山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

炎天の影ひいてさすらふ

2011-05-27 12:13:42 | 文化・芸術
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―四方のたより― 炭鉱の記録画「世界の記憶」へ

「世界記憶遺産」というのもあったんだ。不明にして知りませんでした。
昨日の新聞紙面に載った、狭い坑道で働く半裸姿の男女を描いた絵。
半世紀を炭鉱で働いたという山本作兵衛-1892~1984-氏が、その記憶をたよりに描きつづけた墨画や水彩画が1000点以上、絵の余白にはどれも細かな筆跡で解説文が添えられているという。
その作品の内584点が田川市石炭歴史博物館などに寄贈され、福岡県有形民俗文化財に指定されているのだが、このたび日本初の「世界記憶遺産」に登録されたというのだ。

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ならば、世界の記憶遺産とは、他にどんなものが居並んでいるか。
英の「マグナカルタ」、仏の「人権宣言」、「グーテンベルクの聖書」、「ニューベルンゲンの歌」、ベートーヴェンの「交響曲第9番自筆譜」、イプセンの「人形の家筆写本」、「アンネの家」などなど。
その他、「英国カリブ領の奴隷達の登録簿(1817-1834)」や「ベルゼンの癩病記録文書」、韓国の「訓民正音解例本」、カンボジアの「ツゥールスレン虐殺収容所博物館」などまでも網羅されている。

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写真は「田川市ホームページ」より拝借転載

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-165

6月23日、同前。
空模様のやうに私の心も暗い、降つたり照つたり私の心も。‥
ふりかへらない私であつたが、いつとなくふりかへるやうになつた、私の過去はただ過失の堆積、随つて、悔の連続脱多、同一の過失、同一の悔をくりかへし、くりかへしたに過ぎないではないか、ああ。
払ふべきものは払つた、といつてはいひすぎる、ほがらかになつたやうである。
多少、ほがらかになつたやうである。

※この日句作なし、表題句は6月19日所収

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Photo/妙青禅寺の山門と石段- 11.04.30撮影-


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ひとりをれば蝿取紙の蝿がなく

2011-05-25 21:01:14 | 文化・芸術
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―四方のたより― <脱成長>と<ポスト開発>

「経済成長なき社会発展は可能か?」セルジュ・ラトゥーシュ著、中野佳裕訳
3.11の大震災以後、日本中が福島原発事故のもたらす深刻な恐怖下にある事態のなか、折しも本書を繙くのは時宜に適ったものとは思われつつも、じっくりと読み進めるのはかなりの根気を要するものであった。

本書は4つの部分から成っている。第1部と第2部は、04年と07年にそれぞれフランスで刊行されたラトゥーシュの二著を合本翻訳されたもの。短かく挿入的な第3部は仏雑誌「コスモポリティーク」による著者へのインタビュー記事-06-。そして訳者による詳細なラトゥーシュ解説が第4部といった構成。

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第1部<ポスト開発>という経済思想―経済想念の脱植民地化から、オルタナティブ社会の構築へ
 序章 <ポスト開発>と呼ばれる思想潮流
 第1章 ある概念の誕生、死、そして復活
 第2章 神話と現実としての発展
 第3章 「形容詞付き」の発展パラダイム(社会開発、人間開発、地域開発/地域発展、持続可能な発展、オルタナティブな開発)
 第4章 発展主義の欺瞞(発展概念の自文化中心主義、現実に存在する矛盾―実践上の欺瞞)
 第5章 発展パラダイムから抜け出す(共愉にあふれる〈脱成長〉、地域主義)
 結論 想念の脱植民地化

第2部 <脱成長>による新たな社会発展―エコロジズムと地域主義
 序章 われわれは何処から来て、何処に行こうとしているのか?
 第1章 <脱成長>のテリトリー(政治家の小宇宙における未確認飛行物体、<脱成長>とは何か?、言葉と観念の闘い、<脱成長>思想の二つの源泉、緑の藻とカタツムリ、維持不可能なエコロジカル・フットプリント、人口抑制という誤った解決法、成長政治の腐敗)
 第2章 <脱成長>-具体的なユートピアとして(<脱成長>の革命、穏やかな<脱成長>の好循環―八つの再生プログラム-再評価する、概念を再構築する、社会構造を組み立て直す、再分配を行う、再ローカリゼーションを行う、削減する、再利用する/リサイクルを行う、地域プロジェクトとしての<脱成長>-地域に根差したエコロジカルな民主主義の創造、地域経済の自律性を再発見する、<脱成長>的な地域イニシアチブ-縮小することは、退行を意味するのか?、南側諸国の課題、<脱成長>は改革的なプロジェクトか、それとも革命的なプロジェクトか?)
  第3章 政策としての<脱成長>(<脱成長>の政策案、<脱成長>社会では、すべての人に労働が保障される、<脱成長>によって労働社会を脱出する、〈脱成長〉は資本主義の中で実現可能か?、<脱成長>は右派か、それとも左派か?、<脱成長>のための政党は必要か?)
 結論 <脱成長>は人間主義か?

第3部 インタビュー「目的地の変更は、痛みをともなう」

第4部 日本語版解説―セルジュ・ラトゥーシュの思想圏について(中野佳裕)
 1. セルジュ・ラトゥーシュの研究経歴と問題関心(フランス社会科学におけるラトゥーシュの位置付け、ラトゥーシュの思想背景、科学認識論プロジェクト―経済想念の解体作業)
 2. 解題『〈ポスト開発〉という経済思想』(開発=西洋化―われわれの<運命>の問題として、発展パラダイムの超克―インフォーマル領域の自律性)
 3. 解題「<脱成長>による新たな社会発展』(<脱成長>論――その歴史と言葉の意味、エコロジカルな自主管理運動としての<脱成長>論)
 4. 日本におけるラトゥーシュ思想の位置付け
 5. 結語 日本社会の未来のために―平和、民主主義、〈脱成長〉

―今月の購入本―
エルンスト.H.カントローヴィチ「王の二つの身体-上」ちくま学芸文庫
エルンスト.H.カントローヴィチ「王の二つの身体-下」ちくま学芸文庫

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 03年刊行文庫版の第2刷が昨秋発刊され、ようやく手に入る。

亀井孝編「日本語の歴史-別巻-言語史研究入門」平凡社ライブラリー
中川真編「これからのアートマネージメント」フィルムアート社
板坂耀子「江戸の紀行文-泰平の世の旅人たち」中公新書

佐藤春夫他「方法の実験-全集現代文学の発見-第2巻」学藝書林
大岡昇平他「存在の探求-下-全集現代文学の発見-第8巻」学藝書林
野間宏他「青春の屈折-下-全集現代文学の発見-第15巻」学藝書林
 学藝書林の上記3冊は60年代に編まれたシリーズの新装版、中古書

萩尾望都「残酷な神が支配する」-全10巻-小学館文庫
 その昔、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」は、萩尾望都の劇画でも読んだことがあった。この10巻本は吉本ばななの薦めにのせられて。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-164

6月22日、同前。晴曇さだめなし。
小串へゆく、もう夾竹桃が咲いてゐた、松葉牡丹も咲いてゐた。
あんまり神経がいらだつので飲んだ、そして飲みすぎた、当面の興奮はおさまつたが、沈衰がやつてきた、当分また苦しみ悩む外ない。
笑へない喜劇、泣けない悲劇、それが私の生活ではないか。
寺領借入の交渉が頓挫した、時々一切を投げだしたいやうな気分になる、こんなにまでして庵居しなければならないのか。‥‥
子供はほんたうに騒々しい、耳をふさいでゐた。

※表題句の外、2句を記す

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Photo/山頭火が長逗留した山頭園のすぐ坂下に建つ、コルトーゆかりの音楽ホールを併設するモダンな外観の川棚の杜-川棚温泉交流センター-がOpenしたのは昨年1月。


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いたゞきは立ち枯れの一樹

2011-05-10 13:28:44 | 文化・芸術
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―四方のたより― J.P.デュピュイの「プロジェクトの時間」

過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

「大惨事は運命として未来に組み込まれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。‥‥たとえば、大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずはなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること―それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。」

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれの運命を自由に選べるのだ。
環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。大惨事の起こる可能性を「現実的」に見積もるのではなく、厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。このように<運命>と(「もし」を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。
つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。まずそれが運命であると、不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、その観点から(未来から見た)過去へ遡って、今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。
  ―S.ジジェク「ポストモダンの共産主義」P247-248より

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-163
6月21日、同前。
昨夜来の風雨がやつと午後になつてやんだ、青葉が散らばり草は倒れ伏してゐる。
水はもう十分だが、この風では田植も出来ないと、お百姓さんは空を見上げて嘆息する。
私にはうれしい手紙が来た、それはまことに福音であつた、緑平老はいつも温情の持主である。
自分でも気味のわるいほど、あたまが澄んで冴えてきた、私もどうやら転換するらしい、―左から右へ、―酒から茶へ!
何故生きてるか、と問はれて、生きてるから生きてる、と答へることが出来るやうになつた、此問答の中に、私の人生観も社会観も宇宙観もすべてが籠つてゐるのだ。

※表題句の外、「花いばら、こゝの土とならうよ」を含む4句を記す

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Photo/川棚温泉から東へ1km程、閑静な山腹にある三恵寺の山門


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笠ぬげば松のしづくして

2011-05-09 14:58:53 | 文化・芸術
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―四方のたより― ふたり旅Repo-1

4月29日、天気晴朗、午前9時過ぎ出発。
玉出~池田間の阪神高速はスムーズに流れたが、中国道は池田入口から渋滞、宝塚のトンネルを抜けるまで1時間余りを要し、社PAでトイレ休憩。
中国道は、山陽道に比べ、道路面が荒れ傷みが進んでいるように思われる。次の休憩地は七塚原SAだったか、いずれも車と人で溢れている。レストランでのんびり昼食などとても望めそうもないので、腹の足しになりそうなものを買い求め、またぞろ車を走らせる。
そのまま走れば、宿泊予定の津和野には3時半過ぎには着いたのだろうが、気分を変えて、山陰へ抜けるべく千代田JCTから浜田道へと方向転換。日本海に沿って国道9号線を走る。その国道9号、しばらくは海沿いがつづくが益田市からは山間部へと分け入って山口市へと連なっていく。
遠回りしたので津和野に着いたのは午後4時過ぎ。ひとまず旧城下を通り抜けて、津和野城の山裾にある太鼓谷稲成神社へ。

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Photo/太鼓谷稲成神社全景と、社殿を背にして
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津和野の城下町、保存地域の殿町の堀割には無数の鯉が泳いでいるが、これがなべて大きく些か気味が悪いほどにメタボときているから、KAORUKOは怖がって近寄ることもできないでいた。

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Photo/堀割に泳ぐ大きな鯉たち

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宿は旧城下界隈から少し離れた町外れにある民宿のごとき「若さぎの宿」、さっそく内風呂をもらって、それから夕食。
食後の小一時間ほど、黄昏時の散策と洒落込んでみたが、宿で借りた婦人ものの下駄で歩くのに疲れたとみえて、KAORUKOのほうはなんだか精彩がない。此方もこちらで長い運転の疲れがどっと出てきて、早めの就寝となった。

<日暦詩句>-29
生きていることが
たえまなしに
僕に毒をはかせる
いやおうなさのなかで
僕が殺してきた
いきものたちの
なきがらを沈めながら
いまでは僕も
神のように
僕自身をゆるしているけれど
まもなく
あの暗い天の奥から
僕をめがけて
ふつてくる雪が
邪悪な僕の
まなこをとざすとき
僕になきがらが
なきがらだけの重みで
そのまましずかに
沈んでいくように
  ―会田綱雄詩集「鹹湖-カンコ-」所収「鹹湖」

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-162
6月20日、同前。

雨、梅雨もいよいよ本格的になつた、それでよすい、それでよい、終日閉ぢ籠つて読書する、これが其中庵だつたら、どんなにうれしいだらう、それもしばらくのしんぼうだ、忍辱精進、その事、その事。
雨につけ風につけ、私はやつぱりルンペンの事を考へずにはゐられない、家をもたない人、保護者を持たない人、そして食慾を持ち愛慾を持ち、一切の執着煩悩を持つてゐる人だ!
ルンペンは固より放浪癖にひきずられてゐるが、彼等の致命傷は、怠惰である、根気がないといふことである、酒も飲まない、女も買はない、賭博もしない、喧嘩もしない、そしてただ仕事がしたくない、といふルンペンに対しては長大息する外ない、彼等は永久に救はれないのだ。
今日も焼酎1合11銭、飛魚2尾で5銭、塩焼きにしてちびりちびり、それで往生安楽国!

※表題句の外、8句を記す

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Photo/復元保存されている山口市小郡の其中庵


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梅雨の満月が本堂のうしろから

2011-05-05 22:01:33 | 文化・芸術
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―四方のたより― スローな一日

「新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠」のレンズを通して世界を見ることだ。実際コミュニズムが「永遠の」思想であるのならば、それはヘーゲル哲学における<具体的普遍性>として機能する。どこにでもあてはまる抽象的で普遍的な特質というのではなく、新しい歴史状況がめぐりくるごとにモデルチェンジされるべきだという意味で、永遠なのである。」
「資本主義のパラドクスは、実体経済といあ赤ん坊を健やかに育てながら、金融投機という汚水は捨てられないことにあるのだ。」

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「古典様式は神秘という「秘匿されたもの」を、「悟性的な」単に「昇華された」自然において描き出そうとし、マニエリスムは「秘匿されたもの」を、「寓意的な」「イデア」のうちに往々にして「デフォルメされた」自然において力を発現せしようとする。
かくて形而上学的意味でも、二つの相異なった、とはいえ存在論的関連においてはいずれもそれなりに存在関連的な、人間性の原身振り-ウルゲベルデ-と関わり合うのである。そのいずれもが―それぞれ相異なるあり方で―深淵的なものに関連づけられている。
古典主義者は神をその本質-エッセンツ-において描き出し、マニエリストは神をその実存-エクジステンツ-において描き出す。
古典様式の危険は硬化であり、マニエリスムの危険は解体である。
マニエリスムなき古典様式は擬古典主義に堕し、抵抗としての古典様式なきマニエリスムは衒奇性へと堕するのである。」

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さすがに今日は出かける当て処とてなく、日なが一日まったりと読書に勤しむ。
S.ジジェクの「ポストモダンの共産主義」とG.R.ホッケの「迷宮としての世界」、まったく分野も異なる2冊を、気分転換よろしく並行して読んでみているが、内容が内容だけに進捗具合は遅々としたものだ。

<日暦詩句>-28
栂の杖にささへられ
ひとつの伝不詳の魂がさすらっていく
影は巌にも水のうへにも落ち
硬い時雨のそそぐ田舎-プロヴァンス-にきて
その魂の鴫のにはかに羽ばたく。
  ―安西均詩集「花の店」所収「西行」-昭和30年

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-161
6月19日、同前。

曇、時々照る、歩けば暑い、汗が出た、田部、岡林及、岡町行乞、往復6里、少々草臥れた。
朝の早いのは、私自身で感心する、今日も4時起床、一浴、読経回向、朝食、―6時前に出立して3時過ぎにはもう戻つてきた、山頭火未老!
-略- 途中、菅生のところどころにあやめが咲いてゐた、「あやめ咲くとはしほらしや」である、山つつじを折つてきた、野趣-山趣?-横溢、うれしい花である。-略-
笠から蜘蛛がぶらさがる、小さい可愛い蜘蛛だ、彼はいつまで私といつしよに歩かうといふのか、そんなに私といつしよに歩くことが好きなのかよ。
今夜は行乞所得で焼酎を買ふことが出来た-十方の施主、福寿長久であれ、それにしても浄財がそのままアルコールとなりニコチンとなることは罰あたりである-、そしてほろほろ酔ふた-とろとろまではゆけなかつた、どろどろへは断じてゆかない-。

※表題句の外、6句を記す

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Photo/川棚温泉近く豊浦町黒井菖蒲園のあやめ


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