先日、昔の写真アルバムを整理していたところ、僕が初めて身延山に登詣した時の写真が見つかりました。
(身延山奥之院山門にて、手前左が僕:1974年夏)
昭和49年ですから、今からちょうど50年前のことです。
その旅のこと、ほぼ忘れてしまったのですが、実は1ヶ所だけ、鮮明に覚えているところがあります。
家族で登った菩提梯です!(当時の写真がないのが残念)
小学1年生の僕が、いいとこ見せたくて、壁のような石段を一気に駆け上がっていた記憶。
そして遙か下を必死に登ってくる両親や姉を見下ろして、悦に入っていた記憶。
およそ煩悩だらけの思い出ですが、それが僕の、身延山での一番古い記憶です。
今回はその菩提梯について、書いてみたいと思います。
まぁ、いつ見ても圧倒されます。
三門と本堂、標高差104mを一直線で結ぶ、287段の石段です。
登った人にはわかると思いますが、1段1段が高い!
単純計算で1段あたり36cm(一般的な階段は20cm位)。
傾斜角40度前後が延々続くわけですから、キツいはずです。
ただ、この菩提梯がなかった時代、参詣者は土の、それも急峻な道を通ってゆくしかありませんでした。
雨の時などは、さぞ大変だったでしょう。
菩提梯脇にある説明板には
「26世日暹(せん)上人代の寛永9(1632)年に、佐渡の住人 仁蔵の発願によって完成したものです。」
とあります。
仁蔵、すげえな・・・。
これだけの巨大建造物です。どんなに信仰が深くても、いち民間人がおいそれと造れるレベルではありません。
仁蔵、何者なんだろう?と、以前から不思議に思っていました。
身延町誌には、地域で伝承された民話として、こう書いてあります。
(寺平の身延山大学グラウンドから身延山を望む)
「寛永年間に仁蔵という佐渡の船頭が、身延山に登山した。当時まだこの石段はなかったので、仁蔵は本堂前の急坂を見て、どうかして石段を作りたいと考えた。そして、宗祖の御前へ参籠して、『石段を作るだけの金を授け給え』と祈願した。」
(真野湾越しに大佐渡山地を望む)
「それから後、船頭仁蔵は佐渡の近海を航海していた時、佐渡の山の上に何か光るものを見た。不思議に思って登ってみると、一面の金であった。偶然とも不思議とも例える言葉もないような幸運につきあたった仁蔵は、これも日蓮聖人が下されたものであると堅く信じ、巨万の金を持って身延山へ登山した。」
「それから後、船頭仁蔵は佐渡の近海を航海していた時、佐渡の山の上に何か光るものを見た。不思議に思って登ってみると、一面の金であった。偶然とも不思議とも例える言葉もないような幸運につきあたった仁蔵は、これも日蓮聖人が下されたものであると堅く信じ、巨万の金を持って身延山へ登山した。」
「そして、立札を作り『石一つ運んだものに銭百文を与える。』と村々へ布告した。金の力は偉大なもので、数日の間に必要以上の石材が集まった。こうして、あの天にも届くかと思われる大菩提梯(ぼだいてい)ができ上ったのであると伝えられている。」
(身延町誌 第七節の一、口碑伝説)
身延界隈では「仁蔵」は佐渡の船頭で、偶然佐渡の金脈を発見した人、だと伝わっているようです。
ちょっと信じがたいですが、夢のある話ですね!
一方、身延山26世智見院日暹上人は、「仁蔵」に対し、実際にご本尊を授与しています。
この脇書には、「仁蔵」の正体に迫る記述があります。(脇書は漢文調、カッコ内は僕の現代語訳です。悪しからず…)
(身延山短大仏教文化研究所編「身延山諸堂記外」より引用)
「仁蔵法諱蓮心宗門無類信士其先但州之人也」
(仁蔵 法名蓮心は、宗門でも無類の篤信者、但馬の人)
「佐州金銀山之開基味方但馬守家政(※)之父也」
(佐渡の金銀山を開発した山師 味方但馬の父)
(※)味方但馬は名を「家政」とも「家重」ともいわれる。佐渡宗門では「家重」の方が一般的
「寛永九壬申春三月初吾山壇階之切石搆営重畳之砌」
(寛永9年3月初め、切石を積み重ねて身延山に石段を造るという大事業の際)
「投置一石者附与銅銭一百穴焉」
(一石を投げ置く者には銅銭一百穴を付与した)
「以郡郷雲如来役夫山如集不日成功」
(そのおかげで役夫が山のごとく集まり、日ならず完成した)
「畢况復塚原中興之大檀那也」
(大事業を終え、佐渡塚原中興の大檀那に戻った)
ここで味方但馬(みかたたじま)家重(=家政)について解説したいと思います。
(史跡 佐渡金山入口:味方但馬も開発した青盤脈にある)
味方但馬家重(元の名は村井孫太夫)は佐渡金山を開発した山師、いや大山師です!
もともと武家だった一族は、播磨国三方(今の兵庫県中西部)に拠点があり、味方姓を名乗ったようです。
播磨国には鉱山が多かったためでしょうか、いつからか鉱山稼業に転換、一族の中でも、味方但馬家重(以降 味方但馬と表記します)は山師としてのセンスが抜群で、佐渡奉行・大久保長安の招きにより、当時大金脈が発見されたばかりの佐渡に渡りました。
山師は鉱山の専門家であると同時に、企業家でもありました。
多くの労働者を雇い、坑内作業から選鉱、精錬、運搬まで、鉱山の仕事全てを、自分の資力と責任で経営していました。
(山師も立ち会う鉱脈の試掘:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
大鉱脈に当たれば一夜で大富豪に、逆にひとたび落盤や水没でもあれば破産してしまうという、博打のような仕事でした。
(「山師」って言葉、ギャンブラーや詐欺師的な意味合いもありますよね!)
江戸初期、佐渡には40人以上の山師がいたようですが、味方但馬はその中でも一番稼いだ山師ではないでしょうか。
(水上輪による排水:内閣文庫蔵「佐渡金山金掘之図」より引用)
味方但馬最大の強みは排水技術の高さ。水没により他の山師が手放した坑道を再生させ、巨大金脈を開発します。
(史跡 佐渡金山内に展示される金貨)
最盛期にはわずか10日間で、今の価値にして十数億円分もの鉱石を掘り出したようです。
このうち3~4割を幕府に上納、すると幕府の財政も潤います。
そのため味方但馬は徳川家康に謁見を許され、このとき「味方但馬守家重」の名を頂戴した、といわれています。
(具足山妙覺寺山門)
一方、味方但馬の一族は、代々日蓮宗を信仰しており、京都妙覺寺を菩提寺としていました。自身も熱心な信者だったようです。
味方但馬は金山開発で得た莫大な富に溺れることなく、佐渡の日蓮宗寺院に軒並み喜捨し続けました。
まさに佐渡宗門を支えた大檀那、大功労者なのです!
(塚原山根本寺境内)
特に当時の佐渡根本寺住持は栴檀院日衍(えん)上人、本寺の京都妙覺寺から来島したというご縁もあったのでしょう、味方但馬は深く帰依、根本寺は彼一人の資力で、山容を一新することができました。
(根本寺祖師堂)
(築山は「布金壇」といわれる)
根本寺祖師堂は小高い築山の上に建立されていますが、「味方但馬は土を運んだ者には一簀(み)あたり銅銭一百穴を与えた」旨が書いてありました。
お!?このやり方、まさに菩提梯の工事と同じですね!
かなり話が逸れちゃいました。さきほどのご本尊の脇書に戻りましょう。
この脇書によれば、「仁蔵」は「味方但馬の父」と読み取れますが、調べると味方但馬の父である村井善左衛門は慶長8(1603)年に病没、また味方但馬自身も元和9(1623)年に亡くなっており、いずれも菩提梯建立を発願したといわれる寛永9(1632)年には既に鬼籍に入っています。
(フェリーから佐渡島を望む)
ちなみに味方但馬が佐渡に渡った時期は、大久保長安が佐渡奉行に就任した慶長8(1603)以降でしょうから、「仁蔵」が金山を発見し、巨万の富を築いたというのは、のちに作られた話ではないかと思います。
ちょっと気になるのは、菩提梯発願の年のわずか2年前、江戸城で身池対論が行われていることです。
受布施を主張する日暹上人など身延山と、不受不施を主張する日樹上人など池上との対論で、幕府は不受不施派を敗者とする裁定を下しました。
(具足山妙覺寺本堂)
これにより不受不施派の拠点はことごとく身延山側に接収されます。
特に味方但馬の菩提寺である京都妙覺寺は、不受不施派の祖・仏性院日奥上人を輩出したお寺でしたから、人事は慎重を極めたのでしょう、身延山21世を歴任された寂照院日乾上人が入っています。
味方但馬は佐渡金山の他にもいくつか鉱山開発をしていましたが、摂津国(今の兵庫県東部)の多田銀山もその一つでした。
多田銀山は能勢妙見山↓のすぐ近く、それこそ10km程しか離れていません。
古くから鉱山に携わる人々は、妙見様への信仰が強かったと聞きます。
天空の星々が地上に降って鉱物になる、と考えられていた時代もあったようです。
(妙見山の頂上付近に白い自衛隊のレーダー施設が見える)
そう、佐渡金山の近くにも妙見山↑がありますね!
(能勢妙見山境内の日乾上人像)
多田銀山にほど近い能勢の妙見山は、古来地元で信仰されていた星信仰を、寂照院日乾上人が法華経で勧請し直し、山頂に妙見大菩薩をお祀りしたのがルーツです。
なんか不思議!いろいろリンクしてきます。
(身延山歴代墓所にある日暹上人墓)
一方、さきほどの身延山26世日暹上人は、日乾上人からみれば弟弟子(身延山22世日遠上人)の直弟子という、ほぼ一枚岩の関係です。
味方但馬の人となりは、日乾上人から日暹上人へ、確実に伝えられていたと、想像します。
僕は「仁蔵」について、こう考えています。
金山を当てて巨万の富を築いたのは味方但馬。
彼は「仁蔵」こと父・村井善左衛門が抱いた壮大な夢「身延山菩提梯」を継承し、子々孫々、今後何代に渡ろうとも、完成させようと決意したのだと思います。
前人未踏の巨大事業、味方但馬は金山経営と並行して、工事の段取りを模索していたのでしょう。
そんな矢先、味方但馬は60才で亡くなりますが、息子の二代目味方但馬家次が遺志を継ぎます。
寛永5(1628)年に身延山に晋山した26世智見院日暹上人は、味方但馬代々の熱い思いを汲み、寛永9(1632)年、「仁蔵」という佐渡の住人の発願という形で、快く事業開始を了承した、ということだと考えています。
つまり「仁蔵」は、味方但馬の父から始まる代々の総称、とするのが自然だと思っています。
実は昨春、佐渡を訪れた時、僕は佐渡金山近くで生まれ育ったお上人2名に、菩提梯を造った「仁蔵」は誰だと思うか、興味があって聞いてみました。
(大佐渡山地:山塊左端の奥に佐渡金山がある)
いずれのお上人も「仁蔵」は味方但馬で間違いない、佐渡ではそう考えられている、という結論でした。
もはや僕の中では、味方但馬説で決着しています(笑)。
ちなみに佐渡相川の金山近くには、二代目味方但馬家次が父・家重の菩提のため、日衍上人を開山に迎えて建立した光栄山瑞仙寺があります。
ご住職に瑞仙寺本堂裏にある味方家先祖代々の墓地(※)を案内していただきました。今でも末裔の方が島の内外にいらして、墓参に訪れるそうですよ。
僕も合掌し、「仁蔵」さんに感謝の気持ちをお伝えしました。
(※)味方但馬代々の墓所は、京都妙覚寺にもあるようです。
菩提梯は造営からそろそろ400年。
歪みやズレは多少ありますが、まだまだ圧倒的な存在です。
半世紀前、あの煩悩だらけだった少年が、今やこうして「仁蔵」の思いに感応しながら登っているんですから、この石段は単なる巨大建造物でなく…そう、悟りへの梯(きだはし)なのかもしれません。
最後に後日談。
この3月、身延山参詣の折、菩提梯の採石場跡を訪問してきました。
身延山の北側、下山地区の山間に、ひっそりと遺されています。
大きな岩が数塊あり、注連縄で丁寧にお祀りされています。
直線的に開けられた矢穴が、当時の石工の仕事ぶりを想像させてくれます。
お題目を独特の調子で唄いながら、ノミを打ち込んでいたのかな。
こういう観光地化されてない遺跡、僕はホント、気分がアガります!
説明文には、菩提梯の工期が寛永9(1632)年から80年間と書いてありました。
あれだけの傾斜ですから、大雨とか地震で崩れたりもしたでしょう。
修復に修復を重ねて、安定したのが80年後、だったのかな?と考えます。
ところでこの採石場跡、味方但馬が関わっていたのなら、妙見様が近くにあるんじゃないかと思って現地に赴いたのですが・・・なんと!
採石場跡のすぐ上に、北辰妙見大菩薩をお祀りするお堂、妙見寺があるではないですか!!
これにはマジで驚きました。
身延町誌によると、法光山妙見寺は文亀11(1514)年の創立とありますから、菩提梯造営よりも前に存在していたことになります。
まあ、オカルトでしょうが・・・意外とこういうの、あるんですよね!
やめられません(笑)。