-表象の森- フロイト=ラカン:「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」
――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より
「性関係はない」⇔「去勢不安」と「ペニス願望」
・性関係にはいかなる正解もない。
精神分析の経験とは、この「正確の不在」を根源的な条件とした上で、それでもなおそうした問への答えを探してゆくプロセスである。
むしろ積極的な意味でのその主体固有の、つまりまったく独特の答えを、それ自身の新たな性関係のスタイルを、「愛し方」を到来させること。
・性関係とシニフィアンのこの両立不能性は、エクリチュールの問題として捉えられており、
性関係はまさに「書かれないことをやめないもの」と定義される。
「書かれないことをやめないもの」とは、ラカンがアリストテレスの4つの論理様相を見直しつつ、<不可能>に与えた定義であり、<必然>-書かれることをやめないもの、<可能>-書かれることをやめるもの、<偶然>-書かれないことをやめるもの、から区別される。
・主体と対象の関係は、いかなる意味でも現実の性関係に行き着かない。それはもっぱら<幻想>として生きられるのみである。男はいつも女ではなく自分の幻想を愛する。
・去勢を通過するということは、対象に合せて享楽を得るのではなく、享楽に合せて対象を見出す。性関係を幻想へと還元することである。
女児の場合、自分がペニスを持っていないという発見は、愛の対象を母親から父親へと変更する契機となる。つまり、女児ははじめに去勢を通過して、エディプスコンプレクスへと導かれる。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<秋-84>
秋風になびく浅茅のすゑごとに置く白露のあはれ世の中 蝉丸
新古今集、雑下、題知らず。
邦雄曰く、要は「あはれ」、第四句までは、これを導き出すための序詞に似た働きをなしている。新撰朗詠集の「無常」に採られたように、此の世のもの悉く滅亡寸前、太陽の前の露に等しいと見る心であった。新古今では、これに続く雑部巻軸歌に、同じく蝉丸作とされる「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てしなければ」が採られている、と。
たれかまた千々に思ひを砕きても秋の心に秋の夕暮 寂蓮
千五百番歌合、六百十八番、秋二。
邦雄曰く、春秋の、殊に心細る秋の日々の、さまざまにめぐらすその果ては、諦めに近い寂かな悟りであろうか。重く緩やかな下句の畳みかけがまことに胸を博つ。左は慈円の「小萩原寝ぬ夜の露や深からむ独りある人の秋のすみかは」で、後鳥羽院御判はこれを勝とするが、誰の目にも寂蓮の作が劣るとは思えまい。言はば「よき持」の一例であろう、と。
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