仙台にやってきました!
杜の都で名高い仙台中心部には、官庁や企業の支社が所狭しと並んでいます。人口109万人、名実ともに東北一の巨大都市です。
交差点もご覧の通り・・・
片側7車線なんて初めて見ました!
仙台、といえば伊達正宗!
今回は伊達家にゆかりの深い、仙台の宗門寺院を紹介します。
巨大ターミナル・仙台駅から東へ300m程の街なかに、目指すお寺がありました。
孝勝寺です。
日蓮宗本山と刻まれていますね。
日蓮宗ポータルサイトによると、東北地方にある本山は、会津若松の↑妙國寺と、孝勝寺の2ケ寺です。
北海道には本山がありませんので、孝勝寺は宗門最北の本山、ということになるでしょう。
通称かな?「奥陽身延」とも呼ばれているようです。
身延山とのご縁が深いのかもしれません。
宗祖550遠忌に建立された法塔です。
江戸後期の、仙台法華衆の気持ちが込められています。
周辺には、塔頭寺院と思われるお寺がいくつか見られます。
(いずれも寺名にお題目の一字が入っています。)
例えば妙音院は
「七面山」と呼ばれているようですし、
法輪院には鬼子母神様がお祀りされているみたいですね。
諸天善神にがっちり護られている孝勝寺です!
山門です。
江戸末期に青葉城から移築されてきたそうです。
実は青葉城関連の建築物は、空襲でことごとく焼けてしまったため、この山門が、現存する唯一の建築物なのです!
山門の肩越しにも見えていた孝勝寺のランドマーク・五重塔です。
青森ヒバを用いて平成15(2003)年に建立されたそうです。
各層にはお題目の文字が掲げられています。
内部には上層から法華経、仏舎利、お曼荼羅、釈迦多宝仏像、宗祖像が安置されています。
日蓮聖人の宗教観を表現しているのでしょう。
平成の五重塔、といって連想するのが↑身延山の五重塔。調べると平成20年再建竣工です。
ということは、宗門はわずか5年ほどの間に、五重塔を2本建てたことになります!
本堂です。
旧本堂は昭和53(1978)年の宮城県沖地震で被災、4年後に今の本堂が再建されました。
これ、なに色っていうのかな?
落ち着いた華やかさを感じられる色です。
扁額の文字は・・・もしかして「情存妙法」かな?
妙法蓮華経提婆達多品第十二 にある言葉ですね。
「みんなの心の中に、法華経はあります」みたいな意味でしょうか。
歴代お上人の御廟を参拝。
東北宗門の中心的寺院を、長きにわたって護持してくださった先師達に、心から感謝します。
開山は古く、何と永仁3(1295)年!
日蓮聖人のお弟子さんである日門上人により「光明山大仙寺」が創建されたのがルーツです。
日門上人は一乗阿闍梨と呼ばれ、いわゆる中老僧の一人に数えられます。
今まで僕が訪問したお寺では、文永2(1265)年、潮来に↑妙光寺を開いたのが日門上人でした。
話はちょっと脱線しますが、大仙寺が開山された永仁3(1295)年、と聞いて頭に浮かんだのはこの方
六老僧・日持上人です。(↑画像は函館・実行寺の日持上人像)
日持上人は日蓮聖人の十三回忌を済ませると、翌永仁3(1295)年正月朔日に松野の蓮永寺を出立、奥州各地を巡化し、海を渡って蝦夷に入り、最終的に大陸に渡ったといわれています。
この時間的な一致は、単なる偶然でしょうか?
奥州には、平安時代に天台僧・円仁上人(のちの第3代天台座主)が開創したお寺が沢山あります。平泉の中尊寺(↑画像)をはじめ、恐山の円通寺、山寺で有名な立石寺など、有名どころの古刹は軒並み円仁上人の開山、いわば天台宗の牙城でした。
一方、日蓮聖人ご在世中に奥州に法華のお寺、というのは聞いたことがありません。実は布教に行かれたお上人がいらしたのかもしれませんが・・・恐らく永仁3(1295)年以前の奥州は、法華不毛の地であったと推測できます。
それだけに個人的には、日持上人の奥州巡化の旅と、大仙寺の開山が無関係とは思えないのです。
このブログでいつも参考にさせていただいている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)でも、日門上人と日持上人はごく近くにお座りになっているし・・・まぁ、オカルトでしょうが(笑)。
一方、大仙寺開山の十数年後、中老僧の日弁上人は陸奥国を教化に歩き、現在の宮城県角田市で暴漢に襲われて遷化されたと記憶しています。
(↑画像は高萩市にある日弁上人御廟)
鎌倉時代の奥州は、まだ法華未開の地ではあったかもしれませんが、彼らをはじめとしたエネルギッシュなお上人達が、拠点作りに尽力されていたのでしょうね!
話を戻しましょう。
時は流れ戦国時代、戦いに明け暮れる伊達正宗が、出陣の度に戦勝祈願したのが大仙寺だったそうです。東北の雄にまで登り詰めた正宗の、精神的な支えになっていたのでしょうね。
正宗は、縁起の良い寺として、大仙寺を「全勝寺」に改称しました。
正宗の死後、仙台藩主を継いだのは忠宗でした。
忠宗は善政を行って藩を潤し、同時に仙台城や城下の寺社を整備するなど、ヤリ手の藩主だったようです。
全勝寺の伽藍群はこの頃に整い、「善勝寺」と改称しました。
実は忠宗の正室・振姫は、法華経の篤信者として知られた方でした。
徳川家康の孫娘という血筋から、藩内でも一目も二目も置かれる存在だったと思われます。
お寺は伊達家の外護を受け、格式もここでグッと上がったのでしょう。
転々とした寺号が「孝勝寺」に落ち着くのは、三代藩主・綱宗の時代です。
これは篤信だった振姫の法名「孝勝院」に因んでいるそうです。
残念ながら三代藩主・綱宗に良い噂は聞きません。
生活が乱れ、藩政も疎かにしたことから、仙台藩は政情不安に陥ってしまい、宗綱は幕府から隠居を命じられてしまいました。
その息子・亀千代(のちの綱村)がわずか2才で家督を継ぐと、今度は藩政を牛耳りたい重臣達から、亀千代の命が狙われるようになります。血も涙もないですよね・・・。
このピンチに、宗綱の妻、つまり亀千代の生母である三沢初子は、必死に亀千代を守りました。
孝勝寺境内には、初子が亀千代を抱く母子像があります。
熱烈な法華信者であった初子は、毎日一寸八部の持仏(釈迦如来像)に亀千代の無事を祈りながら、命懸けで子育てをしました。
徳川家菩提寺である↑芝増上寺近くに、初子が使った井戸が残っていると聞き、訪問してきました。
港区役所前にある「浅岡飯(まま)たきの井」です。
江戸時代、ここには伊達家が増上寺参詣の支度所としている子院があったそうです。
初子(浅岡の局)は亀千代を毒殺の危険から守ろうとして、この井戸の水を汲んで自ら調理したという逸話が残っています。
同時に初子は、目黒正覚寺の鬼子母神像に、亀千代の無事と健やかな成長を祈念したそうです。(↑画像は正覚寺・鬼子母神堂)
その正覚寺境内には、打掛を纏った初子の姿が銅像になっています。
凛とした佇まいは、僕の想像していたイメージそのものです。
初子は立派に亀千代を育て上げ、47才で亡くなりました。
現在、両親とともに正覚寺墓地に眠っています。
亀千代は元服してのちに綱村となり、初子の追善供養として、榴ヶ岡(つつじがおか)という場所にお堂を建て、初子が生涯大切にした釈迦如来像をお祀りしました。
(榴ヶ岡は孝勝寺の北側数百メートルに位置します。)
ちなみにその釈迦堂は、昭和48年の県立図書館建設のため、現在は孝勝寺境内に移設されています。
綱村は防風林の植樹や運河開発など、多くの功績を残しました。
特に、荒廃していた↑塩竈を復興し、港町として繁栄させたため、現在でも塩竃の人は、綱村を「恩人」として尊敬しているようです。
また綱村は慈母がこよなく信仰した法華経、そして孝勝寺を手厚く保護し、孝勝寺を藩随一の大寺に育て上げました。
更に飯高檀林の首座(化主)であった六牙院日潮上人を、孝勝寺33世として招聘し、仙台宗門が教学を深める機会を設けました。
綱村自身も勉強熱心な方だったようで、日潮上人に深く帰依し、信仰を深めていったということです。
六牙院日潮上人は、のちに身延山久遠寺の36世法主となる方です。
孝勝寺が「奥陽身延」と呼ばれる所以かもしれません。
身延山総門の扁額「開会関」は日潮上人の揮毫です。
また、お寺やお坊さんのプロフィールでよく目にする「潮師法縁」の「潮師」って、日潮上人なんだって!
俄然身近になりました。
こうして多くの方に護られ、仙台の町とともに発展した孝勝寺。
宗門最北の本山として、東北全体の安寧を祈る拠点となってきました。
2011年の大震災以来、孝勝寺は被災地のいわば象徴として、犠牲者の慰霊に努めてきました。
頭が下がります。
本堂には、身延山大学で制作した、慈母観音像が安置されています。
目の前で拝ませていただきましたが、包み込まれるような優しさを感じる、素晴らしいお像でした。
間もなく大震災から10年。
心の傷に苦しむ人々が、等しく救われるように、と祈りました。
さあ、帰ろう。
大好物のずんだ餅、食べて!
お寺巡りで出会う、先人達の生きざまは、翻って自分の生き方を見つめ直すきっかけとなります。
今回も本当に、いろんな事を感じ、自らを省みることが出来ました。
実りの多い、杜の都のお寺でした!