山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

乞食の蓑をもらふしのゝめ

2008-11-28 15:51:44 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 音波舎提供のCommon Café Live

いよいよ本番前日となってしまった。
とかく公演の準備などというものは演ずること以外に為すべきことが多すぎて、毎度のことながら近づくにつれ役者をするこの身が煩わしい雑事に追われる羽目となる。企画も制作も仕込の手配から印刷物まで、なにもかも自分でやるしかないのだからどうしようもなくそうなる。

昨夜はその息抜きにというわけではないのだが、Decalco Marieが出演するというLiveを観に小雨降るなかを出かけてみた。中崎町のCommon Caféなる日替り店主で運営されるという愉しそうな話題に惹かれた所為もある。木曜日の常の店主は「音波舎」を営むというまだ40歳前とみえる男性だった。
演奏者が大竹徹氏と、今度の山頭火で初めてお付合い願う田中康之さんであったのも重なってのことだ。

LiveはDecalco Marieたち以外にもう一組、NIMAさんなるDancerとTenor Saxの川崎知さん、こちらが先に演じたのだが、Saxの演奏は息の量がそうとうなもので迫力満点、演奏者の烈しい生理そのものがダイレクトなほどに音の世界を生み出していた。さまざまなJazzmenたちとLive競演をしている由のNIMA女史のDanceは、この生理そのものといってもいい音の洪水に対し、私からみればどうもSituationに逃げすぎているのではないかと感じられ、些か消化不良気味の鑑賞となった。

体育会系を自称してやまぬDecalco Marieは、すでに50歳半ばを過ぎた肉体をその体力の限界に挑むかのごとく過酷なまでに使い切っていくが、その筋力の頑健さが私の眼には怖くてたまらない。剛直なるはかならずしも勁いとはかきらぬ。この屈強を誇る肉体もしのびよる老いとともにやがてはポキリと折れつきてしまう。かりに70歳を過ぎても踊っていたいなら、すみやかに剛から柔へと肉体の改造を、しなやかなる身体へと転身を図るが賢明かと思われる。

終わって雑談の折、「気功でも太極拳でもいい、今からでも遅くないから、本気で取り組んだらどうか」といったようなことを彼に具申してみたが、はたして応答はどうでるか。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-20
骨を見て坐に泪ぐみうちかへり  

   乞食の蓑をもらふしのゝめ  荷兮

次男曰く、荷兮の面目躍如とした警策である。陰の極の趣向だが、「平家物語」も「太平記」も、先の叙述に続けて北の方の落飾と、従者をして高野山に納骨させたことをしるしている。

小道具のあしらいを蓑と考えたのは、前句の人の、ひいては句はこびの露けさを防ぐための手立で、無常の門出にあたって着る蓑はどうせならいっそのこと乞食から貰おう、と云っている。巧い。とりわけ、前句に「うちかへり」とあるから付句もひっくり返すさまに仕立てたい、と思案したところにそれが生れたらしいのが並ではない。

現代でもこの程度の感覚の飛躍はないではなかろうが、状況を陰の極へ追いつめているうちに何となく乞食から蓑を貰おうというふうな表現がひらめいたにというにとどまる。「うちかへり」という言葉一つの見定めが逆転の発想を生むということはまずないのだ。

荷兮句の逆転の発想は窮鼠かえって猫を噛む式で、これは連句の醍醐味である。でたらめに思付いたわけではない。そのあとは深く沈めたものを浮上させる呼吸工夫があればよく、「しのゝめ」は、誰が探してもそう据えることになりそうな投込の四文字である。

「乞食」じつは有徳の人かもしれぬ、というところまでは読は延びる。芭蕉には後年、「こもをきてたれ人ゐます花のはる」-元禄3年膳所での越年-という吟がある。「五百年来昔、西行の選集抄に多くの乞食をあげられ候。愚眼故、能き人見付ざる悲しさに二たび西上人をおもひかへしたる迄に御座候。京の者共はこもかぶりを引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候」という自釈も遺されており、「なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは」-栖去之弁、元禄5年-という彼自身の無住願望につながるものだ。その原形が「冬の日」の荷兮句にあった、ということは軽々に見逃せぬ、と。


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骨を見て坐に泪ぐみうちかへり

2008-11-26 12:27:34 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―表象の森― 近代文学、その人と作品 -6-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・萩原朔太郎と「月に吠える」
朔太郎の詩は、近代詩と現代詩の分かれ目に位置する。朔太郎によって現代詩の道は開かれたと言っていい。その最初の詩集「月に吠える」の特色は、生理的な心理主義と言うべきものだが、その特徴は次の詩集「青猫」においてはすでに一部分でしかない。その後はむしろきわめて倫理的な詩となっていく。

朔太郎の詩は、二、三行で一つのモティーフを切れて、すぐ次の行から別のモティーフが始まるという書き方になっている。そういう書き方をしても詩の連続性が失われていないと思えるようになったのは、「月に吠える」が最初だった。朔太郎が始めたこの叙法は、近代詩から現代詩への転換を画する特徴的なものであった。

・岡本かの子と「花は勁し」
49歳で急死した岡本かの子が小説を書いたのは晩年のわずか3年間だった。質量ともに驚くべき速さと勢いで作品を書いたかの子自身、生命力旺盛で捉えどころのない大きさをもつ女性だった。

彼女の生命力、その拠ってくるところは仏教にあり、かの子自身法華経の信者で、宗教家としても第一級の人物だったと言っていい。彼女は法華経の中でも特に二十五番目の観世音菩薩普門品-観音経-を中心に据えていた。

かの子の恋愛小説の世界で、性は生命力のぶつかり合いや和合として仏教的に理解される。男女が惹かれあうのは互いの生命力の大きさにより、男女のもつ生命力が同じだったら恋愛的な関係は成就したり深まったりするという独特な考え方になっている。人間の性格や生活のありようについても、仏教でいう五輪、地水火風空で考えているところがある。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-19

   籠輿ゆるす木瓜の山あい  

骨を見て坐に泪ぐみうちかへり  芭蕉

坐-そぞろ-に

次男曰く、野水が駕籠をわざわざ「籠輿」と作り、併せて草木瓜を取合せとしたのは、軍記の読方を改めてさぐってほしい、と次句に需めているのだろう。

草木瓜の実は、盆供の中でも特別に大切なものとして古くから知られ、これを庭に植えることを嫌う風習は今に残っている。吾句の「木瓜」に実を生らせて新盆の供物としてほしい、とは誰が承けても読取れる筈の含みである。

「太平記」巻2、「俊基誅を被る事並に助光が事」には斬の結末を次のようにしるす。
「-従者助光は-泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頸に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿-右少弁俊基-の行末を聞ん事の喜しさに、人目を憚ず、簾より外に出迎ひ、如何にや弁殿は、何比に御上り有可との御返事ぞ、と問給へば、助光はらはらと泪をこぼして、はや斬れさせ給て候、是こそ今はの際の御返事にて候へ、とて鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見え給ふ。」

この最後のところは、そのまま「骨を見て」の句仕立てだが、芭蕉は読取をより一層正確に一座に伝えんがため、「そゞろ」「漫」いずれでもなく、わざわざ「坐」と字を遣っている。これは「虚栗」風の名残には違いないが、坐という字は土の上に二人が対座する形である。状況にふさわしく、字そのものも人めいてさえ見えてくるだろう。

むろん祖型となる描写は「平家物語」にある。
「北方大納言佐殿、首をこそ刎られたりとも質身-むくろ-をばとりよせて孝養せんとて、輿を迎へにつかはす。げにもむくろをば捨て置きたりければ、取つて腰に入れ、日野へ舁いてぞかへりける。これをまちうけ見給ひける北方の心のうち、推しはかられて哀なり」-巻11、重衡被斬-。

「太平記」の祖型には違いないが、芭蕉句の「泪ぐみうちかへり」に相当する描写はない。「うちかへり」という語法は、「枕草子」にも「あさましきもの‥車のうちかへりたる」-97段-と見え、ひっくり返ること、転じて卒倒することである。先の「俊基誅を被る事並に助光が事」の描写に照しても、そう考えてよいだろう。

しかし、「うちかへり」は打越の「打払」と差合う。芭蕉の技量を以てしても避けられなかったか、それとも、亡人に寄せる執着の断ちがたさを眼目とした作りで、用辞も「坐」と、対して動かぬさまに遣っているから、わざと輪廻の何がしかを句姿にもとどめて興としたか。禍を転じて福となす式の工夫は詩として充分ありうることだ、と。


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籠輿ゆるす木瓜の山あい

2008-11-23 09:11:50 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 転一歩たるか

どうやら今度の山頭火上演-29、30日-は、私の役者人生、といっても一方で舞踊家であり、また劇活動においても概ね指導的立場に居たものだから実際の役者経験はずいぶんと乏しいのだが、そのきわめて限られた役者人生のなかで、生涯の事件ともなる予兆を孕んでいるのだ、ということを実感している。

実は、昨日の土曜の昼下がり、自宅の居間で、めずらしく山頭火の台本を片手にじっくりと本読み、もちろん本番並みに声を出して、をしていたのだが、この語り台本の山場となるその台詞のところで、いったい何にとり憑かれたのか、突如として感情の激発が起きてしまったのである。けっして泣こうとして泣いたのではない、その言葉を発しようとした途端、我知らずいっきに涙があふれだし、ただただ嗚咽しながらの台詞となってしまったのだ。これまで何百回もおなじ台詞を声にしてきた筈だが、一度たりとてこんなことは起こった例しはなく、まったく初めてのこと、自分の陥った状態に自身驚愕しつつ、しばし言葉を継いでいったのだった。

すべて通しきったあとで、何故そんな仕儀に至ったのかと振り返ってみれば、ひょっとすると前日届いた河東けいさんからの便りに、短く書かれていた言葉が伏線となったのかもしれない、などと思われたのだった。
おけいさんはもう80才を優に越えており、膝の不自由も抱えておられるというのに、12月中旬に控えた関西芸術座の公演で、久しぶりの演出にいま奮闘中とのことである。
私の出した山頭火案内の書面に対し、以下のように添書きをしてくれている。

「昨日お手紙拝受、ただただ暗澹たる思い、最愛の方の突然の別れが、どんなに深い思いか‥、鉄さんが山頭火になるだろうと――。
長いお手紙で山頭火を思いつつ、の後の、詩に心ゆさぶられました。慰めの言葉なんてありません。共に泣くのみです。
そんな思いなのに、29-30日に、参加できるかどうか、‥云えない状況なのです。男7人、揃うことなく、毎日イライラして、クタクタが、恐らく本番までいくでしょう。
ごめんなさいね。行けたら嬉しいです。」

もともと私はこの夏ごろより、山頭火上演を今回会場とするMULASIAで10月か11月にやろうと企図していた。
まだその日程をはっきりとは決めあぐねていた折に、RYOUKOの事故死という災厄が降り来たったのである。

だから、今度の公演と我が身に起こった悲劇とがけっして初めから結びついていたものでもなく、第三者たちに真っ向からそう受けとめられても困るわけだが、かといって時を同じくしてののっぴきならない出来事が、実際に演ずる身にとって意識下になんらかの影響を与えないはずもない。私自身気のせいか、心理面はおろか生理的な感覚においてさえなにやら微妙な変化が生まれているような、そんな日々でもあり、これはもしや私なりのちょっとした身心脱落なのではないか、と思われもするのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-18

  たび衣笛に落花を打払ひ  

   籠輿ゆるす木瓜の山あい  野水

輿-こし-、木瓜-ぼけ-

次男曰く、月花を続きとした杜国・羽笠の付合に、俤の一つもさぐれば忠盛のエピソードは自ずとうかんでくるが、たねが「平家物語」なら「たび衣笛に落花を打払ひ」は誰が考えても無常仕立に奪つてはこぶ。「太平記」というもう一つの軍記と、重ね合わせてみる興も自ずとそこに湧く筈だ。

「落花の雪に踏迷ふ、片野の春の桜狩、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶-ものう-きに、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出給ふ、心の中ぞ哀なる」

「太平記」巻2にしるす「俊基朝臣再び関東下向の事」は春ではないが、これに続けてその護送のさまを「平家物語」巻10、本三位中将重衡の鎌倉送りとだぶらせて描いている。

野水の目付はそこだろう。馴れぬ道中大罪人に籠輿を許すこともあったであろう、ひとまず読んでもよいが、代々の歌人才子で聞こえた-重衡も琵琶の上手-平家の公達と違って、「太平記」の殿上人は馬の乗方もろくに知らなかった。籠輿という詞も「太平記」の別の箇所で出てくるが、にわか作りの粗末な輿だろう。

持出した狙いは「笛に落花」の取合せが「平家」の世界なら、「籠輿に草木瓜」はまさしく「太平記」の世界だと伝えんがために相違なく、いずれこの詞-籠輿-は一座の話題になった筈だ。

「木瓜」は山野に自生するクサボケのことで、今の歳時記では、観賞用に栽培するいわゆる唐木瓜と区別して「樝子-しどみ-」の名で立てているもの。匍状性の小低木で、草とからみ、棘がある。

諸注、二句の詩味が心にくい相対となっていることに気付かず単なる一意と読んでいるから「ゆるす」について面倒な解釈に走る。どうして籠輿そのものを「ゆるす」という考えが浮かばなかったものか。「ゆるす」とは草木瓜の山あいにさしかかってふと萌した、何故ともない優情の表現であって、誰かが誰かを「ゆるす」というようなことではないだろう、と。


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たび衣笛に落花を打払ひ

2008-11-21 12:11:33 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― Dance Boxの行方

大谷燠率いるDance Boxの活動が、大阪から神戸へと、その比重を移しつつある。
震災復興の新しいまちづくりとして、文化創造の拠点づくりにも力を入れる新長田地区に、来春4月「ArtTheater dB神戸」をオープンする予定だという。

大阪での活動も継続させるべく大阪事務所を並立存続させるというが、その新事務所たる移転先はまだ決まつていない。

昨夏、大阪市の第三セクター破綻処理問題でフエステイバルゲートを追われたDance Boxは、当座の代替施設としてあてがわれた元東淀川勤労者センターにあって、その過酷な環境下、創造拠点たる劇場の再開を模索し続けてきた訳だが、府市ともに財政再建団体転落の危機に瀕する大阪にあっては、あまりにも困難がつきまとったようである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-17

   我月出よ身はおぼろなる  

  たび衣笛に落花を打払ひ  羽笠

次男曰く、初折、花の定座。「我月出よ」の願を、ゆえあって旅をする人の感懐に読替えている。

訴訟などの公事か、受領か、軍旅か、それとも流謫か、いずれにせよ晴姿と云ってのけるわけにはゆかぬ二句一章だが、いろいろと差し合いが気になる。

「たび衣」と「薄衣」が四句隔、「落花」と「椿の花落る」が七句隔、花と桜は違うとはいえ「落花」と「さくら見ん」が三句隔、加えて同裏折に二度まで旅体の句が出る。それを承知で、月花続きの大切なはこびに、尋常だけが取り柄の遣句を以てするとは、理解に苦しむ。話を誘う面白い俤の一つも含ませてあると読取らせなければ治らぬ句で、手がかりは「笛」以外にはない。

「件の笛は祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによつて、もたれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける」、「平家物語」巻9「敦盛最後」の結びだが、その「平家物語」は、山陽・南海二道の海賊を討伐し、鳥羽院のために得長寿院を創建した功によって、武家棟梁で初めて内昇殿を許された平忠盛-清盛の父-のエピソードから始まる。

その一つに妻問の話がある。女は仙洞御所に仕える女房で、後にかの忠度の母となった熊野びとである。或時、忠盛が扇を忘れて帰ったところ、その扇の端に月の出が描かれていたので、さっそく傍輩の女房たちが「いづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし」とからかった。かの女房の答、
「雲井よりただ洩りきたる-忠盛来る-月なればおぼろけにては言はじとぞ思ふ」

伊勢平氏-瓶子-は眇め-酢瓶-なりけりと日ごろ公家たちの囃だねにされていた男は、彼女の臆せず晴れやかな気性と、即妙の機才に愈惚れこんだ。「似るを友とかやの風情に、忠盛も好いりければ、かの女房も優なりけり」と「平家」-巻1、鱸-は書いている。因みに、忠盛も殿上の心ばえとその歌才を鳥羽院の御感に与った器量人である。

その忠度母の歌を内助の功として含ませればも「我月出よ」の志はなかなか面白く読める。「たび衣」はさしづめ、山陽・南海二道の海賊追捕に出立つ男の俤とでも読んでおけばよい、と。


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我月出よ身はおぼろなる

2008-11-19 09:55:34 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― うれしい便り -2-

「山頭火」公演案内にともない、ちょっぴりうれしい便りがつづく。

「うしろすがたの山頭火」-今回はどういう訳か、すぐに観てみたいと思いました。
かつての演劇仲間にも声をかけました。30日に行かせてもらいます。
林田さんの文章はいつも読みごたえがありますね。9月、悲しい事に出会われたこと、どのように言ってよいのか、お察し致します。「Soulful days」すばらしい詞ですね。
あなたの”才能”をよく分かりもせず、いつぞやは電話で言いたい放題、失礼致しました。
お身体大切に、これからもご活躍下さいませ。
11月の撮影会は23~24日とN邸で一泊です!!  -K.K

-K.Kは高校同期の女性、退職後はもっぱら風景写真に凝り、良いショットを求めてはあちこち出かけてゆく日々、独り身の余生を謳歌している。

お久しぶりです。冬が近づいて来ましたね。
当方、この10月31日が還暦で東洋紡を退職しました。
辞めたい、辞めたいと思いながらついに定年まで勤めましたがこれですっきりしました。
精神的自由を感じています。
しかし、自由からの逃走という言葉もあるように、人間は自由であることにも耐えられない存在かもしれませんね。そのことは、大学を自主留年したとき実感しましたが、まだ2週間たらずではそれはなく、うれしい感じです。
生活のお金もまだ当分必要ですし・・・。
30日の公演に行かせて頂く予定をしています。 -K.M

-K.Mは昔々の劇仲間。九州の福岡だったか佐賀だったかの出身で実家は寺、僧になるのを嫌ってか大手商社マンに。この10月末めでたく退職を迎えたという。

ご無沙汰です。今回はご案内ありがとうございます。
円熟の山頭火、ぜひ観に参ります。 -T君

-T君のこの短文は携帯メールから。なにかと多忙な人ゆえこれまで観る機会を得なかった。

以前から、ずっと拝見したいと思っていました。
うまいぐらいに、そのころなら都合がつきそうです。
HPから予約メールを入れさせていただこうかと思いましたが、何分、突然あらぬ方向に引っ張られることもある身。かえって予約をしてはご迷惑かと当日の客ということでよろしくお願いいたします。
2名で伺います(だれと行くかは未定です)。 -Sさん

-SさんはPCメールからの便り。市岡高校の同窓会メール「芋づる」メンバーである。

林田先輩の公演、
自転車で行けるし、興味あるし、見に行こうかな。
29日は現場仕事で、17時帰宅は難しいから、行くとしても30日。
でも、29日に現場仕事が終らなければ、30日に食い込むし、ごてる可能性あるから、さんの先輩と同じで、当日の客と言うことでよろしく~! -I君

-I君も、Sさん同様「芋づる」メンバーでPCメール。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」-16

  江を近く独楽庵と世を捨て  

   我月出よ身はおぼろなる  杜国

次男曰く、初裏の月は八句目に扱っている例が多く、一往定座とみなす-この巻では芭蕉に当る-。

二句こぼして春の月に作り、花の定座の前としている。「麻かり」の句案に月など持込む隙はなさそうだから成行上そうなったとも考えられるが、月花を並べて趣向とする狙もあるだろう。

貞徳の俳諧式目「御傘-ごさん-」-慶安4年刊-に、「おぼろげ、と云詞春にあらず、月を結ては春たるべし」とあり、其後江戸中期になつて初朧・朧影などを朧月の傍題とする作法書は現れるが、朧とだけでは雑の詞と考える解釈の伝統は江戸時代を通じて変らなかつたようだ。尤も句例は元禄頃から散見する。その多くは、取合せて春季とするか、全体の仕立が朧夜を感じとらせる底の句である。現代の歳時記は「朧」を春の季とする。

月の座の「独楽」とは「我月出よ」だという見定めはあたりまえのようだが、これは月から季節の属性を抜いて心月とするうまい工夫だ。さらに、身の「おぼろ」ゆえだと告げられると、「我月出よ」を「独楽」の見合とした狙はもしや西行にあやかりたい離俗の工夫ではないか、と気付く。

「ひとり住む庵に月のさしこずば何か山辺の友にならまし」-山家集-
「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」-千載集、百人一首-
「雲はれて身にうれへなき人のみぞさやかに月のかげは見るべき」-山家集-

余人ならいざ知らずこれはそのまま杜国の心でもあつたろう。「野ざらし紀行」には、わざわざ「杜国におくる」とことわって、「白げしにはねもぐ蝶の形見哉」の一句を収める。貞享2年4月初ごろには既に罪状の取調べが始まつていたらしいとわかる詠みぶりだが、「冬の日」の興行当時、悲運の予感、身の潔白を証したい願はあったのではないか、と。


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