千葉県銚子市を旅してきました!
(↑犬吠埼灯台資料館内の展示物より)
「とっぱずれ」とは「いちば~ん端」。
太平洋に突き出た銚子の地形を、上手く表現した江戸時代の句です。
海上交通の要衝を支え続けた犬吠埼灯台。
銚子屈指の観光スポットです。
当日は快晴。
どうですか、この突き抜けるような空の青さ!!
(↑犬吠埼灯台からの眺望)
沖合は黒潮と親潮の境目、さらに利根川が大量の栄養分を運んでくるので、魚がよく集まる、最高の漁場なのだそうです。
(↑銚子漁港)
魚を求めて、全国から漁船が集まってきます。
確か銚子は、水揚げ量がずっと日本一ですよね!
銚子の気候は、麹菌や酵母の生育に適しており、また利根川水運で江戸に運びやすい利点もあり、古くから醤油醸造が盛んでした。
市街を歩くと、いたるところに醤油工場が見られます。
ヤマサ醤油の工場前に、日蓮宗寺院があります。
妙福寺です。
表門から入ったのですが、いきなりクランクになっていて、戸惑いました。
説明板によると、これは桝形!
江戸時代の妙福寺は、お寺でありながら、城としての機能も持っていたそうです。
普段はお寺、非常時は城郭になる、というのは近畿地方に多いですよね。
水行用の滝に太鼓橋。
このお寺、なんか凄そうだぞ!
こちらは裏門。銚子駅からは裏門が近いです。
山号は海上山(かいじょうざん)です。
昔はこの界隈、千葉一族の海上(うなかみ)氏が統治しており、最近まで海上(かいじょう)郡という地名もあったそうです。
恐らくその辺が、山号の由来ではないかと思います。
本堂(祖師堂)です。
江戸中期建築のとても古いお堂ですが、昭和60年に大改修され、現在に至ります。
本堂横にはでっかい藤棚!
その姿から「臥龍の藤」と呼ばれ、GW頃は藤を見るために、観光客が大勢訪れるそうです。
歴代お上人の御廟を参拝。
長きにわたり、信仰の聖地を護ってきてくれた先師達に、感謝の合掌をしました。
妙福寺の開山は、日蓮聖人の直弟子、中山二世でもある日高上人、第二祖は中山三世の日祐上人です。
中山法華経寺とのつながりが強いお寺、と想像できますね。
(↑本堂の旧鬼瓦)
縁起によると正和3(1314)年、入山崎般若寺の住持・円学上人が、下総各地を布教していた浄行院日祐上人に心服し、真言宗から宗旨を改めたというのがそもそもの始まりで、この時、お寺も海上山妙福寺になったと思われます。
円学上人は日正上人の法名を与えられ、自身が妙福寺三世、初代住職となります。
かつて般若寺があったといわれる入山崎は、現在の匝瑳市、有名な飯高檀林跡のほど近くです。
この辺り、昔は「椿海(つばきのうみ)」という、芦ノ湖が7つも入る広~い汽水湖があったそうですよ!
江戸初期、江戸で爆発的に増えた人口に対応するため、農地を広げる目的で干拓されてしまいました。
日祐上人が布教に歩かれていた鎌倉時代、どんな風景だったのでしょうね。
時は下り江戸時代、銚子は漁業だけでなく醤油産業の発展、利根川水運の中継地としても、活況を呈するようになりました。
(↑川口神社参道越しの風景)
人口増加の一方で、当時は寺請制度の徹底も叫ばれていました。
キリシタンや不受不施派でないことを証明するため、住民達は仏教各派のお寺の檀家になったのです。
ところが、銚子には法華経のお寺がありませんでした。
各所からの要望もあったのでしょう、妙福寺は幕府の肝入りで、銚子の現在地に移されたということです。
こちらは北辰殿(妙見宮)です。
堂内には、聖徳太子が自身の童子姿を刻したと伝わる、北辰妙見大菩薩像がお祀りされています。
このお像の持つパワーは相当なものだそうで、それゆえ源満仲公(能勢妙見の祖)はじめ多くの時の武将、為政者の尊崇を受けてきました。
(↑北辰殿の説明板より)
お像は各地を転々としたのち、正徳5(1715)年、平山久甫という朝廷方の尽力などで、妙福寺に祀られるようになったといいます。
以後「銚子の妙見様」として信仰を集めてきました。
実はこの界隈の地名は、妙見町!
地元でどれだけ親しまれてきた神様かが、わかります。
ちょっと話は脱線しますね。
利根川河口近くの丘に、「千人塚」という場所があります。
銚子沖は、好漁場の反面、古くから海難事故が多発する海域として知られていました。
この近くで遭難した船員たちの霊を、慰めている場所なのだそうです。
周囲には、供養塔が所狭しと建っています。
お題目の供養塔もありますね。
中央の石碑には、夥しい数の遭難者名が刻まれています。
板子一枚下は地獄、船乗りは命がけの仕事だと、改めて思います。
(↑北辰殿の扁額)
GPSなどなかった時代、暗いうちから海に出る漁師さん達にとって、常に北を指し示す北極星は、それは有難い存在だったでしょう。
銚子という町に、妙見信仰が深く根付いている一因だと思います。
「銚子の妙見」像を直接拝見することは叶いませんでしたが、妙福寺のお上人の案内で、北辰殿内部にある絵馬の画像を撮らせていただきました。
これは大正10(1921)年、寺内の太鼓橋落成記念の砌、講中が奉納した額ですが、右側に、こちらにお祀りされている妙見様のお姿が描かれています。
玄武(亀と蛇のハイブリッド)に乗った童子姿、太刀を持ってて雷様みたいな太鼓?を背負っていますね。
なかなかのインパクトです!
これは東京の町衆有志が奉納した巨大な額です。
よく見ると芸者さんや置き屋、落語家、講談師、寄席・・・芸事に関係する方々が多いのがわかります。
「妙」の字は美しいという意味、「見」は姿形の意味から、古くから妙見様は芸能関係者に信仰されてきたそうです。いろんな側面を持つんですね!
北辰殿の南側に、興味深い碑を見つけました。
海亀の供養碑です。それも一つや二つではありません。
漁の際、誤って海亀が混獲されると、漁師さんはお神酒をかけて海に戻すのですが、不幸にも死んでしまった場合は、土に埋めて手厚く供養する、といいます。
こうした風習、実は各地にあるそうなんですが、僕は初めて見ました。
法華経には、正しい法に巡り合う確率は奇跡に近い、という喩えとして、一眼の亀が浮き木の穴に辿り着く、というお話があります。(法華経妙荘厳王本事品第二十七)
また、身近なところでは浦島太郎でしょう。海亀は竜宮城という、いわば「異界」への使者として描かれています。
そう、さきほどの北辰殿の絵馬にも亀さん、いましたね。
妙見様が乗っている玄武は亀、北方を護る四神です。
北は五行でいうと水ですから、海亀が水神様と信じられてきたのは、自然なことなのでしょうね。
妙福寺には幼稚園が併設されています。
歴史が古く、今年で70周年だって!!
幼稚園に隣接して、銚子の歴史に大きく関わる石碑があります。
紀國人移住碑です。
銚子には古くから、紀州出身の人々が多く暮らしていました。
(↑第百回木國會記念碑に刻まれた木國會主意書より)
魚を追い求めて銚子沖にやって来た漁師が、そのまま移り住んだのが始まりらしく、以来、紀州の人は頻繁に、銚子との間を行き来しました。
(↑妙福寺境内のベンチ)
紀州伝統の漁法や醤油醸造は、銚子の風土に合ったのでしょう、銚子の繁栄は紀州人なくして語れないまでになりました。
(↑木國會基本金寄付芳名碑)
紀州にルーツを持つ銚子の実業家達が「木國会」を創設、明治36(1903)年にここに碑を建て、先人を顕彰しました。
(↑木國會基本金寄付芳名碑より)
木國会の筆頭には、紀州徳川家15代・徳川頼倫(よりみち)公のお名前があります。
養珠院お萬様の長男・頼宣公を始祖に持つ、紀州徳川家。
妙福寺境内に碑があるのは、偶然でないと思います。
こうやって妙福寺境内を巡ってみると、銚子の文化、産業、習俗・・・いろんな要素が、仏教とほどよく融和してきた歴史を感じられます。
最後に、妙福寺の守護神である、妙福稲荷さんを紹介して、今回のブログを終えたいと思います。
明治30年の火災、昭和20年の大空襲の際に、妙福寺を延焼から守ってくれたという霊験から、「火伏せのお稲荷さん」として篤く信仰されてきました。
妙福稲荷さんの名を刻んだ一本の石柱が、とても印象に残りました。
側面に、石柱建立の経緯が刻まれています。
ご家族が戦地に出征していかれた女性でしょうか。
「戦時中、日参の御祈願をかけ」ていたところ、ある晩、夢でお稲荷さんから「必ず無事で帰る」とお告げを受けたそうです。
「戦地で不思議なお守りを頂きました。拝謝の為」この石柱を建立したと思われます。
もしかしたら単に偶然が重なって、無事に復員されたのかもしれません。
しかしこの方は間違いなく「お稲荷さんのおかげ」と信じ、感謝を忘れませんでした。
石柱一本とはいえ、庶民がこの場所に建立するのは、そう簡単なことではなかったはずです。
古来、日本人はいただき物があると、まず仏壇や神棚にお供えし、のちに仏様や神様からお下がりをいただく、という習慣がありました。
わざわざそういった行為を経てはじめて、家族のお腹を満たしたのです。
ところが神仏離れが進む最近は、仏壇のないお宅も増えました。
「神様仏様はお腹空かないでしょ?」確かにそうかもしれません。科学的には全く、意味のない行為でしょう。
いただき物を供え、お下がりをいただくという行為は、ともすると幸せに溺れ、増上慢になりがちな人間、我々人間を戒める、先人の巧みな生活の知恵、だと僕は思っています。そしてそれは、いろんな信仰の原点なのだと考えています。
そんなに難しいものじゃない。仏壇がなければ、先祖の写真でもいいのです。
すっかりお稲荷さんの石柱から脱線しちゃいましたが、僕の中ではつながっています(笑)。
「見えないものに生かされている」
大切なマインドを、一本の石柱に、改めて教えられた、銚子妙福寺でした!