山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

若葉めざましい枯枝をひらふ

2005-04-30 10:47:48 | 文化・芸術
uvs050420-089-1
      「Lesson Photo in Asoka」より

<身体・表象> -2

吉本隆明の<瞬間論>

私たちがいま、<瞬間>という概念をつくりあげようとすれば、ある時間の流れを考え、同時にその流れが停まったときを考えることになる。
流れてしまった時間は過去で、まだ流れてこない時間が未来として、いま<流れつつあり>しかも<停まっている>というふたつの条件が、瞬間という概念が成り立つために必要になる。

眼で見られる私たちの経験の世界では、瞬間という概念は、さまざまな測度をもった時間の系列が折り重なった<束>みたいなものとして像化されるほかない。折り重なりが多様なためにこの時間の束は流れていながら停まっているという瞬間の像を成り立たせることができる。
言い換えれば、この瞬間のなかには、ほんの少し以前に流れてしまった時間である過去と、ほんの少しあとからやってくるはずの、まだ流れてこない時間である未来とが、束のなかに<滲み>とおっている。

ところで瞬間の束に滲みこんでいる過去は、いちばん新しいもので象徴させればいま感覚の対象になった<そのもの>だとみなされる。どうしてかといえば、感覚で受け入れたものを即座に了解する時間が、単位の<極小の時間性>とみなされるからだ。
おなじように瞬間の束のなかに滲みこんでいる未来は、いちばん近い未来としては、空間的な対象となった自分の(行動の)<自己了解>の時間だとみなすことができるだろう。どうしてかといえば、この時間は極端にいえば、自己了解という(行動の)時間そのものだということもできるからだ。

<時間の束のなかにいる私>とは、ほんの少し過去に感覚し、同時にほんの少し未来に行為している自分が、おなじ身体に統一されているものをさしている。そしてもしかするとほんの少し過去に感覚したものを了解している自分の時間と、ほんの少し未来に行為する自分を了解している時間とが、<おなじ束のうちに統一されている>状態なのだ。
私は行為する自分の了解をつぎつぎに感覚する自分の了解のほうへ流れ作業のように送り込みながら、<現在>の瞬間という意識を保っている、といってよいのかもしれない。

ところで私が感覚するほんの少しの過去は、私のまわりに対象の山を積み上げる。これが誤解されやすい言い方ならば、さまざまの対象をさまざまな形や素材や表面として私のまわりに出現させている。私がそれを了解しているかぎり、私のまわりに積み重ねられ遠近をつくってゆく対象の群れもまた、出現することをやめないことになる。
私がこの状態を瞬間の束である現在として設定しようとすることは、感覚する過去と行為する未来とを、了解の時間として自分の身体で<統覚>することを意味している。
この瞬間には時間の流れは停滞し、切断されることになる。そしてこの状態を<俯瞰>することができたら、私が自分の関心のある事物に囲まれている現実の世界の風景がそっくり眺められることになっているはずだ。

<言葉>がこの瞬間に入り込めるとすれば、停滞し、切断されるこの時間の流れのところにしかありえない。そしてほんの少しの未来の行為とほんの少しの過去の感覚作用のあいだに手渡される時間の接続のかわりに、ほんの少しの過去の感覚とほんの少しの未来の言語行為のあいだに時間の回路をつくりだせばいいことになる。そしてこの言語行為の回路は、行為の回路とまるで直角にちがう方向に、未来を設定することになる。但しこの感覚と言語行為との回路はただ<話される>言葉にしかすぎない。

<書く>という言語行為が登場するとまったくいままでとちがったことになる。たぶん感覚のかわりに感覚の像が、ほんの少しの過去を了解する時間の像をあらわし、書く(記述する)という現実の行為と純粋の言語行為のふたつに分割される。そして記述という現実の行為と、まだ正体がわからない純粋の言語行為という、二重の行為をほんの少しの未来から招きよせることになる。
この二重の行為の<あいだ>、書くという現実の行為と純粋の言語行為のあいだをつないでいる回路は、<表現>だといってよい。

瞬間の束である私の<現在>はここまでやってきて、大きな<混沌>に出あうことになる。
むしろ混沌をつくりだすことで、感覚と行為のあいだに書くという言語行為を介在させているのだといった方がいい。


    吉本隆明著「ハイ・イメージ論Ⅲ」ちくま学芸文庫より抜粋。


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能の位上らねば、直面は見られぬ物也

2005-04-29 14:27:32 | 文化・芸術
uvs050420-009-2
       「Lesson Photo in Asoka」


風姿花伝にまねぶ-<13>


物学(ものまね)条々-直面(ひためん)

 これ又、大事也。
 およそ、もともと俗の身なれば、易かりぬべき事なれども、ふしぎに、能の位上らねば、直面は見られぬ物也。
 まづ、これは、仮了(けりょう)、その物々によりて学ばん事、是非なし。
 面色をば似すべき道理もなきを、常の顔に変へて、顔気色をつくろふ事あり。さらに見られぬものなり。
 振舞・風情をば、そのものに似すべし。顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。

能では面をつけないことを「直面」というが、
古語では「ひたおもて」ともいい、
1.顔をかくさないでいること。2.直接顔を合せてさし向うこと。などを意味する。
能においては、生身の「顔」を、ひとつの「面」として捉えようという意識があること。
ここでは、演者の「顔」も、単なる素顔ではなく、ひとつの「面」として止揚されている。
能の位-芸の格調、その人としての気品-、これらが備わらなければ、「直面」は見ていられないものだよ、という訳だ。

人の「顔」というものは、その表情も含めて、いかにも不可思議なものではないだろうか。
顔や表情には、その人の人生が深く刻み込まれている。
白川静の「常用字解」によれば
「顔」は形声。音符は彦(ゲン)、彦は厂(額の形)に文(文身。朱色などで一時的に描いた入れ墨)を加え、その色の美しさを彡で示している字である。
頁(ケツ)は儀礼のときに礼拝している人を横から見た形である。
顔とは、一定の年齢に達した男子が、額に美しい入れ墨を描き、おごそかに成人式をしているときの顔つきをいい、「かお」の意味となる。
とあるが、
この成り立ちを見れば、世阿弥が演者の顔を「直面」へと止揚した世界はまっすぐ一本道だ。
まったく「顔気色をば、いかにもいかにも、己なりに、つくろはで、直ぐに持つべし。」である。


――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫


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わかれたままの草鞋をはく

2005-04-28 11:20:29 | 文化・芸術
NYTimes050426

「ニューヨークタイムズ紙面」より


<風聞往来>


<How Late Is Late?>

JR西日本の脱線事故による死者が100人に達しようとしている。
28日午前0時過ぎ現在、97人の死亡が確認され、さらに一両目には8人が取り残されているが、
この車両からの生存者反応はないという絶望的事態。
衝撃的なニュースは世界を駆け巡っている。

How Late Is Late?
どれくらいの遅れを、遅れというのか。
ニューヨークタイムズがこんな書き出しで、
日・英・米の交通機関における「遅れ」認識の比較を報じている。

JR西日本では、1分。
イギリスの旧国鉄では、5分。
ニューヨークの地下鉄では、6分。

国民性や生活習慣が背景ともなろうが、この彼我の差はあまりにも大きい。
この悲惨な事故の原因究明が盛んに取り沙汰されているが、
この「遅れ」認識の差が本質的原因と深く自戒して、
国民全体の生活習慣そのものが問い直されなければならない。



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もう死んでもよい草のそよぐや

2005-04-27 11:12:04 | 文化・芸術
Meikyu_27-1 「迷宮のシンメトリー」より

<行き交う人々-ひと曼荼羅>


<行き交う人々>と題して、私の60年の生に縁深き人々について記していこうと思い立った。
生死の別なく、過去となった人も、現在につながる人も、さらにはなお未来においてある人も。


<久本勝巳君のこと>

彼は5歳か6歳年下だったから、昭和24年か25年生まれということになる。
私を師とし、先生と呼んだ最初の人である。
私が師の神澤和夫に「自分なりに舞踊をやってみます」と厚顔にも宣言して、
現・四方館の前身でもある林田創作舞踊研究所を立ち上げたのは1974(S49)年4月だった。
ちょうど30歳を眼前にしてのことだった。
その開設宣言には
「はなはだ抽象的にすぎるが
 舞踊原理としてありうべきいっさいの対象(潜在的な意味での)
 に対するわれわれの身体の支配力が
 ただひとつの空間を築きあげるといってみるならば
 研究所はこの身体的表現の開発・形成に
 ひとつの道をつけていく場として実現されねばならない」
と、些か気負いすぎのフレーズが躍っている。
大学に入ってまもない19歳の夏から演劇と舞踊の二足の草鞋をはいていた私は、演劇においては小さいながら<9人劇場>なる劇団を65(S40)年から主宰しすでに9年を経ようとしていた。
劇団のほうに集った仲間たちとは別に、舞踊の集団を作ること。
身体表現を主軸に不断に稽古を重ね、創造主体=舞踊家を育成すること。

この立上げとともに我が門を最初に叩き、以後86(S61)年秋の「林田鉄の舞踊展」の公演まで一線で踊りつづけた人が彼・久本勝巳君である。
郷里は島根県と聞いた。子沢山の農家の三男坊に生まれたとも。おそらく小作農あがりだったのだろう。
戦後の農地改革で耕地を得たとはいえ充分なものであるはずもない。
彼は中学卒業と同時に、神戸のクリーニング店に就職したという。
65(S40)年頃なら大阪では高校進学率も90%近くに達していたのではなかったか。
とにかく生真面目でとても粘り強い人だった。身体は細身、筋肉質でなくどちらかといえば骨格も華奢で、腰骨や骨盤などは男性とは思えぬほどに細かったが、そこは育ちゆえか身体を酷使する激しい稽古にも決して音を上げない精神力をつねに発揮していた。
稽古場へはいつも一番乗りし、床の雑巾がけを黙々としていた。後輩がたくさんできて大先輩になってもこの姿勢はずっと変わらなかった。
私の初期における舞踊作品で記憶に残るものといえば、すべて彼が中心に踊っている。
「出会いに関する4つの章」では25.6分を踊りきっている。
「冒険者」のsoloや、「橋は架けられた」の群舞を経由して、78(S53))年の劇的舞踊「走れメロス」ではメロス役として1時間40分の舞台を、時に演じ、時に踊り、跳ね、走り、ひたすら動きつづけた、20数名からなるコロスの仲間たちと。
メロスを演じる彼は決して巧みな表現者ではなかったが、その清楚で簡潔な美しさが客席の心を打った。
メロス上演の成果以後、その舞踊の表象世界に変容を重ねていこうとする私に、前述の「林田鉄の舞踊展」までの長きを辛抱強く付き合ってもくれた。
足かけ13年、20代前半から30代後半、その間に結婚もし、一男一女だったと記憶するが二人の子どもにも恵まれ育てている。
仕事と家庭と、そのなかで舞踊家として立ってゆくこと、続けていくことには、当時の関西では誠に厳しいものがあった。

現在、彼の音沙汰について私は知らない。
93(H3)年の秋、私がプロデュースしたPlanet5シリーズのなかの「迷宮のシンメトリー」上演の際、
17.8歳になっていただろうか大きくなったお嬢さんを連れて観にきていた彼を見かけたものの、ゆっくり言葉も交わす暇もないままに立ち去っていった。
以後、いつだったか人伝ながら、仕事が立ち行かなくなったのか転身せざるを得なくなり、何処かへ移っていったらしいと聞いたことがあったが‥‥。
いずれにしても音信なく、行方知れずのままだ。



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あんなに伸びて朝月のある空へ

2005-04-26 12:55:41 | 文化・芸術
uvs050420-008-1 「Lesson Photo in Asoka」より


<言の葉の記>


<たかんな-筍づくし>


筍が美味い季節。
筍、竹の子。古名を、たかうな、たかんな、ともいう。

花山院の詠んだ歌の前書に
-冷泉院へたかんな奉らせ給ふとてよませ給ひける、とあり
世の中にふるかひもなく竹の子はわが経ん年をたてまつるなり

孟宗竹の筍は、もっとも早生で、もっとも肥えて肉多く、柔らかく歯あたりが良いそうな。京都府大山崎界隈の孟宗竹の味は名高い。

筍が季題となったのは意外と新しいそうだ。勅撰集の頃はまだ認められていなかったらしい。
山本健吉氏は、連歌時代に夏として出たのが初出かと推測している。
江戸の俳諧になると季語としてすでに定着している。

  竹の子や児(ちご)の歯ぐきの美しき    嵐雪
皮を剥いだ筍と幼な児の歯ぐきの白さとの見立てが鮮やか。

  竹の子の力を誰にたとふべき       凡兆
この凡兆の句なぞは諧謔味あふれて川柳のセンスに近いかと思う。

  笋(たけのこ)のうんぷてんぷの出所かな  一茶
うんぷてんぷの出所、とは一茶らしい面白い思い付きだと感心させられる。

  筍や目黒の美人ありやなし        子規
東京目黒の筍飯は名物としてつとに知られていたから、子規はそこを踏まえて詠んでいるのだが、目黒の筍飯を知らないとなにがなにやら分からなくなる。



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