-表象の森- 四季と美意識と -1-
和歌や連歌には季と題があり、俳句には何千何万の季語がある。
四季の変化に富むわが風土にあって、われわれの祖先たちの美意識は春夏秋冬の別、季節の移ろいと密接に絡み合っている。
俳句歳時記の泰斗であった山本健吉は嘗て、無数ともいえるほどの季語の集積が形づくる秩序の世界をピラミッドに喩えてみたそうな。
曰く、頂点に花・月・雪・時鳥・紅葉の5つの景物を座しめ、それから順次、和歌の題、連歌や俳諧の季題、俳句の季語へと降りつつ裾野は遙かにひろがってゆくさまは一大パノラマの様相を呈するだろう。そのパノラマと化したピラミッドは、われわれをしてこの日本的風土を客観的認識に至らしむるものになろうが、それよりもわれわれ祖先たちの美意識の総体を現前させるものとなるだろう。
和歌の題においては、その美意識によって題自体がすでに「芸術以前の芸術」と言ったのは美学者の大西克礼だが、和歌の題とは、それ自身共同体固有の美意識を映し出し、単なる生の素材であることを脱却しているものであり、例えば「朧月」といい、また「花橘」、「雁」、「凩」といおうと、それぞれの言葉が固有の美的な雰囲気を立ち昇らせずにはおかないのだ。
「雁」といえば、秋飛来して春には大陸へと帰ってゆく、したがって半年ほどはこの列島に在るわけだが、これを秋季と定めるのは、すでに客観的認識を超え出て、長途の旅を経て飛来してきた渡り鳥に「あはれ」を感じ取った古人たちの、固有の美意識による選択となっているように。
あるいは、同じ雁でも「行く雁」や「帰雁」となれば春季ではあるが、ここでは離別の情趣が強調されるものとなるように。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<冬-47>
日を寒み氷もとけぬ池水やうへはつれなく深きわが恋 源順
源順集、あめつちの歌、四十八首、冬。
邦雄曰く、「あめつちほしそら」に始まる四十八音歌。冠のみならず沓にも穿かせた沓冠同音歌で、この歌は「ひ」。四季と「思」「恋」の六部、各8首、その束縛を全く感じさせない技巧は感嘆に値する。突然結句に恋が現れる意表を衝いた歌だが、その奔放な文体がまことに新鮮で、作者の技巧派たる所以を示す。言葉の厳密を体得した智恵者の一人、と。
かくてのみ有磯の浦の浜千鳥よそに鳴きつつ恋や渡らむ 詠人知らず
拾遺集、恋一、題知らず。
邦雄曰く、有磯の浦は越中伏木の西北にある風光明媚な歌枕、語源は「荒磯」。「かくてのみ在り=有磯」の懸詞から第四句までは、夜の海に妻を恋いつつ鳴く磯千鳥の、寒夜の悲しさを叙しつつ、忍恋の切なさを絡み合わせる手法、二十一代集に数限りなく現れるが、廃れないのは、その冷え侘びつつ悲痛な幻影への、万人の共感によるものであろうか、と。
⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。