―四方のたより Kへの通信
昨日は、お疲れさま、でした。
君にとっては、不本意なことも、いろいろとあったでしょうが、
兄と妹と弟、三人が揃った場に2時間余り立ち会って、家族としての、兄弟としてのさまざま来し方が、よくわかったような気がしました。
父親の早世も背景にあったでしょうが、君の妹や弟はなんとしても、母-君を基軸にして、生きてこなければならなかった-。そりゃそうだろうなあ、と痛いほど感じられました。
身内のあいだに、他者を介在させてみることは、問題解決にはとても大切なことですよ。
昔の家族制度なら、大概近くに叔父や叔母が居た。そういった存在が、他者の役割を果たして、縺れた結ぼれをほどいたり、なにくれとサポートできた。
今朝の新聞に、「独り暮し、3割超す」の見出しが躍っていました。
昨年の国勢調査に基づくものですが、
「一人暮し」31.2%、「夫婦と子ども」28.7%、「夫婦のみ」19.6%、「単親と子ども」8.8%、「その他」11.7%、とあります。
人間の社会というものが家族を単位として形成されるもの、という基本的原理がこうまで痩せ細ってきては、その社会に健全さを求められよう筈もなく、さまざまな病理現象があとを絶たないのも当然のことだろうし、世も末だと嘆かれるのもあたりまえだと思うよね。
でも、よく考えてみたら、人間の歴史なんて、有史以来、どの時点をとっても、つねに末法だったんじゃないか、ほんとうのところは。
話が横に逸れた。
とにかく君としては、これまでの生を、母-君を基軸に生きてきたと思われる、あの妹や弟の存在を、率直に心の頼みとすることが、ベターなんじゃないかと思います。彼らは、かなりの程度の甘えを許容してくれるよ、きっと。
もちろん、君の残りの生に寄り添ってくれ、その最後を看取ってくれようとしている存在を、排除しろなんてことを言うつもりは毛頭ないよ。
ボクとしては、もうすぐ日本にやってくるというその若い子をこの眼で見、彼女の想いをきちんと受け止めたうえで、君たちの関わりが、そんな嫌悪するべきものじゃないということを、僭越ながら君の妹や弟に助言できるようになれば、と願っているよ。
Photo/「石川九楊展」の小皿に描かれた千字文
昨日は、宝塚のK宅を訪ねる前に、伊丹の工芸センターで開催中の「石川九楊展」に立ち寄った。
彼の書論や書史論は頗る面白く読んでいるが、前衛書の鑑賞には、やはり期待薄で臨んで正解だった。
「源氏物語五十五帖」や小皿に描かれた「千字文」を一時間近くかけて拝見したが、心撲たれる感からは遠かった。
これがまさに営為として、そこに開陳される、即ちパフォーマンスとして行われたとすれば、それは一見の価値ありかもしれないが、作品となった書の表層から、その途方もないような営為の過程を追体験出来よう筈もない。そんなことはほんの入口のところですぐ頓挫してしまうのが常だろう。
会場を出てその界隈を歩いていると、酒蔵の旧岡田家住宅があったので見学。
天井の高いガランとした広い空間、黒っぽい漆喰の酒蔵が、そのままイベント空間として利用されているらしい。
思わず食指が動いた。
Photo/酒蔵の旧岡田家住居外観
―今月の購入本―
G.ベイトソン「精神の生態学」新思索社
H.R.マトゥラーナ/他「オートポイエーシス-生命システムとはなにか」国文社
U.エーコ「薔薇の名前 -下-」東京創元社
D.H.ロレンス/福田恒存訳「黙示録論」ちくま学芸文庫
「現代思想 2011/02 特集-うつ病新論」青土社
夏樹静子「裁判百年史ものがたり」文藝春秋
山之口獏「山之口獏詩文集」講談社文芸文庫
々 「山之口獏-沖縄随筆集」平凡社ライブラリー
南伸坊「顔」ちくま学芸文庫
「文藝春秋 2011年07月号」文藝春秋
―図書館からの借本―
U.エーコ「醜の歴史」東洋書林
G.ベイトソン/他「天使のおそれ-聖なるもののエピステモロジー」青土社
―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-172
6月30日、同前。曇、今日も門外不出、すこしは気軽い。
あさましい夢を見た-それはほんたうにあさましいものだつた、西洋婦人といつしよに宝石探検に出かけて、途中、彼女を犯したのだ!-。
私は、善良な悪人に過ぎない。‥‥
自戒三条
一、 自分に媚びるな
一、 足らざるに足りてあれ
一、 現実を活かせ
いつもうまい酒をのむべし、うまい酒は多くとも三合を超ゆるものにあらず、自他共に喜ぶなり。
Photo/KAORUKOと三恵寺の石仏と-‘11.04.30
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