山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

秋萩の露のよすがの盛りはも‥‥

2005-10-30 19:07:38 | 文化・芸術
Nakahara050918-012-1
Information<四方館Dance Cafe>

今日の独言

四方館稽古条々-「ポテンシャルを強めるべし」

 二週間前(10/16)の稽古で、ラカンを引いて「無意識とは、他者の欲望である」とするなら、即興において自分自身が繰り出してくる動きや所作自体が、すでに無意識裡に無数の他者たちによって棲まわれていることになる、といったような話をしたら、俄然、動きが自在となり豊かになった、と此処に書き留めた。そこで今日は、先とは逆療法的なアプローチだが、従来に比して「もっとポテンシャルを強めること。筋肉的な或いは見かけ上の強弱などではなく、心-身の内圧というか気の力というか、そういったものを強く保持せよ。」と伝えて稽古に入った。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-20>

 萩の花暮々までもありつるが月出でて見るになきがはかなさ
                                 源実朝


金塊和歌集、秋、詞書に「庭の萩二十日に残れるを月さし出でて後見るに、散りらたるにや花の見えざりしかば」と。邦雄曰く、月明りが白萩を無と錯視させたのか、否、実朝は心中に、跡形もない萩の「空位-ヴァカンス」を見た。数年後の死に向かって後ろ向きに歩む、源家の御曹司たる一青年の、これは声にもならぬ絶叫である、と。

 秋萩の露のよすがの盛りはも風吹き立つる色ぞ身にしむ
                                 九條家良


衣笠前内大臣家良公集、秋、萩花。鎌倉前期、実朝と同年。
二句「露のよすがの盛り」や三句「風吹き立つる色」など新古今などにはない詞の用法といわれる。邦雄曰く、耳に逆らいつつ、しかも快い修辞は作者の特色のひとつ。しかも風に揉まれて露まみれ、乱れる萩一叢が、ありありと眼前に顕れるところ、非凡というべきか、と。


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道のべのこなたかなたに‥‥

2005-10-29 23:17:22 | 文化・芸術
051023-153-1
Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

内閣府の学校教育に関するアンケート結果
 内閣府による学校制度に関する調査アンケートの結果が公表されている。回収サンプルは1270人。
保護者の学校教育に対する満足度は、不満乃至非常に不満が43.2%、どちらともいえないが43.9%。
教育内容の難易度について、易しすぎる乃至どちらかといえば易しいが61.0%を占める。
ゆとり教育の是非については、見直し派が61.6%で、継続派の5.0%を圧倒している。
教員に対する満足度について、満足派27.3%、不満派28.4%で拮抗し、どちらともいえないは44.3%。
などの調査結果とともに併せて、小・中の学校選択制度についても尋ねているが、賛成派が64.2%を占め、反対派は10.1%と少ない。
この調査結果が、即、文科省の教育改革に反映するとも思えぬが、学校選択制度の調査などが導入されているあたり、アンケートの結果も含めて、大いに気がかりな点だ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-19>

 道のべのこなたかなたに乱るらし置きそふ露の玉の緒薄  貞常親王

後大通院殿御詠、行路薄。15世紀中葉、後花園院の異母弟。邦雄曰く、露の玉・玉の緒・尾花・花薄と、懸詞風に要約して、さらりと結句に納めたところ見事。上句のややたゆたいをもつ調べと、下句の小刻みな畳みかける調べも、快い対照を生んでいる、と。

 置きまよふ野原の露にみだれあひて尾花が袖も萩が花摺  足利義政

慈照院殿義政公御集、尾花。15世紀後半、足利8代将軍。「尾花が袖」、尾花は穂の出た薄。風に揺れるさまを袖を振って招いているようだ、と擬人化。初句から三句まで、しとどに露を含む尾花が如実に浮かぶ。邦雄曰く、伊勢集に先蹤のある「尾花が袖」を、技巧を凝らして詠いこんだ。その尾花が袖を架空の萩の摺衣へと転移させ、幽玄の景色へと誘う、と。

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誰が秋にあらぬものゆゑ‥‥

2005-10-28 12:12:47 | 文化・芸術
Nakahara050918-038-1

Information<四方館Dance Cafe>

-今日の独言-

まだまだコップのなかの嵐。
 突然の関市長辞任劇から、大阪市長選挙は告示を前にいよいよ混迷の度を深めてきている。
自民市議4期目の元吉本タレントの船場太郎が出馬表明をしたが、どうやら自民党市議団も一枚岩ではないようだ。自民はあくまで自・公推薦の統一候補を望ましいとし、船場では公明の理解が得られそうもない。辞任から再出馬へと騒動の仕掛人関淳一は民主も加えた自・公・民推薦を期待しているが、民主の背後には市職労組の影が濃いとして、自・公が同調する気配はない。
もともと今度の市長辞任劇は、政治的読みの弱い行政あがりの関自身、与党会派の各党がどう動くかを読み切った上でのことではなく、進退極まった感で大鉈を振るったにすぎないところがある。些か辛辣な謂いをすれば、窮鼠猫を噛むに近い。彼自身、新たな出発を唱え、財政改革にヤル気を見せてはいるが、選挙の洗礼で矢つき倒れ付すもよしとしている節があるのではないか。自らまな板の上にのる鯉を演じきるには、開き直ったような覚悟だけではなく、周到な読みがなにより肝要だが、端からそれが感じられないのが、選挙騒動を混迷させている大きな因だろう。
それにしても、この騒ぎ、まだまだ市庁・議会のコップのなかの嵐でしかないというのが致命的で、このままでは市民を広く巻き込んだ嵐となる気配に乏しく、市民のなかに深く潜むマグマに誰も火を付けられそうにない。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-18>

 誰が秋にあらぬものゆゑ女郎花なぞ色に出でてまだきうつろふ
                                 紀貫之


古今集、秋上、朱雀院の女郎花合せに詠みて奉りける。
初句、二句の「誰が秋にあらぬものゆゑ」は後世によく採られている。邦雄曰く、他人の秋ならずわが秋、飽きもせぬものを、の意が透けて見えるように隠された、四季歌に恋の趣を添えている、と。「まだき」は、早くも。


 ほのかにも風は吹かなむ花薄むすぼほれつつ露に濡るとも
                                 斎宮女御徽子


新古今集、秋上、題知らず。
心ない風に吹き結ばれた花薄(すすき)が、心ある風に吹き解いて欲しい、と望み訴えているのが歌の意。邦雄曰く、縺れてぬれている花薄はすなわち作者の心、微風を待ち望む「吹かなむ」は、天来の便りを待つ趣。喪中にあって、村上帝の音信を仰ぐべくものした一首とも伝える、と。


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萩が咲いてなるほどそこにかまきりがをる

2005-10-27 17:51:01 | 文化・芸術
051023-135-1

<四方館ダンスカフェのお知らせ>

ダンス・カフェ第三弾の日程が決まったので以下ご案内する。

Dance-PerformanceとFree-Talkの一夜

「Transegression-わたしのむこうへ」

日時-11月29日(火) 午後7時open
場所-フェスティバルゲート4階COCOROOM
参加費-1000円(フリードリンク込)

詳細は<コチラ>をご覧ください

ここにあらゆる表現行為に通じる一考察、否、人が生きるなかでのすべての行為を表象の位相で捉えなおすならば、およそ人のなすあらゆる行為にも通じる考察というべき掌編を紹介したい。
市川浩がその著「現代芸術の地平」岩波書店刊の冒頭に掲げた短い一文だが、煩瑣を省みず全文を引用掲載する。


<線についての考察>

 空白にひかれた一本の線ほどおどろくべきものがあろうか? それはどのような出来事にもまして根源的な出来事であり、世界の誕生を――ものとしるしとの誕生を告げている。

 それはものである。一本の線はわれわれの視線を吸収し、もろもろの存在を背景へと押しやり、動かしがたいそれ自体の存在を主張する。それは何ものをも、自己以外の何ものをも指示しないのである。

 それはまたしるしでもある。一本の線は空白を分割し、みずから背景へとしりぞくことによって、空間を生みだす。あたかも永遠に逃げてゆく地平線のように、それはもっぱら天と地を、世界の区画を、彼方と此方とを指示するのである。そして幾何学上の線のように、自らはものとしての存在を失おうとする。

 しかし一本の線は、単にそれ自体で存在するのでもなければ、もっぱら空間を分割するのでもない。それは同時に空間を結合し、天と地を、彼方と此方とを、分かちえないものとして溶融しているのである。一歩の線はあちらとこちらとを分画した瞬間に、あちらでもあればこちらでもあることによって、自らを失う。

 それは<永遠の今>にあって凝固しているようにみえるが、この不動性はみせかけにすぎない。線は<生ける現在>によって支えられ、自ら延長し、線となる。ここから予測しがたい線の散策がはじまる。

 かぎりなく延長する線があり、足踏みする線がある。炸裂し、溶融する線、そして旋回する線がある。線に内在するこの運動によって、線の決定論はその一義性を失う。<生ける現在>は休みなく自らを更新し、あるときは季節の移りのように緩慢に、あるときは日の変わりのように、またあるときは火箭のようにすみやかに、すべての線を活性化する。

 こうして上昇する線と下降する線、現れる線と消えゆく線、直行する線と彎曲する線の対位法が生ずる。もっとも単純な一本の線のうちにも、追いつ追われつするフーガのように、線化のヒステレンス=履歴現象ともいうべき内面的構造がひそんでいる。

 すでに引かれた線は、線化の進行に応じて再編されつつ、遅れた効力を発生し、線化の先端へと飛躍する無数の力線を生み出す。一歩の線は変容をかさねながら、終りのない運動をもつ魔術的な幻惑をくりひろげ、世界の生成を通じて世界の<彼方>へと、時のきらめきを通じて<永遠>へとわれわれをいざなうのである。

 キャンヴァスにだまされてはならない。キャンヴァス上の収斂する線は、その不動のみせかけによってわれわれをキャンヴァスの上にとどめるが、それはキャンヴァスの手前へと、あるいはキャンヴァスの彼方へと空間をくりひろげるためにほかならない。われわれはキャンヴァスのこちら側に居合わせると同時に、キャンヴァスの彼方に立ち合っているのである。これは<眼だまし>であるが、絵画は<眼だまし>であることによって、われわれをめざめさせ、われわれに<見ること>の本質を開示する。

 線はこうして出現するやいなや、自らを超越する。たとえ<眼だまし>であろうと、一本の線は絶対的なはじまりである。それは自己を確定することによって、もろもろの可能な線を浮かび上らせ、再び自らを仮設的な存在へと、一つの出来事へと送りかえす。

 ここにわれわれの世界の創造の秘密、その両義性、絶対の弁証法ともいうべき転換が存在する。一本の線の出現は<サンス=意味>の誕生である。しかしそのサンス=意味は、空白の<ノン・サンス=無意味>の海のなかでしか<サンス=意味>でないことを認めなければならない。<サンス=意味>としての一本の線の出現は、ただちに空白を<サンス=意味>としての空間にかえる。一本の線は新たな<サンス=意味>を誕生させる<シニフィカシオン=意味作用>となるのである。そしてこの新たなサンス=意味の誕生は、引かれた線がみずから<ノン・サンス=無意味>へと後退することによってあがなわれなければならない。

 存在は<サンス=意味>と<ノン・サンス=無意味>とのたえまない転換のうちにある。われわれは、両者が交錯するこのような存在に名づけるべき適切な言葉をもたない。ただそれを現示し、その客観的相関物を創造することができるだけである。

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月草の心の花に寝る蝶の‥‥

2005-10-26 11:57:08 | 文化・芸術
Nakahara050918-023-1

Information<四方館 Dance Cafe>

-今日の独言-

紅葉だよりもあちこちと。
 秋の日は釣瓶落とし、まことに暮れ方は駆けるごとく陽が沈む。
秋晴れもめっきりと涼しくなって、紅葉のたよりも本格化している。
眼に鮮やかな楓の紅葉はたしかに見事な自然の造型そのものだが、山の傾斜一面に雑木のとりどりに彩色された黄葉ぶりを眺めると、なにやら心がしっとりと和む。
そんな時は、笈の小文に引かれた芭蕉の「造化にしたがひ造化にかへれ」を思い出すのだ。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-17>

 月草の心の花に寝る蝶の露の間たのむ夢ぞうつろふ  正徹

草根集、寄蝶恋。初句「月草」の色褪せやすさは詠い古されているとみて、「心の花に」と飛躍を試み、蝶こそは相応しく移ろいやすきものと暗示のうえ、縁語の「うつろふ」で一首を閉じている。
邦雄曰く、巧緻な修辞で創りあげた、手工芸品の感ある恋歌。ただ、この詠風に反感を覚え、採らないのも一見識か、と。


 朝顔をはかなきものと言ひおきてそれに先だつ人や何なる  慈円

拾玉集、無常十首。平安末期~鎌倉初期。頼朝の支持で摂政となった九条兼実の弟。
邦雄曰く、人の世と朝顔の照応、いづれ儚きの歎きを詠った作は夥しいが、なかでも抜きん出たものは、藤原道信の「朝顔を何はかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」と、慈円若書きのこの一首だ、と。


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