―表象の森― 予感と徴候、余韻と索引
<A thinking reed> 中井久夫「徴候・記憶・外傷」みすず書房より
・生きるということは、「予感」と「徴候」から「余韻」に流れ去り「索引」に収まる、ある流れに身を浸すこと。
予感と徴候、余韻と索引、これら両者は現実には、ないまぜになり、あざなえる縄のようになって現れる。
予感は徴候の出現に伴うこともあるが、先駈けることのほうが多く、予感とは主体優位に云うならば、「徴候を把握しようとする構えが生まれるときの共通感覚」、逆に対象優位に云うとすれば、「明確な徴候以前のかすかな徴候-プレ徴候ともいうべきもの-を感受していること」である。
予感が微分的、すなわち微細な差違にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることであり、それは積分的といえよう。
しかし、余韻と予感には、ほのかな示唆的な性向とでもいうべき、相通じる性格がある。余韻の感受は、予感の感受と似ている。
徴候と予感との関係-徴候とは「在の非現前」、予感とは「非在の現前」と云えるかもしれない。
純粋徴候というものはない。徴候とは、必ず何かについての徴候である。対して、予感というのは、まだ存在していないこと、しかし、それはまさに何かはわからないが、何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。
同じことが索引と余韻についても云えそうである。
索引とは、過去の何かを引き出す手がかりであり、むろん純粋索引というものはない。対して、余韻はたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香に喩えられるが、存在したものが何かが問題ではない。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「雁がねの巻」-32
秋の田をからせぬ公事の長びきて
さいさいながら文字問ひにくる 芭蕉
次男曰く、無筆が何度も訴訟文の書き方を聞きにくる、と句の表は作りながら芭蕉は、ずいぶん越人の学問癖、尚古癖に悩まされた、と云っている。
どうやらこれで見ると、「源氏」にこだわり、第三の句を見咎めてわざわざ「窮屈」好みではこぼうと云い出したのは越人のほうだったようだ。親愛の情のなかにもちょっぴり皮肉を利かせた軽妙な付である、と。
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