じます。



やたっ!みのぶまんじゅうと聖人せんべいだ!


窓を開けると、夕暮れの身延山がドーン!
春の山は彩り豊かです。



下に身延川、そして木々で遮られていますが、向こう岸は障害者支援施設かじか寮、かつての身延深敬園です。
尊敬する綱脇龍妙上人のご霊跡の間近で過ごす、特別な夜です。


身延山90世・岩間日勇上人ご染筆の色紙が掲げられていました。

妙法蓮華経見宝塔品第十一、あの宝塔偈の一節ですね!
「法華経を信仰する人こそ、浄土に住む仏弟子です」
心の持ちよう次第で、この穢土も浄土になる・・・僕の生涯の目標です。



さあ、晩ごはんです。
心づくしの精進料理、ホントに華やかですよね!
湯葉をアテに、晩酌なんかしちゃって、ごはんのおかわり2回もすれば超満腹。ご馳走さまでした!


お風呂をいただき、窓を開けて涼風にあたります。

お、松樹庵って明かりが灯るんだ。初めて知った!
それでは、おやすみなさいzzz・・・



翌朝は久遠寺朝勤に参加するため5時起床。
早朝の三門を独り占め!



日暹上人代に造営された菩提梯を登ります。
起きがけの287段は、なかなかのもんです。ふぅ~。


(↑身延山久遠寺・大堂)
祖山での勤行は、毎回新鮮な気持ちで臨むことができます。
僕の心の芯、みたいなものです。



朝勤を終えると、すっかり明るい裏三門。



わ~い、朝ごはん。
実は朝勤の途中から腹がグーグー鳴ってました(笑)!



ごはんも美味しかったし、坊内もキレイで、居心地良かったです!
ロケーションも含め、宿坊に泊まるのは初めてという方に、特におすすめの坊だと思います。



前日にお願いしていた御首題です。
三門イコール恵善坊ですからね、三門の御首題でした!

正東山日本寺(多古町南中)

2023-05-01 11:28:47 | 旅行
今回は、昨年訪れた下総の檀林跡を紹介します。

前回紹介させていただいた飯高檀林跡(飯高寺)から西に3kmほど、多古町という所に、日本寺があります。
「にちほんじ」と読むようですね。


参拝したのは秋のお彼岸頃でした。
境内は彼岸花が満開!
法華経の序品第一に「曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華 而散仏上・・・」という一節があります。
大勢の菩薩たちを前にして、これから法華経を説かれようというお釈迦様の頭上に、沢山の花々が舞い始め、まさに場は整いました!って感じでしょうか。
この花々の一つが曼殊沙華、つまり彼岸花だそうです。



あじさいの本数がスゴっ!
真夏の直射日光を嫌うあじさいにとって、杉林に守られた良い環境なんでしょう。
梅雨の時期に訪れてみたいものです。



山門です。昔は茅葺屋根だったそうです。
修復はされていますが、檀林時代の建築だということです。



山門の大棟には桔梗紋。
かつて下総を治めた千葉氏や、中山法華経寺との関係が深そうですね。



山号は正東山(しょうとうざん)です。



山門から北に向かって参道が伸びています。
歩を進めるにつれて、往時にタイムスリップしてゆく感じです。



檀林らしく、経蔵もあります。
かつては一切経が格護されていましたが、現在は宝蔵として使われているようです。



(↑宝蔵の説明板より)
日本寺には「交互の御影(みたがいのみえい)」という、2体のお像が格護されています。
日蓮聖人と富木常忍公が、互いに相手のお像を刻したもので、完成後に交換、日夜敬慕礼拝されたといいます。



祇園祭の屋台のように、背の高い鐘楼。
檀林時代、講義の開始と終了を知らせていたのかな?



こちらが本堂。明治25(1892)年の建築です。
檀林時代の講堂を1/3に縮小しているそうで、旧講堂がどれだけ大きかったのかが窺えます。


本堂に掲げられた扁額には「正東学庠」。
「庠(しょう)」は学校の意味です。
身延山史などでは、歴代法主の経歴を紹介する際、檀林のことを「庠」とか「講肆(こうし)」と表記しているケースが多いです。



檀林の名残りでしょうか、学び系の月行事が多いですね!


境内には「岡田稲荷」と「豊田稲荷」が並んで鎮座しています。


夫婦稲荷という珍しい形態で、願い事があるときは岡田社、豊田社から一対のお札を拝受し、家に大切にお祀りすると成就するそうです。
どんな由緒で夫婦になったんだろう?


歴代お上人の御廟に参拝。

檀林跡だけあって、歴代化主(学長)と思われる墓石が、規則正しく並んでいます。


(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像
日本寺のルーツを辿ると、日蓮聖人の最古参の信者であり、一貫して聖人を支え続けた大檀越・富木常忍公に行き着きます。


弘安5(1282)年に日蓮聖人がご入滅されると、常忍公は出家して常修院日常上人となり、中山法華経寺の淵源となる法華寺を創建します。
(↑中山法華経寺奥之院の富木常忍=日常上人像)
日蓮聖人より6才年長といわれる常忍公ですが、晩年も日蓮聖人ご真筆のご本尊やご遺文の保護に尽力するなど、宗門のために精力的に働かれました。



そして最晩年に隠棲されたのがこの地、かつては「千田庄」という千葉氏の所領だったそうです。
富木常忍公は千葉氏の下で働く事務官僚でしたから、ご縁のある土地だったのでしょうね。


文応元(1319)年、中山法華経寺3世の法灯を継いだ浄行院日祐上人が、常忍公隠棲の地に庵を結んだのが、日本寺のルーツです。
(開山当時は高祐山東福寺と称したそうです。東福寺も現存しています。)

日本寺の御廟墓石では、日祐上人は開基。そして・・・



師匠の日常上人を開山に仰いだ形になっています。
中山法華経寺とのご縁が非常に深いお寺、ということがわかります。


そういえば中山法華経寺の山号は「正中山」、日本寺は「正東山」。
恐らく日本寺は中山のほぼ真東に位置するゆえの山号なのでしょう。
(↑中山法華経寺山門の扁額)
(↑日本寺山門の扁額)
さらに両山の山門に掲げられた扁額はいずれも、書家、美術家として有名な本阿弥光悦公の揮毫です。筆跡そっくりですよね!
両山とも歴史的に、本阿弥家の菩提寺である京都本法寺とのご縁が深いようです。


時は下り天正15(1587)年、日本寺13世の日俒(ごん)上人は、北条氏政から寺領を寄進され、お寺を現在地に移転しました。

このとき寺名を正東山日本寺に改めました。
実は日俒上人、当時の中山門流のトップにおられた方でしたが、本山間の勢力争いに巻き込まれ、日本寺晋山は本意ではなかったようです。
山号の「正東山」は、近くて遠い中山への、最大限のリスペクトだったのかもしれません。



日俒上人が遷化されて間もなく、日本寺に檀林の種をもたらしたのは、慧雲院日圓上人でした。


飯高小学校近くに、日圓上人塚があります。
(↑飯高・日圓上人塚)
質素な墓石が、お堂で覆われています。
現在も地元の方々が護持してくださっているようです。


塚の説明板によると、飯高生まれの日圓上人は、飯高檀林の前身・飯塚学室当時からの生徒だったそうです。それこそ檀林の祖といわれる教蔵院日生上人直々に師事しました。
(↑日圓上人塚の説明板)
もともと「天資敏悟」な日圓上人は、日生上人が京都松ケ崎に帰った後も猛勉強し、「無双敵無ク」飯高檀林の学僧トップに立ちました。


慶長3(1598)年、飯高檀林2世が誰になるのかで、ちょっとした騒動が起きます。
2世は法雲院日道上人(のちの身延山19世)と大方決まっていたようなのですが、一部のグループが頑なに日圓上人を推したことで論争に発展、檀林内がギスギスしてしまいます。
(↑日本寺本堂に祀られる日圓上人御影:都守基一編「恵雲院日圓聖人と中村檀林」より引用)
ところが当の日圓上人、過熱する争論を避け、あっさりと隣村の日本寺に身を引きます。争いごとを嫌い、かつ年長者(日道上人は7才ほど年上)を立てる人格者だったようですね。
そんな日圓上人のこと、日本寺に晋山すると、学徳を慕って学僧が続々と集まり始めました。
慶長4(1599)年、ここに中村檀林が開かれたのは、自然の成り行きでした。


それから3年後、日圓上人は尚も推されて飯高檀林4世に就きます。
一旦は飯高檀林を退き、中村檀林の経営に尽力していたはずですが、飯高での人気は未だ冷めやらなかったのでしょう。

(↑日圓上人塚の墓石)
ところが慶長10(1605)年、「暴徒ノ為殉教」されてしまったと、日圓上人塚の説明板に書いてありました。まだ39才の若さでした。
犯人は飯高檀林の学徒だったといわれているそうです。


周囲のドロドロした思惑に翻弄され、志半ばで化を遷された日圓上人ですが、それがかえって人々の尊崇を集めることになりました。
(↑日本寺本堂前に建つ石碑:「舊 」は「旧」の旧字)
そして、日圓上人ひとりの学徳で開かれた中村檀林という学び舎は、のちに飯高檀林と肩を並べるまでに隆盛するのです。


話を日本寺境内に戻しましょう。
かつて参道の左右には、学坊が所狭しと並んでいたそうです。

中村檀林の学坊は大きく二つの谷(さく)に分かれていました。参道を隔てた西谷と東谷です。


各谷所在の学坊一覧がありました。
(↑檀林時代の西谷所在学坊一覧)
西谷筆頭にある観月庵は、中村4世・顕是院日要上人が開いた檀林初の学坊で、
のちに身延山法主となる妙心院日奠上人や隆源院日莚上人を輩出する名門です。

(↑檀林時代の東谷所在学坊一覧)
東谷筆頭の真如庵は、通心院日境上人が設けた学坊で、これにより西谷観月庵と双璧を成しました。
日境上人は檀林の整備に尽力し、のちにやはり身延山法主として晋山されます。



ちなみに、↑画像、東谷の学坊が少ない理由が、「軒並の商估(商売)」が幅を利かせ「修学に適さざる為か」と書いてあります。
詳細はわかりませんが、そんな時もあったのでしょう(笑)。


学僧を一カ所に集めず、敢えて東西に分割して互いを競わせるというのは、比叡山や飯高檀林のシステムに似ていますね。
(↑日本寺の境内図より)
学僧達は研鑽を積み、年2回、東谷vs.西谷で論争大会を催していたといいます。
今でいうディベート対決、すごく盛り上がったんでしょうね!


そうなると自ずとグループの絆が深まり、やがてカリスマ教授を中心とした学閥、すなわち「法縁」が成立します。
(↑日本寺境内・宇賀神社の彫刻:波の伊八刻)
実際、中村檀林から派生した宗門の法縁は多いようで、「境師法縁」「奠(でん)師法縁」「莚師法縁」「親師法縁」「達師法縁」などは、素人の僕でも聞いたことがあるくらい有名です。
実際、この5法縁のお寺、お上人だけで、宗門の半数にもなるくらい、現在も巨大なグループなのだそうです。


喩えはアレですが、政党の中にある派閥みたいなもの、なのかなぁ?
各論になるとちょっとずつ温度差がある的な。
(↑日本寺歴代御廟の入口)
檀林が廃止されて1世紀以上経過した現在でも、お坊さんやお寺のプロフィールに「~法縁」とあるのを目にしますから、法縁自体は存在するのでしょう。
詳しいことはわかりませんが、宗務所単位とはまた違う人脈が宗門には存在することを、意識しておきたいと思います。



境内には妙見宮があります。七面様も合祀されてます。


(↑妙見宮壁面に描かれた星梅鉢紋)
妙見様は天神様。学業の神でもありますよね。
往古数えきれない学僧達が、ここで祈りを捧げてきたのでしょうね。


実は多古の町なかにも妙見宮が沢山あるんです!
(↑飯徒井城跡にある妙見宮)
やはり千葉氏とのご縁が深い土地柄ゆえ、だと思います。
先ほどの夫婦稲荷といい、その土地独自に発展した信仰って、とても興味深いです。


(↑日本寺本堂の旧鬼瓦と思われる)
隆盛を極めた中村檀林でしたが、明治の学制発布で檀林制度自体が廃止されてしまいます。もともと純粋な学問所として、お檀家さんなしで経営してきたため、苦しい時代が続いたようです。


現在、日本寺は貫首さんが住職を務める本山であり、また近隣の信徒有志などで奉賛会が組織され、維持運営されているようです。

建物こそ年季が入っていますが、広い境内によく手が入っているのがわかります。
一信徒として、心から感謝致します。



多古町には日本寺のほかにも、「藻原殿」斎藤兼綱公が創建した妙光寺、日弁上人が開山の妙興寺、日蓮聖人直々に改宗された顕実寺など、鎌倉時代からの宗門寺院が実は沢山あるようです。

今度は泊まりがけでじっくり、お寺巡りをしてみたいと思います。