日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

調神社(さいたま市浦和区岸町)

2018-05-24 19:03:05 | 旅行
さいたま市浦和区に走っている旧中山道。
その沿道でもひときわ深い森があります。


調神社(つきじんじゃ)です。


神社の縁起によると、調神社の「調(つき)」とは、伊勢神宮に納める貢ぎ物のことだそうです。
調物(貢ぎ物)となる、武蔵野で収穫されたお米を貯蔵する倉庫に造営された神社だから、調神社というみたい。


神社なのに鳥居がない・・・おかしいぞ!


調物(貢ぎ物)を搬入する作業優先で、鳥居が取り払われ、それが今に至るといいます。


この鳥居がない神社に、日蓮聖人のご霊跡があるそうですが・・・宮司さんに聞いてみました!

神社の南側にありました!
日蓮聖人 駒つなぎの欅(ケヤキ)です。


調神社とは、一応小径を挟んでいます。


佐渡に向かう道中、日蓮聖人はここを通りかかり、わざわざ欅の木に馬をつないで、調神社を参拝されたそうです。



神社の縁起によると、お祀りされている神様は、天照大神(アマテラスオオミカミ)、豊宇気姫命(トヨウケビメ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だそうです。


日蓮聖人が何にビビッときて、敢えて馬を木につないでまで拝みたかったのか、今の僕には・・・さっぱりわかりません。

しかし日蓮聖人がまだ蓮長だった頃、伊勢神宮を参拝し、国難を救うために法華経を広めるという誓いを立てたそうです。
その伊勢神宮を支援する神社を見つけ、伊勢神宮に拝む気持ちで、誓いを新たにしたのではないでしょうか。


この神社にはウサギの置物が至る所にあります。
天照大神だから因幡の白ウサギなのかな?と思っていたら、違いました(笑)
調神社は月神社とも呼ばれていたそうで、月で餅つくのはウサギってことで、それでウサギなのだそうです!


駒つなぎの欅の根は、石碑を包み込んでそろそろ一体になりそう・・・。

それにしても日蓮聖人のご霊跡を、今でもこうやって残して下さっている調神社に、心から感謝です。

今後、各地のご霊跡を巡ってゆく中で、日蓮聖人と神社との関わりが少しでも理解できれば良いと思います。

長誓山妙顕寺(戸田市新曽)

2018-05-23 20:33:36 | 旅行
戸田の妙顕寺は、日蓮聖人が佐渡に配流される際にお泊まりになったといわれる、新倉のほど近くにある古刹です。
和光の妙典寺と、ほぼ同じ縁起を持ちます。


正面右の大きな題目法塔の側面には・・・


「子安佛安置」と刻まれています。


正面左の古い題目法塔には・・・


開山が日向上人であることが刻まれています。


山門の奥に、もうひとつ門があるぞ。


仁王門だと思われます。結構歴史のある門なのではないでしょうか。


とても個性的な扁額ですね!


仁王門の前にある灯籠には「身延山」の文字
戸田の妙顕寺は以前は久遠寺末だったそうで、その名残りなのかな?


本堂に向かう道の両側にはパンジーが植えられています。
よく手が入れられている境内です。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


台座には開目抄の一節。
お祖師様が佐渡に到着してすぐに執筆を始めたと言われています。ということは、この界隈をお通りになった数週間後には筆を執ったのかもしれませんね。


本堂です。初夏の日差しが屋根を明るく照らしています。


本堂には「子安堂」の扁額。


境内の供養塔に、日蓮聖人とこのお寺との関係を示す、彫刻?塑像?があったので紹介します。
文永8(1271)年10月11日、久米川を出発した日蓮聖人は新倉の地を通りかかりました。
そこで日蓮聖人は新倉の地頭をしていた隅田五郎時光(妙典寺では墨田五郎時光と表記されていた)公に再会しました。
数年前に房総の笠森観音で帰依した、日蓮聖人にとっては旧知の信者さんだったわけです。

しかしその頃、隅田五郎時光公の奥様は難産に苦しんでおり、日蓮聖人に安産の祈祷を乞いました。
日蓮聖人は早速祈祷を行い、安産祈願の護符をしたためます。


この護符を苦しむ奥様に飲ませたところ、間もなく仏様の功徳により・・・


元気な男の子が生まれました。
隅田五郎時光公は、男の子に德丸と名付けました。


時は流れ德丸が9才になった頃、隅田五郎時光公は父子で身延山に日蓮聖人を訪ねました。
「あの時の祈祷により無事生まれたのが、この德丸です」とでもお話しになったのでしょうね。

隅田五郎時光父子は恐らく相当な覚悟をもって身延山を訪れたのでしょうか、そこで出家をしました。
時光は日德、德丸は日堅の法名を日蓮聖人から頂き、のちに新倉に日向上人をお招きして妙顕寺を開きました。

・・・とこんな感じでしょうか。絵で示されているとイメージが湧きますね!


最後に埼玉・戸田の宗門を支えてきた歴代お上人の御廟を参拝しました。


宗祖日蓮聖人の供養塔を中心に、数多くの石塔が並んでいます。


こちらは開山として招かれた日向上人


こちらは開基の日德、日堅の法名が刻まれている御廟です。


季節は初夏!
ツツジがそろそろ終わり、


アジサイが似合う季節になってきました!


そう、日蓮宗ゆかりの橘の木もありましたよ!

橘はみかんの仲間だから、そろそろ白い可憐な花が咲く頃かな?

長光山妙典寺(和光市下新倉)

2018-05-22 22:50:25 | 旅行
昨年の春に訪問した久米川の立川家

文永8(1271)年10月10日、佐渡配流が決まっていた日蓮聖人が、厚木の依知を出発して最初に宿泊したご霊跡です。
↑はグーグルストリートビューに残っていた画像です。
しかし実際に訪れてみると、新しい宅地に開発されており、名残りも何もなくなっていました・・・。

日蓮聖人が立川家にお泊まりになった翌日に、新倉という場所にご一泊されたようです。

新倉にあるご霊跡が、長光山妙典寺です。


「子安御霊池」と刻まれています。
池があるのかな?


通りに面した門の内側にもう一つ門があります。
外側が総門で、内側が山門でよろしいでしょうか?


山門の天井には、格子の中に家紋が描かれています。
ご縁の深い家の家紋なのかもしれません。


山号は長光山です。


本堂です。重厚な雰囲気がありますね~


一つ疑問が生じました。
日蓮聖人が佐渡に向かう時に通ったと考えられるのは鎌倉古街道の「上ツ道」だと思われます。
上ツ道を依知→久米川と来たら、常識的には越生とか毛呂山とかにお泊まりになって、そして翌日児玉に至るのではないでしょうか?
でも、久米川から向かった新倉は現在の和光市ですよ!

どうして急に「上ツ道」を外れて、経路を東に取ったのかな?


そのヒントになるのが「墨田五郎時光」という人です。
文永4(1267)年、つまり小松原法難から3年後、日蓮聖人が房総地方を教化に巡られていた頃に、日蓮聖人に帰依した方なのだそうです。
日蓮聖人が佐渡に向かう当時、ここ新倉界隈の地頭をしていたみたい。



もしかしたら墨田五郎時光公から案内があったのかもしれませんね。
実はこの界隈には日蓮聖人にゆかりがある、といわれる場所が点在しています。
後日レポをあげます!!


その日、墨田五郎時光公の表情が暗かったそうで、それに気付いた日蓮聖人は理由を聞いたそうです。

実は墨田五郎時光公の奥様が、ここ数日難産で苦しんでいたのです。


早速、日蓮上人は墨田五郎時光公の館に行き、若い柳の枝を折ってつぶして筆代わりにし、法華堂で護符をしたためました。
そして安産祈願のご祈祷をしたそうです。

本堂の裏手に法華堂がありますが、この逸話をルーツとするお堂なのでしょう。


ご祈禱ののち、庭に湧き出ている清水を汲み、難産に苦しむ奥様の口に注いでやりました。
するとほどなく男の子が生まれたそうです!
墨田五郎時光公、嬉しかっただろうな~

この湧水は現在でも「子安の池」として清められています。
出産を控えた方々は、池のほとりで手を合わせることで、安産の功徳をいただくことができるのでしょうね。


本堂脇に、新本堂落慶を記念した石碑がありました。

寄進者名が刻まれているのですが、「須田」さんの多さに驚かされます。
墨田五郎時光公の子孫なのかもしれないですね!


歴代お上人の御廟を参拝。
最近、妙典寺の先代ご住職・四十九世が遷化されたらしく、現在のご住職が五十世ということになります。
本当に多くの先師たちが、このお寺の歴史を支えてきたのですね。


開山は日蓮聖人、二世が六老僧日向上人、そして三世が日德上人、四世が日堅上人となっています。
弘安2(1279)年、墨田五郎時光は身延山に日蓮聖人を訪ね、出家して日德上人になったそうです。
また、その時同行した息子(難産の末、生まれた子)は日堅の法名を頂いたといいます。

出家した翌年に自分の館をお堂にしたのが、長光山妙典寺のルーツです。


日德上人は、このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。
お祖師様ととてもご縁が深かった方と思われます。


立派な鐘楼がありました。


鐘には由緒が書かれていました。
太平洋戦争末期、国の命令で鐘を供出せざるを得ず、しばらくは鐘がないお寺だったようです。
しかし四十六世のご住職と壇信徒の努力で、立派な梵鐘を吊り下げることができたのだそうですよ。


みんなでお題目をあげることができる場所を、みんなで支える。
大事なことだと思います。



新倉をあとにした日蓮聖人は進路を西にとり、再び「上ツ道」に戻って児玉に至ったそうです。

藤曼荼羅(笛吹市御坂町)

2018-05-04 12:48:58 | 旅行
御坂みち

遠くに見えるのは御坂峠です。
カーナビでは現在の国道137号線が「御坂みち」になっていますが、本当はこの旧道が「御坂みち」です。


御坂みちは、甲斐から鎌倉へ抜ける重要な交通路で、別名を鎌倉街道とか鎌倉往還って呼ばれてたみたい。


弘安5(1282)年、体調が芳しくない日蓮聖人が身延山を下山し、当初は常陸で湯治をするためにこの道を通ったと考えられています。


道ばたに、お祖師様がご休憩されたことを刻んである石碑がありました。


ん?「弘安3年、卯月」って刻んである。
てっきり日蓮聖人最後の旅の「弘安5年」って刻んであるものと・・・。


「藤曼荼羅 御染筆之霊跡」とも刻まれてますね。
石碑からすると、弘安3年にお祖師様がお曼荼羅をこの場所で書いた、と解釈できなくもないですが・・・。
それにしても藤曼荼羅、どんなお曼荼羅なんだろう?


もしかしたらここに刻まれている「米倉山妙昌寺」というお寺に格護されているのかもしれません。

日蓮宗ポータルサイトによると、ここから数キロ離れた場所に、妙昌寺というお寺があります。
機会があったら参拝してみたいものです。


そういえばこの界隈の民家にはきれいな藤の花がたくさん咲いています。
僕が訪問したのがちょうど卯月だったので、お祖師様も身延山中で藤の花を見ながら、ここ黒駒に住む旧知の方のためにお曼荼羅を書いたのかもしれません。
それが弘安3年のことだった、と理解するのが自然でしょうか。


ここから1キロほど御坂峠側に、「日蓮聖人腰掛石」があるそうです。
行ってみましょう!

さすがブドウの産地、いたるところに畑があります。
若葉が出たばかりなのかな?初秋においしいブドウがたくさん実りますように!


小道のかどに、ひっそりとご霊跡がありました。


「日蓮大菩薩 御腰懸石」

「腰掛」じゃなく「腰懸」なんですね!
先日の発軫閣にあったのも「腰懸石」でしたし、葉山のご霊跡・実教寺の山号も「腰懸山」でしたね~

恐らくこの石なんじゃないかな?
座布団みたいな形です。
長い年月が経っても苔むしてないのは、歴代ここを維持して下さっている方々が、よく磨いて下さったからだと思います。


ここにも藤の花!
それにしても、細い旧道の道ばたに密集してご霊跡があるということは、日蓮聖人ととてもご縁が深かった地域に違いありません。


日蓮聖人の池上への旅の途次、弘安5(1282)年の9月11日に黒駒に宿泊された、といわれています。
難所の御坂峠にさしかかる前に、以前から馴染みのある、なつかしい黒駒の地で、一夜を過ごしたのでしょう。

この翌日に河口、13日に呉地、14日に竹之下・・・と池上の道は続いてゆきます。

石割稲荷社(身延町身延)

2018-05-01 19:16:00 | 旅行
総門付近にも枝垂れ桜が結構あります。

この桜は遅咲きなのかな?


身延川の河川敷には大木の根っこ!このところの豪雨で転がってきたんでしょうか?
業者さんたちが一生懸命撤去して下さっていました。
多くの方々のおかげで、聖地の平穏は保たれているんですね!!


以前から車で通る時に気になっていました、お稲荷さん。


赤い鳥居には「稲荷大明神」の扁額


神様のお使い、キツネが見守っています。


急な坂道を上って行きます。


わ~、150m!!
がんばるぞ~


野生の蘭がたくさん咲いています。
白にちょっと黄色と紫が入っててキレイ。


道ばたには大きな岩がごろごろ。


お社が見えて来ました。もうすぐ!


到着~!
当日は氏子さん方でしょうか、お堂の改修をしていました。ご苦労様です!


縁起がありました。
お祖師様が身延に入山された日は、雨だったんですね~!
この村の方が日蓮聖人に蓑(みの)を捧げ、村人も蓑を着てご案内したことから、「蓑夫」(みのぶ)と言われるようになったと書いてありました。

知らなかった~!!


日蓮聖人が入山された当時は、もちろん↑こんなきちんとした道はなかったと思われます。
恐らく、ごうごう流れる身延川の岸の狭いところを、進んでいったのではないのでしょうか。


その際、行く手を阻んでいた巨大な石が自然に割れて、中から白髪の老人が現れたそうです。
↑の石が、まさにその時に割れた石だといわれています。


左右の石の形を見ると、凹凸がぴったり合わさります。
不思議!


日蓮聖人は老人に優しく聞きました。

「あなたはどこからいらっしゃったのですか?」


老人は合掌しながら言いました。

「私は元来、この山に住む者です。今は誰一人として愛してくれる人もないだけでなく、追われて岩屋の中に閉じ込められている、哀れな野生の者です」


「今世の生物に憐れみ深い日蓮聖人がはるばる甲斐路においでになり波木井殿と対面されると聞き、巌(岩かな?)を破って出てきました」


「私は稲荷大明神の申し子です。この世のために一日も早く開宗されますよう」

と、日蓮聖人に申し上げたそうです。


この一部始終を見ていた村人たちが、この場所にお社を造り、老人を神として祀ったというのが、石割稲荷社のルーツだそうです。


この提灯やのぼりには「南無石割稲荷大明神」と書かれていました。
神仏習合の名残りなのかもしれませんが、その縁起からすると、とても自然に思えます。


山側のところどころに小さい祠があり、それぞれにきちんと人の手が入っているのがわかります。
見えないものを信じる慈しみ深い方々によって、日蓮聖人のご霊跡は今日も維持されていることを再認識しました。


ちなみに石割稲荷社は積善坊さんが管理して下さっているようです。


若葉が芽吹き、生き物たちが動き出す春!

元気が出てきたぞ~!