9月初め、京都に行ってきました。
今回も気になった宗門寺院を参拝してきましたので、少しずつ書いてゆきたいと思っています。
今回、初めて京都タワーに登りました。
地上100mの展望台からは、京都盆地全体を俯瞰で望むことができ、元来の地理好き、年甲斐もなく興奮してしまいました!
(東山方面を望む)
京都はお寺だらけ、と勝手に思っていましたが、上から見てみるとお寺の屋根、気のせいかな?多くないですよね。
文化庁の宗教年鑑(令和5年)によれば、京都の寺院数(教会、布教所含む)は3269ヶ寺で全国5位。意外ですよね!(ちなみに1位は愛知県の4926ヶ寺)
(嵯峨方面を望む)
一方、京都市内の寺院数を宗派別にみると(※)、浄土宗系が36%、浄土真宗が19%、そして日蓮系と臨済宗が15%ずつ、と続きます。
(※)1973年京都府宗教法人数調査:50年前のデータですが、大きくは変わっていないと思います
龍華樹院日像上人の上洛、布教に端を発する京都宗門は、立て続けに起こる戦乱のさなか、意欲に燃えたお坊さんが東国から次々に上洛、破竹の勢いで勢力を伸ばしたといいます。
(具足山妙顕寺)
天文法難(※)の直前には「京中大方題目の巷」とまでいわれるほど、お題目が京都町衆(商人や職人)の生活に浸透していたそうです。
(※)天文5(1537)年、洛中で折伏をもって急激に伸張する法華勢力を、比叡山はじめ諸宗連合軍が武力で洛外に追放した事件。洛中の宗門は壊滅した。
(具足山妙覚寺)
例えば、中世の「京都三長者」は後藤家(家業:彫金)、茶屋家(家業:呉服商)、角倉家(家業:金融)ですが、このうち後藤家は妙覚寺の檀家、茶屋家は東漸寺(日蓮宗→のちに廃寺)の檀家でした。
(小倉山常寂光寺:嵯峨小倉山一帯は角倉家の所有だった)
また角倉家は浄土宗ですが、江戸初期の当主・角倉了以は、不受不施義を貫いた本圀寺16世究竟院日禛上人に嵯峨の土地を寄進(常寂光寺:日蓮宗)したり、富士川開削で身延山参詣を便利にしたりと、非常に宗門にご縁が深い人です。
(鷹峯方面を望む)
その他にも有力町衆の菩提寺を調べてみると、妙顕寺、本法寺、立本寺…など、おおかた日蓮宗でした。
「京中大方題目の巷」という表現は、決して大袈裟ではなかったのです。
それではなぜ、法華経がこれほど京都町衆の心を掴んだのでしょうか。
(商家の賑わい:住吉具慶筆「都鄙図巻」より引用)
実は中世の頃、特に商人に対する為政者、そして世間の目は、厳しいものだったといいます。
「売り買いで金を稼ぐ商人は卑しい」
現在ではにわかに信じられませんが、江戸時代の身分を「士農工商」と順列したように、商人の位は低かったのです。
そんな中、法華経を根本経典とする日蓮宗は、一貫して現世利益を肯定する宗教。
商売繁盛、モノやお金を循環させる商人層を、決して卑しいとはしませんでした。
(商売繁盛の守り神、松ヶ崎大黒天の幟)
「現世安穏の証文 疑いあるべからざるものなり」(如説修行抄)
法華信仰を生活の中に浸透させれば、それは即ち修行であり、成仏へ至る道となる…そんな教義が、町衆の迷いを解決したのだと思います。
今回はそんな法華町衆、本阿弥一族のお寺・光悦寺を参拝してきました。
千本通りを北に向かいます。
五山送り火の一つ「左大文字」を左手に見た辺りから、住所表示が鷹峯(たかがみね)となります。
※「たかがみね」の漢字表記は「鷹峯」の他に「鷹峰」がありますが、このブログでは住所表示に倣って「鷹峯」とさせていただきます。
結構な上り坂が延々続きます。
電動アシスト自転車で良かった!
道沿いには、京料理との相性抜群といわれる醤油蔵とか、
材木屋さんなどがあって、いい雰囲気。
鷹峯の裏手には、北山杉の美林が広がっているんですよね!
鷹峯の交差点に突き当たります。
ここを右折すると、かつて鷹峯檀林を擁した常照寺がありますが、今回は左折して光悦寺に向かいます
光悦寺入口は周囲の風景に溶け込んでいて、注意してないと通り過ぎてしまいます。
参道はもみじのトンネルになっており、思わず「おぉ~!」と声が出てしまうほどです。
(この画像は参道の手前から撮影したものです。参道内での撮影は固く禁止されています)
受付で拝観料を支払い、境内を歩かせていただきました。
まずは本堂で参拝。
小ぶりで簡素、また全面障子戸で仕切られている辺り、数寄屋の雰囲気さえ感じます。
境内はそう広くはありませんが、広葉樹の森の中に小径が張り巡らされており、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなりそうな、そんな面白さがあります。
また、茶室がいくつも点在しています。
小径の最奥に、寺名のルーツである本阿弥光悦の墓所があります。
沢山のお塔婆が供養されています。
「了寂院光悦日豫居士」
法華の篤信者でもあった本阿弥光悦の戒名です。
(本阿弥光悦坐像:東京国立博物館特別展「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
本阿弥光悦は永禄元(1558)年、刀剣三事(※)の名門・本阿弥家の分家に生まれました。
(※)刀剣の目利き(鑑定)、研磨(磨砺 :まれい)、ぬぐい(浄拭)
僕は今まで、刀剣は鍛冶屋さんが作って売るもの、と安易に考えていましたが、調べてみると鞘師(さやし:木工)、柄巻師(つかまきし:繊維、皮)、塗師(漆、蒔絵)、金工師、鍔(つば)工師(金属加工)など、刀はあらゆる職人の技術の粋が集約されたもので、さらに販売流通、メンテナンスも、熟練した専門家の手に委ねられる、そんな業界みたいです。
(刻鞘変り塗忍ぶ草蒔絵合口腰刀:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
明治の廃刀令で仕事が激減した職人達が、日本のジュエリー職人の基礎を築いた、という話さえあります。
刀は武器であると同時に、芸術工芸品の側面も持つんですね!
光悦は幼い頃からそういった環境の中で、本物を見極める感性を磨き、また職人や芸術家とのネットワークを育んでゆきました。
本阿弥光悦という人物は、とにかく才能豊かな人だったようです。
(本阿弥光悦作・国宝 船橋蒔絵硯箱:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
家業の刀剣鑑定に長けているばかりでなく、書をやらせれば「寛永の三筆」に数えられるほど。
また制作した茶碗や蒔絵硯箱は現在、国宝指定(!)されています。
(俵屋宗達との合作・鶴下絵三十六歌仙和歌巻:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
特筆すべきは絵画。
光悦の大胆な作風は時代を越えて慕われ、継承されて、のちに「琳派」という師弟関係のない流派となってゆきます。
近年では日本画家・加山又造が「昭和の琳派」と称されました。
(加山又造筆 身延山久遠寺大本堂天井画「墨龍」:身延山久遠寺大観より引用)
身延山久遠寺大本堂の天井画は、加山又造の手によるものです。
これは日本画か⁉と思うほどの躍動感、3D感は、唯一無二ですね。
今年の1月~3月、東京国立博物館で催された「本阿弥光悦の大宇宙」展は、連日大盛況でした。
光悦のセンスは、400年経った今でも、全く色褪せてないのです!
また、僕が今まで参拝した複数の宗門寺院では、本阿弥光悦揮毫の扁額が掲げられていました。
(正中山法華経寺赤門の扁額)
(正東山日本寺山門の扁額)
特に、正中山(法華経寺)、正東山(日本寺)の「正」の字あたりに、彼の非凡さを垣間見ることができます。
そんな光悦は58才の時、運命的な出来事がありました。
元和元(1615)年、徳川家康から洛北鷹峯に東西二百間(約360m)、南北七町(約760m)の土地を拝領したのです。
(光悦寺境内から鷹ヶ峰を望む)
平安時代、この一帯は鷹狩りのフィールドだった、というのが地名の由来だそうで、実際に「鷹ヶ峰」という小山もあります。
(鷹峯に至る道。この辺りが光悦村の南端)
権現様直々に下賜、というのも驚きですが、光悦の父は家康が人質時代から親交があった(※)、そんなご縁で、家康は光悦の処遇を気にしてくれたのでしょう。
(※)父・本阿弥光二は、かつて刀剣目利き役として今川義元に仕えており、人質時代の徳川家康(当時は竹千代)と交流があったようです。
元和元(1615)年といえば、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した年、まだ政情が不安定で、鷹峯辺りは追い剥ぎなども出る、物騒な荒野だったそうです。
(史跡 御土居 鷹ヶ峯北)
そう、鷹峯に来る途中、道沿いに、豊臣秀吉が洛中を護るために築いた「御土居」跡がありました。
鷹峯は、つまり御土居の外側にあったわけで、治安が良くない半面、もしかしたら人の目、幕府の監視も緩い場所だったのかもしれません。
(光悦拝領略図地面写:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
光悦は拝領した土地を開墾し、本阿弥一族はじめ、知己の芸術仲間、工匠達とともに55軒の住居を構えました。
光悦を中心とする芸術聚楽、アートヴィレッジを営んだのです。
(常照寺に展示されていた光悦村古図:常照寺の奥様に撮影許可をいただきました)
これは光悦村の古図に、現代の活字を落とし込んだものです。
名前に「光」の字がつく本阿弥一族はじめ…
「おかた宗伯」(呉服商:尾形光琳の祖父)や「茶や四郎次郎」(御用商)など、有力町衆の名前も見られます。また「筆や妙喜」「(紙や)宗仁」のような書道具職人も軒を連ねてます。
彼らは作品を共同制作(あるいは販売流通)する芸術仲間であったのでしょう。
(常照寺展示の光悦村古図を拡大)
今回このブログでは、同時に彼らが共有していた法華信仰の側面から、光悦村のことを書きたいと思います。
彼ら町衆が生きた時代、政権は足利→織田→豊臣→徳川と、めまぐるしく変わりました。
(光悦寺庫裡)
公家社会から武家社会に転じ、また政治の中心も京都から江戸へと移ります。そうした上流階級に出入りし商売していた京都町衆は、盛衰も激しかったでしょう。
一方、日蓮宗門も激動でした。
天文法難から復興したのも束の間、大仏千僧供養をきっかけに、慶長宗論、身池対論などを経て、それまで不受不施、強義折伏が良しとされていたのが、受布施、摂受スタイルへと急激に変容していったのです。
本来、宗祖の精神を純粋に継承するならば、日本国は「釈尊の御領」、土地はおろか一滴の水、一本の草に至るまで、全てお釈迦様のものであり、国民は為政者含め「釈尊の所従」であるはずです。
しかし現実は戦に明け暮れ、より強い武将が権力を握る。
国土も民も全て、権力者のもの。思いのまま。
さらには信仰すら、権力によって歪められている。宗祖以来の不受不施スタイルが幕府によって禁教にされたのは、その象徴でしょう。
(光悦寺境内より船岡山方面を望む)
こうした理想と現実のギャップは、多くの法華町衆が感じていたと思います。
辺境の鷹峯を拝領することになった時、光悦は彼らとともに、ここに法華経が支配する理想郷のようなものを創ろうと決意したのかもしれません。
そもそも本阿弥家の法華信仰は、光悦の曽祖父・本阿弥本光に始まります。
本法寺HPには「光悦の曽祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走(※)が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に 獄中で日親上人に出会い、教化されて熱心な法華信者になりました」とあります。
(※)さやばしり:刀の鞘が緩く、刀身が勝手に鞘から抜け出ること
(叡昌山本法寺:本阿弥光二・光悦親子の丹精により現在地に移転)
「本光」という名前は、久遠成院日親上人が名付けたそうです。
法華経の教え「娑婆即寂光土」から「光」の一字を取ったといい、以来、本阿弥家の男子には「光」の字が付けられるようになりました。
(大覚大僧正に帰依した松田元喬が創建した岡山・仏住山蓮昌寺)
ちなみに本光は男子のなかった本阿弥家に、松田家から養子に入っています。
実はこの松田家、備前で大覚大僧正の布教を支え、備前法華の礎を作った備前松田氏の家系なのです。
もともと信仰の素地はあり、日親上人によって開花したのだと推測します。
ところで本阿弥家はじめ法華町衆の暮らしぶりって、どんな感じだったと思いますか?
(緑に包まれる光悦寺本堂)
なかには光悦のような有力町衆、あるいは長者といわれる裕福な人もいましたが、実は彼らも実生活は、驚くほど質素だったといわれています。
当時は菩提寺ごとに生活規律を定めた「信心法度」があって、これが各家の家訓に反映されてくるので、「金儲け」とか「贅沢」とは無縁だったのです。
例えば、帰依が深かったといわれる光悦の母・妙秀は、恵まれない人、社会からこぼれ落ちた人たちに施し尽くし、彼女が亡くなった時には最小限の衣類と、木綿のふとん、布の枕しか残さなかったといいます。
(簡素な光悦墓:竹筒の花立てがグッときます)
そんな母に育てられた光悦ですから、
「二十歳計りより八十歳にて相果候迄は小者一人、飯たき一人にてくらし申事なり」(80才で死ぬまで 自分一人と炊事係一人だけで暮らしていた:本阿弥行状記より)
というような、つましい暮らしだったそうですよ。
じゃあ貯まった財はどうしたのでしょう?
ご縁のあるお寺に施し続けたのです。
(光悦が作庭した本法寺「巴の庭」)
天文法難で壊滅した京都宗門が、驚くほどの速さで復興できたのも、法華町衆の私欲を捨てた、清貧な暮らしゆえだと思います。
それが、彼らの信仰的悦びであり、ある意味ステータスであったのでしょう。
また信仰が深く、純粋になるにつれ、法華経の受持読誦、書写はもちろん、宗義の理解も進み、やがて在家である町衆の中から、優れたお坊さんが多数輩出されるようになりました。
(光悦筆「立正安国論」:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
例えば光悦の孫の一人は、智見院日暹上人(のちの身延山26世)のもとで出家して本通院日允(いん)上人となり、本法寺18世、法華経寺35世、妙覚寺24世を歴任しました。
この日允上人は教育にも熱心で、そのお弟子さんである勝光院日耀(よう)上人、了義院日達上人を含めた三師「允・耀・達」は、学徳兼備の法脈として宗門でも憧れの的だったといいます。
(達師法縁の祖・日達上人御廟がある鷹峯瑞芳寺)
そんな傑僧たちを生み出す土壌があるわけですから、京都町衆の信仰、もうこれ以上ないというレベルにまで、至っていたのです。
かなり話が逸れてしまいましたね。
光悦村に戻しましょう。
さて、鷹峯に移住してきた光悦は、まず本法寺から興寿院日達上人を請じ、村の中心に本阿弥家先祖供養の「位はい所」を設けました。
しばらくはこの「位はい所」が、光悦村における信仰の拠点になっていたのでしょう。
(光悦寺本堂の扁額)
「位はい所」は光悦の没後、本法寺12世の正教院日慈上人を開山として寺となり、「光悦寺」と称するようになったといいます。
また光悦寺の山号は「大虚山(たいきょざん)」。
これは光悦の雅号「大虚庵」を由来としているそうです。
(京都市が設置の光悦寺説明板より)
「大虚」を辞書で調べると、古代中国での宇宙観で、宇宙の根源とか、万物の源みたいな意味、だといいます。
光悦がいかに己の内面、心の中の宇宙を大切にしていたか、なのでしょうが…僕のような凡人には到底、窺い知れません(笑)。
光悦寺のすぐ近くには、70才を過ぎた光悦が土地を寄進、息子の光瑳が発願して開創された鷹峯檀林の旧跡↓もあります。
(常照寺参道)
身延山21世の寂照院日乾上人を招いて開講したほどですから、当時の宗門最高レベルの講義、研究が、光悦村の中で行われていたわけです。
また、のちに鷹峯檀林の学僧達が、常唱題目行を始めました。
常唱題目行は文字通り、一日24時間(恐らく複数のお坊さんが交替で)間断なくお題目をあげる修行だと思います。
(鷹峯檀林旧跡・常照寺の石柱に刻まれた「常照講寺」)
つまり光悦村一帯には、昼夜問わずBGMのように、生の「南無妙法蓮華経」の声が流れていたのでしょう。
(光悦寺 本阿弥庵前の水盤)
信仰を共有する村民達は、朝起きたら光悦寺でお勤めをし、日中はお題目を聞きながら芸術活動、創作活動に没頭、日が落ちると再びお勤めをして一日を終え、お題目に包まれて眠りにつく…そんなサイクルだったと想像します。
「常寂光土」に極めて近い理想郷、だったのかもしれません。
(本阿弥光悦の墓石)
寛永14(1637)年、光悦は80才で亡くなります。
芸術については言わずもがなですが、信仰的にも、法華経の世界と実生活が見事に合致し、ある意味、境地に至った人生だったのではないでしょうか。
光悦の没後、残念なことに鷹峯の光悦村は徐々に縮小、やがて消滅してゆきます。
本阿弥光悦というカリスマを亡くしたことに加え、3代将軍・徳川家光が江戸幕府を盤石にしたことで、町衆たちの商売の中心が、京都から江戸に移っていったためだともいわれています。
延宝7(1679)年、光悦の曾孫・光伝は鷹峯の土地を幕府に返還、64年間続いた芸術の、そして法華信仰のユートピアは、ここに終焉を迎えました。
芸術家、職人、そして本阿弥家の人々が去り、また付近には源光庵(曹洞宗)など、他宗が寺院を構えるようになります。
(「悟りの窓」で有名な源光庵:光悦寺のはす向かいにある)
光悦寺は、江戸時代後半~明治時代にかけて、荒廃してしまったようです。
ところが大正時代、意外な形で復興するのです。
明治維新で西洋文化が良しとされる一方で、逆に貶(おとし)められた日本文化を護ろうという動きも出てきます。
大正2(1913)年、茶道界を中心に「光悦会」が組織され、光悦寺の復興が始まります。茶道サイドからのアプローチというのが、興味深いですよね!
(神坂雪佳筆・本阿弥光悦肖像:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
それだけ本阿弥光悦は、茶道界の人々にとってもカリスマでありました。
余談ですが、本阿弥家の菩提寺・本法寺の周囲には、茶道の宗家や関連施設が並んでいたのを記憶しています。
ご縁が深いんでしょうね!
本阿弥光悦は、千利休の流れを継ぐ古田織部から茶の湯を学び、鷹峯では村の仲間を招いてたびたび茶会を催したといいます。
また、そこで使われる茶道具は自らが制作、いずれも後世まで受け継がれる逸品でした。
(本阿弥光悦作・国宝 黒楽茶碗 銘 時雨:「本阿弥光悦の大宇宙」図録より引用)
彼の名が冠せられた光悦寺の復興は、茶道界にとって象徴的な出来事だったのでしょう。
(境内の茶室「本阿弥庵」)
本堂や庫裡の修復、荒れ地の開墾、植栽の植え替え、茶室の建築などを住民も参加して行い、また隣接地を買い戻して現在の寺容が整ったといいます。
いち日蓮宗信徒として、心から感謝したいと思います。
毎年11月、ちょうど紅葉の季節に、「光悦会」という大規模なお茶会が、こちらで催されるそうです。
(9月初旬でしたが、ほんの少し色付いていました)
そういう意味では光悦寺は、芸術文化の拠点と、法華信仰のお寺という二つの顔を併せ持つ、独特なお寺だと思います。
まさに光悦村の精神が、今でも息づいている聖地なのでしょう。
(参考文献)
・「光悦の藝術村」(昭和31年:佐藤良著 創元社)
・「近世初頭における京都町衆の法華信仰」(昭和33年:藤井學著)
・「京都町衆と法華信仰」(平成22年:冠賢一著 山喜房佛書林)
・「特別展 本阿弥光悦の大宇宙 図録」(令和6年:東京国立博物館他編)
・「近世初頭における京都町衆の法華信仰」(昭和33年:藤井學著)
・「京都町衆と法華信仰」(平成22年:冠賢一著 山喜房佛書林)
・「特別展 本阿弥光悦の大宇宙 図録」(令和6年:東京国立博物館他編)