山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

朝夕に花待つころは思ひ寝の‥‥

2007-10-29 11:55:51 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 吾れは思案投げ首、幼な児は溌剌元気印

4日ぶりの言挙げである。
このところ書くことが疎かになっているのには二つばかり理由がある。
その一つは、近頃読んだ蔵本由紀著の「非線形科学」(集英社新書)に自身の思考回路が乱れているからだ。
非線形科学とは、生命体のリズムや同期現象、カオスやゆらぎ、フラクタルやネットワーク理論など、非線形・非平衡系現象における数理学の総称だが、本書はこれらの理論について極力数式を用いず解説してくれた画期的な教科書といってもいいだろう。
あえて教科書と称するのは、本書を教材として可能なかぎりにおいて理解すべきもの、そう自身に課さねばと一読して思ったからだ。しかし理数系の思考回路は遠く眠りに墜ちたままでどうにも理解が及ばぬ、判然とせぬまま時間ばかりが過ぎてゆく。
理数得意の頭脳明晰なる御仁あらば、誰か本書に基づきつつ私に講義でもしてくれないものかと、そうでもしないかぎりまがりなりにも本書をマスターすることなどおよそできそうもなく、他力本願に縋ってみたくもなっているのだが、さてどうしたものか‥‥。

もう一つは、
このブログを書き始めてよりすでにまる3年が過ぎたが、つい先日、これをすべて紙ベースに打ち出してみた。
A4にて計1174頁、一部私のブログに対する他者からのコメントも含まれるから、全てが私自身の書き残したものではないが、それにしても書きも書いたり、よく綴ってきたものと感心したり呆れたり。
このところ時間をみつけてはそのファイルをざっと読み返したりしているものだから、新しく筆を起こすのになかなかエンジンがかからないという始末なのだ。
他者からのコメントが豊富なのは書き始めてから3ヶ月ばかり経った04年12月頃から05年6月頃までの半年余りに集中している。この頃のエコログ、Echo空間はコメントにおける対話もまた濃密なもので、いま読み返してみても興の削がれることがなく、なかなかの味わい。一時期にせよネットでのコミュニケーションがかくも濃密にあり得たことの果報はまこと捨て難いものと思い新たにしているこの頃でもあるのだ。

さて、話題は転じて幼な児のことなど。
昨日の日曜は伊豆諸島から房総沖を快足で通過した台風20号の影響か、近畿地方はまさに爽風秋天。蒼空の秋日和を満喫しつつ能勢方面へと車を走らせた。めざすはアスレチックセンターのある「能勢の郷」。
阪神高速の11号池田線から能勢方面へと延伸された道路を走れば、池田の五月山公園を越えたあたり、国道173号線に出て能勢電と並行するように走ることとなるから、能勢行きもずいぶん近くなったものである。渋滞さえなければ自宅から所要時間1時間余りで着く。
今夏、信州行きの旅で、戸隠のチビッ子忍者村でアスレチックに興じた幼な児は、今度は幾分か難易度の上がった本格派(?)のコースに、初めのうちこそ恐る恐るの態で臨んでいたが、計50近くもある各ポイントのいくつかを巡るうちに度胸もついてきたかとみえて、しばしの休憩を挟んで延べ3時間ほども費やして完全制覇。各ポイント通過するたび入場の際に貰ったカードに母親と一緒に自分で○をつけていくのだが、どうやらこの子は「よく出来ました」とばかり○を獲得することとなるとやたら情熱を燃やす性向があるらしく、山道のアップダウンもものともせず後半になるほどに調子を上げていたのには、その根性たるや恐るべしと連れ合いと顔を合わせては笑ったものである。
そういえば、毎週通うピアノ教室でも、この教室では楽譜を演奏するばかりか、五線譜を書いたり音符を読んだりといくつもの教材が与えられているのだが、彼女は一つ仕上げるたびに先生から○を貰うのをやはり格別の励みとしているようで、教室から帰るたびに「るっちゃん、ぜんぶ○をもらったよ」と得意げに報告するのがいまや習慣となっている。
何事によらず幼児期におけるこういった達成感への歓びと拘りは、大なり小なり誰しもが示す性向だろうが、彼女の場合、未知の新しい場面では必ず緊張や強ばりを示しなかなか自身を開放できないという、決して順応性の高くない身であってみれば、その反動としてこういった性向が強くなってくるのかもしれない。

○ばかり貰っていたってご機嫌の幼な児、その溌剌とした日々に比べ、前述の如く私のほうはこのところ些か低空飛行気味か。このぶんではとても○など貰えそうもない。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-73
 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける  崇徳院

千載集、春上、百首の歌召しける時、春の歌とてよませ給うける。
邦雄曰く、思ひ寝の花は現実にさきがけて夢の中で咲きはじめる。心の沖を薄紅に染めて、そのはるばると華やぐ光景は、あるいはうつつの姿に勝ろう。久安6(1150)年の崇徳帝は31歳、平治の乱の十年前である。千載集では、御製の前に同百首の藤原季通作「春はなほ花の匂もさもあらばただ身にしむは曙の空」が見え、共に清新な調べである、と。

 うつせみの浮世のなかの桜花むべもはかなき色に咲きけり  安達長景

長景集、春、花歌。
邦雄曰く、桜の花のめでたさはさまざまに歌われてきたが「はかなき色」と嘆じた作は珍しかろう。儚さは主として咲けばたちまちに散る花の命への言葉であった。第一・二句の同義反復語が、第四句に色濃く翳りを落とし、異色の花の歌となった。作者の母は新古今歌人飛鳥井雅経の息女。北条時宗の死に殉じて出家、鎌倉御家人中では随一の重臣であった、と。


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木々の心花近からし昨日今日‥‥‥‥

2007-10-25 14:51:19 | 文化・芸術
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-世間虚仮- ニュース三題

「金大中事件」
34年前(73年8月)の金大中拉致事件は、当時の韓国大統領朴正熙の関与したものであろうとは事件直後から推測されていたことだが、昨24日、韓国情報院の調査委がKCIA犯行説を結論づける報告書を公開したことでその蓋然性は愈々高くなったとみられる。
事件2年前の大統領選において民主党の金大中候補は現職の朴正熙に97万票差に迫る支持を得ていた。この選挙直後、大型トラックが金大中の乗る自動車に突っ込み、死者3人を出すという事故を起こしている。幸いにも金大中は死を免れたが、腰や股関節に障害を負った。ずっと後に政府は、KCIAによる事故を装った暗殺工作であったことを認めている。
同じ年、朴政権は非常事態宣言を布告、戒厳令を敷いた。いわゆる十月維新である。身に危険の迫る金大中は海外へと亡命生活を余儀なくされ、主に日本やアメリカに滞在することになる。

「学力テスト」
今年4月に全国の小6・中3生を対象に実施された学力テストの調査報告が文科省から公表されている。
実施されたテストは、国語と算数・数学ともに、A=知識、B=活用に分けられていたらしい。応用ならともかく「活用」とは耳慣れないが、近頃の指導要領ではそういうことなのか。
小6国語A=81.7%、B=63.0%、算数A=82.1%、B=63.6%
中3国語A=82.2%、B=72.0%、数学A=72.8%、B=61.2%
とそれぞれの正答率が示され、基礎たる知識は結構だが活用は苦手の傾向と報じられてが、私などには正答率の高さにむしろ驚いているくらいで、基礎と応用のこれくらいの落差は取るに足らぬごく常識的なものではないかと思われる。
地域間格差も昔に比較すれば非常に縮まっているという。然もあろう、結構なことではないか。犯罪や自殺の低年齢化と学力の低下傾向などはそんなに短絡的に結びついているものでもない。昔に比べて世界水準のなかで子どもたちの学力が相対的に低落傾向にあることなど、高度成長期の頃じゃあるまいし、そうムキになって目くじら立てるほどのことではなかろう。
安倍宰相の置土産のようなこの学力テスト、文科省は今後も毎年続ける意向のようだが、果たしてそんな必要があるのか大いに疑問。

「新幹線・栗東駅」
もったいないとばかり嘉田新知事を誕生させた、新幹線の新駅誘致騒動に揺れた滋賀・栗東駅問題にやっと終止符が打たれた。
この春の統一地方選挙で、新知事への抵抗勢力たる県議会の自民勢力が大幅に後退したのが分岐点となっただろう。
抑も建設費約240億円を地元負担で誘致しようというこの計画、地域活性化を新幹線の新駅でと巨費を投じようとの構想自体、時代の要請に逆行する発想としか思えぬが、中止と無事決着をみたことはよかったのではないか。
それにしても地元負担による誘致駅を「請願駅」と呼ぶようだが、国と地方の権力構図そのままにこんな呼称が罷り通っているなんて溜息の一つも出てこようもの。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
秋の歌も前稿で最後となり、夏・冬・恋・雑とともにすべて完、あとは春の歌を七十数首残すのみとなった。これから晩秋を経て冬の到来となるというのに、時節柄不似合いな春の歌を紹介していかねばならないのは些か恐縮ではあるが‥‥。

<春-73>
 木々の心花近からし昨日今日世はうす曇り春雨の降る  永福門院

玉葉集、春上、花の歌よみ侍りける中に。
邦雄曰く、春上の巻軸に近く、桜花やうやく咲き出る前駆の歌として現れる。開花を誘う春雨の歌として八条院高倉の「ゆきて見む今は春雨ふるさとに花のひもとくころもきにけり」がこれに続くが、「木々の心」と六音初句で歌い出す永福門院の、至妙の修辞とは極めて対照的に温順な調べだ。第四句の「世はうす曇り」も一首にふくらみと重みを加える、と。

 桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ空かな  後鳥羽院

新古今集、春下。
邦雄曰く、新古今・春下巻頭第一首。藤原俊成の90歳の賀を祝った時の屏風歌、「山に桜咲きたるところ」。山鳥の尾の第二・三句が人麿の本歌取りであることなど、霞んでしまうくらい悠々として長閑に、かつ艶な眺めであり、帝王の調べといえよう。建仁3年霜月、後鳥羽院23歳、賀歌はそのまま院の、春たけなわの世の風光であり、心の花の色であった、と。


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野分せし山の木の間を洩る月は‥‥

2007-10-23 23:56:54 | 文化・芸術
Himawari

-世間虚仮- 禁煙ならぬ「禁煙法」のすすめ

10月1日からとうとう大阪市でも路上喫煙禁止条例が施行された。とりあえずの禁止地区は御堂筋全域と市庁舎付近一帯とか。やがて市内全域における路上禁煙となるのは時間の問題なのだろうが、喫煙者にとっては愈々肩身の狭い世間となってきたものである。
違反者には罰金1000円也が課されるというが、そういえば施行初日の朝、2時間半の取締りで30人近くが過料となったと報じられていたったけ。
日本専売公社が日本たばこ産業(株)=JTと民間の特殊法人となったのが1985(S60)年4月1日だから、すでに20年余が経つが、この間の欧米諸国から波及してきた喫煙有害キャンペーンの高まりは止まることを知らず、全国各地にあったJTのたばこ製造工場も年々閉鎖されており、現在17工場を残すのみとか。
年間の国内販売数量も96年から06年の十年余で、3,483億本から2.700億本と22%もの減少となっており、その背景には健康志向の高まりによる禁煙率の上昇と相次ぐ値上げとが大きく影響しているとしか思えぬ。
その健康志向からの厚生省の指導ゆえとは判っていても、生産者であり売り手であるJT自らが、その自社製品を健康に有害であるから吸い過ぎに注意と、パッケージに警告の文言が付されるという、矛盾このうえないまことに奇妙な事がなされるようになったのはいつの頃からだったか。
自販機から落ちたタバコを手にし、ふとその文言を眼にするたび、ちょっとした奇異感を抱いたものだが、それもいつしか倣いとなって、眼に入れど眼中になし、といった体でやり過ごすようになってずいぶん久しいものだ。
ところが、なぜだか今日は外出から帰ってきて椅子に腰掛けた瞬間、なにげなくふとそのパッケージに書かれた文言に眼がいって読んでしまったのだが、初期の頃の申し訳程度のキャンペーンからいつのまにこんなにまで徹底したものになったものかと、その変容ぶりに気づいてビックリした次第。
曰く「人により程度は異なりますが、ニコチンによる喫煙への依存が生じます。」
その裏には「喫煙は、あなたにとって脳卒中の危険性を高めます。」とあり、さらにその下には「疫学的な推計によると、喫煙者は脳卒中により死亡する危険性が非喫煙者に比べて約1.7倍高くなります。」と丁重なるご忠告。
偶々、まだ捨てずにあった空き箱も含めて4つのパッケージを見比べてみれば、これが驚きで各々みな書かれていることが異なっている。
曰く「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。」その下の解説では同様に「約2倍から4倍」と。
また曰く「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります。」その下には同様に「約3倍」と。
さにらまた「喫煙は、あなたにとって心筋梗塞の危険性を高めます。」また同様に「約1.7倍」と。
さらにさらに「たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう。」などとまことにヴァリエーション豊富なのには畏れ入った。
300円のたばこに6割余の税をかけ、2兆円余の税収を得ながら、かほどにまで健康被害を云々し節煙・禁煙キャンペーンをはらねばならないというのもずいぶん人を喰った話だが、その矛盾はさておき、ならば昔あったアメリカの「禁酒法」よろしくとっとと「禁煙法」なり「たばこ販売禁止法」なりを政府主導で作ってしまえばよかろうもので、順法精神の旺盛とはいえぬまでも自らすすんで違法行為なぞできぬ小心者の私など、「禁煙法」成立とあれば万事休すと禁煙せざるを得ないというものではないか。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-134>
 ふるさとは散るもみぢ葉にうつもけて軒のしのぶに秋風ぞ吹く  源俊頼

新古今集、秋下、障子の絵に、荒れたる宿に紅葉散りたる所をよめる。
邦雄曰く、千載集にも見る俊頼の紅葉は「秋の田に紅葉散りける山里をこともおろかに思ひけるかな」と、着目の面白さが修辞の理がましさで死んでいたが、この障子歌は景色を叙したのみで一切説明は消し、惻々たる侘びしさを伝えているあたり、新古今歌人の好尚に合致したのであろう。上・下句の対照によって秋の心を強めているが、即き過ぎの感もある、と。

 野分せし山の木の間を洩る月は松に声なき雪の下折れ  三条西実枝

三光院詠、秋、山月似雪。
邦雄曰く、異色ある眺めと意外な表現を求めながら、あくまでも作法の則は越えまいと苦心した結果、渋く微妙な味わいの、この雪折れ松のような歌が生まれる。第四句の「松に声なき」あたり自信のある技巧と思われる。惜しむらくは上句の説明臭だが、これもまた16世紀後半の特徴の一つか。作者は細川幽斎に古今伝授をした歌人として令名を謳われる、と。


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影をだに見せず紅葉は散りにけり‥‥

2007-10-20 11:56:05 | 文化・芸術
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-表象の森- 「KASANE Ⅱ-襲-」構想メモ

京都 ALTI BUYOH FESTIVAL 2008への出演作品のために、とりあえずの。

春ならば桜萌黄や裏山吹など、秋ならば萩重や女郎花など、襲(かさね)の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象、襲の色の綴れ織りとも化そう。

ギリシア劇が三人目の登場人物(俳優)を獲てはじめて世界の実相を映すまさに演劇として成立したように、自と他に、もうひとりの他者が現前することはこの世界を表象しうる根源的な要件となる。ならばこそ芭蕉の連句も、稀に二者で成ることもあったがこれは例外的で、三者以上で巻くことを本旨としたのだろう。舞踊における連句的宇宙をめざすわれわれのImprovisation Danceもまた三人目の登場人物(Dancer)を獲ることは必須の要件であった。
襲(かさね)の色もAとBとの対照で成り立つかのようにみえるが、そこではAでもなくBでもない異なるC群、無数の他者の存在を前提とも背景ともしている。すなわちもうひとりの他者Cは有限個でありつつ無限の他者ともなりうるのだ。そこにわれわれ人間世界の秘密がある。われわれは森羅万象の世界へと旅立ち、宇宙の曼荼羅へとも飛翔しうる。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-133>
 影をだに見せず紅葉は散りにけり水底にさへ波風や吹く  凡河内躬恆

躬恆集、上、平中将の家の歌合に、初の秋。
邦雄曰く、躬恆散紅葉の秀作が多い。「風に散る秋のもみぢ葉後つひに瀧の水こそ落としはてつれ」「水の面の唐紅になるままに秋にもあへず落つるもみぢ葉」等、いずれもねんごろな詠風だが、「水底にさへ」の幻想の鋭さと深みは格別だ。花散るさまを夢に見ると歌った作者ならではの発想である。一首の終った時初めて水中の紅葉が眼に浮かぶようだ、と。

 秋もはや末野の浅茅すゑつひに霜に朽ちなむ露のさむけさ  尭孝

慕風愚吟集、応永二十八年五月。
邦雄曰く、同義語の連綿重複によって、秋も終りの侘しさをいやが上にも強調しようとする手法、短調の暗澹たる悲歌を聴く感あり。歌僧頓阿曾孫にあたり二条派歌人の代表と目されていた尭孝の個性がよく覗える。「暮秋」題の一首「誰が方に待つとし聞かぬ秋もはや因幡の嶺の雲ぞしぐるる」も、歌枕をさりげなく生かしており、侘しさの極致、と。


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もみぢ葉の流れてとまる湊には‥‥

2007-10-18 21:19:27 | 文化・芸術
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-世間虚仮- 困った人々

極私的な、あまりに極私的な私信だが、偶さかこんなものを綴ってみなければならない時もある。

From TA
> N君から メイルが2本入っているが、TAには意味不明。
貴君の翻訳 あるいは意見・感想をお願いする。

> まずは、不足額が生じた経緯を説明し、原因や根拠などを幹事全員の確認課題として共有すること。いつもこれがないまま幹事会が終了してしまったり、次に進んでしまう。貴男の取り纏め確認がないので、それぞれが勝手に思い込んで事態が進行してしまっていることが多くないか。そして、幹事の面々から思っていることをさらけ出してもらうこと。多くの人にストレスが溜まっているようです。

> 20日の反省会どうなったのかな?何の資料も届けずに参加だけしてくれなどとは!それに今回は重要な課題があるというのに。清算がうまくいったのなら、多くの幹事が参加しなくてもいいのかもしれないが。とりあえず、やり繰りを教えてください。

From Shihoh to TA
まず、彼特有の拘りの強さ、攻撃的な性格を考慮しても、今回の拘り方は些か過剰気味とは思えますな。
彼の心理的な背景を考えると、二次会で彼自身もなかば強制的に5000円のカンパ(その場の費用を含む)させられていることが、まず引っ掛かりにあるのではと推察しております。
その上に、幹事全員に赤字の穴埋めを強制するのか、そんな法外な話はあるか、というように私には聞こえます。
「清算がうまくいったのなら、多くの幹事が参加しなくてもいいのかもしれないが。」などと言っているのは、20日の土曜日に出席しにくい状況が、喩えばアルバイトなど、あるのではないかな? 赤字清算のために幹事たちに負荷をかけないで済むようなら、自分もわざわざ無理をして出席しなくてもよいかもしれぬ、とこれはあくまでも単なる推測。
大きな赤字を出して、その後始末に幹事全員が穴埋めを余儀なくされるとすれば、問題は大きく、「不足額が生じた経緯を説明し、原因や根拠などを幹事全員の確認課題として共有すること。」というのは、彼流でなくとも一応筋の通った話ではあります。
ただこれほどに拘り、あちこちと連絡を取って、騒ぎを大きくしているのは、正論を通り越して過剰反応、逸脱行為で、その深層の根拠は、始めに記したように「5000円のぼったくり、そりゃないぜ。その上にまだ‥‥そんなバカな!」ということではないかな。
ただ、今次にはじまったことではなく、彼の存在はなにかと周囲を波立てる。
いつかどこかで、これを押さえ込む、封じ込める必要はあるでしょう。それについて今回をひとつの機会とするかせぬか、考える必要はありましょう。
彼のやり口はやり口として、少なくとも代表幹事の進め方には異議申立てをしているのであって、たえず不信任を突きつけているといってもいい訳で、この際、彼の一連の異議申立てを、代表幹事への不信任案として受けとめ、逆手ながら此方側から幹事会に提議し諮る手もありますな。
些か荒療治ですが。

From TA
君の解釈もやっぱり そうか・・・困ったものだ。
10/17の代表幹事会にてメイルを公開し、協議も考えたが、彼に同調しつつある彼女がいるのでいかがなものかと思い、貴君に相談した次第。
荒治療が必要かもしれない。しかしあくまで最後の手段としたい。半日考える。

From Shihoh to TA
「彼に同調しつつある彼女」とは誰のこと?
もしそれがK女史ならば、むしろ愈々私としては捨て置けませぬ。

抑も、同窓会などというのは、対象は15期生と限定されながらも、まったく任意の団体で、各会員に対してなんらの強制力ももちません。
全同窓生を対象とした市岡同窓会ならば100周年記念行事を機に、同窓会館などという不動産を所有(といっても実際の登記名は同窓会ではないようですから、厳密には所有とは言い難いのですが)しており、その時点でNPO法人などにすべきかと、私などは考えますが、15期会に関しては、将来においてもそんなことはあり得ないから、規約を設け、代表幹事といい、幹事会といっても、すべてはこの任意の団体たるネットワーク組織に、ひたすら下支えのサービス機能を負うばかりのものです。
一旦、規約を作り、組織図を描いてみせると、どうしても上部構造から下部構造へとヒエラルキーがあるかのごとく見えましょうが、そんなものはまったくの幻想にしか過ぎなく、実態は余暇利用のボランティアでしかありません。

さて、N君という人は、その家族関係においてはいざ知らず、他者をも含むグループ活動となれば、どんな場所においても「お騒がせマン」にならざるを得ないという性癖の人のようです。
地方公務員だったからそんな彼をまだしも包容し得てよかったようなものの、民間だったら激しい衝突の繰り返しでどうなっていたか、想像するのも困難なほどでしょう。

今回、大きな赤字を作ってしまったこと、あくまでもその金銭上の問題の根拠は、ビュッフェ方式から個別料理へと転換したこと、それによって当初見積額に税サ込115000円が課されることを、代表幹事一同やすやすと見逃したこと。
もう一点が、恩師招待の寄付金が、11名中2名ですか、想定外に低かったことの見誤り、
この二点に尽きる訳ですが、金銭上はともかく、ではなぜこの程度の初歩的なミスが生じるような醜態を演じる代表幹事会や幹事会であったかを考える必要はありましょう。
私がホテルサイドに「してやられた」と言っているのは、言い換えれば「N問題」ならず「K問題」を差して言い換えているにすぎません。

彼女のサービス機能の本質は一言でいえばどこまでも「名誉職」です。
どうしてもこの名誉職としてしか機能できないKについては我々みな百も承知ですが、彼女がホテルの折衝役窓口なのですから、われわれ他の者が迂闊にもこれに対しチェック機能を果たさなかったのは大失態でした。
ただ、これまでも新年会であれ忘年会であれ、また幹事会の流れの食事会であれ、彼女が自分の「顔を利かし」、彼女の「お世話」で、殆どのことが動いてきました。
こういう人は、自分の泳ぎたいようにしか泳ぎませんから、我々としても眼に余らばともかく彼女流をなるだけ許容し、それに乗るかのようにしながら事を運んできたのが、およそ実情でしょう。
おまけに、これまでは彼女が会計であり実際に「金」を握っていたので、今回のような問題が起きなかったという一面があります。
引き続き今回も彼女が会計であったら、ひょっとすると彼女でさえも初期の変更段階で、或いはしばらく経ってからでも問題に気づいたかもしれません。
「泳ぎたいように泳いでいる人」は、ほとんどの行為が無意識に選択されており、なかなか学習することがない。
これまでは、自分が金を握っていたから、その出入、収支には彼女なりに敏感にならざるを得ない。どうなるか心配もするから頭で算盤をはじく。今回、彼女はホテルとは自ら交渉役を任じながら、その役目は打棄ったままにしてしまった。そんなこと考えもしなかった。
そんな彼女の落とし穴が、我々みんなの落とし穴ともなった訳です。
したがって、冒頭に記したように、「彼に同調する彼女」がもし「K女史」であれば、
私としては、この騒ぎ愈々見逃しがたく、不信任動議同然のものとして、幹事会にて存分に話し合うべしと考えますが、如何に?

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-132>
 もみぢ葉の流れてとまる湊には紅ふかき波や立つらむ  素性

古今集、秋下。
邦雄曰く、藤原高子が春宮の御息所であった時に月次屏風の「龍田川」に添えられた歌。業平の百人一首歌「からくれなゐに水くくるとは」も同じ屏風歌で、この2首古今集にも並んで入選しているが、素性の深紅の波の方が遙かに面白い。龍田川を絵に譲って、歌が普遍性を得たところもよい。代表作「柳桜をこきまぜて」と好対照をなす秀句である、と。

 とどまらぬならひありとは慰めて秋も別れぬきぬぎぬの空  亀山院

亀山院御集、暮秋詠十首和歌、暮秋別恋。
邦雄曰く、亀山院の皇子・皇女は30人に余り、嵯峨帝の80余人に次いで歴代2位と伝える。勅撰入集107首、歌人天皇後嵯峨に似て、その詩才は抜群、この季節と愛人との二つの別れを兼ねて歌った「暮秋別恋」も、曲線を描く優美な調べは並ならぬ味わいがある。続拾遺・秋下の「紅葉をば今ひとしほと言伝ててむしぐるる雲の末の山風」も胸に沁む、と。


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