僕は最近まで「奇瑞(きずい)」という言葉を知りませんでした。
辞書で調べると「めでたいことの前兆として現れる不思議な現象」のことだそうです。
日蓮聖人のご霊跡を巡り始めてから、この「奇瑞」という言葉をよく目にするようになりました。
依知の星下りも「奇瑞」ですし、各地で日蓮聖人が杖を差したところから水が出たり、杖自体が根付いてご霊木になったりしたのも「奇瑞」ではないでしょうか。(↑画像は依知・妙純寺)
しかし奇瑞中の奇瑞は、何といっても龍ノ口の法難の「奇瑞」でしょう。
今、まさに日蓮聖人の首に太刀が振り下ろされようとしたとき、江ノ島の方から月のような光り物が現れ、太刀が砕け散ったといいます。処刑しようとしていた役人達は恐れおののき、処刑は中止になりました。
(↑画像は片瀬・龍口寺)
このとき砕け散った太刀を鍛造した刀工の邸が座間にあり、ご霊跡になっています。
米軍座間基地の近くにある円教寺です。
お寺の境内から日の丸と星条旗が見えます。
お寺の周辺には寺社が多く、町並みも歴史の香りがします。
山門です。左右に大きな石灯籠を配しています。
山号は「休息山」です。お祖師様が休息されたのでしょうか?
この法塔には、日蓮聖人が龍ノ口から依知に移動する途中にお休みになった場所、と刻んであるような気がします。(たぶん・・・笑)
本堂です。
もともとこの場所は、刀工の鈴木弥太郎さんの邸でした。
龍ノ口の法難の際、刑吏の武士が太刀を振り下ろそうとしたその時に、光り物が現れ、太刀を打ち砕いたといいます。
この太刀は鈴木弥太郎さんが鍛造した「蛇胴丸」という刀でした。
その翌日、幕府の命令で依知の本間重連公の邸に赴く途中、日蓮聖人は座間を通りました。
座間から相模川を渡ったらすぐ依知ですからね。
この画像は依知の蓮生寺から相模川方面を写したものなんですが、すぐそこが座間なんですよ~!
鈴木弥太郎さんの耳には、夕べの龍ノ口の奇瑞の話が入っていたのかもしれません。
日蓮聖人を自邸に招いて休息してもらい、教えを請いました。
鈴木弥太郎さんは日蓮聖人に帰依を誓い、「円教坊」の名を授かりました。
円教坊上人は日蓮聖人が身延に入山された翌年(1275年)に身延を訪問し、自邸をお寺にするよう発願しました。
日蓮聖人はお弟子さんの日範上人を座間に遣わせてこのお寺を開山したようです。
円教寺の歴代お上人が刻まれている石板がありました。
確かに開基は円教坊で、開山は日範上人です。
高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図(大坊・本行寺で購入)にも「鈴木入道圓教」として描かれています。
日蓮聖人が1282年、池上へ向かう途中にもこの円教寺に立ち寄ったようですし、日蓮聖人とはとてもご縁が深かったことが窺えます。
お寺の外に案内・・・法華塚?300mだって。
法華塚までの小径には庚申塔や
馬頭観音などがあり、昔から人の往来があった道筋だと連想できます。
わ~、お祖師様!
実はここはもともとの法華塚の場所ではありません。
旧日本軍の陸軍士官学校が座間に移転されることになり、法華塚も移転を余儀なくされ、現在はここにその名残りがあります。
↑これら石塔が結構古そうでした。旧地に立っていたものと推測します。
円教寺の開山・日範上人と開基・円教房上人は、報恩のために法華経の69384文字(!)を、一つの石に一字ずつ書き、法華塚ができたそうです。
「写経塚」っていうそうです。
写経塚はなくなってしまいましたが、750遠忌に日蓮聖人のご尊像を建立、同時にご住職や壇信徒が自我偈を写経し台座に納めたそうです。
円教寺開創の時の精神が現代まで引き継がれています。
円教寺の付近にはとてもきれいな水が流れる水路があります。
この水は、もともと日蓮聖人が掘り当てたもので「番神水」というそうです。
湧水地の脇に、法華堂が建っています。
由緒がありました。
円教房上人は日蓮聖人に「この地の水は刀を鍛えるのに適しません。聖人のお力でよき水を授かりますなら」と話したそうです。
刀を鍛えるのに適した水ってあるんですね!初めて知りました。
これを聞いた日蓮聖人はお題目を唱えながら地面を掘りました。
すると刀を鍛えるのに適した清水が湧き出したそうです。(画像は湧水地です)
番神水は、現在は刀を鍛えることもなくなり、美しい紫陽花の根を潤しています。
何の因果か、龍ノ口の刑場が結んだご縁が、結果、こ~んな平和な湧き水を生んだのですね。
本当に、龍ノ口の出来事は「奇瑞」なんだと実感しました!
そうそう、本堂入り口に自我偈の一節が刻まれていました。
ちょうどお釈迦様がいらっしゃる霊鷲山の心地よさを表現した部分ですが、このお寺の安らかな雰囲気と通じます。
「休息山」という山号がピッタリのお寺でした。
・・・ちょっと気になったんですが、↑の扉に三つ葉葵、付いてません?