日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

経王山妙法華寺(三島市玉沢)

2017-02-23 08:59:17 | 旅行
先日訪問した鎌倉・材木座の実相寺は、もともと「濱土法華堂」でありました。
日蓮聖人の筆頭弟子である日昭上人が、鎌倉での布教の拠点にしていたお寺です。

その後、何度か移転し、現在は三島市玉沢に落ち着きました。
「妙法華寺」という大きなお寺です。


周辺は起伏のある地形で、斜面には茶畑があります。


「錦田茶」というそうです。
苦味の少ないお茶のようですよ!


とても広い寺域の入口です。


道路に沿ってお寺の施設が広がっています。


開山はもちろん日蓮聖人の一番弟子、日昭上人です。


玉澤妙法華寺の入口です。


境内には見どころいっぱいですね~!!
さすが日昭上人のお寺です。


山号は「経王山」です。


妙法華寺の由緒が書いてありました。

知らなかった~!「玉澤」というのは、もともと鎌倉・材木座あたりの地名だったそうなんです。
鎌倉は戦乱の地でもあり、古戦場跡も多いのですが、そういった戦乱を避け、お寺は新潟・長岡や伊豆・修善寺あたりを転々とし、最終的にここに落ち着いたようです。


この一帯はもともと「大木沢」という地名でしたが、現在は住所表示も「玉沢」になっています。
樹齢350年以上の杉の巨木がニョキニョキと!
大木沢・・・納得です。


弁天様のお社です。
わかりますかね?周りにお堀があって、島にお社があるという贅沢な造りです。


妙法華寺に来て、まず目につくのがこの延々と続く立派な塀!!
「百間塀」というそうです。
時代劇の撮影とかできそうですね~


山門です。
百間塀がそこだけ奥まっているので、緊張しますね~


本堂です。
1791年に全山焼失してしまったようで、現在の本堂はその後の建築です。


「玉澤道場」と書かれています。
昔は日蓮宗の錬成道場だったようです。


祖師堂です。
大きいお寺には祖師堂がありますね!


宝物殿です。
さすが筆頭のお弟子さん、実に沢山の宗宝が収蔵されています。
宗宝が沢山、ということは、歴代のご住職に課せられた責任も大変なものだったことでしょう。頭が下がります。


気になるのは日蓮聖人御真筆の法華経の注釈書、そして御肉歯です。
注釈書は法華経の行間に日蓮聖人が注釈を入れたものらしく、死ぬまでに一度は拝んでみたいものです。
御肉歯については、龍口寺にあった萬人歯骨塚とつながる宗宝だと思います。いつか一般公開してくれないかな~?


境内は谷に沿って細長く広がっているのですが、そのどこからもひときわ目立つのが
この題目法塔です。

日蓮聖人七百遠忌を記念して建てられた法塔です。
白い石で造られた、とても存在感のある法塔だと思います。


その周囲には蓮が栽培されていました。
今は、底の泥から一生懸命養分を吸い上げている時期でしょうか?
真夏にキレイな花を咲かせて欲しいです!!


大庫裡です。受付もここにあり、立派なご首題を書いて頂けました。


毎度思いますが、どこのお寺のお上人のご首題も、味があります。
鎌倉の実相寺でもそうでしたが、日昭上人は「尊者」の敬称が付くようです。


境内には、門が3つほどあり、これは「昭光門」です。


瓦の一つ一つに「華」マーク


日蓮聖人像です。


結構お年を召された時のお姿だと思います。


日蓮聖人の手相が見えますね。
僕は手相、よくわかりませんが、知能線や運命線がとてもはっきりしているのではないでしょうか?


日蓮聖人を真横から拝ませて頂きました。
骨太でガッチリしてますね!


妙法華寺に格護されている宗宝・撰時抄の碑です。
日蓮聖人が身延の御草庵でお書きになった書です。
予言していた蒙古襲来などが現実になり、世の中が不安定な今こそ法華経を広める時である、と説きました。
何となく現在にも通ずる書なのではないかと勝手に思いながら、日蓮宗の縁の下の力持ち・日昭尊者のご霊跡をあとにしました。


境内にこんな石碑もありましたよ~
「猟犬狩猟鳥獣供養の碑」
鎌倉の妙長寺に魚類の供養塔「鱗供養の碑」がありましたが、これはその山間部版ですね。
我々人間は山に暮らす獣の命(今でこそ飼育されている牛や豚や鶏ですが)を頂いて生かされていることを忘れないように、という戒めでしょう。

「いただきます」

「ごちそうさまでした」

大事なことです。

ご霊跡をめぐることで、こういう忘れがちな事に気づかされるのは、とても意味のあることだと思います。

長崇山本行寺(大田区池上)

2017-02-22 11:02:14 | 旅行
日蓮聖人が六十一年のご生涯を閉じられたご霊跡が、大坊本行寺です。


赤く塗られた山門が印象的です。


本門寺の寺域というか、すぐ隣にあります。


本行寺は通称「大坊」といわれているようです。
坊っていうと・・・もともと宿坊だったんでしょうか?


立派な法塔が並んでいます。古いのも、新しいのもあります。
歴史を感じます。


本堂です。
元々、日蓮聖人がご入滅された場所・池上宗仲公の屋敷はここにありました。
日蓮聖人ご入滅のあと、その屋敷を寄進し、できたお寺が本行寺です。


山号は「長崇山」です。

身延山に入られた日蓮聖人の身体は、それまでの長年の布教や過酷な法難により、既にボロボロの状態であったようです。
今よりもずっと寒かった身延での生活は、その身体には相当キツかったはずです。

弘安5(1282)年の秋に、常陸の湯で湯治をするため、住み慣れた身延山をあとにしました。
・・・常陸って茨城っスよね?遠くないスか?普通そう思いませんか?

実は、常陸の湯は波木井公の領地で安全だったから、という説があります。
まわりは敵ばかりの当時、ゆっくり体を休めるにも、遠く茨城まで行かなくてはならなかったのでしょう。


しかし、その途中、もう長旅に耐えられない身体だということを悟り、旧知の池上宗仲公の屋敷に身を寄せました。
鎌倉での辻説法時代からの熱心な信徒であった池上宗仲公・・・その屋敷は日蓮聖人にとってどれほど心の安らげる場所だったことでしょう。

旅着堂です。
日蓮聖人最後の旅の姿が像になって安置されています。


屋敷に着いて、日蓮聖人は9年間もの長い間お世話になった波木井實長公にお礼の手紙を書かれました。
これは御硯井戸といい、今も現役の井戸です。
この水で墨をすり、手紙を書かれたそうです。

波木井公には、自分の死後、墓を身延の沢に作ってほしいと遺言もされていました。
本当にその時が近づいている事を感じていたのでしょう。


御臨終の間です。
ご入滅になる18日前、部屋の柱に寄りかかりながら立正安国論の最後の講義をされました。
5日前には本弟子6人を定めてあとを託しました。
2日前には経一丸(のちの日像上人)に京都開教の遺命を託しました。
前日には自分の近くに有名なお曼荼羅を掛け、いつも肌身離さなかった釈尊像を置きました。

そして弘安5(1282)年10月13日朝8時頃、お弟子さん達が唱えるお題目の中、多くのお弟子信者に囲まれながら、その激動のご生涯を閉じられました。


この時、地震が起こり、10月なのに桜が咲いたと記録されているようです。
「お会式桜」として桜が植えられています。
「御櫻結社」という組織もあるんですね!!


秋に咲く桜らしいです。
訪問したのは2月中旬の寒い時でしたが、数輪、開いてましたよ!


へ~!
お会式の時に紙で花を作ってお万灯を飾るのは、この桜の逸話がルーツなんですね~


日蓮聖人は本行寺の隣にある場所で荼毘に付されました。
現在はそこに巨大な宝塔が建てられています。



本行寺境内には「宗祖御灰骨堂」があります。
御真骨は身延に、そして御灰はこちらに安置しているようです。


日蓮聖人がご入滅された時の版画が販売されていたので、購入しました。
とても多くの、日蓮聖人に関係する方々がいらっしゃいます。
今後のブログ作成時にも参考にさせて頂きます。


有名な「お寄りかかりの柱」にも触ってきました!
柱は柵の奥にあるんですが、その一部が切り取られ、僕たち信徒も触れるようになっていました。
時間の壁を越えて一瞬タイムスリップしたような錯覚がしました。


最高峰のご霊跡であるにもかかわらず、敷居を敢えて高くせず、より多くの後世の信徒達に御臨終の間に臨んでほしい、という気遣いを感じました。

池上宗仲公も、あの世でお喜びになっていると思います。

栗の木沢の題目碑(小山町竹之下)

2017-02-20 18:15:46 | 旅行
日蓮聖人宿泊のご霊跡である足柄の竹之下を後にして、帰りは246号でなく足柄峠を越えてみようと車を走らせました。


通るのは舗装された足柄街道(県道78号)ですが、
ところどころに足柄古道というけもの道みたいな細道が交差します。
箱根東海道の旧道とか、熊野古道みたいな、先人たちが往来していた道そのものが、今もあるんですね!


静岡側から坂を上り、そろそろ神奈川との県境か?という時、道端にこんな道しるべを見つけました。
「題目碑」
へ~、こんな山奥に題目碑があるんだ~!!
日蓮聖人も歩かれた場所なのかな?

行ってみましょう。


細い林道を2~3Km下って・・・ありました!!
右に行くと題目碑、左に行くと唯念名号碑があるらしい。


もうそれこそ林業関係者か東電関係者しか通らないような道を少し上ると・・・
で、でかい!!!
なにこれ?


画像ではわかりにくいかもしれませんが、アンドレ・ザ・ジャイアントよりもずっとでかい~


「栗の木沢題目碑」

高さ3.56m 幅1.24m!!!
文久2年(1862年)建立なんですね。


日蓮聖人は竹之下に生前2回(身延に入山する時、池上に向かう時)、宿泊されたそうです。
さらにご入滅後、ご遺骨が身延に送られる時にも宿泊されたという事実もわかりました。
日蓮聖人とはご縁のとても深いご霊跡なんですね。


それにしても江戸後期によくぞこれだけ巨大な石を、山深い場所に運んだものだと感心します。
どうやって???


この題目碑も竹之下の方々の「講」が建てたそうで・・・
紹介しておきましょう
「蓮静寺題目講」
「六日市場題目講」
「妙見寺題目講」


「御殿場身延会の方々」


ホントにご苦労様でした!!!

要名山常唱院(小山町竹之下)

2017-02-20 16:48:27 | 旅行
金太郎の里、足柄にやってきました!

金太郎は時代が古く、10世紀頃、つまり平安時代に熊と相撲を取っていたことになります。

↑画像は、2017年に初めて訪問した時に写したJR足柄駅前の金太郎像ですが、


↑2023年に再訪してみると、駅舎とともにリニューアルしていました!
髪型は今風に、また熊もずいぶん従順になってます。

いずれにしろ金太郎、今でも足柄ではイケイケのヒーローです!


(↑佐渡から戻られた日蓮聖人が一時住まわれたといわれる鎌倉夷堂跡)
時は下り文永11(1274)年、佐渡流罪をご赦免になった日蓮聖人は、幕府に3回目の諫言をするものの聞き入れられず、5月12日、身延山に向かい旅立たれました。

小田原の酒匂に宿泊したあと、13日は足柄峠を越えました。

お祖師様が歩かれたであろう足柄古道。
一部は今でも農道なのかな、現役で使われてます。


峠の麓に神社がありました。


扁額には「嶽之下(たけのした)神社」とあります。


嶽之下神社の境内からの景色
富士山がめっちゃキレイ!

境内の由緒書きによると、平安時代、金太郎を召し抱えた源頼光が、富士山に向かって浅間の神様を勧請したのがルーツだそうです。
御祭神が木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)ですから、嶽之下の「嶽」は富士山なのでしょう。



でも麓に下りてくると「竹の下」なんだよな・・・
ま、漢字はどうあれ、この辺りが「たけのした」で間違いなさそうです。
※このブログでは「竹の下」表記で統一しますね。



鮎沢川(酒匂川の支流)のすぐ近くに、日蓮聖人がお泊りになられたご霊跡があります。



竹の下常唱院です。
本門法華宗が管轄されているご霊跡のようです。



常唱院は石垣の上にあります。階段を上ってゆきます。



本堂です。
普段は無住だそうですが、この日は日蓮聖人身延御入山750年の慶讃法要が行われており、多くのお上人、信徒さんが出入りしていました。



歴代ご住職の御廟を参拝。
750年間、大切なご霊跡を護持してくださった多くの先師達に、心から感謝致します。


酒匂から竹の下までって、けっこう距離があります。
(↑嶽之下神社から竹の下集落を望む)
峠越えを含む30kmもの歩き旅。
酒匂を早朝に出発されたとしても、竹の下に着いた頃には、もうすっかり暗くなっていたことでしょう。


13日の晩に宿を提供してくれたのは、竹の下に住む鈴木繁八さんという方だったそうです。
(↑常唱院本堂の扁額「たけのした」:富木殿御書の御真蹟文字)
52才の日蓮聖人です。疲れきった身体には、どんなにありがたい一泊だったでしょう。



このご一泊を機に、村人が日蓮聖人を慕い、お堂を建立したのが常唱院のルーツです。
山号の要名山は、法華経の肝心要の総名「南無妙法蓮華経」のお山という意味、そのお題目を常に唱える道場だから常唱院だそうですよ。


日蓮聖人は身延御入山の時だけでなく、身延山を下りて常陸の湯に向かわれる際にもお泊まりになられています。
更には御入滅されたあと、宗門の使者が竹の下にやって来て、宿泊されているようですから、ご縁の深さが窺えます。


(↑常唱院駐車場から見える富士山)
富士山の宝永の大噴火などで、常唱院は一時、荒廃していたようです。
しかし御殿場・蓮静寺(本門法華宗)のお上人や、地元の方々の尽力で、少し場所を遷して再興されたのが、現在の常唱院につながっているそうです。



実は、↑2017年に初めて常唱院を訪れた時、正直に言うと、長い間、手が入っていないような印象を受けました。
地元の方に伺うと、常唱院は檀家さんを持たないお寺で、かつ以前は管理者もはっきりしない状態だったそうです。



これを憂い、ある時から沼津の岡宮光長寺(本門法華宗の大本山)の管轄となったといいます。


先代のご住職は、境内の整備に力を尽くされ、現在のキレイな寺容に生まれ変わるきっかけを作りました。

↑今は奥が広い駐車場になっていますが、2017年の時点では、日蓮聖人像の向こう側は藪と廃屋で、とても入れる状態ではありませんでした。
本当に頑張られたのですね・・・。


残念ながら、その先代ご住職は昨年、遷化されたそうです。

身延御入山750年の慶讃法要の今日、本堂に入りきれないほどの参列者を迎えた常唱院を、「先代ご住職にぜひ見せてやりたかった」と、地元で護持に携わっている男性がボソッと呟いたのが印象的でした。


岡宮光長寺の現貫主様が大導師、身延山のお上人が副導師を務められ、慶讃法要は無事終了しました。

本門法華宗の法要は、方便品、寿量品、神力品を唱えるあたりは身延山朝勤の流れに似ていますが、読む調子が微妙に違う部分もあり、なかなか特徴的でした。


(↑常唱院境内から足柄峠を望む)
地元の信徒の方によると、足柄峠の山中には、「不動の滝」という修行の滝があったり、江戸時代に造立された巨大な題目碑の前で唱題会が催されたりと、今も昔も信仰の聖地なのだそうです。
静かに、脈々と、大切なものが継がれているのですね。



境内に立つ日蓮聖人像の表情、以前より柔らかになった気が・・・はずはありませんが、リフレッシュした常唱院に、僕の心もウキウキしちゃった早春の参拝でした!

弘延山實相寺(鎌倉市材木座)

2017-02-19 19:28:08 | 旅行
昨年、稲村ケ崎の袈裟掛けの松を訪ねた時に、その名前はありました。

日實法師。
袈裟掛けの松のすぐ前に居を構え、生涯松を守り続けた方です。
日實法師は「濱土實相寺」の歴代ご住職のお弟子さんだと、碑に書いてありました。


じゃあ、行ってみようじゃないですか!
濱土實相寺!!
鎌倉・材木座の伊豆法難の始まりのご霊跡・妙長寺のほど近くにあります。


「日昭尊者 濱土法華堂霊跡」と書いてあります。
日昭上人といえば日蓮六老僧の筆頭、それこそ日蓮聖人の辻説法に心を動かされ、最初に帰依を誓ったお坊さんです。
日蓮聖人よりも年上の方、と聞いたことがあります。


元々ここは曽我兄弟の仇討ちで討たれた工藤祐経公の屋敷があったところだそうです。
本堂です。
歴史のあるお寺らしく、落ち着きのある「庵」って感じです。
こういう雰囲気のお寺、個人的には大好きです。


本堂の裏山に、日昭上人の御廟があるそうです。
行ってみましょう。


少し上ると深い森に入ります。付近は立ち入り禁止になっています。
最近、鎌倉の山はトレイルランニングをする人が多く、私有地の無断立ち入りとか、登山道の崩落などで問題になっているそうです。
ここも例外ではないのでしょう。


ありました、日昭上人の御廟です。
高僧であるにもかかわらず、御廟はとても質素です。
日昭上人のお人柄が偲ばれます。


日昭上人は、日蓮聖人の配流時に必死で一門を守った、縁の下の力持ちのイメージがあります。
その時に常に鎌倉の拠点としていたのが濱土法華堂でした。
のちに伊豆に移り、現在三島市にある本山・妙法華寺のルーツとなっています。
江戸時代に、移転後の法華堂跡に建立されたお寺が、實相寺となっているようです。


一門で最も早くから、日蓮聖人の教えに賛同した日昭上人。
誰にも相手にされず四面楚歌だった日蓮聖人にとって、どれほど支えになったことでしょう。

日昭上人のご生涯についても、追ってゆきたいと思います。

長栄山本門寺(大田区池上)

2017-02-18 19:25:28 | 旅行
昨年11月の小松原法難会の日に、宗務所の団参で行った池上本門寺。
バス5台、200名での参詣でした。

池上、初めてだったんですが、お寺の規模の大きさと見どころの多さに、是非ひとりでゆっくりと訪れてみたいと思っていました。


で、


行ってきました!池上!!
東急線で蒲田から二駅です。


至る所に案内の看板があります。


で、でかい法塔!


川がありますね~
調べたら「呑川(のみかわ)」っていうらしいです。
赤ちょうちんが似合いそうな名前です。


ここに架かるのは霊山橋。
身延の御廟所にも霊山橋がありました。
ここから先は聖域ですね。


見えてきました。
総門です。
歌川広重の「江戸百景」にも描かれています。


扁額は書家・本阿弥光悦による書を彫刻したもののようです。


巨大寺院らしく、多くの勤行、催しが行われています。


そしてこれが有名な・・・
此経難持坂!!!
熱心な法華経信者であった加藤清正公が寄進したといわれています。
宝塔偈の96文字と同じ96段だそうです。


石段途中の桜がキレイです。
まだ2月なので早咲きの河津桜かな?


「・・・・・・一切天人 皆應供養」
ちょうど96段!


寺域の外は大都会だというのがよくわかります。


仁王門です。
立派です。


瓦の一枚一枚に「本」マーク


山号は「長栄山」です。


大堂(祖師堂)です。
この日は雲一つない快晴でした。青空にお堂が映えます。
山を背負ってないお寺もいいですね~!!


大堂には日蓮聖人の御尊像が安置されています。
(撮影禁止のため、画像はありません)
最もお近くにいた日持上人と日浄上人が大願主となって日法上人が彫刻、ということで、日蓮聖人の御姿そのものと言われています。
右手の払子は日蓮聖人が生涯肌身離さず持っていたお母様の髪でできているものだそうです。
また、御尊像の胎内にはご真骨が収められているそうです。


ウチの娘が今年前厄なんで、厄払いの祈願をお願いし、日蓮聖人御尊像の真正面に座らせて頂きました。
印象としては、何だろう、昔の先生のような、尊敬できる教育者のような雰囲気を感じました。
多くのお弟子さん達への教育にも尽力された方ならではのオーラが出ているのかもしれませんね!


境内を散策してみましょう。

霊宝殿です。
本門寺の寺宝を収蔵・展示する施設です。
前回の団参時は日蓮聖人ご真筆の曼荼羅が公開されていました。
残念なことに日曜のみ開館のようで、この日は閉まっていました。


巨大な霊宝殿の隣にひっそりと、こんなものがありましたよ。
奉安塔の相輪です。
霊宝殿の場所には以前、奉安塔が建っていました。
太平洋戦争の空襲で、本門寺のほとんどの建物が焼失してしまい、大切な日蓮聖人の御尊像や御真骨を収蔵する場所がなくなってしまいました。


戦後、復興事業の一環として奉安塔が建造され、ここで保管されました。
寺内が整備されるにつれ、その役割を終え、解体されたそうです。
相輪ですら愛おしくなります。
感謝の気持ちを込め、合掌しました。


経蔵です。
江戸時代の建築です。戦災を免れたんですね。
中に回転式の書架(ほら、サングラスを売ってる回転什器みたいな!)があるそうですよ。


五重塔です。
都内でいちばん古い五重塔らしいです。


卒塔婆と相輪塔と五重塔
大きさの差こそあれ、似たシェイプになっています。
意味合いも近いのではないのかな?


戦後のプロレスラー・力道山のお墓です。
カリスマらしく、多くのプロレスラーや梶原一騎さん、北野武さんらが胸像を寄進しています。


本殿入口です。
大雄門というそうです。


本殿です。
平日ということもあり、人はまばらで、身延の御廟所のような清浄な雰囲気でした。

それもそのはず・・・

その更に奥には・・・

御廟所があるのです!


真ん中が日蓮聖人の御真骨を安置した御廟、左が日朗上人の御廟、右が日輪上人の御廟ということです。


日朗上人の墓所は逗子の法性寺らしいので、日を改めて訪問したいと思います。


道路をはさんで少し坂を下りたところが、日蓮聖人が荼毘に付された場所です。
荼毘所跡には現在、キレイな朱に塗られた多宝塔があります。
何とこれ、木造なんです!


↑画像は団参時の写真です。
この時は本門寺のご厚意で特別に公開してくれました!感謝!!
(基本、お会式時以外は非公開)

金色の装飾でゴージャス!
日蓮聖人がご愛用されていた御念珠が安置されているようです。


あ~、もうおなかいっぱい!!
見どころ大杉~

最後にこの地を寄進してくれた大檀越のお墓をお参りして帰りましょう。


歴代貫首様のお墓
その脇に、池上宗仲公夫妻、池上家のお墓がありました。


正直、もっと巨大なお墓がデーンと建っているのかな?と思ってました。


日蓮聖人の辻説法時代からずっと、物心両面で支えてきた大檀越のお墓にしては、とても、とても質素です。


奥に見える歴代貫首様のお墓と比べてはいけませんが・・・
最後の最後まで、裏方で支え続けた池上宗仲公の意思を垣間見たようで、ちょっとジ~ンとしちゃいました。


最後に・・・

講中まつり~!
たくさんの講中を見つけましたよ~!!!
牛込講中~!!


京橋北講中~!!


麻布長壽講中~!!


毎回疑問ですが、今でも講中ってあるんでしょうか?

行合橋(鎌倉市七里ガ浜)

2017-02-15 17:05:58 | 旅行
地名の由来っていろいろあるんでしょうが、日蓮聖人が関係しているものも結構ありそうです。

先日訪れた「洗足池」もそうでしたが・・・

この「行合川」にかかる「行合橋」も、その名前の由来は龍ノ口の法難にまつわります。


龍ノ口の刑場で、まさに今、日蓮聖人の首に刀が振り下ろされるという時に、光り物が現れるという奇瑞が起こったため、幕府に内密に行われようとしていた処刑は中止になりました。
この超常現象を幕府に伝える使者(御家人・宇都宮貞綱公という説があります)は
西(龍ノ口)から東(鎌倉)に向かって、一目散に馬を走らせたと思われます。



一方、佐渡配流にしようとしていたのに勝手に処刑が行われようとしている事実を知った幕府は、すぐに止めさせようと使者(御家人・南条七郎公という説があります)を送りました。
東(鎌倉)側から西(龍ノ口)に向かって、一目散に馬を走らせたと思われます。


で、それぞれの使者が行き交ったのがここ
「行合橋」です。


134号線にかかる橋の遠景です。
今じゃ周りは小洒落た店やセブンイレブンがあって、往時の雰囲気は全く感じられません。


・・・あれ?
ここにも橋が・・・

これも「行合橋」?


じゃあ江ノ電が渡っている・・・

この橋も・・・
行合橋だったりして(笑)


そのすぐ近くに、お題目の法塔がありました。

ああ、ここが行合川で、ご霊跡の一つなんだな~と感じられる唯一の石碑でした。


特に鎌倉界隈はご霊跡が多い半面、人気の観光地、住宅地でもあるため、ご霊跡周辺の開発もどんどん進んでいます。
近い将来、地名でしか往時を感じられないところも増えてくるような気がします。

一信徒として何ができるのか、考えるきっかけになりました。

長光山妙恩寺(浜松市東区天竜川町)

2017-02-14 19:24:41 | 旅行
先日、池上の大行寺を訪れた時に、「宗祖涅槃図」という版画を購入しました。
日蓮聖人ご入滅の際の池上宗仲邸の様子を詳細に表したものなんですが、
いやはや、あまりに大勢すぎて目がチカチカします。
また、一人ひとりがビッグネーム過ぎます。


その中に、星下りのご霊跡の本間重連公の後ろあたりに、その方はいました。
「遠州 金原法橋」

・・・実は僕、この方の名前、以前どこかで見たことありました。
う~ん・・・どこでだったかな~?
遠州、遠州・・・

そうだ!!浜松!!浜松のお寺!!!


JR浜松駅から一つ東京寄りの天竜川駅近くにある「妙恩寺」です。
実は僕の妻のおじいちゃんおばあちゃんが眠っているお墓が、このお寺にあるのです。


1月末、おじいちゃんの命日にお墓参りに行ってきました!

確か、このお寺はもともと金原法橋さんの屋敷だったような・・・
やっぱそうだ!
日蓮聖人がご入滅してまだ30年も経っていない1311年、金原法橋公を開基檀越として、日蓮聖人の弟子・日像上人が開山した古刹です。


近くに旧東海道が走っています。
周囲には一般の住宅にも松が多く植えられていて、落ち着いた街並みです。


お寺から少し離れた一般のお宅の一角に題目法塔がありました。
昔の寺域がとても広かったことが窺えます。


側面には「日像菩薩開基」


草創600年を記念して建てられた法塔がありますが、これですら100年以上経ってます。


山号は「長光山」です。


本堂です。
丸瓦のストライプが美しい・・・


開山堂です。
ここ妙恩寺は日像上人が開山しました。
日像上人といえば、日蓮聖人のご遺命であった京都での寺院建立を、苦労して果たした方として有名です。

日像上人は1294年に上洛し、辻説法を行い、各宗派から迫害を受け、京都から一時は追放されながらも、最終的には後醍醐天皇から寺領を賜り、1321年に妙顕寺を建立しました。
のちに妙顕寺は勅願寺になりました。お寺を建てる事を許されるまで27年・・・大変だったんですね。


その27年の間に、妙恩寺は開山されました。

金原法橋公は現在の市川市の生まれで、父親の姉が日蓮聖人の生母・妙蓮(梅菊御前)さんといわれています。
また、金原法橋公の母親は妙蓮さんと同じ清原家の血筋、更に、お兄さんは日蓮聖人を物心両面で支え続けた曽谷教信公・・・と、日蓮聖人とはとてもとてもご縁が深かった方のようです。
長年、日蓮聖人の関東での布教をお助けしていましたが、のちに遠江国(浜松付近)の地頭に赴任することを機に、移り住んだようです。


お寺の200m西に、金原法橋公がこよなく愛した松があります。
「法橋の松」は何と現役!樹齢700年をゆうに越えます。
至るところを治療されながら、それでも頑張って往事の雰囲気を我々に伝えてくれています。


現在は境内に二代目がすくすく育ってます。


話を戻しましょう。
日像上人は京都での布教の状況を、日朗上人に報告するために鎌倉に向かっていました。
一方、日像上人の姉(妹という説もあるそうです)の妙恩尼は難航する弟の布教を助けようと京都に向かっていました。
この姉弟がそれぞれ旅の途中に、浜松の金原邸に立ち寄ったことで、日像上人、妙恩尼が偶然に再会することができたそうです。
この縁が妙恩寺のはじまりのようです。

さきほどの開山堂は、日像上人のご遺徳を称えるお堂、ということです。


一方、妙恩寺は徳川家康との関わりでも有名です。
三方原の戦いの前哨戦、「一言坂の戦い」で武田信玄に敗れた家康は妙恩寺に逃げ込みました。
この時に家康を天井裏に隠し、給仕したそうで、この功績で妙恩寺は徳川家に篤く保護されてきたそうです。


清正堂です。
熱心な日蓮宗信者であった加藤清正公を祀ってあります。


妙恩寺の12代目のご住職が加藤清正公の子であったご縁だそうです。


白い幕に染め抜かれた家紋は、右に徳川家の葵の紋、左に加藤家の蛇の目の紋です。

いろんな意味で由緒あるお寺です。


そうそう、家紋といえば、先日菩提寺のお上人とお話しした時、日蓮宗の宗紋「井桁に橘」のルーツは、浜松や袋井の井伊家の家紋「丸に橘」「井桁」にあるかもしれない、という興味深いことを仰っていました。

もう少し、詳しく歩いてみる必要がありそうです。浜松!

星頂山妙福寺(大田区南千束)

2017-02-13 19:11:21 | 旅行
寒さの底の2月中旬、池上にほど近い洗足池を訪れました。

都心にあって、ボートも漕げる広い池は貴重です。


驚くことに、この池に流れ込む川はなく、湧水によってできている池なんだそうです。


池のほとりに竹林がありました。
お題目の法塔があります。
台座には「御松庵」とあります。


ここに日蓮聖人の袈裟掛けの松があります。
日蓮聖人の晩年、体調が思わしくなく常陸の国に湯治に行かれる途中、池上宗仲邸に訪問する直前に、ここ洗足池に立ち寄られたそうです。

近くの松に袈裟を掛け、池で足を洗われたという逸話があるそうです。


この界隈の住所は「千束」ですが、この逸話が「洗足」の由来のようです。
今や駅名とか、大学名にもなってますよね!!


この御霊跡が「御松庵」であり、そこに開かれたのが妙福寺です。
素朴な山門が竹林とマッチしています。


本堂です。
入母屋造り。味があります。


なになに? 文化庁の登録有形文化財?


この建物みたい。
どなたかのお屋敷だったのかな?


境内を奥に進みます。
あったあった!
袈裟掛けの松!
現在は三代目だそうですよ!


この松を囲む石柵には、「講中」ならぬ「結社」の名が刻まれていました。

時々お寺の境内で「結社」の文字を見ます。「講」は同一の信仰を持つ人々による結社のことらしく・・・似たような意味なんでしょうかね~?

結社も頑張れ!!!


鎌倉・稲村ケ崎にも袈裟掛けの松がありましたが、あちらは龍ノ口の刑場に連行される直前、せめて神聖な袈裟は血に染まらないようにと掛けた松でした。


こちらの松はもう少し穏やかな背景のあるもののようです。


奥にスワンボート見えるし・・・
とはいえ、ここで休憩された日蓮聖人のお体は実はもうボロボロの状態だったようです。

それから一カ月を待たずして、日蓮聖人はご入滅されました。


境内に日蓮聖人の銅像がありました。


まだお元気だった頃の凛々しい合掌姿です。
とても立派な銅像です。


・・・実はこの銅像の下にこんな石碑がありました。
この銅像を建立したのは千葉県東金市の「牧野らく」さんという女性なんだそうです。
若い頃から日蓮宗の信徒として活動され、この御松庵にご縁があったそうです。
七百年遠忌を目標に日蓮聖人像の建立を計画してきたが、91才にしてやっと、念願を達成しました、という旨が刻まれていました。


多くの地方の領主や有力者が、大檀越として日蓮聖人・日蓮宗を支えてきて下さったのは間違いありません。
しかしこういう市井の一個人、一老人がコツコツと底辺を支えてきたことも、忘れてはならないと感じながら、洗足池を後にしました。


よかったね、おばあちゃん!!!

石井山長勝寺(鎌倉市材木座)

2017-02-05 17:49:38 | 旅行
春にはまだ早い一月末に、松葉ケ谷のご霊跡の一つを訪ねました。

水道路から逗子方面にてくてく歩くと、緑のお屋根が見えてきます。


横須賀線の踏切を左に見て・・・


南側に山を背負った長勝寺があります。
山号は「石井山」(せきせいさん)です。帝釈尊天って刻まれてるな~


このあたりは松葉ケ谷といわれ、長勝寺の他にも日蓮聖人にゆかりの深い妙法寺や安国論寺も至近にあります。


山門です。
南側に杜があるのがよくわかります。


長勝寺は日蓮聖人に帰依した松葉ケ谷の武士・石井藤五郎長勝公が、日蓮聖人の伊豆配流が赦免になったのを機に、自邸に庵を作って寄進したのが始まりのようです。


もともとは「根本法華堂本圀寺」だったんですね!
寺号が京都に移され、のちにこのお寺を再建した時に長勝寺になったようです。
京都の本圀寺も、とても有名な寺院ですよね。


境内に入ると、巨大な日蓮聖人像があります。
僕でも知ってる有名な芸術家・高村光雲氏によるものだそうです。


大きさには圧倒されますが、印象は柔和です。
辻説法中のお姿らしいのですが、優しさが感じられます。
伊東での生活を経た日蓮聖人の、人間味のある目尻のしわが印象的です。


台座には東郷平八郎元帥の「知法思国」の書が刻まれています。
確か長谷の収玄寺にも東郷元帥の書がありました。


その日蓮聖人像を囲むように四天王が護衛しています。
毘沙門天と持国天


広目天と増長天


本堂です。
キレイな宝形造りの屋根です。


帝釈尊天とあります。
松葉ケ谷の法難の時、日蓮聖人は白い猿に助けられたという逸話がありますが、この白猿は帝釈様の使いといわれているそうです。
この本堂は帝釈様をお祀りしてあるようです。



法華堂です。
長勝寺のはじまりは法華堂だと書いてありました。


現在の法華堂は室町時代の建築らしいのですが、キレイに保たれていました。
何度か改修を経てなお、室町時代の部材を大切に使っているのだと思われます。


あった!講中!
最近ちょっと講中マニアです。


本師堂という八角形の建物がありました。


中には金色に輝く何かが!!


タイのお寺から寄進された釈迦牟尼世尊が中に安置されているようです。
国際的!


横須賀線がすぐ横を走っています。


境内のツバキのつぼみはもうすぐ開きそう!!


枝ぶりのいい桜の大木が沢山ありました。
桜の時期はキレイなんだろうな~


そうそう、2月11日にここで水行を行うそうです。
中山法華経寺で百日の荒行をしていらっしゃる方々が、修行の仕上げに水行をするそうです。


考えただけでガクガクブルブル・・・

海潮山妙長寺(鎌倉市材木座)

2017-02-02 08:46:44 | 旅行
季節外れの南風が、普段は穏やかな材木座に波しぶきを作っていました。
海潮山妙長寺は、伊豆法難の始まりの地に建てられたお寺です。
実は伊豆に向けて船が出されたのは、今のお寺の場所ではなく「材木座沼ケ浦」という、もっと浜に近い場所だったようです。



今は閑静な住宅地になっている材木座五丁目あたりらしいです。
江戸時代にあった海嘯(いわゆる津波、なのかな?)によってお堂が流されてしまい、もっと内陸に再建されたそうです。


さすが海に近いだけあって、貸しボートやウインドサーフィン艇もそこかしこに置いてあります。


新田義貞公ゆかりの浄土宗・九品寺が近いです。
ここから内陸に、300mくらいかな?歩いたところに現在の妙長寺はあります。
(鶴岡八幡宮は、大昔はこのあたりにあったと言われています)


山門の手前に日蓮聖人像、その右手の壁面には小説家・泉鏡花がこのお寺に逗留していたことがある、という逸話が書いてありました。


この日蓮聖人は激しい印象を感じました。
恐らく伊豆に向けて船を出される時のお姿なのでしょう。


カッと目を見開いて、下あごの筋肉が収縮しているのがわかります。
日蓮聖人はこの時、宝塔偈を唱えられていたそうです。

いつも思うのですが、日蓮聖人像の制作に関わる方々の歴史考察力や、細部に至るまで再現しようという探求心が見て取れて、本当に頭が下がります。


本堂です。
キレイな寄棟造りの屋根です。
当日は強烈な南風のため、ほぼ雨戸を閉めている状態でした。


伊豆法難の記念相輪塔です。

日蓮聖人を乗せ、伊豆に向けて出航した船の1/6模型があります。
この形の船に日朗上人はすがり、自分も流罪にするよう懇願したと言われています。
その日朗上人を役人が櫓で撲りつけたために、日朗上人の右手は生涯不自由になってしまったそうです。


材木座のお寺ならではの石碑がありました。
鱗供養塔です。
湘南の漁業関係者が造ったそうで、定期的に魚類の供養を行っているそうです。
生き物の命を頂いて生きていることに感謝する、という日本人の精神性は素晴らしいと思います。


本堂前にこんなのがありましたよ。
黒いところにびっしり自我偈が刻んであり、一周ぐるっと回すと読み終えるものです。
お経を身近に感じてもらおうという気持ちが汲み取れます。



このお寺を沼ケ浦に開創した日實上人と、その後42世までのご住職のお名前が刻まれています。
創建700年以上のお寺ともなると、あんな大きな石板でも一枚には刻み切れないのですね・・・

脈々と、静かに、ご霊跡は受け継がれています。

感謝!

明星山妙純寺(厚木市金田)

2017-02-01 18:55:59 | 旅行
歴史に疎い僕にもわかる解説付きの、由緒寺院がありました。

星下りのご霊跡訪問3連チャン目!!
星下りの逸話が伝わる依知の3か寺のうち、最も南に位置している妙純寺。
信号機の地名にもなっています。


境内の北側には交通量の多い246号線が通っています。


すぐ西側は中津川です。


デーン!!!
立派な門構えです。スゴくないですか?


合掌した日蓮聖人が、東を向いていらっしゃいます。


落ち着いた表情をしていらっしゃいます。
ここ依知に到着されたのは龍ノ口の法難の翌日ということです。
殺される寸前までいった大事件の直後といったら・・・常人なら憔悴しきって寝込んじゃうはずです。


ところが日蓮聖人、龍ノ口の刑場からここ依知まで、(役人が道を知らないものだから)ご自分で道を聞きながら歩いて来たという説さえあります。
どんだけタフな50歳なんだ~!脱帽


日蓮聖人の大檀越、本間重連公の屋敷がここにあったそうです。

本間六郎左衛門重連公は佐渡の守護代、鎌倉幕府でも名の知られた武士だったのでしょう。
日蓮聖人の佐渡配流に関して、幕府は本間重連公にいわばお預けしたわけです。


佐渡に出発するまでの28日間(月齢と一致しますね~)をここで過ごされたそうです。
山門を過ぎると長い参道があります。
桜の季節はキレイなんだろうな~


星下りの梅の木があります。


他の2か寺と同じように、星下りの奇瑞の逸話が残っています。


この場所から、土牢に幽閉された弟子・日朗上人を案じる手紙「土籠御書」を出されたようです。
ここで以前訪問した光則寺とつながりました!!
明日の自分の危険よりも、弟子の身を心配するその手紙は、宿谷光則公だけでなく本間重連公の心も動かしたようです。


塚原の問答などを経て、のちに本間重連公は日蓮聖人に帰依しました。


祖師堂です。
比較的新しい建物です。
両サイドにある鐘型の障子窓がマジかっこいい!


寺紋は・・・う~ん、何かの花をモチーフにしてありそうだけど・・・わかんないな


境内に井戸が!


歴代お上人の御廟を参拝。
初祖は日善上人です。日朗上人の優秀なお弟子さん・九老僧の一人ですね!
二世の日行上人も同じく九老僧です。


これは星井戸というそうです。
星下りの奇瑞とは、明星天子が釈尊の名代として梅の木に降臨したということのようです。
で、その明星天子はこの星井戸に姿を消したそうです。


お寺の梵鐘にも「明星天子」の文字がありました!


大檀越・本間重連公の屋敷跡にできたこの霊跡本山・妙純寺。
とてもわかりやすく解説を掲示してくれており、知識の薄い僕には助かります。
広大なご霊跡を維持してゆくのだけでも大変だと思います。


その妙純寺の檀越・内田家の現当主は薬学博士のようです。
僕も薬剤師のはしくれとして、ちょっと身近に感じました。


長く後世に残していって欲しいものです。