四十? 五十? 六十? はたまた、七十?
遠い記憶だが――
明治44年生れの親父殿が「四十の手習い」と使っていたのを、
幼い頃に耳にしたことがあったか、と朧気ながら思い出されるが…
江戸の頃はもちろん、戦前・戦中派あたりなら「四十の手習い」と云うのが当然だったろう。、
ところが、昨今では、<四十>や<五十>ではなく、「六十の手習い」と云うのが常用句らしい。
国語辞典にあたってみれば、「四十の手習い」は姿なく、「六十の手習い」があるのみだ。
昔なら、齢四十ともなれば、盛りも過ぎて、そろそろ後進に道を譲るべしか、
謂わば林住期なる後世を如何に過ごさんか、と「四十の手習い」に愉悦を見出そうとしたのだろう。
だが、今や、我々日本人の平均寿命は、伸びに伸びて、80歳を優に越えてしまった。
かほどに長寿社会となってしまっては、
嘗ての「四十の手習い」も、「六十の手習い」と付け替えねばならないのも、理の当然か。
然りながら、果たして、世界中の人々が、
これほどの長寿社会を営むように、成るのだろうか…?
富の均衡化ではなく、富の集中へとばかり加速してゆく、
高度資本主義社会の末路は、そんなにおめでたいものではない。
われわれ人類は、すでに破滅の道へと歩み出しているのだろう、きっと。
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