山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

花よただまだうす曇る空の色に‥‥

2007-02-28 15:49:08 | 文化・芸術
Miyazawakenjinikiku

-表象の森- 宮沢賢治とバリ島

井上ひさしの「宮沢賢治に聞く」を読んで意表を衝かれたのは、賢治の「羅須地人協会」誕生の背景には、当時の世界的なバリ島ブームが刺激なりヒントなりを与えたのではないか、という指摘だった。
この新説はどうやら井上ひさしの独創らしい。


オランダがスマラプラ王朝を滅ぼしてバリ島全土を植民地支配するようになったのは1908(明治41)年だが、各地の旧王族を残しつつ間接統治を採ったオランダ政府の政策が結果的に効を奏し、従来各部族が棲み分けていた島社会の混乱を招くことなく、習俗や伝承文化の保護継承に繋がりえたとされる。
おりしも、ヨーロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦がやっと終わった1918(大正7)年、O.シュペングラーの「西洋の没落」が発刊され、一躍ベストセラーとなっている。
「西洋の没落」というこのフレーズは、センセーショナルなほどに彼ら西洋の現在と近未来を映す常套語となり、大戦の疲弊と相俟って深刻な終末観に襲われるが、その反動は一部に異郷趣味を増幅させもする。
西洋におけるオリエンタリズムの潮流は、当時のバリ島を「ポリネシア文化とアジア文化が合流する地上の楽園」と憧憬のまなざしで見、多くの欧米人たちが訪れるようになる。
とりわけ島を訪れ、滞在する芸術家たち、たとえばドイツ人画家ヴァルター・シュビースらが原住民たちとの協同作業のなかで舞踊劇として再生させた「ケチャ・ダンス」のように、絵画や彫刻、ガムランやバロン劇などが、彼らのもたらす西欧的技法や感性と交錯しながら、バリ特有の伝承芸術として再生され定着していく。
いわば西洋におけるバリ島の発見、バリ原住民たちの伝承文化が西洋の芸術様式と出会い、再生させられていくピークが1920年代から30年代であった。


井上ひさしによれば、賢治の蔵書の中に、当時のバリ島が紹介された一書があるという。
賢治が花巻農学校の教員を辞してのち、実家の離れに住みながら羅須地人協会を発足させたのは1926(大正15)年のことである。
農民芸術を説き、近在の百姓たちとともに劇団をつくったり、オーケストラをやろうとした賢治の脳裏には、この西洋によるバリ島の発見があり、宗教も芸術も渾然と一体化した島民たちの生活習俗が、ひとつの理想的モデルとして鮮やかに刻印されていたのかもしれない。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-58>
 稻つけばかかる吾が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ  作者未詳

万葉集、巻十四、相聞。
邦雄曰く、土の匂い紛々と、素朴、可憐、純情の典型。平安朝の技巧を盡した題詠の恋歌を見飽きた眼には、清々しく尊く、こよない救済のようにも映る。新穀の精製される初冬の歌。これに続いて「誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗にわが背を遣りて斎ふこの戸を」が見える。「稻つけば」の第三句「今宵もか」には、巧まずして相聞の精粋が溢れている、と。


 花よただまだうす曇る空の色に梢かをれる雪の朝あけ  藤原為子

風雅集、冬、雪の歌に。
邦雄曰く、梢の花を雪と見紛う錯視歌も夥しいが、「花よただ」と絶句調の初句で声を呑み、木が潤み曇るさまを「梢かをれる」と表現し、空もまた曇りの模糊とした景色、まことに春隣であって、雪すら華やぐ。言葉を盡し心を盡し、玉葉・風雅時代女流の筆頭の一人の力量、この一首だけからも十分に察知できよう。風雅・冬の中でも屈指の名作と言いたい、と。


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飽かざりし夏はいづみのいつの間に‥‥

2007-02-23 12:15:58 | 文化・芸術
Biwanokai070225

-四方のたより- 琵琶の調べごあんない

毎年弥生の頃に開かれる筑前琵琶の奥村旭翠門下による琵琶の会も、数えて17回目となる今年は明後日の2月25日。
連れ合いの出演もたしか5度目か6度目になろうが、ゆるりゆるりの手習い事とて、昨秋ようやく「旭濤」なる号を得て初めての会となる。
昨夏、人間国宝の山崎旭萃嫗が100歳の天寿を全うされて逝かれた所為で、その直門から数名の高弟が一門に加わるようになって、この琵琶の会も些か充実の様相を呈している。
初心者から師範まで総演目20を午前11時から6時間近くを要する長丁場なれば、プログラムを眺めつつ適宜つまみ食いならぬつまみ聴きを心得るが賢明の鑑賞かと思うが、なにしろ出入り自由の無料の会、休日の閑暇なひとときを気儘に琵琶の音に聴き入るも一興かとご案内する次第。
連れ合いの末永旭濤の演目は「文覚発心」とか。
この説話は「源平盛衰記」巻18にある「袈裟と盛遠」譚に発するものだが、古くは浄瑠璃や歌舞伎に採られ、現代においても舞台や映画にさまざま題材となってよく知られたものだ。芥川龍之介にも「袈裟と盛遠」題の掌編がある。
菊池寛原作で衣笠貞之助が監督した「地獄門」もこの話をタネにしている。長谷川一夫と京まマチ子主演のこの映画は’54年のカンヌ映画祭でグランプリを獲ている。
他の演目、出演者から敢えてお奨めを紹介すれば、若手中堅ながら「羅生門」の新家旭桜、「井伊大老」の吉田旭穰あたり。勿論、師範の娘二人を従えて奏するというトリの演目、奥村旭翠の「那須与一」を聞き逃してはなるまいが。


<奥村旭翠と琵琶の会>
2月25日(日)/午前11時~午後5時頃
国立文楽劇場3F小ホールにて、入場無料


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-57>
 飽かざりし夏はいづみのいつの間にまた埋み火に移る心は  後柏原天皇

栢玉和歌集、六、冬、埋火。
邦雄曰く、陰々滅々として陰鬱の気一入の歌の多い冬、しかも埋み火詠中、この一首は意外な軽やかさと親しみに満ちている。上句が清冽な噴井の水の光を想い起こさせ、第四句で時の流れの早さを暗示するあたりに、別趣の面白さが生まれたのだ。「閨寒き隙間知られで吹きおこす風を光の埋み火のもと」は、「寒夜埋火」題。一風変わった情景を見事に描き得ている、と。


 木の葉なき空しき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく  京極為兼

玉葉集、冬、題を採りて歌つかうまつり侍りし時、冬木といふことを。
邦雄曰く、裸木を眺めつつ、一陽来復を願う心であろう。歳末の感慨を、「空しき枝に年暮れて」と歌ったところに、この歌の命が宿る。枝の空しさは、わが身の上の虚しさ、初句はいかにも丁寧に過ぎるが、願いをかけながら、近づく春も恃めぬような暗さを帯びるのも、上句の強調によるのだ。為兼の波瀾万丈の生涯を思う時、この待春歌も一入にあはれ、と。


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この雪の消残る時にいざ行かな‥‥

2007-02-21 19:24:37 | 文化・芸術
Akashiyanodairen

-表象の森- 清岡卓行の大連

所収作品は、「朝の悲しみ」(1969-S44)、「アカシアの大連」(1970-S45芥川賞)と、「大連小景集」(1983-S58)として出版された4つの短編「初冬の大連」、「中山広場」、「サハロフ幻想」、「大連の海辺で」を含む。

大正11(1922)年に大連で生まれ、昭和16(1941)年の一高入学までの幼少期を彼の地で暮らし、さらには東大仏文へ進むも、東京大空襲の直後、昭和20(1945)年の3月末に、「暗澹たる戦局の中を、原口統三、江川卓と日本から満州へ。戦争で死ぬ前にもう一度見よう」と大連への遁走を企て、1ヶ月余の長旅でたどりつき、昭和23(1948)年の夏、引揚船で舞鶴へ降り立つまでの3年余を大連で過ごした、という清岡卓行。

彼は、終戦の詔勅をなお健在であった父母とともに生まれ育った大連の家で聞く。
「八月十五日の夜、彼は自分の家の小さな屋上庭園、幼い頃、夕焼けの空に女の顔が浮かんでいるのを眺めたあの場所で、かつての日本の植民地の綺麗な星空を、今さらのように珍しく眺めながら、なぜか、しきりに天文学的な考えに耽った。その巨視的な思いの中に、罌粟粒ほどの小さな地球を編入することが、まことに寂しくも爽やかであった。」
また、「彼は、全く意外にも、自分もやはり<戦争の子>ではなかったのかと感じた。――おお、戦争を嫌いぬき、戦争からできるかぎり逃げようとしていた、<戦争の子>。」-いずれも「アカシアの大連」より-と書く。


「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
あまりに人口に膾炙した、安西冬衛の「春」と題された有名な一行詩。
彼が先達の詩人として敬した安西冬衛もまた大連の人であった。安西は1919(T8)年から15年間、大連に在住した。1924(T13)年、同じく大連に居た北川冬彦や滝口武士らと詩誌「亜」を創刊、一行詩や数行詩という時代の尖端を行く短詩運動を展開、4年余の間に「亜」の発行は通巻35号を数えている。
彼は、この先達者たちの詩を、その短詩運動にもっとも影響を受け、偏愛したという。「亜」に拠った詩人たちの詩業は、彼の言によれば「口語自由詩の一つの極限的な凝縮であり」、「形式における求心性と、内容における遠心性。それらの緊迫した対応のうちに湛えられた新しさは、時間の経過によって錆びつかないアマルガムの状態」になっており、「凝縮された国際性」を体現しえたものであった。


大連の港から出航する引揚船でどんどん内地へ引き揚げてゆく日本人たちをどれほど見送ったことか。
1947(S22)年6月、すでに大連には僅かな日本人しか残っていなかったが、残留日本人の子どもらが通う大連日僑学園で英語や数学を教えていた彼は、クリスチャンで「いくらか円顔で、甘い感じ」のする日本人娘と知り合い、結婚する。
そして翌年の夏、身重の妻とともに引揚船で大連から舞鶴へ。東京世田谷の長姉宅に寄宿した彼は、4年ぶりに東大へ復学するも、11月には男児誕生と、生活費を稼ぐに追われ授業にはなかなか出られぬ暮しがつづいた。


詩人として、戦後二十数年もずっと、詩と詩論しか書いてこなかった彼が、1969(S44)年、すでに47歳にもなって、なぜ小説を書くようになったか、あるいは書かねばならなかったかについては、処女作「朝の悲しみ」を読めばおよそあきらかとなるが、その前年の妻の病死という衝撃が契機として大きい。
自殺を志向するがごとき憂鬱の哲学と純潔への夢を中断して「妻の若く美しい魅力」によって生へと連れ戻された自分であってみれば、ここであらためて生の根拠を問い、「生きる論理を構築し」直さなければならない。「妻がいなくなったら、このいやらしい世界と妥協する理由は失われたはずであり、彼は二十数年も遡って、自殺の中断の箇所まで、とにかく一応は舞い戻らなくてはならなくなったのである。」-「朝の悲しみ」より-
だが、短編「朝の悲しみ」における主調音は、むしろ妻への喪失の想いであり、「測り知れない深さの悲しみに支配され」、目覚めの虚脱感に耐えながら、生と死が親密に戯れる「愛の眠りの園」に身を沈めようとする-彼の内面が淡々と語られてゆく。
彼は、「人間の愛が夢みさせる死への憧れ」と、「動物的な本能が歌う生の意志」とが絡み合うところにこそ、「人間の全体性と呼べるもの」が浮かびあがってくると自らに言い聞かせつつ、残酷な現実の中に芽生えた淡い希望をもって、この短編を締めくくっている。


翌年(1970)3月に発表された「アカシアの大連」において、彼は小説への転回と同時に自らの再生を果たしたようにみえる。
それは深い喪失の悲しみから一歩踏み出して、自らの生の根拠を問うために、遠く失われた故郷である大連を記憶の回路を通して蘇らせようとした試みであり、「間欠泉のように、生き生きと浮かびあがってくる」ようになった大連における記憶の切れ切れを、けっして完成された物語としてではなく、語りの生成過程そのものを追跡するようなかたちで織り込んでいっている。
彼のこの転回と再生が、敗戦後の混乱期から高度経済成長期へと移行し、70年前後といういわばひとつの頂点を劃した頃であったという社会状況の背景もまた、これを成立せしめうる時機として深層において働いたのではなかったかという感が、どうしても私にはついて離れないのだが。


彼自身、「4つの楽章で構成された一つの音楽作品であってほしい」と構想された「大連小景集」は、転に配される「サハロフ幻想」が、抑制された静かな語り口で描かれる情景の一節ごとに挿入されるたった4文字の「サハロフ」という名辞が、快いリズムを生み出すとともに内的な昂揚感を強く感じさせてくれる。
かつて日本にとって租借地大連は近代化の実験の場であったが、とりわけこの作品には、彼のいう「おたがいに異なる主旋律を持つ4つの短編の、旅行の時間の流れに沿った組合せによって」、その大連という街の、国家が託した血なまぐさい幻想も含めて、全体像が暗示的にうかびあがってくるような一面がある。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-56>
 この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む  大伴家持

万葉集、巻十九、雪の日に作る歌一首。
邦雄曰く、雪中にあれば、鮮黄に映える、野生の橘の実、「いざ行かな」の、みずから興を催し、他を誘う声の弾みが朗らかに愉しい。この歌は天平勝宝2(750)年12月の作と記されている。山橘は「消残りの雪に合へ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な」も同様、藪柑子の別称との解もあるようだが、橘でなければ「いざ行かな」との照応は不自然だ、と。


 契りあれや知らぬ深山のふしくぬぎ友となりぬる閨の埋み火  肖柏

春夢草、中、冬、閨炉火
邦雄曰く、炉に燃やして共に夜を過ごす薪の類も、思えば長い冬の長い夜の友。深山から出てはるばると、との感慨を初句「契りあれや」にこめた。単なる素朴な述懐ではない。温みのある、一脈の雄々しさも匂う冬歌ではある。「埋み火をたよりとすさぶ空薫きも下待つ閨と見えぬべきかな」は、さらにひと捻りした妖艶の情趣をも味わうべき、同題のいま一首である、と。


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志賀の浦や波もこほると水鳥の‥‥

2007-02-19 19:29:05 | 文化・芸術
Nakaharaseiboshi_1

-四方のたより- 市岡OB美術展

またもや失態の巻を演じてしまった。
性懲りもなく2年前の搬入時と同じ失態を繰り返してしまったのだから、まことに情けないこと夥しい。
今年で早くも8回目となる筈のこの展覧会、当初、日曜日だった搬入・搬出が、一昨年から土曜日に変わっていたのだが、刷り込みが強すぎるのか、単なるうっかり病か、今年も日曜日の搬入とばかり思い込んで、土曜の夜は、後から舞いこんできた15期会の新年会へと参じ、美術展の関係各位には大迷惑をかけてしまった。
そんなわけで、せっかく特別展示の配慮を頂いて、昨年12月急逝した中原喜郎さんの作品を、私所有の4点から2点を選んでの搬入は、昨日、稽古を終えてから、まだしばらくは左肩の故障で三角巾で腕を吊った身では運搬もままならず、連れ合いに持たせて幼な児ともどもの家族連れの地下鉄移動で、ゆるゆるとお出かけモード。
現代画廊へと着いたのはすでに夕刻、画廊に居合わせたみなさんにお手を煩わせて、一日遅れの展示もなんとか無事相成った。


教員だった梶野さんと栄さんはじめ、12期の辻絋一郎さんから25期の小倉さんまで、今年の出品者は総勢24名。
初参加の中務(13期)さんの、一瞬を捉えて永劫の時間を湛える写真が眼を惹くが、これまで欠かしたことのない村上(17期)君の静謐な工芸品が見えないのは少し淋しい。
梶野作品の画題「逆天の祈り」や遠田(13期)さんの作品「彼の戻る日」、さらには18期の神谷君、その画題は「レクイエムⅠ.Ⅱ」などに、中原喜郎氏急逝の悲報の影が覗えるような感あり。
それぞれ個有の形象に深まりを見せていく、松石(20期)君の「虚ろな時刻」、小倉(25期)さんの「猫のいる風景Ⅱ」。
バラエティに富んだ出品作のなかに、小浜(18期)さんのガラス器が花を添えるのもたのしく、遊び精神彷彿の宇座(17期)君の「奴凧」は、その自由な境地がうれしくかつ頼もしい。


<2007市岡高校OB美術展>
北区西天満の老松通り、現代画廊・現代クラフトギャラリーにて今週開催中。
2月18日(日)~24日(土)の、午前11時から午後7時まで。但し最終の土曜はPM5時まで。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-55>
 志賀の浦や波もこほると水鳥のせかるる月による力やなき  木下長嘯子

挙白集、冬、月前水鳥。
邦雄曰く、堰かれつつ急かれて、結氷寸前の水上の月はしづ心なく、見えみ見えずみ、水鳥の寄る辺もあらばこそ。長嘯子の複雑な修辞はその心理を叙景に絡ませ、景色を心象に写し、一風も二風も変わった冬歌を創り上げた。「寒夜水鳥」の題では、「打ち払ふ鴛鴦の浮寝のささら波まなくも夜半に霜や置くらむ」と、さらに錯雑した妖艶な風趣を繰りひろげる、と。


 暮れやらぬ庭の光は雪にして奥暗くなる埋み火のもと  花園院

風雅集、冬、冬夕の心をよませ給ひける。
邦雄曰く、六百番歌合の「余寒」に定家の「霞みあへずなほ降る雪に空閉ぢて春ものふかき埋み火のもと」あり、風雅・春上に入選、同じ集の冬のこの本歌取りを見るのも奥深い。薄墨色と黛色で丹念に仕上げた絵のように、じっと見つめていると惻々と迫るもののある歌だ。第三句「雪にして」のことわりも決して煩くはない。第四句の微妙な用法も効あり、と。


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笛竹のその夜は神も思ひ出づや‥‥

2007-02-18 04:21:02 | 文化・芸術
Hakenkaseizonka

-世間虚仮- 「覇権か、生存か」

些か旧聞に属するが、N.チョムスキーの「覇権か、生存か-アメリカの世界戦略と人類の未来」は、昨年の9月21日に、反米強硬派として知られるベネズエラのチャベス大統領が行った国連総会一般演説で激賞推奨され、その所為で米国アマゾン・ドットコムでは販売ランキング2万6000位から一気にトップにまで躍進する、という時ならぬセンセーションを惹き起こした。
チャベス大統領の当該演説の件りは以下の如くである。(引用-るいねっと「チャベス大統領の国連演説」より)
「第一に、敬意を表して、N.チョムスキーによるこの本を強くお勧めします。チョムスキーは、米国と世界で高名な知識人のひとりです。彼の最近の本の一 つは「覇権か、生存か-アメリカの世界戦略と人類の未来」です。20世紀の世界で起きたことや、現在起きていること、そしてこの惑星に対する最大の脅威 -すなわち北米帝国主義の覇権的な野心が、人類の生存を危機にさらしていること―を理解するのに最適な本です。我々はこの脅威について警告を発し続け、この脅威を止めるよう米国人彼ら自身や世界に呼びかけて行きます。」
「この本をまず読むべき人々は米国の兄弟姉妹たちである、と私は思います。なぜなら彼らにとっての脅威は彼ら自身の家にあるからです。悪魔〔el diablo〕は本国にいます。悪魔、悪魔彼自身はこの家にいます。
そして悪魔は昨日ここにやって来ました。
皆さん、昨日この演壇から、私が悪魔と呼んだ紳士である米国大統領は、ここに上り、まるで彼が世界を所有しているかのように語りました。全くもって。世界の所有者として。」
「ここでチョムスキーが詳しく述べているように、米帝国は自らの覇権の体制を強固にするために、出来得ることは全て行っています。我々は彼らがそうすることを許すことは出来ません。我々は世界独裁が強固になることを許すことは出来ません。
世界の保護者の声明-それは冷笑的であり、偽善的であり、全てを支配するという彼らの欲求からくる帝国の偽善で溢れています。
彼らは彼らが民主主義のモデルを課したいと言います。だがそれは彼らの民主主義モデルです。それはエリートの偽りの民主主義であり、私の意見では、兵器や爆弾や武器を発射することによって強いられるという、とても独創的な民主主義です。
何とも奇妙な民主主義でしょうか。アリストテレスや民主主義の根本にいる者たちは、それを認知できないかもしれません。
どのような民主主義を、海兵隊や爆弾で強いるというのでしょうか?」というように続けられる。
日本語版の本書は集英社の新書版ながら350頁に及ぼうという長大さで、アメリカの覇権戦略の現在と未来を、その歴史的経緯をたどりながら詳細に分析し尽くしている。
覇権主義のアメリカは従来より「平壌からバグダッドまでつづき不穏な核拡散地帯-イラン、イラク、北朝鮮、インド亜大陸」を非常に危惧し、国際的な緊張や脅威を拡大してきたが、現実にはそれより遙かに恐ろしい核大国がその近辺に存在していることに、世界は眼を閉ざしたまま論じられることは殆どない。それは数百発にのぼる大量の核兵器で武装しているアメリカの権力傘下の国イスラエルの存在であり、この国はすでに世界第二位の核保有国であるという憂慮すべき事態にある。
グローバル化は持てる者と持たざる者との格差を拡大する。アメリカによる宇宙軍事化の全面的な支配の必要性は、世界経済のグローバル化による結果としてより増大していく。経済の停滞と政治の不安定化と文化的疎外が深刻化していく持たざる者の間には不安と暴力が生まれ、その牙の多くがアメリカの覇権主義に向けられることになる。そのために彼の国では攻撃的軍事能力の宇宙への拡大がさらに正当化され増幅していく、という負の循環の呪縛から世界はいかにして逃れうるのか。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬-54>
 水鳥の下安からぬ我がなかにいつか玉藻の床を重ねむ  頓阿

草庵集、恋下、冬恋。
邦雄曰く、玉藻靡かう水の上を夜の床とする水鳥も、その心はいつも安らがぬように、逢瀬もままならぬ苦しい恋も、いつの日かは「われらが床は緑なり」とも言うべき、満ち足りた仲になろうとの、遙けく悲しい願望を歌う。「寄水鳥恋」では「鳰鳥の通ひし道も絶えにけり人の浮巣をなにたのみけむ」と巧みに寓意を試みる。二条家歌風の一典型である、と。


 笛竹のその夜は神も思ひ出づや庭火の影にふけし夜の空  永福門院

新続古今集、冬、伏見院に三十首の歌奉らせ給ひける時。
邦雄曰く、神楽の開始は夕刻、照らすための火を焚き、歌うのも「庭燎」で、「深山には霧降るらし」に始まる。この歌の面白さは「神も思ひ出づや」なる意表を衝いた発想であろう。下句の火と空の逆の照応も、考えた構成であり、神韻縹渺の感が生まれる。二十一代集の冬に神楽の歌はあまた見られるが、異色を誇りうる秀歌だ。作者の歌風の珍しい一面か、と。


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