山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

秋風になびく浅茅のすゑごとに‥‥

2006-10-31 23:30:56 | 文化・芸術
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-表象の森- フロイト=ラカン:「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」
    ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」
・性関係にはいかなる正解もない。
精神分析の経験とは、この「正確の不在」を根源的な条件とした上で、それでもなおそうした問への答えを探してゆくプロセスである。
むしろ積極的な意味でのその主体固有の、つまりまったく独特の答えを、それ自身の新たな性関係のスタイルを、「愛し方」を到来させること。
・性関係とシニフィアンのこの両立不能性は、エクリチュールの問題として捉えられており、
性関係はまさに「書かれないことをやめないもの」と定義される。
「書かれないことをやめないもの」とは、ラカンがアリストテレスの4つの論理様相を見直しつつ、<不可能>に与えた定義であり、<必然>-書かれることをやめないもの、<可能>-書かれることをやめるもの、<偶然>-書かれないことをやめるもの、から区別される。
・主体と対象の関係は、いかなる意味でも現実の性関係に行き着かない。それはもっぱら<幻想>として生きられるのみである。男はいつも女ではなく自分の幻想を愛する。
・去勢を通過するということは、対象に合せて享楽を得るのではなく、享楽に合せて対象を見出す。性関係を幻想へと還元することである。
女児の場合、自分がペニスを持っていないという発見は、愛の対象を母親から父親へと変更する契機となる。つまり、女児ははじめに去勢を通過して、エディプスコンプレクスへと導かれる。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-84>
 秋風になびく浅茅のすゑごとに置く白露のあはれ世の中  蝉丸

新古今集、雑下、題知らず。
邦雄曰く、要は「あはれ」、第四句までは、これを導き出すための序詞に似た働きをなしている。新撰朗詠集の「無常」に採られたように、此の世のもの悉く滅亡寸前、太陽の前の露に等しいと見る心であった。新古今では、これに続く雑部巻軸歌に、同じく蝉丸作とされる「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」が採られている、と。


 たれかまた千々に思ひを砕きても秋の心に秋の夕暮  寂蓮

千五百番歌合、六百十八番、秋二。
邦雄曰く、春秋の、殊に心細る秋の日々の、さまざまにめぐらすその果ては、諦めに近い寂かな悟りであろうか。重く緩やかな下句の畳みかけがまことに胸を博つ。左は慈円の「小萩原寝ぬ夜の露や深からむ独りある人の秋のすみかは」で、後鳥羽院御判はこれを勝とするが、誰の目にも寂蓮の作が劣るとは思えまい。言はば「よき持」の一例であろう、と。


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身を秋の契りかれゆく‥‥

2006-10-30 16:46:20 | 文化・芸術
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-表象の森- フロイト=ラカン:「享楽」⇔「快原理の彼岸」
    ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「享楽」⇔「快原理の彼岸」

ラカンの「享楽」は、18世紀末にカントとサドによって方向づけられた「悪(苦痛)の中の幸福」という倫理的モチーフにその原型をもつ。
「享楽」は本来、主体にとって根源的に禁止されたものであり、この禁止を「去勢」という語で指し止める。
「去勢というものが意味しているのは、享楽は拒絶されねばならず、それによってはじめて享楽は欲望の法の逆立ちした尺度にもとづいて獲得されうる。」
「欲動の満足」としての享楽は、法の(欲望の従うべき規範)によって禁止される以前に一つの「不可能」として出会われる。
法は、この禁止を犯せばそれを手に入れることができる、という錯覚を私たちに与える。
すなわち、法に対する逸脱のなかに、したがって悪のなかに、私たちの満足がありうる、と夢見させる。
私たちの欲望は、このような錯覚を本来的に宿しているがために、袋小路に入り、しかもそれを見誤るのである。
言語を媒介とすることで、私たちはそれらの物の完全な享有を断念することを余儀なくされる。
「享楽」は「快」に対立し、その「彼岸」を構成するが、それはフロイトの「快原理の彼岸」とされたものである。
一次過程における無意識の表象の連鎖をまさに「シニフィアンの連鎖」と位置づけるラカンにとって、快原理はこの連鎖を支配するもの、すなわち「象徴界の法」と同じ次元にある。
快原理の彼岸を構成する不快は「反覆強迫」として出会われる。
「反覆強迫」は、それによって脇へ押しやられる快原理以上に、根源的で、元素的で、欲動的である」という着目から、フロイトは「死の欲動」の概念を導入する。
ラカンは、快原理の彼岸を構成するこの「欲動的なもの」の次元に、シニフィアンによって到達不能な「享楽」の場を重ねる。それは「現実界(現実的なもの)」の領域である。象徴界を住処とする主体は、それゆえ享楽から決定的に隔てられている。
「出会いそこない」という形においてであれ、あるいは症状の苦痛においてであれ、主体は象徴界に穿たれた穴の向こうで現実界と関係をもち、精神分析の中でその関係について話す。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-83>
 身を秋の契りかれゆく道芝を分けこし露ぞ袖に残れる 後崇光院

沙玉和歌集、応永二十三年三月盡に、秋恋。
邦雄曰く、枯れゆく道芝と離(カ)れゆく契り、袖に残る露は身の秋を悲しむ涙、季節の凋落とわが身の衰頽を二重写しにする技法は、15世紀に入ってなお複雑化しつつ、秀歌を生んでいる。「身を秋の」は、作者の好む用語である。この年9月盡しの「長月や末葉の萩もうちしをれあはれをくだく雨の音かな」も、その第四句の秀句表現に、壮年の実りを感じる、と。


 笹の葉を夕霧ながら折りしけば玉散る旅の草枕かな  待賢門院安芸

千載集、羇旅、崇徳院に百首の歌奉りける時、旅の歌とて。
邦雄曰く、秋の夕暮の、さらぬだに寂しい旅寝に、露置けばおのずから頬を伝い、袖に玉散る涙。、人恋しく都懐かしい女ひとりの涙を、このほそぼそとした調べは暗示している。千載集の旅の歌は、花野の霜枯れや更級の月と並べて、安芸の夕暮を選んでいる。この集に入選4首、いずれもあはれ深い流麗な歌であるが、「玉散る旅の草枕」が代表作と思われる、と。


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風吹けばただよふ雲の空にのみ‥‥

2006-10-29 18:40:12 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 今朝の見出し

◇年5億円、実態不明-国会議員のJR無料パス-公費負担の規定なし
成程、民営化前の国鉄時代は、負担を国鉄に押し付けていられたが、分割民営化されたJR各社にはそうもいかない。そこで利用実態に拘わらず、すこぶるアバウトな額が毎年固定的に公費支出されている訳だが、国鉄時代の慣習を踏襲しているだけで、公費負担の規定もないというのがお笑いぐさだ。


◇石綿被害-泉南で初の補償へ
アスベスト産業が全国でも最も盛んだったと言われる大阪府泉南地域。アスベスト製造をしていた三菱系子会社が、操業停止からほぼ30年を経たこの時点で、周辺住民や元従業員らのアスベスト被害者と初めて補償交渉に。


◇乗り換え殺到 パンク-携帯電話の番号継続性導入で、ソフトバンク受付停止
通話料0円、メール代0円-ほんとうに安いのかどうかよくわからないのだが、ド派手な宣伝に踊らされて他社からの乗り換えが殺到、こんな仕儀となるのも無理はない。


◇高校履修不足問題-北関東以北に偏り ―― 救済へ、世論意識の与党が圧力
文科省の28日現在の調査速報では32都道府県に286校、毎日新聞調査では41都道府県407校というが、実数はまだまだひろがる。少なくともここ十数年間にわたって浸食をひろげてきた根の深い病巣だから、文科省もこれ以上の実態究明は避けて、早く騒ぎの蓋をしたいところだろうが、受験生たちへの応急措置はそれとして、実態の解明は過去に遡って徹底してするべき。
降って湧いたような思いがけない問題のクローズアップで、安倍首相もキレイ事の教育改革どころではあるまい。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-82>
 誰が世より思ひ置きてか白露の袖濡らしける秋の夕暮  藤原為家

大納言為家集、上、秋、秋夕、建長八年四月。
邦雄曰く、露の置くのも、かねて、見ぬ世から思い置いた定めかと観じた趣き、なんとなく釈教歌的な深みのある詠風、これは建長8(1256)年、作者為家も既に58歳の秋の歌。従姉にあたる俊成女が、80歳前後の天寿を享けて世を去ったのもその頃のことである。父定家の余情妖艶に倣った歌も少なくはないが、直線的でおおらかな作に彼の特色が見られる、と。


 風吹けばただよふ雲の空にのみ消えてもの思ふ秋の夕暮  葉室光俊

続拾遺集、恋四、中務卿宗像親王の家の百首の歌に
邦雄曰く、第四句「消えてもの思ふ」のたゆたいは、「空にのみ」の鋭い限定を受けて、この恋の歌に独特の調べを与えた。光俊は定家に直接師事した数少ない歌人の一人。当然のことに為家にはあきたりず、実権を握る彼に反旗を翻した一人で、反御子左家と呼ぶ。この歌は鎌倉に下って六代将軍宗尊親王の歌の師範となった頃の作であろう。定家の余響を感じる、と。


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草の葉に置き初めしより白露の‥‥

2006-10-28 13:50:57 | 文化・芸術
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-表象の森- フロイト=ラカン:「シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」、「排除」⇔「棄却」
   ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「シニフィアン」⇔「エディプスコンプレクス」
エディプスコンプレクスとはシニフィアンの導入である。
主体へのシニフィアンの導入を源として、無意識という領域が作られていくということ。
主体が自足できず、言葉によって自己を示すことを強いられ/選ぶということ。
そこで、自己言及の構造が芽生え、言葉で自己を示すことが「不可能」になるという-絶対的な矛盾撞着を抱え込むこと。


「主の語らい」としての、宗教・政治や哲学の言質、あるいは近代における教育の言質、
これに対蹠的な位置関係にある「精神分析家の語らい」
「主の語らい」に囚われた主体を、いわば「鑑の向こう側」に誘引し、再びシニフィアンとの関係に立ち戻らせるものが「精神分析家の語らい」である。


「ファルスは他者の欲望のシニフィアン」として小さな人間によって創造され、この「シニフィアンの導入」をもって「他者の欲望」が主体に届く。
すなわち、主体が言葉で自己を示すことを強いられ/選び、その示しの「不可能」に直面し、そしてその不可能を、他者から「尊いもの」を与えられるという幻想に変え、その他者の欲望の証左をファルスに求めるという、子どもの世界の有為転変がここで完成する。


「排除」⇔「棄却」
歴史の始まりから、象徴的機能は父を掟の体現者と同一視している。
主体の存在に関する原初的な何かが象徴化されない、しかも抑圧されるのではなく棄却されるという事態が、「排除」である。
シニフィアンの排除によって引き起こされるのが精神病である。
シニフィアンが単独で存在することは決してなく、連鎖としてしか存在しないので、一つのシニフィアンの欠如によってシニフィアン全体が巻き込まれることになる。
シニフィアンの不在を代償しながら生活し、表面上は正常とみなされるような行動をとってきた主体にとって、ある日突然、代償を可能にしていた支えが機能不全に陥ってしまう、これが精神病の発病である。


・性的対象への接近は内在的ともいえる本質的な困難を示す。
エディプスコンプレクスの概念は、主体の性の探求にはじめから一つの「禁止」が刻印されているということを強調する。
主体は、自らの根源的な対象である母親への愛を禁じられてはじめて、人間的な性生活に与ることができる。
「性欲動」の構造には、人と人との完全な愛の成就を妨げる致命的な欠陥が見出される。
性欲動は本来的に、口や肛門や目といった身体器官をそれぞれの源泉とする「部分欲動」であるが、それらの部分はけっして一つの完全な「全体」へと統合されはしないからである。
ラカンが「性に向かう存在」と名づけた私たち人間は、常にこのような性の逆説を生きることを余儀なくされている。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-81>
 草の葉に置き初めしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき  順徳院

続後撰集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、この一首、紫金和歌集には見えない。だが、建保3年6月の当座歌合「深夜恋」題に、「笹の葉や置きゐる露も夜頃経ぬみ山もさやに思ひみだれて」があり、この人麿写しの秀作は、順徳院18歳の作。「袖のほかなる夕暮ぞなき」の鮮やかな修辞も、多分若書きであろう。24歳で配流になる順徳院には「白露の袖」こそ青春の形見であった、と。


 初瀬山檜原の嵐うづもれて入相の鐘にかかる白雲  飛鳥井雅世

雅世卿集、永享九年六月、広田社百首続歌、暮山雲。
邦雄曰く、白雲は峰を隠すのではない。檜原を覆うのでもない。「入相の鐘にかかる」としたところに、この作品の心にくい技法の冴えを見る。縹渺としてもの悲しい眺めが、秀れた水墨画さながらに浮かんでくる。「故郷露」題で、「露深み見しこともあらぬ庭草を払ふはいつの袖の秋風」とともに、飛鳥井家七世の裔として、さすがというべき持ち味が見られる。


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秋よ今残りのあはれをかしとや‥‥

2006-10-27 11:26:55 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 恐れ入谷のSHINJO劇場

曰く、涙の日本一、宙に舞う、大団円、号泣フィナーレ、日本一の花道‥‥。
昨夜の日ハムが中日を降した日本シリーズ、監督より先にチームメイトたちに胴上げされ、宙に舞った新庄剛志。
4月の開幕早々、今季限りと異例の引退宣言をして以来、球界きってのパフォーマー新庄は、引退セレモニーに見られるごとく、たえず奇抜な自己演出で、従来にも増してファンを喜ばせ、メディアを惹きつけ続けてきた。その仕上げが日本シリーズ進出、さらには昨夜の日本一とくれば、絵に描いたような幕切れで、出来過ぎのメイクドラマと言うしかないSHINJO劇場だ。
阪神のプリンスから転身したメジャーでの3年間は、彼自身にとっては成功半ば、挫折もまた半ばではなかったか。日本の球界に戻ってきて、阪神に「レギュラーポジションはないよ」と体よく断わられ、日ハム入団とともに新天地北海道へ。帰り新参の3年間はファンサービスのパフォーマンスに徹して、札幌ドームの動員数を福岡のダイエーホークスに迫るまでに急成長させ、とうとう仕上げは日本一とファンを歓喜に酔い痴れさせたSHINJOならば、成程、チームメイトたちに胴上げされるこの結末も、きわめて異例のこととはいえ肯けないではない。
新庄がこれからどんな転身を見せるのかはつゆ知らないけれど、引退宣言から見事な幕切れまでのこの一年で、メディアの評価は数倍してUPするのはまちがいないし、名告りを上げるスポンサーも目白押しだろうから、これから華麗なる転身物語が新たに紡がれゆくことだろう。


今年、花道を飾ったもうひとり、小泉劇場の主役、小泉純一郎は政治家をいまだ辞めるわけにもいかず、郵政造反組の復党問題に待った発言をするなど、安倍官邸に対してフリーハンドのご意見番然としているが、80歳を過ぎてまで隠然と君臨した挙句、鈴を着けられた猫よろしく隠居させられた中曽根や宮沢のような末路にはなりたくないだろうし、新庄君に倣ってさっさと政界から引退して、誰もが思いもつかぬ転身を図れば、さぞ壮快にして愉しかろうにと思うのだが、政界という権力の魔力にどっぷりと浸った妖怪たちの棲む魑魅魍魎世界では、なかなかそうもいかないものか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-80>
 露涙いかが分くべきゆく秋の思ひおくらむ袖のなごりに  後柏原天皇

柏玉和歌集、五、秋下、暮秋露。
邦雄曰く、技法いよいよこまやかに多岐に、ほとんどクロスワード・パズルを思わせるまでに錯雑化する。二句切れの自問を三句以下で自答しつつ、また思い迷う感。「あひ思ふ名残なりせば別れ行く秋の涙と露をこそ見め」は「暮秋」題、ほぼ同工であるが、曲は「袖のなごり」の方がより複雑だ。文亀・永正、和歌ルネサンス期の、代表的な詠風の一例か、と。


 秋よ今残りのあはれをかしとや雲と風との夕暮の時  伏見院

伏見院御集、秋歌中に。
邦雄曰く、京極為兼のパトロンとして玉葉集にただならぬ精彩を加える抜群の作者の、なかでも個性横溢した秀歌。春野なごり三月盡しと、秋の果て九月盡しを「あはれ」と思いかつ「をかし」と見る趣向ではあるが、「雲と風との夕暮の時」と、漢詩調の下句をゆるぎなく据えた時、この心象風景は俄に生命を得て、単なる趣向の域を越え、迫ってくるものがある、と。


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