日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

雑司ヶ谷鬼子母神堂(豊島区雑司ヶ谷)

2021-09-01 10:35:22 | 旅行
今回は法明寺の至近にある、鬼子母神信仰の聖地を紹介したいと思います。


法明寺から真っ直ぐ南に伸びている道。その先には・・・



法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂があります。
安産や子育ての神様として、広く知られています。



樹齢700年以上といわれる大イチョウが迎えてくれます。
古木なのに樹勢がすごい!


まずは鬼子母神様を祀る本殿に参拝。
僕も既に半世紀以上生きてきました。
無事に生を受け、ここまで生かされたことに感謝し、手を合わせました。



境内の隅に、鬼子母神堂の縁起を刻んだ石があります。
雑司ヶ谷の鬼子母神様の始まりは、室町時代後期にまで遡ります。


永禄4(1561)年、山村丹右衛門(※)が近くの清土という場所からお像を掘り出しました。
神々しいお像だったのでしょう、傍にある井戸で清め、東陽坊に納めました。
(↑画像は池袋・びっくりガードに描かれている「雑司ヶ谷いろはかるた」)

※山村丹右衛門は、雑司・柳下若狭守の家臣と云われています。雑司は朝廷の雑務を司る、今でいう総務のような職で、数人の雑司がこの地に住みついた事が、雑司ヶ谷という地名の由来とも云われます。


お像が出土した清土は護国寺の近く、不忍通りから少し入った路地奥です。

清土鬼子母神堂というお堂があり、ちょっとしたお寺の雰囲気です。



鬼子母神像が掘り出されたことを、信仰のある方々は「出現」と呼ぶのですね。



出現場所のすぐ脇に、お像を清めた「星の井」があります。
この井戸水で丁寧に洗われたのでしょう。



お像が納められたという東陽坊は、のちに法明寺に合併されたようです。


東陽坊の名前は、法明寺歴代お上人の御廟に見られます。
鬼子母神堂の縁起には
「東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。」
 と書かれています。


鬼子母神はインドの神話には「カリテイモ(訶梨帝母)」として現れる女性です。

多くの子を産み育てていましたが、反面、他人の子をさらって食べてしまうという残虐性も併せ持っており、皆から憎まれていました。



お釈迦様は敢えて訶梨帝母の子を隠し、子を食う罪を諭しました。
訶梨帝母は自らの過ちを悟ってお釈迦様に帰依、以後、仏教の守護神「鬼子母神」になりました。


法華経の陀羅尼品第二十六に、鬼子母神のお名前が出てきます。

「是十羅刹女。与鬼子母。并其子。及眷属。供詣仏所。同声白仏言。・・・」

鬼子母神は十羅刹女達とともに「陀羅尼(だらに)」という尊い言葉で、仏教への守護を誓っています。


このお経どおり、鬼子母神は日蓮聖人の危機を救っています。

文永元(1264)年の小松原法難の折、東条景信が第二の太刀を振り下ろそうとした時、槇の大木に鬼子母神が現れ、これに目がくらんだ景信は落馬、お祖師様は九死に一生を得たのです。
(↑画像は小松原・鏡忍寺の「降神槇」)


こうした背景もあり、宗門では古くから鬼子母神信仰がありました。

医療が未熟だった時代、出産はまさに命懸け、想像を絶するほど過酷なものだったと聞いたことがあります。
また生まれたとしても、育たないことも多かったようです。

ちなみに僕の父親は9人兄弟でしたが、うち3人は幼くして亡くなっていますし、母も6人姉妹のうち2人が、成長できませんでした。
昭和初期でも、そうだったのです。



雑司ヶ谷の女性達が必死に鬼子母神像に祈りを捧げ、安産と子の成長を願う姿が目に浮かぶようです。


天正6(1578)年、村人達は稲荷の森を切り開いてお堂を建て、東陽坊にあった鬼子母神像を遷しました。
これが雑司ヶ谷鬼子母神堂のルーツです。

東陽坊はのちに法明寺と合併することから、鬼子母神堂は法明寺の管理となり、お像も法華勧請されているのだと推測されます。



鬼子母神堂境内の一画に「武芳稲荷」というお社があります。
倉稲魂命(ウケミタマノミコト)という女神様をお祀りしています。
ずうっと昔から、農耕地帯であったこの界隈を護ってきた穀物神です。



武芳稲荷の縁起から、お像が祀られた「稲荷の森」は、この武芳稲荷の森であったことがわかります。
地元に突如「出現」した救世主のような鬼子母神様を、界隈で最も清浄な女神の森に安置したわけですね。


江戸法華の流行とともに、鬼子母神像がもたらしてくれる霊験の噂は急激に広まり、一大信仰拠点となってゆきます。

本殿の建物は寛文4(1664)年、自昌院殿の寄進で建立されたといいますから、信仰が庶民だけにとどまらず、大名家にまで浸透していたことがわかります。


自昌院殿は加賀藩主・前田利常公の娘(満姫)で、安芸藩主・浅野光晟公に嫁した方です。

広島県にある本山・自昌山國前寺↑は、自昌院殿の帰依により当時の伽藍が整備され、安芸宗門の拠点として発展したと云われています。



また前田利常公の母親、つまり自昌院殿の祖母にあたる寿福院殿は法華経の篤信者として有名な方で、石川県の本山・妙成寺↑へ多大な寄進をしています。

雑司ヶ谷の鬼子母神堂も、加賀藩から続く法華の血脈に支えられたんですね。
宗門の女性強し!!


脱線しちゃいましたね。境内の散策に戻りましょう。

鬼子母神堂の脇に、お像を模した石像があります。
無事、青年になった篤信者が、報恩のために奉納したようです。



雑司ヶ谷の鬼子母神様は、角のない、穏やかなお顔だといいます。



なので、角の付かない田九の字で尊称しています!



鬼子母神堂の裏手には、これまた立派なお堂が!
ちょうど鬼子母神堂と背合わせになっています。


妙見堂ですね。
縁起によると天明8(1788)年、徳川11代将軍・家斉の時代に建立されたお堂ということです。



このお堂にお祀りされている妙見様は、亀に乗った天女像、と縁起に刻まれていました。竜宮城を連想しちゃいますね!


いや~、いろいろ学んでお腹いっぱい!
そろそろ帰ろうかな。

お!何とも懐かしい感じの駄菓子屋さん!
なんと創業が1781年だって!!
笑顔の素敵なおばちゃんが、元気に店番していました。


それにしても鬼子母神様、武芳稲荷様、妙見様・・・ぜ~んぶ女性の神様です。
この女神様の聖地を先人達が法華経でお祀りし、清めてきたことに深い意味を感じながら、雑司ヶ谷鬼子母神堂をあとにしました。


日蓮聖人が四條金吾公の妻である日眼女に宛てて書かれた「日眼女造立釈迦仏供養事」には以下のような記述があり、初めて読んだ時、目からウロコが落ちた記憶があります。


「日本國と申すは女人の國と申す國也 天照太神と申せし女神のつきいだし給へる島なり」 

力が物をいう武家政権の時代に、お祖師様は既に、こういう観点で日本国を捉えていたわけです。
雑司ヶ谷の法華信徒達が鬼子母神様を篤くお祀りした原点が、ここにあるのだと思います。