日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

小立法華堂(富士河口湖町小立)

2017-06-25 10:17:33 | 旅行
先日紹介させて頂いた霊岩・鼻まがり石
国家安泰を祈念して富士山で法華経を読誦・埋経した日蓮聖人。
下山したその足で、河口湖畔の小立村を訪れ、村人にお説法したそうです。
既に教化を受けていた28人の村人のためにお曼荼羅を書いたのが、この鼻曲がり石の上だったといわれています。


その晩、泊まる場所がなく難儀していた日蓮聖人を、村人がお連れしたのが
小立法華堂です。


鼻曲がり石からはとても近く、ひときわ高い木が茂っている一角に法華堂はあります。


題目法塔があります。
「元祖大菩薩 弘安年中 最初説法霊場也」と刻まれています。
お堂の中に、お説法時に乗っていた石があるそうです。


巨木の中に、ホントにひっそりと建っています。
建物の大小はあっても、日蓮聖人がご一泊された場所は、我々信徒にとっては大切なパワースポットです。
ゆっくりと、お経を唱え、お祖師様の往時の姿を思い浮かべました。


このお堂が、現在の妙法寺(もっと湖畔寄りにある)の基礎になったようです。
妙法寺は法華宗のお寺で、以前はこちらに、鼻曲がり石で書かれたお曼荼羅が保管されていたそうです。


河口湖周辺はお祖師様の逸話がたくさんありますね~!そういえば、↑の湖上のお堂も、何やら関係のある建物だそうで・・・!

蓮昌山妙光寺(横浜市瀬谷区上瀬谷町)

2017-06-22 08:53:47 | 旅行
日蓮聖人のご霊跡を本格的に巡り始めたのが昨年秋、このブログに2番目にアップさせてもらったのが、平塚の松雲山要法寺でした。
日蓮聖人が身延山を下り、結果的に最後の旅になってしまった途上の弘安5(1282)年9月16日、宿泊されたご霊跡です。


このあと日蓮聖人ご一行は寒川を経由して・・・
座間の円教寺で休息し、その後、瀬谷に向かいました。


片側1車線の普通の道ですが、道路標示には「鎌倉みち」と出ていました。古くから往来があった道なのでしょう。


目指している妙光寺がありました。


かなり古そうな法塔と


新しい法塔があります。
側面には「弘安五年九月十七日 高祖日蓮大聖人 御一宿之霊場」と刻まれています。
平塚の翌日に宿泊されたのがここ瀬谷だったのですね!


山門です。
両側面に塀があります。昔は塀がずっと続いていたのでしょうか。
何となく往時の雰囲気がわかります。


山号は「蓮昌山」です。


本堂です。
このお寺のルーツはとても古く、7世紀中頃、ってことは飛鳥時代?に建てられた庵が起源のようです。
平安初期に天台宗のお寺になったそうです。


日蓮聖人がこの場所にご一泊された際に、お寺の住職・文教上人は教化され、改宗しました。
お寺は日蓮聖人を開山と仰ぎ、文教上人を二世として「蓮昌山妙光寺」となりました。


歴代お上人の御廟を参拝させて頂きました。
文教上人は「文教院日成上人」の法名を頂いたのですね!



日蓮聖人像がありました。
お若い頃のご尊像でしょうね!


今にも動き出しそうな雰囲気があります。
どのお寺のご尊像も、確かに魂が入っていることを実感します。


この梵鐘は歴史的価値が高いものらしく、県の重要文化財になっています。


寄贈した方は「山田伊賀入道経光」と刻まれています。


作ったのは「大工 物部守光」と刻まれています。


9月18日にこのお寺を後にした日蓮聖人は、千束池でご休息されたあと、ご入滅の地・池上宗仲邸に到着されたのです。


本当に、ご入滅ぎりぎりまで布教を続けたのですね。
感慨深い訪問になりました。


今週の講中~!
惣檀方中~!

ん?方中?

今島山唱行寺(市川市柏井町)

2017-06-21 10:21:18 | 旅行
お題目を唱える時、太鼓を使う事が多いですよね!
生まれも育ちも日蓮宗の僕の経験上、お寺のお勤めであげるお経のほとんどは木匠を使うけど、お題目の部分だけは敢えて太鼓ってパターンが多かったような・・・

この太鼓のルーツを求めて、
初の千葉!!船橋法典!!!
「船橋法典」ってお堅い地名・・・調べてみると、その昔、法典村があったのがその地名のルーツみたいですが、なぜ「法典」なのかは不明のようです。


有馬記念で有名な中山競馬場が至近のようです!


ちょっと歩くと・・・
おお~!巨大なスタンド!
僕、競馬はやりませんが、素直に感動~!!


駅から競馬場の反対側を15分くらい歩きます。


結構古い道らしく、沿道にはところどころに
庚申塚などがあります。


小高い杜にひっそりと唱行寺はありました。


市川市が作った由緒がありました。
この界隈は古くは「今島田」と呼ばれていたそうです。


この今島田で鉦鼓を打って活動していた念仏僧が、建長6(1254)年に日蓮聖人に教化を受け、改宗しました。
日蓮聖人から「首題坊日唱」の法名を頂いたそうです。


立教開宗や鎌倉入りが建長5(1253)年、岩本実相寺にお籠りになったのが正嘉2(1258)年ですから、そのはざま、日蓮聖人はまだ30代、体力バリバリで各地を布教に廻っていた頃だったのでしょうね!


境内の杜は深く、娑婆とは隔絶されています。


ピンボケ勘弁!!「宗門最初 太鼓の霊場」の石碑がありました。
日唱上人は以前、念仏を唱える際に打っていた鉦鼓がよほど体に染みついていたのでしょう、日蓮聖人に唱題修行の時に鉦鼓を打つことの許しを請いました。


日蓮聖人は「法華経に ”鼓を打って四方に宣令し法を求めき” ”諸天天鼓常に衆の伎楽を作す” とあらば、太鼓を打ちて唱題行の伴侶とすべし」と言われ、鉦鼓に変えて太鼓を打つことをアドバイスされたそうです。

それ以来、日蓮宗では唱題の時に太鼓を打つ習慣になったそうですよ!
ルーツを知ることができて感動~!


境内の一角にひっそりと、「鉦鼓塚」があります。
日唱上人がそれまで使っていた鉦鼓を埋めた塚のようです。
長い間、使い慣れた鉦鼓。自らの体の一部のようだったのかもしれません。
感謝を込めて、丁重に、塚を築いたのでしょう。


本堂です。


山号はこの地名の「今島山」です。


この界隈は太平洋戦争当時、旧日本軍の砲兵連隊や高射砲連隊の拠点があったようで、戦没者の慰霊碑がたくさん並んでいました。


畜霊塚がありました。生き物の霊を篤く弔っています。
気になったのは「~厩舎」というお塔婆があったことです。


境内に立派な馬頭観音も!
至近に中山競馬場があるがゆえ、お馬さんへの感謝の気持ちがことさら強い土地なんでしょうね!

持名山蓮華寺(富士河口湖町大嵐)

2017-06-18 15:42:18 | 旅行
弘安5(1282)年の初秋、日蓮聖人は住み慣れた身延山を下り、病んだ身を癒すために常陸に向かいました。

身延を発って5日目に河口湖の御師の宿・本庄家(屋号は梅谷)に宿泊しました。本庄家(富士河口湖町河口) - 日蓮聖人のご霊跡めぐり
当時の梅谷の主人・采女さんは教化を受けていましたが、この機会にと、弟を日蓮聖人に会わせました。
采女さんの弟は、梅谷から見て河口湖の対岸・大嵐にある真言宗寺院の住職をしていた方です。


日蓮聖人と采女さんの弟は法論をし、結果、法華経に帰依をしました。


日蓮聖人から「日領」の名を授かり、大嵐のお寺も日蓮宗寺院になりました。
「蓮華寺」です。
身延山直末って刻まれてますね。


河口湖とはいえ、観光地の賑わいは一切なく、結構な山林の中にあるお寺です。
もともとこのあたりには道者道という、修験者の歩く道があったそうですよ。


水が豊富なようで、手水舎の水はかけ流し!!
ホント、じゃぶじゃぶ出ています。


山門です。
蓮華寺は天保の大火でほとんどの建物が焼失してしまい、この山門は宗祖700遠忌に再建されたそうです。


山号は「持名山」です。


この庫裏は梅谷の建物を移築したもののようですよ!


三猿の彫刻!!
日蓮宗のお寺には時々見られます。
「人の欠点は見ない、言わない、聞かないのが良い」的な故事を、お猿をモチーフにして表現したものだと思います。
日蓮聖人がピンチの時に何度も、お猿が助けてくれたという事も関係あるのかな?


そうそう、御師の梅谷の宿で、こんな護符を頂きました。
富士講の行者の護符として、また行衣のバックプリントとして馴染みのある絵柄のようです。
二匹のお猿が描かれていますが、お猿は古来から「山の神」「神の化身」として礼拝されていたそうですよ。
逗子のお猿畠・法性寺の権現様の話にも通じますね!


おそらくこの蔵は、大火にも耐えた「宝蔵」だと思います。


扉に井桁に橘の宗紋が刻まれています。


本堂です。
江戸時代の再建らしいのですが、渋みのある、とてもいい建築です。
腕の良い大工さんが建てたのでしょう。


木の風合いがいい具合に出ています。


こんな山奥に・・・と思うほど美しい本堂です。
しばらく魅入っちゃいました。


寺紋は丸に梅鉢の紋です。
本庄家の屋号・梅谷と関係ありそうです。


日朝堂です。
現在の身延山を整備した日朝上人をお祀りしていると思われます。
身延山の直末だからかな?


第六天魔王の法塔がありました。
第六天魔王は行者を仏教から遠ざける魔王なんだけど、日蓮宗では、強い信仰を持つ行者については、逆に守ってくれる存在とされているみたいです。


日蓮聖人に教化を受け、法華経に帰依した日領上人。
このお寺を他宗から改宗するのは大変な事だったと思います。
それを成し得たのは、納得できる強い信仰があったからでしょう。

古くは修験者の道があった場所でもあり、第六天魔王のご加護もあるのでしょうね!


土石流危険の看板も驚きましたが、ここが相模川の上流っていうのにもビックリ!
僕の住む西湘と、川を通じてつながっているんですね!

また訪れたいお寺が、ひとつ増えました。

休息山円教寺(座間市入谷)

2017-06-17 22:10:51 | 旅行
僕は最近まで「奇瑞(きずい)」という言葉を知りませんでした。
辞書で調べると「めでたいことの前兆として現れる不思議な現象」のことだそうです。

日蓮聖人のご霊跡を巡り始めてから、この「奇瑞」という言葉をよく目にするようになりました。

依知の星下りも「奇瑞」ですし、各地で日蓮聖人が杖を差したところから水が出たり、杖自体が根付いてご霊木になったりしたのも「奇瑞」ではないでしょうか。(↑画像は依知・妙純寺)


しかし奇瑞中の奇瑞は、何といっても龍ノ口の法難の「奇瑞」でしょう。
今、まさに日蓮聖人の首に太刀が振り下ろされようとしたとき、江ノ島の方から月のような光り物が現れ、太刀が砕け散ったといいます。処刑しようとしていた役人達は恐れおののき、処刑は中止になりました。
(↑画像は片瀬・龍口寺)


このとき砕け散った太刀を鍛造した刀工の邸が座間にあり、ご霊跡になっています。
米軍座間基地の近くにある円教寺です。


お寺の境内から日の丸と星条旗が見えます。


お寺の周辺には寺社が多く、町並みも歴史の香りがします。


山門です。左右に大きな石灯籠を配しています。


山号は「休息山」です。お祖師様が休息されたのでしょうか?


この法塔には、日蓮聖人が龍ノ口から依知に移動する途中にお休みになった場所、と刻んであるような気がします。(たぶん・・・笑)


本堂です。
もともとこの場所は、刀工の鈴木弥太郎さんの邸でした。


龍ノ口の法難の際、刑吏の武士が太刀を振り下ろそうとしたその時に、光り物が現れ、太刀を打ち砕いたといいます。
この太刀は鈴木弥太郎さんが鍛造した「蛇胴丸」という刀でした。


その翌日、幕府の命令で依知の本間重連公の邸に赴く途中、日蓮聖人は座間を通りました。
座間から相模川を渡ったらすぐ依知ですからね。
この画像は依知の蓮生寺から相模川方面を写したものなんですが、すぐそこが座間なんですよ~!


鈴木弥太郎さんの耳には、夕べの龍ノ口の奇瑞の話が入っていたのかもしれません。
日蓮聖人を自邸に招いて休息してもらい、教えを請いました。
鈴木弥太郎さんは日蓮聖人に帰依を誓い、「円教坊」の名を授かりました。
円教坊上人は日蓮聖人が身延に入山された翌年(1275年)に身延を訪問し、自邸をお寺にするよう発願しました。
日蓮聖人はお弟子さんの日範上人を座間に遣わせてこのお寺を開山したようです。


円教寺の歴代お上人が刻まれている石板がありました。
確かに開基は円教坊で、開山は日範上人です。


高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図(大坊・本行寺で購入)にも「鈴木入道圓教」として描かれています。
日蓮聖人が1282年、池上へ向かう途中にもこの円教寺に立ち寄ったようですし、日蓮聖人とはとてもご縁が深かったことが窺えます。


お寺の外に案内・・・法華塚?300mだって。


法華塚までの小径には庚申塔や


馬頭観音などがあり、昔から人の往来があった道筋だと連想できます。


わ~、お祖師様!


実はここはもともとの法華塚の場所ではありません。
旧日本軍の陸軍士官学校が座間に移転されることになり、法華塚も移転を余儀なくされ、現在はここにその名残りがあります。



↑これら石塔が結構古そうでした。旧地に立っていたものと推測します。
円教寺の開山・日範上人と開基・円教房上人は、報恩のために法華経の69384文字(!)を、一つの石に一字ずつ書き、法華塚ができたそうです。
「写経塚」っていうそうです。


写経塚はなくなってしまいましたが、750遠忌に日蓮聖人のご尊像を建立、同時にご住職や壇信徒が自我偈を写経し台座に納めたそうです。

円教寺開創の時の精神が現代まで引き継がれています。


円教寺の付近にはとてもきれいな水が流れる水路があります。


この水は、もともと日蓮聖人が掘り当てたもので「番神水」というそうです。


湧水地の脇に、法華堂が建っています。


由緒がありました。
円教房上人は日蓮聖人に「この地の水は刀を鍛えるのに適しません。聖人のお力でよき水を授かりますなら」と話したそうです。
刀を鍛えるのに適した水ってあるんですね!初めて知りました。


これを聞いた日蓮聖人はお題目を唱えながら地面を掘りました。
すると刀を鍛えるのに適した清水が湧き出したそうです。(画像は湧水地です)


番神水は、現在は刀を鍛えることもなくなり、美しい紫陽花の根を潤しています。
何の因果か、龍ノ口の刑場が結んだご縁が、結果、こ~んな平和な湧き水を生んだのですね。


本当に、龍ノ口の出来事は「奇瑞」なんだと実感しました!


そうそう、本堂入り口に自我偈の一節が刻まれていました。
ちょうどお釈迦様がいらっしゃる霊鷲山の心地よさを表現した部分ですが、このお寺の安らかな雰囲気と通じます。
「休息山」という山号がピッタリのお寺でした。


・・・ちょっと気になったんですが、↑の扉に三つ葉葵、付いてません?

鼻まがり石(富士河口湖町小立)

2017-06-08 17:58:01 | 旅行
富士山の麓に、日蓮聖人ゆかりの奇岩があるというので訪問しました!

当日は梅雨入り直前、雨雲が低く垂れこめ、もちろん富士山は見えません・・・


文永6(1269)年、小松原法難と龍ノ口法難の間の年に、日蓮聖人は富士登山をし、5合目付近で法華経を読誦、書経した法華経を土に埋めたということです。

その前年に蒙古から使節が来て、「属国になるよね~?え?」という書状を置いて行ったこともあり、幕府も混乱していたさなか、日蓮聖人は日本最高峰のお山で国家安泰を祈願したようです。
その場所には現在、八角堂という建物が建っているそうです。
富士山が山開きしたら、是が非でも訪問したいですね~!


富士山から下山した日蓮聖人は、麓の小立村で説法をされたそうです。
その際、既に教化を受けていた28人の村人が、日蓮聖人にお曼荼羅を書いて頂いた場所にある奇岩が「鼻まがり石」です。


なかなか場所がわからず迷ってしまいましたが、この歯医者さんが目印です。
歯医者さんの横の路地を入ってゆきます。
いい名前付けましたね!
耳鼻科だったらマズいですけどね!


おお~!あれが鼻まがり石!!
神様が降りてくる目印になるように注連縄が掛けられています。


28人の村人のために28枚の紙を貼り合わせて、巨大なお曼荼羅をこの岩の上で書かれたそうです。
もともとは普通に切り立って突き出していた岩だったそうですが・・・
書いているうちに、ご本尊の重みで象の鼻のように下に曲がっていってしまったそうです。


日蓮聖人にまつわる逸話の中には、さすがにそれは科学的ではないよな~、と思うものもあります。
ただ、何でも科学的に解決や証明ができなかった時代・・・例えば龍ノ口の奇瑞など、当時の方がどういう思いで伝承してきたかを考えると、まんざら笑うことはできません。
全てを解明することが、人間の心を豊かにするとは決して思えないのです。


鼻まがり石をあとにして歩いていた時に、腰の曲がったおばあちゃんが道ばたの馬頭観音に何かを置いて手を合わせる場面に遭遇しました。
何を置いたかというと・・・
人参でした。
それもヘタの部分がきちんと切られていました。

昔、馬は移動や農耕などを担う家族同然の存在でした。
馬頭観音は、生きている馬の健康祈念と亡くなった馬の供養のために建てられていることが多いそうです。

馬の好物の人参、それも美味しい部分が食べられるようにヘタを切って供養するおばあちゃんの心。
いい場面を見ることができました。

鼻まがり石の功徳ですね!!

本庄家(富士河口湖町河口)

2017-06-07 17:46:07 | 旅行
弘安5(1282)年5月、身延での8年間の生活を経て、身延山を下り、病気療養のため常陸へ向かいました。
結果的にこれが日蓮聖人最後の旅になってしまいましたが、それでもその行程の各地で逸話を残され、法華経に帰依する者を増やし続けました。


身延山を下りてから5日目、日蓮聖人は御坂峠を越えて河口湖に到着しました。



その晩、湖畔にある「梅谷」という御師(おし)坊に泊まられたようです。
代々当主は本庄家で、御師坊としての屋号が梅谷なんだそうです。
現在も梅谷の建物があります。現在の建物は240年以上前のものだそうですよ。


この提灯に書いてあるように、梅谷は富士山の「御師」の家でした。

御師ってなに・・・?
特定の社寺に所属して、その社寺に参詣者を案内し、参拝や宿泊などの世話をする者(梅谷御師の家の掲示物より)だそうです。


富士山周辺の御師は特殊です。
何しろ富士山自体が信仰の対象なので、参拝登山の世話をする大役です。


更に御師は祈祷も行う神職としての役割もあったそうです。
当時から伝わる祓詞(はらえことば)が掲示されていました。
神事の前に唱えるそうですよ。

確か、富士山が世界遺産に登録されたのは、信仰の対象としての文化遺産だったと思います。
梅谷が所属した河口浅間大社や富士吉田に現存する御師の家は、世界遺産の構成資産だそうです。


河口浅間神社を中心として、最盛期には通り沿いに140もの御師の家があったそうです。


日蓮聖人が宿泊された当時の主人は本庄采女(うねめ)という方でした。
采女さんは神職でしたが日蓮聖人の教えを受け、教化されました。
采女さんの弟が河口湖西岸で真言宗寺院の住職をしていましたが、采女さんは弟を日蓮聖人に会わせ、問答の末、法華経に帰伏、つまり日蓮宗に改宗させたのです。

ご入滅するほんの1ヶ月前、常識的にはもう余命幾ばくもない頃ですよね。すげえ!


そのお寺は、現在も富士河口湖町大嵐にある持名山蓮華寺です。
蓮華寺については後日レポします!


今回、本庄家住宅を訪問して富士山信仰(富士講)の一端に触れることができました。
勉強になったな~!

日蓮聖人自身も富士登山されたことがあるそうで、富士吉田や河口湖界隈にはご霊跡が結構あるという噂です。少しずつ巡ってゆきましょう!

海光山佛現寺(伊東市物見が丘)

2017-06-01 20:00:35 | 旅行
原因不明の熱病に苦しんでいた伊東の地頭・八郎左衛門尉祐光(伊東朝高)公を何とか回復させたいと、一族に日蓮聖人は懇願され、祈祷したところ、病気は回復しました。

祈祷自体はそれほど長時間ではなく、その日のうちに川奈のお岩屋にお戻りになったようです。


八郎左衛門尉祐光(伊東朝高)公は悩んだと思います。
川奈の岩屋に身を隠している日蓮聖人は命の恩人。
同時に幕府からは大罪人として扱え、との指示がある。
自分はこの伊東の地の地頭・・・。


本来なら自分の邸(今の佛光寺)に手篤く招くべきところですが、そうもゆかず・・・
伊東家の鬼門除けとして先祖が建てた毘沙門堂に、日蓮聖人を住まわせることにしました。


ひと月以上も暮らした岩窟から、やっと出られることになったのです。
献身的に給仕してくれた弥三郎夫婦に感謝しながら・・・


毘沙門堂があった場所に建てられた大きなお寺が佛現寺です。
朱色に塗られた仁王門は大迫力!


山号は「海光山」です。
伊東の海中から引き上げられた釈迦如来立像にちなみ、日蓮聖人ご自身が名付けられた山号のようです。


実は僕の亡き伯父がこのすぐ近くの日蓮宗寺院に眠っています。
目と鼻の先に、佛現寺に至る階段があります。


大きな題目法塔!
550遠忌ってことは、もう200年近く前の法塔ですね!


講中発見!
惣講中~!


これは珍しい!
鰻供養碑です。その手前は・・・鶉(うずら)供養碑かな?


鰻供養碑には蒲焼業界の方々が供養しています。
いつもながら、命を頂いて我々は生かされている、という日本人の精神性。
今でも脈々と引き継がれていることを気付かされます。


伊東は過去、津波の被害が大きい地域だったようで、津波犠牲者の供養塔がありました。
東日本大震災での津波の記憶があるだけに、とても生々しい供養塔でした。


ここが日蓮聖人が2年にわたってお住まいになった毘沙門堂跡です。
とても清浄な空気を感じました。
「四恩抄」や「教機時国抄」をここで著述されたそうですよ。


伊豆配流中、この謫居に幽閉されていたわけではないようで、調べると、少し離れた場所にも、請われて祈祷に行ったりされていたようです。
少しずつ、立場を回復していったわけですね。


そして弘長3(1263)年、幕府は伊豆流罪そのものが理不尽であったということを認め、日蓮聖人を赦免にしました。

現在、毘沙門天がお祀りされているのがこの「紫雲殿」です。

ただ、ここにお祀りされている毘沙門天は新しく、昔の毘沙門天像は
奥の法塔に奉安されているようですよ。


その左右に日昭上人、日朗上人の名が刻まれた石塔が建っています。

供養塔なのかな?


釈迦本仏殿です。
周囲にフェンスがあり、近づくことができませんでした。
森の中の朱色のお堂はエキゾチックです。


紫雲殿の相輪です。
2匹の龍が絡みついています。


本堂です。
でかい!圧倒的な存在感!!


これも圧倒的!多宝塔ですね!
何が納められているのでしょうか?


境内にちょっと興味深い歴代お上人の御廟を見つけました。
「妙昭寺歴代之墓」
・・・ん?妙昭寺?ここ佛現寺だよね???


妙昭寺の歴代お上人の名前が刻まれていました。
開山が日昭上人になっています。
ナゾは深まるばかり・・・


思い切ってご住職に聞いてみました。
とても物腰の柔らかいご住職が、佛現寺の成り立ちから丁寧に教えて下さいました。
元々、日蓮聖人がお住まいになった毘沙門堂跡には「惣堂」というお堂があって、周辺のお寺が輪番で維持していたそうです。
そのうち1ケ寺が妙昭寺という、日昭上人が開いたお寺でした。
今の佛現寺の仁王門の下あたりにあったそうです。
お檀家さんを持たない、輪番の中心的役割のお寺であったと思われます。


明治になり輪番制は廃止されたそうで、お檀家さんがいない妙昭寺はしばらく放置されてしまいました。
妙昭寺の建物は朽ち、これを見かねた佛現寺のご住職とお父様(先代のご住職)が、妙昭寺があった場所にお稲荷様(元々あったのでしょう)の建物を、また境内に歴代お上人の墓所を整備したそうですよ。
頭が下がります。


妙昭寺があったのはこの場所ですね!
輪番制が廃止された明治以降、惣堂を引き継ぐお寺として佛現寺ができたそうです。

長く惣堂を護持して下さったから、今でも我々は霊跡本山をお参りできるわけです。
妙昭寺をはじめ輪番を続けて下さった日蓮宗寺院に心から感謝します。


僕の伯父のお墓があるお寺も、この輪番に参加していました。
いい旅でした。伯父が導いてくれたように思います。


いや~、伊東、なかなかアツい場所でしたね!
気温も暑かったですが信仰も篤い!!

お寺に結構、檀家さんが出入りしていたのが印象的でした。
おばちゃんがご住職と井戸端会議してたり、おじいちゃんが箒で掃除してたり、団扇太鼓片手に読経してるおばちゃんグループにも会ったな~!!

お寺の敷居がめちゃくちゃ低く、お檀家さんの生活の一部になっているような印象を受けました。

また来年、伯父の命日に来ますね!