文永元(1264)年11月11日の夕方、日蓮聖人が安房・東条の郷を通りかかったところ、待ち伏せしていた地頭の東条景信率いる多数の武装兵に襲われてしまいました。
この小松原法難で、お弟子さんの鏡忍坊と壇越の工藤吉隆公が殉死、他にも同行していた複数のお弟子さんが重傷を負ってしまいました。
日蓮聖人は左腕を折られた上、景信の太刀により眉間に三寸もの傷を負ったといいます。
一寸が3センチ余ですから、三寸っていったら10センチ近く・・・今で言えば何十針も縫うほどの重傷だったはずです。
辺りが真っ暗になる中、日蓮聖人は近くの井戸で、吹き出してくる血を洗いました。
この井戸は「日蓮聖人御疵洗之井戸」として花房蓮華寺(宗門史跡)の目の前に遺されています。
このあと日蓮聖人は暗闇の中を、生まれ故郷である小湊方面へ急ぎました。
東条景信一団の残党も潜んでいるかもしれない夜道、重傷の日蓮聖人を護衛・先導してくれたのは、殉死した工藤吉隆公の家臣・北浦忠吾公と忠内公の兄弟だったといいます。
目の前で工藤吉隆公を亡くし悲しみの極みだったろうに、それでも日蓮聖人を安全な場所に避難させることを最優先させたのは、日頃から主君の信仰する姿を見てきたからだったのでしょう。
日蓮聖人が辿り着いたのは、小湊の海岸から少し山奥に入った岩窟でした。
11月11日の晩を過ごし、重い傷を癒やしたご霊跡が、日蓮寺です。
山号は「岩高山」です。
山中の谷あいにある境内は傾斜がきつく、本堂まではひたすら階段を上ります。
階段の途中に井戸があります。
バリバリ現役の井戸です。キレイな湧水をたたえています。
日蓮聖人がここに到着した時には、まだまだ出血が治まっていなかったのでしょう。
改めてこの水で血を洗い流したといわれます。
傍らの石には「御霊泉」と刻まれていました。
本堂です。
素朴な方形屋根のお堂です。山中のご霊跡なだけに、周囲の雰囲気にしっくり溶け込んでいます。
本堂に至る階段の途中には、小さなお堂があります。
日蓮聖人が一夜をお過ごしになったという「養疵窟(ようひくつ)」です。地元の方は「おいわや」と呼んでいるようです。
岩窟の入口にお堂を設けた構造になっています。
日蓮聖人はまだ出血の止まない額の傷に、この岩窟の壁面の砂を塗り込んだといいます。
すると不思議なことに、出血はみるみる治まっていったそうです!
本堂をお参りした際、「御血どめの霊砂」を買い求めました。
不思議なことに岩窟の砂には大量のヨードが含まれているそうです。いうなればイソジンで消毒するようなものですから、傷の治療としては医学的にも理に叶っていたのでしょうね。
翌朝、この地に住む「お市」というお婆さんが、岩窟に身を寄せる傷ついたお坊さんを見つけ、持っていた真綿を額の傷に載せたといます。
寒さが本格化し始める11月中旬の早朝、お市婆さんが供養した真綿はどれほど温かかったことでしょう。
これも本堂で買い求めた綿帽子です。
冬期、各地のお寺に安置される日蓮聖人の御像に綿帽子をかぶせますが、この養疵窟にルーツがあったんですね。
綿帽子はお市婆さんの優しさそのものです。
北浦兄弟の先導、傷洗いに適した清浄な水、衰弱した身体を休める岩窟、治療に有効な岩砂、そしてお市婆さんの綿帽子・・・
いくつもの助けにより、日蓮聖人は窮地を脱することができました。
日蓮聖人が身延山ご入山後の建治3(1277)年、日蓮聖人のお弟子さんの日家(にけ)上人が、この岩窟にお寺を建立したのが日蓮寺のルーツです。
このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも日家上人の姿が描かれています。
日家上人は日蓮聖人の壇越・佐久間氏の家系の方で、小松原法難の直前、日蓮聖人が小湊のお母様を見舞われた際に帰依したといわれています。
横須賀米ケ浜、名越、松葉ケ谷、伊東川奈、佐渡真浦など、日蓮聖人のピンチを救ってきた各地の岩窟が、令和のこの時代にもきちんと遺され、清められているのは本当に素晴らしいこと、お金では決して買うことのできない大切な宝です。
信仰ある方が、一人でも多く訪れ、現地の空気を感じとってくれたら嬉しいです。