―表象の森― 尾張五哥仙
芭蕉は、「野ざらし紀行-甲子吟行-」の旅で、貞享元(1684)年八月江戸を立ち、伊勢を経て、亡母追善のためにひとまず伊賀上野に帰郷、九月大和・吉野をめぐって、近江から美濃に入る。大垣の谷木因を訪い、十月初、同道して桑名に遊ぶ。別れて海路熱田に渡り、林桐葉の許に逗留、十月中・下旬名古屋に入った。
この芭蕉を迎えて、荷兮を中心に名古屋の蕉風連衆と興行されたのが「狂句こがらしの巻」を初めにおいた「冬の日-尾張五哥仙」-荷兮編、貞享2年春刊-で、「霽-しぐれ-の巻」はその第三の巻にあたる。
先の「狂句こがらしの巻」において、連衆については年齢を記したのみであったので、各々の略伝を参考までに記載しておく。
杜国-坪井氏、通称庄兵衛、御園町の米商。貞享2年8月、空米売買の罪に問われて領内追放となり、三河国保美村に謫居。同5年2月から4月末まで、芭蕉に随行して吉野・高野から須磨・明石に遊び、京で別れて保美に帰る。元禄3(1690)年歿、享年不詳-34歳説有り-。当時28、9歳か。「猿蓑」-元禄4年刊-に、「亡人杜国」として随行中の一句を入集。
重五-加藤氏、通称川方屋善右衛門、上材木町の材木商。享保2(1717)年64歳で歿。当時31歳か。
野水-岡田氏、通称備前屋佐次右衛門、大和町の呉服商。宜斎のちに転幽と号し、名古屋に町方茶道-表千家-をひろめた先覚者の一人である。元禄13年から享保元年まで、惣町代-今でいえば市助役-をつとめた。寛保3(1743)年86歳で歿。俳諧は「阿羅野」-荷兮編、元禄2、3年刊-を盛りとし、「猿蓑」に入集3句・歌仙出座1。当時27歳。
荷兮-山本氏、通称橿木堂武右衛門、桑名町の医にして業俳。「冬の日」に続いて「春の日」-貞享3年刊-、「阿羅野」と、所謂「七部集」の初三集を編んだ、尾張蕉門の中心人物。「猿蓑」入集2句。元禄5、6年頃から古風への志向著しく、一門とも離れ、晩年は連歌師となった。号、昌達。享保元年69歳で歿。当時37歳。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「霽の巻」-01
つゝみかねて月とり落とす霽かな 杜国
前書に「つえをひく事僅に十歩」と。
次男曰く、しぐれのひまに月の光がこぼれる、もしくは今にも零れ落ちそうなまるい月がしぐれの雲間からのぞいた、ということを発句に云い回せばこういう姿になる。「つゝみかねて」と字余りに理を立てたところや「月とり落とす」と作った見立の誇張に談林臭はのこるが、小夜しぐれに「霽」を当てたところに一工夫があり、加えて前書がよい。
「七歩ノ詩」「十歩ノ詩」という喩がある。早速の詩才について云うことばだが、「十歩ノ内」という、瞬時の変を表す含のある喩もよく遣われる。杜国の「つえをひく事僅に十歩」は、かつ降りかつ晴れるしぐれの迅速に適った吟興の催しを伝えんがためのものに相違なく、右の喩は二つとも合せて踏まえたものだろう。
霽はハレル、空合のはれることで降物の意味はないが、降りながらすでに霽れているのが晩秋・初冬に特徴的な雨の印象だと考えれば、「霽」は気転の当字である。尤も、小夜しぐれに目を付けたところはこの句の手柄だが、霽-シグレは杜国の発明ではない。芭蕉がまだ桃青と号していた延宝8年頃の句に「いづく霽傘を手にさげて帰る僧」が見られ、霽-シグレは、もみじを栬、ちどりを鵆、こがらしを凩と表記する類で、連俳好みの新在家文字の工夫と考えてよく、それもその頃に限って芭蕉が遣った字のようだ。
杜国は4年前江戸でのそれを目ざとく見覚えていて、さっそく裁入れ、以て江戸の珍客其人への挨拶としたものらしい。既に初巻-狂句こがらし-の興行で「野ざらしを心に」にと告げられて「しらしらと砕けしは人の骨か何」と作り、「秋水一斗もりつくす夜ぞ」-漏刻-と誘われれば「綾ひとへ居湯に志賀の花漉て」-大津京-と応じた男の機転は、霽月の取出しにも心憎いまでに顕れているだろう。
貞享4年冬、芭蕉が伊良湖にわざわざ彼の謫居を慰め、翌5年には吉野・須磨の行脚に伴い、「嵯峨日記」の元禄4年4月28日の条で「夢に杜国が事をいひ出して、悌泣して覚む」と慟哭の筆を以てその死を傷んだ人物の面目が躍如とする、と。
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